豪徳寺界隈を歩く
豪徳寺とはどういういわれの寺か、探訪する。
歩いたコースは地図の赤線です。
閑静な佇まいが拡がっていました。
この辺は、関東大震災後に開かれたはずです。
近くに区役所もあり、区の中心的な土地です。
さて、気持ちよく晴れた風景を愛でながら、電車沿いに歩いていると、
目的の豪徳寺裏に出ました。
ぐるり廻って、参道に面した正面に来ました。
正面を入ると、三重塔や、鐘楼などがありました。
どちらも立派なものです。
そした大きな香炉のすえてある正面に出ました。
ここは “まねき猫” 発祥のお寺のようです。よくは解りませんが・・・
ひととおり見て回り、Uターンして元の正面に出ましたら、
正門横に井伊大老の墓所があると記してありました。
再び中に入り、やや広い墓地を探して歩きました。
奥の方に、『国指定史跡 彦根藩主伊井家墓所』がありました。
都指定の史跡なのですね。
説明板によると
「井伊直弼(1815~60)は彦根藩主直中の子で、
兄を継ぎ藩主となり、・・・大老になる。
勅許を待たず日米修好通商条約 など安政五ケ国条約に調印。
また十三代将軍家定の後継者を慶福(のちの家茂)に決定し、
反対派の一橋 慶喜らを抑えるという強い政策を実施。
さらに安政の大獄を断行するに及んで、常に暗殺の危険にさらされ、
遂に安政七年三月、江戸城外桜田門外において、水戸・薩摩の浪士らに暗殺された。・・・」
と、ありました。
そして、別の説明板を紹介すると、
「・・・寛永十年(1633)頃、世田谷が伊井家所領となったのを機に、
領内の弘徳院が菩提寺に取り立てられた。
直孝(二代~1659年)の没後には、その法号『久昌院殿豪徳天英太居士』にちなみ豪徳寺と寺号を改め、
以来、井伊家墓所として、江戸で亡くなった藩主や家族がここに葬られた。・・・」
とあります。
やはり、安政の大獄や反慶喜の態度などが祟ったのですかね。
そんなことを感じながら、元の山下駅まで歩き、そこから電車で帰りました。