黒岩重吾著「藤原不比等」を読みながら(2)
律令制度は、天武天皇生前には完成しなかったが、689年の持統天皇の時に完成しました。
その概要は
「戸籍を6年に1回作成すること(六年一造)、
50戸を1里とする地方制度、
班田収授に関する規定」 です。
趣旨は
1、豪族らの私有地を廃止する。
2、中央による統一的な地方統治制度を創設する。
3、戸籍、計帳、班田収授法を制定・実施する。
4、租税制度を再編成すること・・・。等です、
その中心人物が藤原不比等です。藤原氏繁栄の基盤を作った人です。
さて、帳表が実際行われた証拠が、6月25日の朝日新聞に載りました。
「福岡県太宰府市の国分松本遺跡で、7世紀末(飛鳥時代)の戸籍情報を記した木簡が見つかった。
国内最古の戸籍関連史料となる。(中略)
日本初の本格的な行政法典とされる飛鳥浄御原令で作成された戸籍『庚寅年籍』(690年)を反映しており、
律令政治黎明期の支配構造を知る一級史料だ。(中略)
飛鳥~奈良時代の木簡13点が出土。
うち2点に7世紀末の戸籍や計帳(課税帳簿)関係の記述があった。
縦約31センチ、横約8センチの木簡には福岡県糸島地方にあたる筑前国「嶋評」にいた地域集団のデータがあり、
表と裏に戸主ら16人の名や身分、続き柄などが記されている。
構成員が増減した変遷を記録しており、浄御原令施行の翌年に作られた庚寅年籍の内容を元にしているという。」
黒岩さんの「藤原不比等」の著作にも、
律令制度を実施するため、戸籍を調べるのに大変苦労した記事が載っていました。
先ず、
「・・・農民に対して田を与える問題など、最も難事である。
・・・誰が何歳になったとか、だれが死んだとかいうことを郡司は正確に把握できるのだろうか。
戸籍さえ正確に把握しておれば可能です。
戸主は里(約50戸)の長に、長は郡司に報告します。
(それをまとめ)最終的には国司が中央に伝えるのですが・・・。
死ぬ農民よりも生まれる者のほうが多い。
当然、与える田が足りなくなる。
田を増やすには大々的な開墾が必要でしょう。
また洪水を防ぐための堤防工事も緊急の課題となります。
貯水池の整備も大事です。」(拾い読みですが・・・)
近畿地方には、古墳も多いが、それ以上に目につくのが貯水池です。
当時から、水稲耕作には大変な土木工事が行われていたようです。
いわゆる、租庸調の「庸」です。
また、
「民の汗水を収奪するためには、まず最初に民をも階級によって縛り把握しなければならない。
土地は言うまでもなく国家のものである。(これが律令制度の根幹)
いわゆる公地公民制が確実に行われなければならない。
民は良民と賎民(農奴?)に分けられ、国家が支配するのは良民で、
彼らには国有地が与えられ、その代わり、税や土地の産物、兵役も含めた様々な労力を国家に提供しなければならない。
民は生かさず殺さずというのが、律令政治の基本政策だった。」
「土地を国家のものにするには、古くから集落が使用している土地をいったん取り上げ、
民の数に即して土地を与えなおす。(大変な抵抗が想像されますが・・・)
その際戸籍を作るのだが、それぞれの土地には古くからの私有権があり境界もはっきりせず、
中央が机上で決めたものには実情に合わない場合が多い。(この度発見された木簡にもその苦労がうかがえます。)
農民達は村長を通じ地方の首長である郡司に願い出る。郡司は中央から派遣されている国司に訴える。
在地の豪族である郡司は、国司に絶えず贈り物をして古くからの権利の温存に励んでいるので、
国司も郡司の訴えを一概に否定できない。持ちつ持たれずの関係にある。」
律令制度を実施するに当たり、その頂点にいた藤原不比等の苦労が延々と記されています。
その苦労の中には、
持統天皇との人間関係、天皇制、特にその後継者選び、女性への思慕、など等・・・