地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

豪徳寺界隈を歩く

2015-12-27 | 散策

豪徳寺界隈を歩く

豪徳寺とはどういういわれの寺か、探訪する。

歩いたコースは地図の赤線です。

閑静な佇まいが拡がっていました。


この辺は、関東大震災後に開かれたはずです。 
近くに区役所もあり、区の中心的な土地です。

さて、気持ちよく晴れた風景を愛でながら、電車沿いに歩いていると、
目的の豪徳寺裏に出ました。

ぐるり廻って、参道に面した正面に来ました。

 正面を入ると、三重塔や、鐘楼などがありました。
どちらも立派なものです。 

  

 そした大きな香炉のすえてある正面に出ました。

ここは “まねき猫” 発祥のお寺のようです。よくは解りませんが・・・

ひととおり見て回り、Uターンして元の正面に出ましたら、
正門横に井伊大老の墓所があると記してありました。

 

再び中に入り、やや広い墓地を探して歩きました。

奥の方に、『国指定史跡 彦根藩主伊井家墓所』がありました。

都指定の史跡なのですね。

説明板によると

「井伊直弼(1815~60)は彦根藩主直中の子で、
兄を継ぎ藩主となり、・・・大老になる。


勅許を待たず日米修好通商条約 など安政五ケ国条約に調印。
また十三代将軍家定の後継者を慶福(のちの家茂)に決定し、
反対派の一橋 慶喜らを抑えるという強い政策を実施。

さらに安政の大獄を断行するに及んで、常に暗殺の危険にさらされ、
遂に安政七年三月、江戸城外桜田門外において、水戸・薩摩の浪士らに暗殺された。・・・」

と、ありました。

 そして、別の説明板を紹介すると、

「・・・寛永十年(1633)頃、世田谷が伊井家所領となったのを機に、
領内の弘徳院が菩提寺に取り立てられた。
直孝(二代~1659年)の没後には、その法号『久昌院殿豪徳天英太居士』にちなみ豪徳寺と寺号を改め、
以来、井伊家墓所として、江戸で亡くなった藩主や家族がここに葬られた。・・・」 

とあります。

しかし、墓石は、徳川幕府の大老らしからぬ規模です。


やはり、安政の大獄や反慶喜の態度などが祟ったのですかね。

そんなことを感じながら、元の山下駅まで歩き、そこから電車で帰りました。


 


蘆花恒春園を散歩して

2015-12-19 | 読書

蘆花恒春園を散歩して

 

蘆花の旧宅・恒春園を訪れるのは、今回が三度目です。
前回までの二回は、まだら蚊が多く、落ち着かなかったが、
今回はほとんど花のない、うすら寒い旧宅でした。

歩いたコースは、下の赤線です.
どう勘違いしたのか京王線芦花公園駅から千歳通りを歩きました。



 八幡山駅から環八通りを南下するほうが近くて解りいいようです。

公園協会のパンフレットを引用すると、
「『不如帰』(ホトトギス)、『自然と人生』、『みみずのたわごと 』などの名作で知られる
明治・大正期の文豪・徳富蘆花(健次郎)と愛子夫人の後半生を過ごした住まいと庭、
それに蘆花夫妻の墓地を中心にした公園です。・・・」
と、あります。

 

同じパンフの中に、蘆花夫妻の写真が載っていました。


普通は、夫人が椅子に掛け、旦那がその後ろに立っているものですが、
蘆花は威張って椅子に掛けているのが微笑ましいですね。
それに、夫人のしゃれた帽子と、左手が蘆花の肩に添えられているのも・・・
きっと、仲のいい夫婦だったのだな~と 想像しました。

旧宅の様子は次の写真の如しです。

    

旧宅の説明板『茅屋(ぼうおく)』を紹介すると、

「僕の家は出来てまだ十年位比較的新しいものだが、普請はお話にならぬ。
其筈さ、先の家主なる者は素性の知れぬ捨子で、赤子の時村に拾われ、三つの時に人に貰われ、
二十いくつの時養家から建てて貰った家だもの。
其のあとは近在の大工の妾が五年ばかり住んで居た。即ち妾宅さ。
なげやり普請のあとが、大工のくせに一切手を入れなかったので、
壁は落ち放題、床の下は吹通し、雨戸は反って、屋根藁は半腐り、些真剣に降ると黄色い雨が漏る。

越してきたのは去年の此の頃(注明治四十年(1907)二月末日差す)。

雲雀は啼いて居たが、寒かったね。
日が落ちると、一軒の茅屋目がけて、四方から押し寄せてくる武蔵野の春寒、
中々春寒料峭(りょうしょう)位の話じゃない。

国木田哲夫兄に与えて僕の近状を報ずる書   『二十八人衆』より」

 と、ありました。

 木枯らしの舞う、うすら寒い日でもあり、墓もみず、一回りして帰りました。

  

公園の案内図を添えておきます。

帰りは真直ぐ、幡ヶ谷駅へ  最近、途中であまり飲まなくなったね。寒いからか・・・


湯島聖堂から上野弁天堂へ

2015-12-17 | 散策

湯島聖堂から上野弁天堂へ

 

井上眼科へ行ったついでに、上野公園まで歩いてみました。

距離は6Kmくらいか。

先ずは、聖橋を渡り、湯島聖堂へ。

道や庭がイチョウの落葉で黄色く染まっていました。

殆ど人もなく、静かでした。 

      

上は大成殿等の建物です。孔子ゆかりの学問所です。

説明板を紹介すると、

「・・・儒学に傾倒した徳川五代将軍綱吉は、
元禄3年(1690)この地に『湯島聖堂 』を創建、
孔子を祀る『大成殿』や学舎を建て、
自ら『論語』の講釈を行うなど学問を奨励した。」


また、昌平坂学問所跡の項には

「寛政9年(1797)幕府は学舎の敷地を拡げ、建物も改築して、
孔子の生まれた地名をとって『昌平坂学問所』(昌平黌ともいう)を開いた。
学問所は、明治維新(1868年)に至るまでの70年間、
官立の大学として江戸時代の文教センターの役割を果たした。・・・」

孔子ゆかりの学問所らしく、孔子の像が飾られていました。

 

また、まわりは、紅葉が美しく、その写真も添えてみました。

    

上は、大きく繁茂したスダジイです。見事な木なので添えました。


そして、道路一本隔てた裏手に、神田明神が鎮座していました。

ここは、人出が多く賑やかでした。 

  

従って、人混みをさけ、すぐ横の庭園に回ってみました。

正解でした。ひと一人いませんでした。
   

そして裏手の、平次捕物帳の像を拝んで、清水坂を登りました。

 

次は、湯島天神です。
学問の神様らしく、入試のお願い札が多くぶら下げられていました。

まわりは、来週あたりからの、年末年始恒例の梅まつりの準備に忙しそうでした。 

そこを後に、愈々岩崎邸と不忍池を廻りました。

  

岩崎邸は、年末の掃除中でもあり、中には入りませんでした。

そして、駅前の立ち食いそば屋で、もりそばを食べ、
酒は飲まずに地下鉄で家に帰りました。


その分、家で一杯・・・頂きました。 おちゃけは わが永遠の友なりです。

 

 

 


中山道・板橋宿を歩く

2015-12-08 | 散策

中山道・板橋宿を歩く

久し振りに中山道を歩いてみました。  

今回は、板橋宿周辺だけを歩き、その前後は電車で行き来しました。

 歩いたコースは下の赤線です。

やはり驚くのは、板橋駅前の近藤勇等の墓です。

  

「慶応四年(1868)四月二十五日、新選組局長であった近藤勇は、
中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。

その後、首級は京都に送られ、胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。・・・」

と、北区教育委員会は述べておられます。
板橋駅の東側は北区なのですね。

さて、中山道は始め、「中仙道}、「仲仙道」と表記されていました。
なぜそのような変遷をしたのか。
いろいろ調べたがよく解りません。
「山」に統一したのは徳川時代、1716年といわれています。

面白いのは、「旧中山道」を「1日山道」(いちにちやまみち)と読んだとか・・・

そして、「木曾街道」や「木曽路」の異称もあります。

今の板橋宿を撮影しました。普通の商店街です。

しかし、途中に、石神井川に渡した「板橋」があり、
これで、中山道を探訪した意義を感じました。

   

板橋区教育委員会の説明板によると

「この橋は板橋と称し、板橋という地名はこの板橋に由来するといわれています。・・・」

立派過ぎるくらい立派な橋です。

そしてしばらく行くと、「縁切榎(えのき)」がありました。


「江戸時代には・・・その垣根の際(きわ)には榎と槻(つき)の古木があり、
そのうちの榎がいつの頃からか縁切榎と呼ばれるようになりました。
そして、嫁入りの際には、縁が短くなることをおそれ、その下を通らあなかったといいます。」

「・・・文久元年(1861)の和宮下向の際には、
五十宮などの姫君下向の例にならい、
榎をさけるための迂回路がつくられています。・・・」 

とありました。
これも板橋区の教育委員会の説明板です。

そして、だらだらと中山道を歩き、
行きすぎたようでしたのでUターンして、そば屋で一杯呑みながら昼食としました。