地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

林試の森公園を散策(2)

2013-06-30 | 散策

林試の森公園を散策(2)

 

約一年前、林試の森公園を散策していましたので、今回の散策を(2)としました。

 

薄日のさす穏やかな天気なので、会長さんご夫妻が休んでおられる羅漢寺さんへのお詣りを兼ね、林試の森公園に出かけました。

 

散策のコースは次の地図の赤線です。


その経路断面図は

距離は全長約5Kmと、短いのですが、

行人坂の勾配と区間距離を見るために掲載しました。

 

長年乗り降りしていた目黒駅から歩きました。

先ず、雅叙園の方へ行人坂を下りました。結構な坂道です。

この坂名のいわれは、

「・・・寛永年間(1624)このあたりに巣食う、住民を苦しめている不良のやからを放逐する為に、徳川家は奥州(湯殿山)から高僧行人『大海法師』を勧請して、開山した。

その後、不良のやからを一掃した功で、家康から『大圓寺』の寺号を与えられた。
当時この寺に『行人』(修行僧)が多く住んでいた為、いつとはなしに江戸市中に通じるこの坂道は行人坂と呼ばれるようになった。」

 

その急坂を降り切ったあたりに大圓寺があります。


ここは明和九年(1772)の江戸大火の火元とみられ、境内にはその際焼死した人々を供養するために五百羅漢像が祀られています。
(江戸の三大大火:明暦の大火・明和の大火・文化の大火 その一つ)

中でも注目されているのが、「とろけ地蔵尊」です。
大火の熱で、地蔵石もかくやありなんか。

 

そしてのちに、会長さんご夫妻の眠る羅漢寺にお詣りし、さらに目黒不動さんへお参りしました。

さらにその先に進むと、林試の森公園があります。

もと、林野庁の「林業試験場」の在ったところです。

今は、「都立林試の森公園」と云われています。

整備された広くゆったりした公園です。

先に訪れた際、

「ひとところ、地面一杯に白い綿毛のようなものが広がっていて、奇妙な感じ。

帰ってから、公園管理事務所へ電話で聞きましたら、『リュウジョ』という柳の木の一種の花が散ったものだと、

丁寧に教えてくれました。」

と、メモしていました。

気になって、真っ先に来てみました。

名前は「カロリナポプラ(ヤナギ科)」とありました。
ネットで調べてみましたら、

花は5月から6月頃、高い木の上の方で咲くので気が付きにくいそうです。
白い綿毛付の種で、風に乗ってフワーッと飛んでくるそうです。
その量がすごいとか。別名「カロライナハコヤナギ」。

今回は相当に枝を剪定していて、花が少なかったのかな、または時期が遅かったのかな、殆ど白い奇妙な綿毛は見れませんでした。

(後ほど、写真を拡大して見ると、
上の方にはうす黄色い花がいっぱいに咲いているようにもみれます。再度確認したいものです。

なお、以前に管理事務所の人が教えてくれた、「リュウジョ」とは、白い綿毛のことらしいです。)

 

公園の中には、子供さんたちの遊び場も多く、七夕祭りの準備もされていました。

 

その他の珍しい木を挙げると、

ハンカチノキ

コノテカシワ

毎朝、ラジヲ体操に行く途中のこの木は、こんもりと並木状に整理されていますが、本来の姿にお目にかかりました。
今、丁度実を着け始めたようです。私の観ている木も、日の当たる方には実がたくさん付いていました。

ボダイジュ

名のごとく、お寺の境内によく植えられているそうです。
6月頃薄黄色の香り良い花が咲くそうです。

今回は見れませんでしたが・・・。

 

またの楽しみにしましょう。

都内にはこうした植物園があちこちにあります。

目黒教育園、小石川植物園、神代植物園、等々・・・。

まだまだお迎えが来てもらっては困るよ~!


日本百名山 5、大雪山(2290m)

2013-06-27 | 日本百名山

日本百名山 5、大雪山(2290m)

 

「もとは『ヌタプカムウシュッペ』で、(アイヌ語で)『川がめぐる上の山』の意だそうだが、
・・・原始民の直截素朴な、まことに当を得た名づけ方であって、
石狩・十勝の二大川がその源をこの山塊から発し、その麓をめぐって流れている。」

大雪登山には、登山ルートがいろいろありますが、そのうちの

天人峡温泉のすがたみ駅から大雪山最高峰の旭岳を経て、中岳、雲の平、黒岳そして層雲峡温泉に向かう比較的なだらかな縦走コースを見てみましょう。

日本百名山の一節を引用しますと、

「・・・その樹林の上に、スックとそびえ立つ旭岳は、この上なく美しく気高い。

(中央のカールは地獄谷です。)

 設定:カメラ:PRO、レンズ:35mm、風景:残雪の山々、仰角:16度・・・。
 

 ・・・天女が原という気持ちのいい湿地を過ぎると、

勾配の急な坂道となり、やがて樹林帯を抜けて姿見の池へ出る。

旭岳のすぐ下にある美しい池で、正面の大爆裂は荒々しい岸壁となり、
そこから流れ出た地獄谷には諸所に白い噴煙が上がっている。
・・・それから先、爆裂火口の南縁をなす稜線を頂上を目指して一途の急坂になる。

おまけに足元がガラガラの噴出物の砂礫だから歩きにくい。
・・・内地の山に比べて途方もなくスケールが大きいことを、ここに来て初めて登山者は感得する。」

その辺の様子を、地形図と経路断面図で見ると、

 

さらに、
「北陵を下って、雲ノ平を横切っていく長い路は、その長さを忘れる気持ちのいい高原散策であった。
こういう大きな原が大雪山の中にはたくさんある。
内地へ持ってきたら、それ一つだけでも自慢になりそうな高原が、
あちこち無造作に投げ出されている。・・・」
 
(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用)
 

私の仲間達も、2011年7月、不都合にも雨に見舞われたようですが、旭岳に登っています。

私は“お足の”不都合で参加しませんでしたが・・・。

その時の記録を引用させてもらうと、

「(昨日までの)雨はほぼ止んでいる。梅雨前線は南下したようだ。

8時過ぎに出発。

途中、昨日泊まった天人峡への道は豪雨の影響か通行止め。

山ではかなり降ったようだ。

旭岳ロープウエイ駅で上下雨具に身を包む。気温18度C、霧雨。

10時過ぎに出発。

標高1600m程なのに森林限界を超えている。

姿見の池までは散策路を歩く。赤と黄色のツガザクラの群生が素晴らしい。

・・・池は半分雪。噴気が立ちのぼり、ゴボゴボッと不気味な音。

ここからは山道、視界はまあまあ、風も無いので、様子を見ながら行けるところまで行きますとリーダー。

火山礫の尾根筋の道をひたすら登る。

花はほとんどない。

頂上間近の所にキバナシャクナゲの群生。ハイ松のように横に這っている。

寒冷高地に咲く花の逞しさと自然の厳しさ。

13時前に山頂へ。眺望は無し。・・・」

 

多分、雨にたかられてなかったら、大分先まで行っていたでしょうに。

 ご苦労様でした。参加すべきでしたか? 残念!


日本百名山 4、阿寒岳(1503m)

2013-06-24 | 日本百名山

日本百名山 4、阿寒岳(1503m)

 

今の地形図では、阿寒富士は1475.8m、雌阿寒岳は1499mとあります。
噴火のためでしょう。 

さて、日本百名山によると
「この丘(釧路市の丘の上にある公民館の前庭)から北にあたって阿寒の連山がじつによく見える。
雄阿寒、雌阿寒、その雌阿寒に重なるように阿寒富士。
私は秋の末のある晴れた朝、その眺めに心を奪われた。」

とありましたので、釧路市役所のあたりにカメラを設定し、撮影しました。

設定は、カメラ:PRO、レンズ:50mm、風景:夏の山々・・・です。

阿寒町は釧路市に合併していますが、市役所とは遠く60Km余りも離れています。
そして、雄阿寒岳と雌阿寒岳とは阿寒湖をはさんで15Kmも離れています。
その様子は、下の地勢図と断面図で見れます。

赤線に沿った断面図が下の図です。

 

さて、登山は昭和34年夏に行われたようです。

丁度、雌阿寒岳は噴火が始まり登山は禁止され、登ったのは雄阿寒岳のみです。

 

「両阿寒のうち登りやすいのは・・・雌阿寒の方で、距離が長い代わりになだらかで、散策的登山ができる。
それに反し雄阿寒岳の方は、高さこそ劣れ、急峻なために登山者はまれである。」

頂上では、霧の晴れるのを二時間も待ちましたが、ついに晴れることも無く、
いろいろな高山植物のみを楽しんで下山しました。

「帰途は湖畔に下りる新道を採ったが、急坂続きで、しかもまだ踏みならされていず、
おまけに雨のためひどいぬかるみで、泥んこになって・・・。」
 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用)

ということは、
登り道と下り道とは違っていたようですが、今の地形図ではこの一本しか描かれていませんでした。


安岡正太郎さんの『難福図巻について』を読んで

2013-06-22 | 読書

安岡正太郎さんの『難福図巻について』を読んで

 

たまたま、読んでいた本に「牛裂きの刑」のことが載っており、近くにもその刑場跡があることを知っていたので、

早速にお詣りしてきました。

甲州街道と中野通りの交差点脇です。窪地のど真ん中です。

 

 

そこの碑には次のような文言が書かれていました

「・・・以前この地は極悪人の刑場として牛を使って最も厳しい牛裂きの刑という両足から股を引裂く
酷刑場の地であったと伝えられている。
この牛と窪地であったことから牛窪の地名となり・・・。

宝永より正徳年間にかけてこの地方に悪疫病が流行り
これが悪人の霊のたたりと伝えられ
子供の安泰を守り苦難の時の身代わり地蔵として
この淋しい土地に地蔵尊を祭り霊を慰めたのである。・・・」

今は、交通渋滞が激しく、事故防止の碑にさえなっていますが、
当時は大変淋しい窪地だったようです。

 

さて、安岡正太郎さんの著「まぼろしの川」の中に、『難福図巻について』があり、
その扉に、下のような『牛裂き刑』の図が載っていました。

 円山応挙 画 (満野美術館蔵=大阪市にある由)より

そして一部文章を拝借すると、

「・・・下絵では
左右の牛に引き裂かれた男が宙に飛び上がろうとして、
左右の足首とも牛の脚にくくりつけられて飛び上がれず、
背をねじる形で引き裂かれ、苦しさに眼球が外に飛び出すことになっている。・・・」

と述べて、水墨の下絵を(彩色の本絵以上に)激賞しています。

 

確かに寒気のする絵です。

円山応挙の幽霊の絵とともに、実物を見たいと思いますが・・・。


明治神宮の菖蒲田を散策

2013-06-21 | 散策

明治神宮の菖蒲田を散策

 

梅雨時でちょっと雨模様でしたが、
入場券を頂いていたし、思い切って神宮の菖蒲田へ散策に行きました。

 

私は、花の中でも菖蒲の花が好きです。

特に、露を滴らせた紫色の菖蒲が好きです。

それは、母の笑顔を思い起こすからです。

田舎の裏庭の田圃の脇に咲いていた菖蒲を斬りとっていた母の笑顔が忘れられません。

肉親が言うのはおかしいでしょうが、いい笑顔でした。

 

さて、今日の散歩コースは下の地図の赤線です。7Km余りです。

最近は、新宿へ出るのにも、殆ど歩きです。

往復約10Km の距離です。健康のためです。

 

今日は、人込みを避けて、開園の八時には入れるよう、早出をしました。

受付で聞くと四人目でした。

 

中は閑散としていて、菖蒲を愛でるには最高でした。

写真を2,3並べてみます。

  

近くにおばあさんが娘さんらしい人と楽しんでおられたので、声を掛けると、松山から今朝着いたばかりだそうでした。

道後温泉や砥部焼の話を賑やかに交わして別れました。

 

ここまで来たのですから、ついでに清正井も覘いて見ました。

一年中、わき水が絶えないそうです。

加藤清正公の下屋敷があったところで、その井戸の名残のようです。

 

さて、そこから何時もの代々木公園に入り、代々木神社脇を登って帰りました。

途中、ジョギングをしていたころよく会っていたご婦人とすれ違いました。

なつかしくて、声を掛けましたら、健康を取り戻した私を慰めてくれ、さらにはウオーキングの講釈をひとくさり聞かされました。

私の足は「逆ハ」の字に広がっていて、姿勢が前かがみになり、鍛えるべき足の筋肉が違うそうです。
まず、足をそろえて歩幅を少し拡げ、親指に重心を移しながら真直ぐ歩くことだそうです。
京の舞妓さんが竹の上を歩く要領でしょうか。 

一講釈どころではありませんでした。大変有意義な話でした。

別れ際にちょっと耳にしたのですが、彼女は体協の専門家のようで、いろいろ指導をしておられる人のようでした。道理で・・・。有難うございました。

 

有意義な朝のウオーキングでした。


日本百名山 3、斜里岳(1545m)

2013-06-18 | 日本百名山

日本百名山 3、斜里岳(1545m)

 

地理院の地図では、標高1547mとあります。多分、精度か、その後の地震のためでしょう。

アイヌ人は「オンネプリ」と呼んでいました。
「オンネ」は「大きい」意味、「ヌプリ」は「山」の意味です。
即ち、「大きい山」の意味で、一目置いていたようです。

 

筆者の登山は昭和34年(1959)8月下旬とあります。
しかも、奥さんと小学6年生の次男を伴っての登山です。

 

「その日は朝から曇天で、折々雨さえ交えた天気であったのに、斜里岳を最も美しく眺め得る所まで来た時、天は私たちのために快く晴れて、青空をバックに、左右にゆったり稜線を引いた、憧れの山の全容を見せてくれた。」

上は、釧網本線札弦(さっつる)駅からカシミールで見た斜里岳の全貌です。

設定:カメラ:PAN、レンズ:35mm、風景:雪の季節・・・

 

さて、初日は五合目付近にある清岳荘に一泊しました。
ここは、営林署が建てた山小舎だそうです。

そして翌日は清岳荘から沢沿い(チェサクエトンビ川=魚のいない川の意味)の道を登ったようです。

途中いくつもの滝があり、相当きつい路だろうと想像します。

滝だって、魚の上れない「魚止め滝」のようですから。

 

 

そして、「頂上に立ったが、私たちを迎えたのは濃い霧でしかなかった。」

そうです。

 

「帰路は、尾根伝いの新路を採った。
時々晴れかけてはまた閉ざされてしまう霧の中であったが、
ハイ松とヒメイソツツジで覆われた尾根道は、その高原風な美しい景色で、
私たちの登山欲を十分に満たしてくれた。」
(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用)


そうです。


日本百名山 2.羅臼岳(1661m)

2013-06-16 | 日本百名山

日本百名山 2.羅臼岳(1661m)

 

羅臼(ラウシ)はアイヌ語で「沢山の鹿、熊などの臓腑を葬った場所」の意味だそうです。

よって、古くは「良牛(ラウシ)」と書いていました。

 

さて、筆者は「私は羅臼岳に登るため天気を待って村の宿屋に四晩も過ごしたが、ついに山を仰ぐことが出来なかった・・・」とあります。

代わって、カシバードで羅臼町からの山頂の眺めを載せると

なるほど、知床富士と呼ばれるだけに、羅臼町の北方に円錐状にきれいに聳えて見えます。

設定:カメラの種類:PRO、レンズの長さ:28mm、風景の選択:ハイ松の山々・・・ などです。

 

登山ルートとその断面図は下の通りです。

 

 

しかし、羅臼岳の頂上では、霧で何も見えなかったそうです。

今と違って、天気予報が発達していなかったからでもあるでしょう。

 

深田さんも止む無く、羅臼山岳会の記事を転用されています。

それによると、

「まず東を望むと足下に国後島が浮かび、その向うに太平洋が拡がって、遠く千島の列島が見える。
南に向くと、知西別川上流の分水嶺のあたりに周囲五粁に及ぶ無名湖(羅臼湖と呼ぶ人もある)があって、その周りに大小七つの沼が点在している。・・・
西望すれば宇登呂港が眼下にあり、その先は茫々たるオホーツク海である。
北は・・・三ツ峰から硫黄山に向かう脊梁山脈が伸びている。」とあります。

 

最後に
「さいはての山として、北方的風貌をおびた山として、羅臼岳は私の記憶に深く残っている。」
(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用)

そうです。

さて、登山ルートから、往復23Km、標高差1600m、
神崎先生流に概算すると、 23+16*2=55 になりますが、
百名山の説明には宿泊のことが書かれていません。
まさか日帰りではないでしょうに・・・?


日本百名山 1、利尻岳(1719m)

2013-06-13 | 日本百名山

日本百名山 1、利尻岳(1719m)

 

深田久弥さん著『日本百名山』を順にたどってみます。

もう私の体調では、実際に登るのは無理ですから、地形図で登ってみます。

 

先ず、利尻山(りしりざん)から。

島全体が利尻岳で出来ていて、しかもその高さが1721mもあります。

利尻岳、利尻富士とも呼ばれていますが、国土地理院では利尻山(りしりざん)と呼んでいます。
また、日本百名山には1719mとありますが最近の地理院地形図には1721mとあります。 

鹿児島県屋久島の宮之浦岳(1935m)も島全体がその山で出来ていますが、
峰が一つにまとまって聳えているのは、この利尻山だけのようです。

上は、礼文島香深港から見たカシバードの利尻富士です。
 設定:カメラの種類:PRO、レンズの長さ:16mm、風景の選択:標高選別・夏山・・・ などです。

 

さて、深田久弥さんらの登山ルートは、沓掛から登って鷲泊へ下られました。

予定は鬼脇へ下る予定でしたが、強風のためルートを変更されました。

登り8時間、下りは「鷲泊の町に入ったときはもう暗くなっていた。」と書いてあったので多分5~6時ころの到着でしょう。
所要時間約13時間余?

 

 左は島全体の1/20万地勢図と登山ルートです。

 左は」山頂付近の1/2.5万地形図です。

そして、そのコースの経路断面図は下の図です。

 

「・・・強い風が瞬時霧を追い払って、目の前にみごとな眺めを見せてくれた。
それはローソク岩と呼ばれる大石柱で、地から生えた牙のように突っ立っていた。・・・」
 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用)

地形図には、そのローソク岩なるものは表示されていませんでしたが・・・。

 

 今では、5合目あたりまで登山用のバスが行ってるようです。

次は、知床半島の羅臼岳(1660m)です。


地勢図で見る霧島火山

2013-06-12 | 読書

地勢図で見る霧島火山

 

霧島山は北海道・大雪山などと同じく複数の山の総称です。

「高千穂峰、中岳、新燃岳、韓国岳が南東から北西にならんでいる。
間断なく活動をつづける活火山であり、火口湖の多い火山である。・・・」(武揚堂発行「地形図の手引き」より)

高千穂峰と新燃岳は現在も活動をつづけている活火山です。

特に新燃岳は2011.1.26~29にかけて爆発があり、噴煙の災害があったばかりです。

 

地勢図の赤線に沿った断面図をみると

さて、霧島の名称ですが、霧深い山に由来しているそうです。
年間降水量も多く、4500mmで、特に6~8月のこの時期に集中しています。
従って、霧もこの頃が一番深く、霧の中に浮かんだ島のように見えるそうです。

カシバードで撮影した霧島温泉から見た霧島山を掲載してみます。
設定が悪く、出来がよくありませんが・・・

 


箱根外輪山(乙女峠~丸岳~長尾峠)のハイキング

2013-06-10 | ハイキング 里山歩き

箱根外輪山(乙女峠~丸岳~長尾峠)のハイキング

 

はっきりしない天候の合間を縫って箱根にハイキングに出かけました。
曇りの予報よりややいい天気になりました。

コースは下の地図の赤線です。

そのコースに沿った断面図は以下の通りです。

断面図ではわかりませんが、乙女峠下のBSから乙女峠までは石がらが多く、あまり歩きよい路ではありませんでした。

 

今日はいつものメンバーに2,3のビジターを連れた20人で、やや多めの人数でした。
しかも、この会としては珍しく六割は女性でカラフルで賑やかでした。
我々(?)、年とともにハイキングへの参加者が多くなり、しかも女性が多くなるようです。

いいことです。

 

先ず、乙女峠(1005m)まで標高差200mを一気に登りました。

ここは、富士見三峠といわれ、富士山の展望に優れていますが、今日は“もやって”いてほとんどその姿をみることはできませんでした。

三峠の他の峠は、御坂峠と薩埵峠(静岡市)です。

さて、この『乙女峠』という、いわくありげな名前ですが、
聞くところによると
「昔、箱根のの仙石原に『とめ』という名前の若い女性が住んでいたそうな。
『おとめさん』と呼ばれていたこの娘は父の病の治癒を願い、この峠を越えて御殿場の地蔵堂へ百か日の願掛けに参拝し続け、最後には願いが叶い父の身代わりとなってこの峠で亡くなったそうな。(峠越え片道5kmはあります)
この『おとめさん』の逸話から『乙女峠』と呼ぶようになったとさ。」


途中は、所々山ツツジが紅い色取を添え、新緑の爽やかないい眺めでした。

そこから今日の最高峰・丸岳(1150m)に登りました。
乙女峠までと違って、この道は石がらも少なく、比較的歩きいい路でした。

ここで、ちょっと早い昼食を、にぎにぎ、がやがや、とりました。

それから下りです。
途中に、この仙石原の地を開いた須永伝蔵の碑が厳然と聳えていました。澁澤栄一子爵、益田男爵から依頼を受け牧場を開いたのが始まりだそうです。


途中の登山道には、沢山のウツギの花が咲いていました。

 

急斜面を転ぶように下り、仙石原のゴルフ場に到着しました。

それからは平坦な道です。しかし、3kmはありました。

 

そして、例のごとくお湯につかり、ビールなどを頂いてマイクロバスで家路につきました。

渋滞も少なく、早い新宿到着でした。