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黒岩重吾著「藤原不比等」を読みながら(2)

2012-06-29 | 読書

黒岩重吾著「藤原不比等」を読みながら(2)

律令制度は、天武天皇生前には完成しなかったが、689年の持統天皇の時に完成しました。



その概要は
「戸籍を6年に1回作成すること(六年一造)、
50戸を1里とする地方制度、
班田収授に関する規定」  です。

趣旨は
1、豪族らの私有地を廃止する。
2、中央による統一的な地方統治制度を創設する。
3、戸籍、計帳、班田収授法を制定・実施する。
4、租税制度を再編成すること・・・。等です、

その中心人物が藤原不比等です。藤原氏繁栄の基盤を作った人です。

 さて、帳表が実際行われた証拠が、6月25日の朝日新聞に載りました。

「福岡県太宰府市の国分松本遺跡で、7世紀末(飛鳥時代)の戸籍情報を記した木簡が見つかった。
国内最古の戸籍関連史料となる。(中略)
日本初の本格的な行政法典とされる飛鳥浄御原令で作成された戸籍『庚寅年籍』(690年)を反映しており、
律令政治黎明期の支配構造を知る一級史料だ。(中略)
飛鳥~奈良時代の木簡13点が出土。
うち2点に7世紀末の戸籍や計帳(課税帳簿)関係の記述があった。

縦約31センチ、横約8センチの木簡には福岡県糸島地方にあたる筑前国「嶋評」にいた地域集団のデータがあり、
表と裏に戸主ら16人の名や身分、続き柄などが記されている。
構成員が増減した変遷を記録しており、浄御原令施行の翌年に作られた庚寅年籍の内容を元にしているという。」

黒岩さんの「藤原不比等」の著作にも、
律令制度を実施するため、戸籍を調べるのに大変苦労した記事が載っていました。

先ず、

「・・・農民に対して田を与える問題など、最も難事である。
・・・誰が何歳になったとか、だれが死んだとかいうことを郡司は正確に把握できるのだろうか。
戸籍さえ正確に把握しておれば可能です。
戸主は里(約50戸)の長に、長は郡司に報告します。
(それをまとめ)最終的には国司が中央に伝えるのですが・・・。

死ぬ農民よりも生まれる者のほうが多い。
当然、与える田が足りなくなる。
田を増やすには大々的な開墾が必要でしょう。
また洪水を防ぐための堤防工事も緊急の課題となります。
貯水池の整備も大事です。」(拾い読みですが・・・)

近畿地方には、古墳も多いが、それ以上に目につくのが貯水池です。
当時から、水稲耕作には大変な土木工事が行われていたようです。
いわゆる、租庸調の「庸」です。 

また、

「民の汗水を収奪するためには、まず最初に民をも階級によって縛り把握しなければならない。

土地は言うまでもなく国家のものである。(これが律令制度の根幹)
いわゆる公地公民制が確実に行われなければならない。

民は良民と賎民(農奴?)に分けられ、国家が支配するのは良民で、
彼らには国有地が与えられ、その代わり、税や土地の産物、兵役も含めた様々な労力を国家に提供しなければならない。
民は生かさず殺さずというのが、律令政治の基本政策だった。」

「土地を国家のものにするには、古くから集落が使用している土地をいったん取り上げ、
民の数に即して土地を与えなおす。(大変な抵抗が想像されますが・・・)

その際戸籍を作るのだが、それぞれの土地には古くからの私有権があり境界もはっきりせず、
中央が机上で決めたものには実情に合わない場合が多い。(この度発見された木簡にもその苦労がうかがえます。)

農民達は村長を通じ地方の首長である郡司に願い出る。郡司は中央から派遣されている国司に訴える。

在地の豪族である郡司は、国司に絶えず贈り物をして古くからの権利の温存に励んでいるので、
国司も郡司の訴えを一概に否定できない。持ちつ持たれずの関係にある。」


律令制度を実施するに当たり、その頂点にいた藤原不比等の苦労が延々と記されています。
その苦労の中には、
持統天皇との人間関係、天皇制、特にその後継者選び、女性への思慕、など等・・・ 



 


黒岩重吾著「藤原不比等」を読みながら

2012-06-20 | 読書

黒岩重吾著「藤原不比等」を読みながら

 

私は、現在の土地所有に疑問を持っています。

住宅地や田畑、山林にいたるまで、境界石が埋められ、所有権が詳細になっていますが、
その経過を明確に知っておきたいと思います。

 

戦後の農地解放も大きな改革ですが、その前の明治維新も大変注目に値する事件です。
国有地の払い下げや入会地の私有地化等、税金を集めるために払い下げられた土地も多々あるのでは?

 

今日は、まず古代の土地制度を垣間見ておきたいと思います。

 

農民は、個人で田畑を開墾し、耕作して生活できそうに思いますが、やはり人間生活には、共同生活が不可欠なのでしょうか。

 大化の改新は,西暦645年に,中大兄皇子(聖徳太子の子、後の天智天皇)が,中臣鎌足(後の藤原鎌足)等とともに,
当時の朝廷の実質的支配者であった蘇我入鹿とその一族を倒し,
天皇政権を確立し,日本を中央集権的官僚国家に統一しました。

それ以前は,天皇家や有力な豪族(氏族・曽我氏や物部氏ら)の連合国家で,土地と人民は,天皇家を含めた各豪族が私有していたようです。

 

天皇家や地方豪族らは、私有地を管理するために、従者を地方に派遣していました。
これが、いわゆる国司(国宰領)です。

 

しかし、黒岩さんが指摘されているように、
「わが国では、地元の勢力の上に立つ郡司の力が、中央から派遣されている国宰領(国司)よりも強い場合が多い」ようでした。

すなわち、直接農民を掌握している郡司(本来の支配者)がいて、
それらを管理している国司(国宰領)が置かれたが、力は弱かったようです。

 

そうした、漠然とした支配システムが、壬申の乱により、天皇家の専制君主制に変えられたのです。

「古代から倭国の大王は、有力豪族の上に載っていた。
自らの力で(壬申の乱)天皇位を勝ち取った天武は、有力豪族の力に頼ることを嫌った。」
「専制君主にとって最も大切なのは武力。」 武力を以て掌握しました。

 

「大化の改新の翌年(大化2年=646年)1月,改新の詔を発して,天皇領(屯倉・みやけ)を含めて,
豪族領(田荘・たどころ)とその人民を没収して,国家の所有,すなわち公地公民としました。

 そして,有名な班田収授制という土地制度を創設します。

この経緯が、この小説の骨子です。

 

そして、その変革は簡単には落ち着かず、
「表面には出ていないが・・・、心情的な天皇派(天武)と、皇后派(鵜野讃良皇女=持統天皇)、それから

大津派(天武と大田皇女の子)と草壁派(天武と持統の子)が、はっきりとは見えない闇の中で形成されつつあるのを
史(ふひと=不比等)は肌で感じた。」

その後の経過は、追々に・・・

 

藤原不比等が
幼年期を過ごした山科(壬申の乱のときはこの地に潜んでいた)と、

結婚して二十台を過ごした飛鳥の地を地図で示すと、

 

ここで、この小説のストーリーを外れ、時代背景を覘き見てみますと

 「班田収授制は,国家に帰属することになった土地の台帳(計帳)を作成し,公民には戸籍を編成し,
各公民に一定の基準によって口分田(くぶんでん)を給付(班給という)し,6年ごとにこれを回収し,再び給付するという制度です。

そして,公民は,これと引き替えに,税として,租(稲),庸(労役),調(織物その他の物品)を負担する。

 

さて,班田収授制ですが

一つの土地を一人の人間(または家族)が使用(耕作)し,その反面,税(租、庸、調)を国家に納付することです。
国家と土地使用者(人民)とを直結させ,豪族またはこれに代わる中間搾取的存在を排除している点が,
この制度の大きな特長です。

以上から、古代の土地私有地の状態は垣間見られますが、
この制度が全国くまなく敷かれ、定着していたとは、考えられませんが・・・

ぼちぼち、辿ってみます。


明治神宮御苑 菖蒲苑を散歩

2012-06-14 | 散策

明治神宮御苑を散歩しました

 

菖蒲苑が見ごろを迎えたかと思い、
わが屋から玉川緑道経由、西参道口から神宮を逍遥し、内苑の菖蒲苑を散策しました。

丁度、見ごろでした。
色々な名称の菖蒲が花咲いていましたが、私には名称には縁がなく、
ただ、清らかな水田に咲く、紫色の花を堪能して歩きました。
 

私の母が、田んぼの畔に咲かせた花を、笑顔で愛でていた様子が、思い出されます。

 

入口で頂いた案内を抜粋して載せますと、

「この御苑は江戸初期以来加藤家、井伊家の下屋敷の庭園でしたが、明治時代に宮内省所管となり、代々木御苑と称せられ、
明治天皇、昭憲皇太后にはたびたびお出ましになられた、ご縁の深い由緒ある名苑です。

面積約83,000㎡あり、曲折した小径が美しい熊笹の間を縫い、武蔵野特有の雑木林の面影をとどめています。(中略)
南池の清らかな水は四辺の樹影を映し水鳥浮かび鯉魚遊び、樹間には多くの野鳥が見られ、都会の雑踏を離れた別天地です。」

 

その後、代々木公園を回り、代々木八幡へ向かいました。

 

何時も、ジョギングの際、待たされていた踏切そばの「うどん屋」に立ち寄り、

「もりそば」にぬる燗一杯頂いて、いい気分で家路につきました。

 

のんびり歩いたせいか、二時間半くらいは掛かりました。

いい運動でした。


大山公園 つづき

2012-06-08 | 散策

大山公園 つづき



今朝も快晴の朝!いい気分で朝のラジオ体操に励みました。
でも、10~15分の体操、せめて継続をと頑張っています。

さて、園内のビワが大きな実をつけて、離れていても目立つほどに実りました。

  

ビワは果物として重宝されていましたが、種が大きく、実が少ないため、
最近では主にジャムや果実酒に使われているようです。 

幹は 乾燥させると非常に硬い上に粘りが強く、昔から杖に使われていました。
『長寿杖』といって重宝されているようです。

また、激しく打ち合わせても折れないことから、高級な木刀として利用されているそうです。


キョウチクトウが咲き始めました。

園内に多く植えられているので、楽しみです。

 キョウチクトウ(夾竹桃) キョウッチクトウ科 

名前の由来は、葉がタケに、花がモモ似ていることからだそうです。

 アジサイも咲き始めまし   

 

 

アジサイ(紫陽花)  アジサイ科 学名は「水の容器」という意味だそうです。

 最も一般的な球状のアジサイはセイヨウアジサイ で、ガクアジサイは日本原産だそうです。

土壌の酸性度Phによって色が変化するそうです。おいおいに調べてみましょう。

 

今日は、これから出かけるので、これくらいにしておきましょう。

 

追伸

住まいの庭のサツキが咲き始めました。

管理人さんの丹青の賜物です。