地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

北の丸公園に「れんぎょう」を!

2014-03-29 | 散策

北の丸公園に「れんぎょう」を見に行きました。


素晴らしい晴天の日の午前中、皇居・北の丸公園を散歩しました。
歩いたコースは次の地図の赤線です。 約3Km の行程です。


先ず、九段下駅まで都営地下鉄で行き、そこから、ぶらり江戸城・田安門へ。

田安門のあたりは桜の名所ですが、ちょっとまだ早すぎたようでした。



以前は、お堀端に菜の花と、花だいこんが一緒に咲いていて、桜の花とお堀の水色がマッチして、とてもきれいでしたが、今は黄色い菜の花も紫色の花だいこんもありませんでした。
どうして刈りとってしまったのかな~。

ところで、今も昔の面影を残すこの門は国の重要文化財に指定されており、
門内にはその説明板が設けられていました。
それを一部引用すると、

「・・・天正18年(1590)徳川家康の居城となり、文禄元年(1592)から大規模な改修が実施され、慶長12年(1607)に天守閣が、寛永13年(1636)に総構が完成し、大城郭としての形が整えられた。・・・
田安門は、北の丸北部に位置する升形門であり、正面の高麗門と、その右手の櫓門から成る。・・・」

とありました。

そこから、日本武道館横を通り、散歩道を歩きました。
比較的よく整備されており、植物の説明板も良く整えられていました。

先ず、サンシュウの花が咲いていました。
遠くからは、今日目的のレンギョウの花かと思いました。

そしてしばらくして、レンギョウの花に巡り合えました。



検索によると、

「レンギョウ(連翹)モクセイ科レンギョウ属(学名Forsythia))。・・・
繁殖力が旺盛で、よく繁る。
樹高は1~ 3m・・・、半つる性の枝は湾曲して伸び下に垂れ、地面に接触すると、そこからも根を出し新しい株ができる。
3 ~ 4月頃、2 - 3cmの黄色い4弁の花が、細い枝に密に多数開く。・・・」
とありました。

その他の花々もいろいろ咲いていました。

  (見事な枝垂桜)

  (ヒイラギ)

  (花だいこん)

 

そして、赤レンガの旧近衛師団司令部庁舎横に出ました。

ここは、建物の部の重要文化財に指定されていて、自由に入れないと思いきや、国立近代美術館の一部として開放され、今日は 『花』 が展示されていました。

 

もともとは、とても一般市民の入れるところではないのですが・・・

恐る恐る、中に入りましたら、年寄りは只で見る事が出来ました。
その上、解説のハガキまで頂きましたので引用すると、

「明治43年(1910)3月に陸軍技師・・・によって建設された司令部庁舎は、2階建煉瓦造で、・・・
簡素なゴシック様式の建物です。・・・」とありました。

あまり私には縁の薄い骨董品などがずらりと並んでいましたが、
その中に 『れんぎょう』 の絵と解説が展示してありました。

「もと支那に自生せる落葉灌木にして茎の高さ一丈余に達し、・・・

早春葉の開綻に先ちて黄色四辦の花を多数に着生す。・・・」などとありました。

 

見て回ってるうちに、国宝級の美しい絵皿がありましたので、パチリ

 

そこを退去してから、
少しお腹も空いてきたので毎日新聞社の地下街でおそばとこんにゃくおでんと生ビールを頂き、大満足。

 

九段下駅から地下鉄で帰りました。


日本百名山 41、草津白根山(2162m)

2014-03-27 | 日本百名山

日本百名山 41、草津白根山(2162m)


「白根と名のつく山は、南アルプスの白根三山(北岳、間ノ岳、農鳥岳)のほか、日光白根と草津白根がある。・・・

(その中の一つ、この草津白根山は) 志賀高原から渋峠を越えて草津に出る途中、芳ケ平あたりで、眼の前にこの山を大きく見あげる。・・・」

天保の頃の儒者・安積艮斉(あさかごんさい)の『白根山に登るの記』によると、、
「(池を環ル)諸峰皆硫気ノタメニ薫蒸スル所トナリ、或ハ黒ク或ハ赭ク、骨立無皮、絶エテ草木ヲ生ゼズ、・・・」
とあり、

特に「この骨立無皮と云う形容が面白い。
全山焼けただれて、骨だけになり、皮膚の肉が無くなったという意味だろう。」
とあります。

同感です。
私も3回ほど草津から登りましたが、芳ケ平の横の断崖絶壁はスゴイ!

今でも、黄色い硫黄の煙がもうもうと立ちのぼり、その匂いは、もう生きて帰れないのではと思うほどでした。
現在でも、噴火警戒のため、(湯釜の)火口から500m以内の立ち入りは禁止されているようです。

「本白根山の頂上は匐松(ハイマツ)やコケモモの生茂っている高山帯で、まず何より、そこから見下ろした六里ヶ原の大観におどろく。
眼の届く果てまで、大原野がさまざまの屈曲をみせて伸び拡がっている。
そしてその向こうに、浅間山が帝王のようにそびえている。

ここの頂上も大きな火口をもっているが、とっくの昔活動を止めて、灌木や岩石に覆われている。・・・
それは自然の円形劇場のさまを呈している。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 

今は、高山植物のコマクサが珍重され、保護されています。

 

 

ここでは、渋峠から白根山の方角を見たカシバーを掲示します。


設定: 対地高度500m、カメラ:STD、レンズ:28mm、風景:草つきの岩、仰角:-10度、高さ強調1.5倍。

 

地図は以前登ったコース図を掲示しました。

   

 

 


深川界隈探訪

2014-03-21 | 散策

深川界隈探訪

 

元勤めていた地図の会社のOB連中(7人)と深川界隈を探訪しました。

幹事の言によると、藤沢周平氏曰く “深川を語らずして、江戸を語るべからず” とか。
そこでまずは、深川界隈探訪から。 

 

歩いたコースは下の地図の赤線です。約5Kmの行程。

 

都営新宿線で真直ぐ集合場所の森下駅に行きました。26分です。

 

先ず、深川神明宮へ。
そこには大きな神輿が9基も納められていました。
三年に一度は総勢の神輿が繰り出すとか。威勢のいいものでしょう。

 

そして、芭蕉記念館へ。
当時、俳句一筋で生きていくのは大変だったろうと思います。
そのことは藤沢周平氏の書いた 『 一 茶 』 を読めば想像できます。
ましてや弟子を引き連れて、奥の細道・江戸から東北を廻って岐阜大垣までの六百里(2400Km)を旅する等、相当の金持ちでないと出来ない芸ではと想像します。
記念館には、芭蕉の旅姿の意匠などが展示されていました。

 

小名木川から隅田川(大川)への出口に芭蕉像がありましたので、パチリ。

 

そこから万年橋を渡って、清澄庭園に行きました。

私は何回か訪れていますので、ただただ有難く逍遥しました。

こんな立派な庭園を静かに逍遥できるなんて、もったいない、有難いことです。

 

ところで、都立文化財庭園は9つあるそうです。

1)浜離宮恩賜庭園

2)旧芝離宮恩賜庭園

3)小石川恩賜庭園

4)六義園

5)旧岩崎邸庭園

6)向島百花園

7)清澄庭園

8)旧古河庭園

9)殿ケ谷戸庭園

 

そのうち、国分寺の殿ケ谷戸庭園には行っていません。
ここには結婚当時2年間も住んでいたのですが。
早く訪問しなければ。

 
さて、そこからすぐ前の深川江戸資料館に行きました。

 

私は、多くの古民家を訪ねていますが、ここは間取りなどがよく解り、親切な展示場です。

  

 

当時は、みな、平屋建てですね。
独り者の住まい、家族住まい、お師匠さんの色っぽい住まい(写真右端)、・・・

ですが、トイレや井戸、風呂は共同です。
無駄がなくシンプルな住まいです。

また、八百屋さんは漬物屋を兼ねていました。これなど今も見習うべきでは?

 

ただ、仕方ないのでしょうが、そうした住まいの匂いが全くないのが残念です。

 

その後、近くの籔そば屋さんで賑やかに昼飯を頂きました。

私は例によって、お冷を二杯頂きました。いい気分!

 

さてそれから、洲崎の郭追善墓地などお参りしたり、滝沢馬琴生誕の地や伊能忠敬住居跡を見ながら、
深川不動尊、

  

 富岡八幡宮にお詣りして、

私だけ、山の定例会があるので、夕食抜きで先に失礼しました。


緑道に「あせび」が咲いていました。

2014-03-18 | 散策

緑道に「あせび」が咲いていました。


今朝、ラジオ体操に行くとき、緑道に妙に気になる花が咲いていました。

後で、ネットで検索してみたら、どうも「馬酔木(あせび)」らしい。

午後、撮影のため、再度出かけました。

  

大きな木ではなく、高さはせいぜい50cmくらいです。

ネットによると

「あせび(馬酔木) または『あしび』

 躑躅(つつじ)科。 学名 Pieris japonica

 

・開花時期は、 3/ 5 ~ 4/15頃。

・壷形の花をいっぱい咲かせる。

・色は、うす紅色のものと白色のものがある。

・かすかに香る。

 

・枝葉に「アセボチン」という有毒成分を含んでいる。

 馬が食べると酔って足がなえることから。
 「馬酔木」はその由来による。

 また、このことから、葉を煎じたものは殺虫剤としても使われている。」

と、大体こんなことが書いてありました。

 

近くに、「まんさく」や「ピラカンサス」らしきものが、花をつける準備をしていました。

咲いたら、またブログにまとめてみましょう。

その前に、桜が咲くでしょう。

今年も、桜の下で、山の仲間と一杯やりますかな~。


蚕糸の森公園への散歩

2014-03-16 | 散策

蚕糸の森公園への散歩

 

いいお店に出くわしました。環七と方南通りの交差点の料理屋です。

酒もおいしいが酒の肴が私の好みにぴったし。それに清潔でかつ安い!

こうしたお店を探していました。

これからもちょくちょく覘いてみます。

 

今日の散歩のコースは次の地図の赤線です。総延長は約10Km ぐらい。

 

先ず蚕糸の公園です。
ここは以前、蚕糸試験場のあったところで、「蚕糸試験場前」と云う都電の駅もありました。
荻窪から新宿へ出るとき使っていた都電です。

    

 

昭和55年(1980年)に同試験場がつくば市に移転し、その跡地に蚕糸の森公園と小学校(区立第十小学校)を造り現在に至っています。

  

 

そこをぐるぐるゆっくり散歩し、環七通りへ出ました。

 

そして次の訪れたのが区立梅の咲く公園です。

“しだれ梅”が結構沢山咲いていました。
それに、人が少なく静かに散歩出来たのがよかったです。

      (公園の全体像)

 

次は、そこに隣接している真盛寺です。
大きな荘厳なお寺です。植木の草取りをしていたご婦人のほかは人っ子一人いませんでした。

 

 その隣が、福相寺。


この辺りには多くの大きなお寺さんが並んでいました。
真盛寺、福相寺のほか、妙祝寺、本仏寺、宗延寺など・・・

 

そして、最後の訪れたのが妙法寺さんです。

ここの伽藍は馬鹿でかく、門前街もありました。

  

昔から、『堀之内のおそっさま』と言われ、厄除けのお寺さまです。

今でも、全国から 『おそっさま』 へ大勢お詣りしているそうです。

有難いことです。高齢者福祉事業以上ですかね。


境内には、有吉佐和子さんの碑がたっていました。

『複合汚染』、『華岡青洲の妻』や『恍惚の人』などで有名な作家です。

近くに住んでいたが、宗教にはあまり関係なかったようです。
ご当人はキリスト教の信者だったそうですから。


さて、ぼつぼつおなかも空いてきたので、一杯呑めるところを探しながら帰りました。

方南通りとの交差点に手ごろな料理屋があったので入りましたが、そこは気に入りましたね。

次回は、ここだけを目的に散歩しましょう。

 

 


日本百名山 40、赤城山(1828m)

2014-03-13 | 日本百名山

日本百名山 40、赤城山(1828m)

「赤城山は、登山というより逍遥(しゃうよう)という言葉のあたる、大きなプレイグランドであって、その中心は、山上の火口湖の大沼(おの=おおぬま)である。

それをめぐって、黒桧(くろび)山、地蔵岳、鈴ヶ岳の三つが、鼎の形に立っている。
黒桧山が最高といっても、湖畔から二時間とかからずその頂上に立つことが出来る。
頂きは草山で眺望は素晴らしい。・・・

上野から高崎までの車窓で、一番私たちを楽しませてくれるのは赤城山である。
見事なのは、伸び伸びと裾野へ引いた稜線であって、おそらくこれほど大きな根張りは、他に例が少なかろう。」

 (高崎駅より)
設定: カメラ:PAN、レンズ:50mm、風景:浅春の山、高さ強調1.5倍。

 

登山コースは赤線です。

  

  

 「今は箕輪から簡単に入れるようになったが、当時は普通水沼から鳥居峠を越えて大沼湖畔に出た。

黒桧山に登ったり湖畔を散策したりして、帰路は敷島に出たこともあった。
二本楢を経て片品川の方へ降りたこともあった。・・・」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

赤城山といえば、国定忠治を連想します。
新国劇で演じられた名セリフは

赤城の山も今宵限りか、
かわいい子分のてめえ達とも別れ別れになる旅出だ。

この名セリフを残して、幕府の役人に追われ、赤城の山を下りて行ったそうです。


本名は長岡忠次で、群馬県伊勢崎市国定町の豪農の生まれとか。
家督は弟の友蔵に譲り、本人は渡世の世界で暴れまわったようですが、。
最後は東吾妻町大戸で磔の刑に処せられたそうです。享年41。

天保の飢饉の時は周囲の百姓たちのいのちのつなにもなったとか・・・。


頭高山・渋沢丘陵ハイク

2014-03-10 | ハイキング 里山歩き

頭高山・渋沢丘陵ハイク

 

頭高山 は “づこうさん”と呼ぶんだそうです。
神奈川県丹沢山地麓にある山で、標高303m。


今日は、小田急渋沢駅から秦野駅間の丘陵地を、の~んびりハイキングしました。
従って参加者は多く25名、内女性14名の賑やかなグループでした。

 

コースは下の赤線です。総延長約12Km。

  

 

途中、あちこちに梅の花が咲いていました。

鶯こそ泣いていませんでしたが、ポカポカと暖かいうららかないい天気でした。

 

さて、そこで私の従来からの疑問を今回は解決しておこうと思いました。
それは、梅と桃の見分け方です。

いろいろな本やデータ検索を見ましたが、いまいちよく解りませんでしたが・・・。


開花の時期は梅が2~3月、桃は一か月遅く3~4月。

花は梅の方がやや大きいとか、
花びらは梅の方が円形で桃はやや先がとがっているとか、

また、梅は花が先に咲き葉は花が散ってから出るが、桃は花の咲く時期から芽吹いているとかです。

しかし、実物を観察していて、自信を以て答えられませんでした。

私の感じでは、木の幹で見分けるのがよさそうです。
梅は風流な枝に折れ曲がっています。幹も苔むした感じに装っています。
そこへゆくと、桃の木は桜の木に似て、横縞がはいり、枝振りはやや直線状です。
梅ほどに風流な曲折はしていないようですが・・・。


これでいかがでしょうか。

  (早咲きの桃の花々です)

 

そんなことを詮索しながら、いつの間にか例の頭高山に辿りついていました。

それほどにやさしい山でした。

 

眼下には秦野の市街地が広がり、その後背地には丹沢の山々が連なっていました。

少し雪に覆われた冬山らしい景観でした。

 

下は、途中にあった案内板の写真です。

 

それにしても、秦野の街はきれいで平穏な街ですね。

地方都市のいい見本です。

 

昼は途中のうどん屋で、珍しい “トマトスパ” のような饂飩を頂きました。
もちろん一杯やりながらですが。
おいしい饂飩でした。

今日も、目出度しめでたしでした!


大宮八幡宮へ散策

2014-03-05 | 散策

大宮八幡宮へ散策

 

環七経由神田川と善福寺川沿いに大宮八幡宮へ散歩しました。

歩いた軌跡は下の地図赤線です。距離14.5Kmです。

 

二つの川とも流れはチョロチョロと少なく、かつきれいな流れでしたが、魚は見れませんでした。
下の写真は二つの川の合流点です。

神田川の源流は井之頭池、善福寺川は善福寺池です。二つとも湧水です。
東京の川はみな富士山をはじめとした後背山地の伏流から成っているようです。

所謂、関東ローム層の下をくぐって湧き出した水です。

途中にバカでかい善福寺川取水施設が出来ていました。
大雨の際あふれ出た水を環七沿いの地下貯水池へ取水する施設です。

都市化が進むにつれ、土地がみなコンクリートで固められ自然浄化もままならず、人工的に助ける施設が必要になったようです。

そして、その取水施設のおかげで、沿線の家々は、昔のように、うららかに安心した生活が楽しめるようです。

 

大宮八幡に行く途中、杉並区立郷土博物館に寄ってみました。

以前から一度訪ねてみたいと思っていました。

 

入口は昔の家の門です。松の木遺跡復元住居の長屋門です。

もともとは、門番が住んでいた部屋だそうです。

 

中の記録には、懐かしい地名がたくさんありました。
上井草、下井草、高井戸、荻窪、永福、天沼、高井戸、・・・

 

私は東京に出てきた初めに荻窪に住み、間もなく兄のいる上井草に住みました。
昭和32年ごろのことです。

西武線を挟んですぐ前に上井草球場がありました。

春一番が吹く頃は球場の砂埃が激しく、畳の上を歩くと足跡がくっきりつくのです。
それも足裏に砂埃が付くためにできる、ほこりの取れた跡です。
不思議な経験でした。

その、上井草球場の記念誌が展示販売されていました。
兄に見せようと思い買いました。

表紙には往年の苅田内野手の写真が載っていました。
確か職業球団・東京セネターズの『百万ドルの内野』手と称えられていた人です。

 

また、館内裏庭には旧篠崎家といわれる住宅が保存されていました。

  

三つ間取り広間型といわれる、江戸中期の一般的な間取りだそうです。

 

ゆっくり見て回ったのち、また善福寺川をさかのぼり、大宮八幡に着きました。

そこでも、また遺跡に遭遇しました。大宮遺跡です。
確か身分のある人の墓地だそうですが・・・。

「・・・大宮遺跡は、都内で初の方形周溝墓が発掘されたことで有名です。
方形周溝墓は『方形の四方を溝で囲んだ土器時代の古代人の墓』で弥生時代末期のものとされます。
昭和四十四年の発掘作業では三基の周溝墓が発見され、そこから土器や勾玉、ガラス玉などが発見されました。

特に壺形土器の配列や底に穴をあけた形状(穿孔土器)からこの遺跡が住居跡でなく、尊貴な者(族長=祖神)の墓域、祭祀遺跡であることが判明しました。

当時、善福寺川沿いの低地では水田耕作が行われていた模様です。
そして対岸の松の木遺跡には、多くの竪穴式居住跡が発見されています。
つまり川や田んぼを挟んで住居と祭りの場を厳密に区分するという観念が当時から存在していたことを示しています。

この遺跡は、大宮八幡宮の旧社殿地ともほとんど重なり、この一帯が聖域とされていた古代からの信仰がのち大宮八幡宮の創建につながったと思われます。・・・」     」

 

そして最後にその隣の、大宮八幡宮にお参りしました。
梅の花も今を盛りと咲いていました。おだやかないい眺めです。


何時も大勢の人がお詣りしています。今日は平日ですが・・・。

  

日本全国には大宮八幡宮と名のつくお宮が多いですが、一番古いのは九州博多の宇佐八幡宮で、その次が石清水八幡宮です。それに筥崎宮を加えた三社が日本三大八幡宮(時には鎌倉の八幡宮を加え四大八幡宮といわれますが)とされています。
そうすると、ここの八幡宮の格式は???

 

帰り道の途中、多少おなかも空いてきたので、蕎麦屋により“ぬる燗”一本と“もりそば”を頂きました。

いい運動になりました。


日本百名山 39、武尊山(2158m)

2014-03-02 | 日本百名山

日本百名山 39、武尊山(2158m)

日本武尊(やまとたけるのみこと)から来た名前で、「ほたかやま」と読みます。

しかし、日本武尊東征の故事とは関係ないようで、単に修験者達が霊山として尊崇された山のようです。

 

「上越国境から、例えば谷川岳の上からでもいい、東の方を望むと、長大な障壁のような山が見える。
それは一つの抜きんでたピラミッドとか特異の独立峰として注目されるのではなく、
その大きな壁全体として私たちの眼を驚かすのである。」

  (谷川岳の頂上より)
設定: カメラ:PAN、レンズ:85mm、風景:奥秩父の森、高さ強調1.5倍。
 

「中年を過ぎた私たち夫婦は、強行登山は望まない。
一日で縦走するのは無理であろうから、途中で日が暮れてもいいように簡単な野宿の準備をして行った。

少しでも楽なように、出発点は標高の高い上ノ原の国鉄山の家を選んだ。
いわば武尊岳の裏から登るのである。

健脚の人の二倍も時間をかけて、まず私たちは最高峰の沖武尊(穂高岳)の頂上に立った。
沖武尊はおそらく奥武尊の転じたものであって、表口から登ると、ここが一番奥の峰になる。
その頂上で展望を楽しんでから、長い尾根伝いにかかった・・・

そこから剣ヶ峰(前武尊)を越えるまでが、痩せた岩稜で、所々鉄の鎖がついている。
私にとっては大した所ではないが、素人登山者の家内の心胆を寒からしむに充分であった。・・・」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

  

登山コースは赤線です。

 

ところで、筆者・深田久弥氏の奥さんですが、5~6歳くらいは年下ですが、よく一緒に登山を楽しんでおられたようです。

ここでも「登山の素人」と呼ばれていますが、「所々鉄の鎖がついている」岩場を登ったり、無人の小屋で一夜を共にしたり、よくぞ山登りをされたものよと、感心します。

でも、山登りを一緒に楽しむ夫婦なんて、うらやましいですね。

筆者は、1971年(昭和46年)登山中に 、茅ヶ岳で脳卒中で死去されました。68才でした。
私も,その山に登り、その碑を拝ませていただきました。
ほぼ、同じ年頃です。 

何故か、奥さんも七回忌を済ませた後、輪禍により他界されたそうです。
なにか、つながりを感じますが・・・。