地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

新宿御苑散策

2014-01-30 | 散策

新宿御苑散策

 

テレビが御苑の花の紹介をしていたし、大変いい天気でもあったので、久しぶりに訪ねてみました。

 

入口に 『新宿御苑のルーツ』 が掲示してあったので拝借

 「新宿御苑の敷地は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉から関八州を与えられた徳川家康が江戸城に入城した際、譜代の家臣であった内藤清成に授けた江戸敷地の一部です。

東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保に及ぶ広大な土地(58.3ha、周囲3.5km)で、のちの甲州街道や青梅街道になる江戸から西に延びる街道と鎌倉街道が交差する要衝でした。

このため、この一帯の警護など軍事的な目的で家康が信頼できる家臣に与えたものとされています。

現在、大木戸門を入った突き当りにある玉藻池を中心とする日本庭園は、安永元年(1772年)に玉川上水の余水を利用して完成した内藤家の庭園、『玉川園』の一部です。」

 

コースに従って、花などを紹介すると、

 

先ず、ローバイ(蝋梅)。

 

そこから、日本庭園に入りました。

広々としたいい庭園です。

   

 

途中の『旧御涼亭』を見ながら進むと、スイセンが今を盛りと咲いていました。

 

この公園には、スイセンが、あちこちにたくさん植えられています。

 

清々しくて、心が洗われました。

 

途中に、ヤマモモの説明板が目にとまりましたので、拝借。

「ヤマモモは名前に“モモ”とつきますが、モモはバラ科、ヤマモモはヤマモモ科で違うものです。
“モモ”と名がついたのは初夏につける赤い実が果実のモモに似ていたから!といわれています。
新宿御苑では6月下旬頃小さな実がたわわになります。
甘酸っぱい実は鳥たちの大人気です。
実は鳥に食べてもらうことで芽が出やすくなります。
また種を遠くへ運んでもらえます。」

 

 そうして、フランス式整形庭園に出ました。

 スズカケノキの並木です。プラタナスとも云います。

 

反対側には、広々とした芝生のイギリス式庭園が拡がっています。

小さな子供たちが、無心に走り廻っていました。

 

今回も、いつの間にか『玉藻園』は通り過ぎていました。次回は覘いて見ましょう。

 

そして、ようやく修理の完成した『大温室』を覗いて見ました。

明治8年(1875年)開園したのですが、第二次大戦で大部分を消失し、昭和26年(1951年)から一般公開されました。
環境省管轄の温室です。

 

ここには、子供がくれたアツバチトセラン(厚葉千歳蘭:リュウゼツラン科)が植えられていました。

原産地はアフリカだそうです。

乾燥地帯の観葉植物ですが、葉の間から花茎が出て目立たない小さな花が咲くそうです。
楽しみに育てています。

『大温室』を出てから、今どきの花が結構見られました。

先ずは、お札にもなる紙の原料・ミツマタの花。

次がピボケ(緋木瓜)の花。

 

「中国原産の落葉低木で、平安時代に渡来したといわれています。
緋色の花色が名前の由来で、寒の時期に咲くことからカンボケ(寒木瓜)とも呼ばれています。
新宿御苑ではほぼ一年中開花しています。(バラ科) 
花期:10月下旬~1月上旬」 (添え書きより転載。)

さらに、周囲には時期外れの桜が静かに沢山咲いていました。

(寒桜) (寒桜) (10月櫻)

 

ロウバイ(蝋梅)も、薄黄色の花をつけていました。

そのすぐ横に、ギンヨウ(銀葉)エンジュらしきものが茂っていました。

 

そうして、出口に近くなり、程よい空腹も感じられたので、ビールでも一杯と思い、この前入ったレストランを訪れました。

しかし、今回は飲み物はノンアルコールだけで、目的は達せられませんでした。

ワカメそば一杯頂いて帰りました。

 

新宿への往復は、もちろん歩きです。

おうちで一杯やりました。

いい運動になりました。


日本百名山 34、火打山(2462m)

2014-01-28 | 日本百名山

日本百名山 34、火打山(2462m)

 

「北にあたって三つ並んだ山が見えた。
頸城(くびき)三山と呼ばれるもので、まん中が火打山、右が妙高山、左が焼山である。

妙高と焼はまとまった形をしているのに、間の火打は長い稜線を引いた不整三角形である。
人はとかく整った形には注目するが、そうでないものには迂闊である。
妙高や焼は人目を引き易いのに、火打は案外見逃されている。」

 (真南の高妻山より)
設定:カメラ:PRE、レンズ:28mm、風景:雪の季節、高さ強調1.5倍

「三月下旬ではまだすべての山が雪を置いていたが、とりわけ火打は白かった。
どんなに雪が降り積もっても山のすべてを覆うわけにはいかない。
どこかに雪をつけない崖や岩壁がある。
ところが火打だけは完璧に白かった。
こんなに一点の黒もなく真っ白になる山は、私の知る限り加賀の白山と火打以外にはない。」

  

「普通笹ヶ峰牧場(笹ヶ峰口)から登るが、その登り道が一様ではなく、
林あり、平あり、池沼あり、変化に富んでいる。
殊に嬉しいのは雪の多いことである。雪は山を立派に見せる。

私が訪れたのは六月の下旬であったが、まだ山の大半は雪に覆われていた。」
(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

私も、妙高山や焼山の名前は知っていたが、火打山は馴染がなかった。
しかも、頸城三山の中でももっとも標高の高い山なのだそうです。

筆者も
「・・・戦争前に妙高と焼山には登っていた。
三幅対の残りの一つ火打の頂上を踏むのに二十年遅れた。
それだけにこの登頂はいっそう嬉しかった。」 そうです。


羽根木公園 観梅のハイク

2014-01-24 | ハイキング 里山歩き

羽根木公園 観梅のハイク

 

ブログを辿ってみると、最初は2010.1.25 ジョギングの仲間と観梅がてらジョギングで、行っています。

二度目は、手術直後の2012.3.1 一人で散歩を兼ね観梅に行っています。

今回が、三度目です。今回も一人です。

観梅にはちょっと早すぎたようです。

  


ですが、静かに早咲きの観梅を楽しむことが出来ました。

   

しかも、入園前に東松原駅近くで、梅餅(あんころ餅に梅が一緒に入っていました)と、ふなくち “菊水” を買っていたので、静かに梅を愛でながら、ぐびぐび味わいました。

いい公園です。ハハハ・・・ハ。

 

行程は次の地図の赤線です。

途中、ちょっと道を間違えたため、距離が長くなりました。往復約10kmです。

 

 代田橋の和田掘給水所から羽根木神社の横を曲がり、参道入り口から、東松原駅の方へ歩きます。

 

 

公園入口には世田谷区の説明板が掲示してありました。

ちょっとその一部を拝借すると、

「羽根木公園の由来

羽根木公園は、その昔六郎次という鍬や鎌を造る鍛冶屋が住んでいたことから六郎地山と呼ばれていました。
また、大正時代末期敷地の一部が、根津財閥の所有であったことから根津山とも呼ばれるようになり、
土地の人達には、今なお、『根津山の公園』、或いは『六郎地山』と呼ばれています。・・・」

また、羽根木の梅林については

「羽根木公園は、全体が小高い丘になっており、南斜面地は笹が生い茂っていましたが、
昭和42年(1967年)世田谷区議会議員に当選した55名の方々により55本の梅の記念樹が行われました。・・・」

と云うのが、この梅林の始まりのようです。


日本百名山 33、妙高山(2446m)

2014-01-23 | 日本百名山

日本百名山 33、妙高山(2446m)


「・・・一番みごとなのは、関山(信越本線関山駅)付近から見た姿であろう。

中央の火口丘がスックと高く、その右の神奈(かんな)山、左に前山、この二つの外輪山の尾根が、ちょうど火口丘を首にして両襟を掻き合わせたようなさまを呈している。・・・」


設定:カメラ:PRO、レンズ:35mm、風景: 火山、 高さ強調1.5倍、仰角10度
 

「登山路は、赤倉および池の平の両温泉からついている。

火口瀬の北地獄・南地獄、どちらを通っても、天狗平で一致する。
そこから上が中央火口丘の登攀である。
岩ばかりの道で、途中、鉄の鎖や梯子のかかった笈摺岩などもあるが、たいした難所ではない。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

  

私ども山の会でも燕温泉までは行きました。
2006年7月に男女合わせて15人で訪れました。
懐かしい山です。

温泉街のすぐ前に、高くそびえ立った妙高山を眺めただけで、露天風呂を楽しんで帰りましたが・・・。


小石川後楽園へ

2014-01-19 | 散策

小石川後楽園へ

2011.2に続いて再度訪問しました。

 

前回に続いて、何故か冬場にばかり訪れたようです。

園内には、冬場らしく、松の雪囲いや万両(写真は百両と千両?)、紅白の梅、蝋梅等が清々しい姿を見せていました。きれいな花です。
   

 

ここは、水戸黄門ゆかりの大名庭園で、国の特別史跡、特別名勝です。

入場券裏の説明によると
「この庭園は、寛永年間(1624~1643年)水戸徳川氏の初祖徳川頼房によって作られ、二代光圀によって完成した我が国における代表的な回遊式築山泉水庭園です。
光圀は造成に当たり、明の遺臣朱舜水の意見を用い、円月橋(後の写真)、西湖堤など中国の風物を取り入れ、園名も又舜水の選名によるなど中国趣味豊かな庭園です。
後楽とは、中国の范仲淹の『先憂後楽』の後によったもので、
『民衆に先立って天下のことを憂い、民衆がみな安楽な日を送るようになって後に楽しむ』
と云うことで光圀の政治的信条によったものと云われています。・・・」

 (円月橋)  

この後楽園は、内庭と後庭からなっていて、われわれの言う後楽園は後庭のようです。

光圀公が居たのは内庭です。

内庭は比較的こじんまりと纏まっていました。下はその写真です。




そして、私の気に入っていた「九八屋(くはちや)」は改修工事中でした。

ここは、江戸時代の風流な酒亭の様子を表したもので、
この名の由来は
『酒を飲むのに昼は九分夜は八分にすべし』
という深酒を控えるよう示したものです。

ということは昼酒は認められていたようです。
だから、気に入っていたのですが・・・。


神田上水も残っていました。
泉水公園の出来た所以でしょうか。
苑内には水田や菖蒲園も残っていました。
光圀が農民の苦労を継嗣夫人に教えるために作ったそうです。

現在、地元小学生が田植えや稲刈りをして、その伝統を守っているそうです。
 

 


湯島聖堂界隈の散策

2014-01-15 | 散策

湯島聖堂界隈の散策

 

お茶の水の眼科医へ定期検査に行ったついでに、湯島聖堂から神田明神あたりを散策しました。

ほぼ、同じコースを二年ばかり前に散策しています。

ブログでさかのぼって調べると、2012.3.21に掲載していました。

 

この度、写真に収めた画像はほとんど掲載済みでしたので省略しますが、一本だけスダジイを載せます。

大きな木です。名前が気に入りました。
別名、イタジイやナガジイとも云うそうです。
普通はシイの木と云っています。どんぐりの木です。
葉の裏側が白色から赤銅色ですから見分けやすいです。

 

 そして、
やはり気になるのは、神田明神裏の銭形平次の記念像です。

特にそのそばにある、ちょっと小ぶりな『八五郎』の碑です。

近く図書館に行って野村胡堂の 『平次捕物控』 を読んでみましょう。

 

その後で、昌平橋を渡って小川町駅へ出ました。

下は、昌平橋から見た総武線のガード下です。最初の中央線発着駅の界隈です。

ぼつぼつ取り壊して新しく作り直さないと、危ない感じがします。

ガード下は結構流行っているらしいエキゾチックな飲み屋などが並んでいました。

今は午前中なので寄りませんでしたが・・・。何時か来てみたい店です。


皇居周回コースを散歩して

2014-01-12 | 散策

皇居周回コースを散歩して

 

久し振りに皇居の周りを散歩しました。
おおよそは、3年前までジョギングしていたコースです。

  

 

今日は、総理もお詣りしたという靖国神社を加えました。

 

幕末から第二次世界大戦までに戦没された、240万柱という膨大な犠牲者の御霊をお祀りした神社です。

さらにこの他に、海外で戦没され、ご遺族にお渡しできなかった御遺骨を祀ってある千鳥ヶ淵戦没者や、
戦災で亡くなった一般市民、海外で亡くなられた一般市民たち、
さらには、関係各国にご迷惑をかけたことを想うとき、
一国の総理がお詣りするのは当たり前のことだと思います。

 (千鳥ヶ淵戦没者墓苑)


私は、皇族方や政府要人は、うちそろってお詣りするのが筋のように思いますが・・・。

 

海外の干渉など問題外です。

先の戦争は、日本国民皆が戦犯です。A級戦犯だけでなく、皆が懺悔すべきことだと思います。

そのためには、広い皇居を開放すべきでは・・・?

 

そんなことを想いながら、皇居の周りを散歩しました。

 

さて、靖国神社では次のような掲示板を目にしました。

ちょっと、出来過ぎた遺書のように思いましたが、総懺悔のためにあえて掲載してみました。

 

書き遺す事

 

陸軍上等兵 吉野浩蔵 命

昭和二十一年一月三十日

ソ連シベリヤセミノフカ地区

第十二収容所にて戦病死

新潟県柏崎市比角出身 二十一歳

 

此の期に及んで何も書き遺す事も御座なく候へども、此の世の名残に一筆書き残し候。

万一小生戦死の報行くも、小生は欣然として国難に殉じ、笑って帝国の礎石となり候間、決して嘆く間敷候。

顧れば生を受けてより二十年、只御厄介になるのみにて、何一つとして親孝行も致さず、今更ながら後悔の外無之候。

然しながら忠孝一本とか君に忠なる事、即ち親に孝と存じ候。

我軍の戦況、愈々不利に相成候へども、小兵等は日本の国民として情勢の如何に拘わらず全力を尽くして、自己の任務に驀進すべきと存じ候。

夜青白き月光の木陰よりもるるを見れば、想いは遠く故郷の空にはしり申し候。

小生の亡き後も皆様には、帝国軍人の遺族として見苦しき事のなきよう、勝利の日迄仇敵米英の撃滅に邁進致され度候。

簡単乍ら右を以て遺書と致し候。

 

昭和二十年六月二十一日 十四時

箇山(斉南の南約十五里)にて

雨の音を聞きつヽ」

 

人間社会には喧嘩はつきもの。
個人であるか、国ごとであるか、宗教がらみであるかは別にして、
自分の主張が通らないと、暴力に訴えます。

生きるためには無抵抗ではいられませんよね。

 

大分世の中が落ち着きを取り戻したとはいえ、地球全体から見ると問題山積です。

その上に、天変地異が重なったら、それ戦いだ!

 

皇居の周りでは、多くの若者たちがジョギングを楽しんでいます。

スタートは大体が桜田門です。
 

道路際には、ユリノキやアベリアが植えられていました。
  

今はスイセンがあちこちで咲いていました。

 

何時までも、この平和が続くことを祈るのみです。


新春ハイキング 相模湖北岸の鷹取山(472m)へ

2014-01-08 | ハイキング 里山歩き

新春ハイキング 相模湖北岸の鷹取山(472m)へ

新春ハイキングコースは次の地図の通りです。

  

鷹取山は歴史ある山で、鷹取神社の祠や戦国時代の烽火台がありました。

鷹取神社の石段は一人歩くのがやっとの、狭くて、しかし長い石段でした。
全部で156段あったようです。

陣馬山方面の山並みも、ハイキングコースの岩戸山近くから眺められました。

天に向かっていななく白馬の像ははっきり見れませんでしたが・・・。


観光案内所のパンフレットによると、

「永禄・天正年間(1558~1591年)甲州武田氏支配の時、
武田氏が相州北条氏に備えて築いた烽火(のろし)台の一つ。
北条の様子を烽火や大鐘で、陣馬山~鷹取山~鶴島御前山の流れで合図した。」そうです。

その遺跡が鷹取山頂上に、写真のように残されています。

 


また、鷹取山への途中では、富士山も見えたようです。
下の写真には写っていませんが・・・。

 

帰りは、『やまなみ温泉』にゆっくり浸かり、新年会にも参加して、

ほろ酔い加減のいい気分で、電車に揺られて帰りました。


初詣ウオーク

2014-01-02 | 散策

初詣ウオーク

 

元旦の昨日、初詣に行きましたが、カメラを忘れていたので、今日再び、同じコースを歩きました。
二日とも晴天で、きれいな初日の出を拝むことが出来ました。

 

先ず、代々木八幡にお詣りしました。

 

まだ、日の出前で薄暗く、提灯の明かりばかりが目立つ光景でした。

 

御神籤は『中吉』でした。

 白雲の去りてひととき谷の間の紅葉明るく照り映ゆるかな

まあ、こんなところでしょう。ゆっくり平凡な一年を過ごしましょう。
 

ここは、代々木八幡遺跡の保存されている所で、区教育委員会の説明板によると、

「代々木八幡宮は標高約三十二メートルの台地上にあって、・・・

昭和二十五年(1950)、渋谷区でここを発掘したところ多数の遺物とともに、ロームを浅く堀くぼめた住居と、その中に掘られた柱穴を発見しました。・・・

この住居には約四千五百年まえに人が住んで居たと推定されます。・・・」と、ありました。

 

そこから、すぐ前の代々木公園に向かいました。

途中、小田急線際に、『春の小川』の歌碑が立っていました。

「ここにはかって清らかな小川が流れ、黄色のかわいらしい“こうほね”が咲いていたので、河骨(こうほね)川と呼ばれていました。
春になると、岸辺にはれんげやすみれが咲く、のどかなところでした。・・・」(区教育委員会)

ところで“こうほね”とは?・・・睡蓮の一種。黄色い花を咲かせるそうです。

 

道草を食いながら、代々木公園に入りました。
ここでは、何時ものように、ラジオ体操を続けているようです。(私の近くはお休み)

7時少し過ぎに日の出を拝むことが出来ました。

 
近くには噴水もあり、カルガモたちが遊んでいました。
しかし、カラスの多いのには、ちょっと閉口です。

昨日と同じように、隣接する明治神宮にはお参りしませんでした。
暫くは、ちょっと人出が多すぎるようですから。