地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

代々木公園の黄葉を観る

2013-11-29 | 散策

代々木公園の黄葉を観る

 

ウオーキングがてら代々木公園へ散歩に行く。

出発2:30(帰宅4:30 約2時間の散歩 : 約7Km)

コースは次の地図の赤線です。

 

何時も観る代々木公園の銀杏の黄葉(こうよう)が見たくて、散歩に出かけました。

タイミングよく、銀杏は黄葉の真っ盛りでした。

その様子は、次の写真でご覧ください。

(入口の情景です)

 

   

 

何時もは、人が込み合っているのですが、平日のこの時間のためか、静かに園内を散策できました。

いい散歩でした。

公園の出入口に、松の木の雪囲いがありました。冬に始まりですね。

 

 

帰りは、少しコースを変えて、代々木神社の隣の福泉寺を通って帰りました。

どちらも、代々木練兵場(現・代々木公園とNHK)建設のために移転させられた神社仏閣です。

 

さて、今夜は石川達三著の『風にそよぐ芦』(下)を読み切って寝ましょう。

当時の世情を感じながら、代々木公園の変遷をたどりました。

 

おやすみなさい。


すずめのお宿 散策

2013-11-24 | 散策

すずめのお宿 散策

 

もとの会社のOB会があったので、ついでに目黒の古民家の一つ「すずめのお宿緑地公園」を覘いて見ました。

めぐろ駅から運動を兼ね歩きました。距離は約5km。途中、大鳥神社にも寄りました。

その散歩ルートは下の地図の通りです。

 

さて、目的地の「すずめのお宿」ですが、周囲はうっそうとした竹林に囲まれていました。


下のパンフレットにもあるように、この地域は竹林が多かった土地のようです。
すぐ近くの国宝・円融寺も竹林の中にありました。

  

 

(残念なことに、写真機が電池切れで写せなくなりました。)

 

目黒区指定文化財 古民家案内のパンフレットによると

「・・・現在はほとんどが市街地になっていますが、昭和初期ごろまでは『たけのこ』の特産地として知られた農村地帯でした。このかっての農村目黒の雰囲気をわずかに伝えているのが古い民家です。・・・」

「もとは緑ヶ丘1丁目(自由が丘の近く)の栗山重治さんの旧宅であったものですが、昭和54年に区に寄贈され、竹林の美しい『すずめのお宿緑地公園』内に移築復元されたものです。

栗山家は旧衾(ふすま)村の旧家で、江戸時代には代々『年寄(としより)』という村の重要な役職を務めた家柄で、屋敷は普通の農家より規模も大きく、一般には禁じられていた『長屋門(ながやもん)』を前面に配し、うっそうとした屋敷林におおわれた格式高いものでした。」
 

 

ことのついでに、部屋の見取り図とその解説をつけると

「A:土間・・・炊事の場でもあり、大事な農作業の場所でもあります。
(隅には、鍬や唐箕もありました。唐箕を観るのは久しぶりです。農機具を扱っていた父がよく整備していました。)

B:広間・・・家族の作業の場として使われます。

C:勝手・・・囲炉裏が切られ、炊事や食事を通じて家族が向き合う貴重な場所です。

D:座敷・・・接客のための場所。床の間などのしつらえを設け、他の部屋よりも部屋の意匠が凝っています。

E:納戸・・・家族の生活の場。この部屋で寝起きをし、家財道具一切を納戸にしまいます。」

 

これからは、散歩がてら、天気の良い日にはこうした民家を訪ねてみましょう。
東京には、こうした民家園がいっぱいあります。 


日本百名山 25、魚沼駒ヶ岳(2003m)

2013-11-23 | 日本百名山

日本百名山 25、魚沼駒ヶ岳(2003m)

魚沼三山と云うのは、駒ケ岳(2003m)、中ノ岳(2085m)、八海山(1773m)の事です。
今では、越後三山と呼んでいます。 

清水トンネルを抜けると見えてくる新潟県の雪山です。

「古来修験道の山はたいてい岩山であって、その険阻な個所に鎖や鉄梯子をとりつけ、登拝者の肝を寒からしめる所に、その功徳を誇っているように見受けられる。
八海山も例外ではない。・・・
八海山は信仰の山だから頂上には数多くの石碑や修験者の像が立っており、・・・
中ノ岳の丸みをおびた柔らかい山容に引きかえ、駒は切り立った大峭壁の上に大きく立っている。」


修験者たちは、鎖場や鉄梯子のあるような山でないと、登った気がしない様ですが、
登山者の多くも、それがないと登山とは言い難いようです。
人間の持つギリギリの体力、精神力に挑戦し、克服しないと満足しないようですな~。

私には、前からそんな気は全くありません。後で一杯を楽しむ安全第一の山登りです。

「信者の中で勇気のある者は、八海山から中ノ岳、それから駒ヶ岳へと、三山を巡礼する。
この順路は普通三日ないし四日を要した。
しかし近年は、逆路を採る者が多くなったのは、その方が楽だからである。私も楽な方を選んだ。」
  

「雪の上のテントで明けた翌朝は無風快晴、勇躍して中ノ岳の上に立った。
そこからの展望は越後中の山々がことごとく見えたといっても過言ではない。

仲ノ岳から八海山までの縦走は、予想以上の厄介な道であった。
痩せた尾根を急激に下ったり登ったりする。いったん八百米もグンと下って、それから八海山への登りも楽ではなかった。
八海山は岩の連なりで、最初の二、三の岩峰は鎖に頼るほかなかった。その八つの峰を終わった時には夕方になり、麓の大崎口の社務所へたどり着いたのは、夜の九時過ぎであった。」
 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 (入道山から駒ケ岳、中ノ岳を望む)

設定:カメラ:PRO、レンズ:16mm、風景:登山地図、高さ強調1.3倍、

 


榛名山の最高峰「掃部ケ岳」(1449m)へ

2013-11-14 | ハイキング 里山歩き

 

榛名山の最高峰「掃部ケ岳(かもんがだけ)」(1449m)へ

 

山の連中と久し振りにハイキングに行ってきました。
総勢21人、内女性12人。遂に女性の方が多くなりました。しかも健脚揃い。


コースは下の図の赤線です。緑線はマイクロバスで走った路です。
 

断面図の色が青色ぽく出ているのは、黄色のインクがなくなったためです。今回はいいことにしてください。

 

榛名山は15座以上の榛名山群からなっており、その中で一番高いのが今日登る掃部ケ岳です。標高1449m。

下は、掃部ケ岳からカシバードで写した榛名富士(標高1390m)と榛名山群です。

 

湖畔から杖の神峠までの林道をマイクロバスの運転手さんは大分奥まで登ってくれました。

お蔭で1時間は短縮できたようです。

 

さて、そこから今日のハイキングです。
女性が多いので賑やかです。無駄口をたたくとうるさいリーダーも、女性のキーキー声には寛大なようでした。

そして、杖の神峠から本格的な山道です。
後で聞いたのですが、ハイキングにはちょっとキツイ勾配の路でした。

私はやっとの思いで、何とかついて登りました。

キツイ坂を登っていると、いつも疑問を感じるのですが、後で思うに、やはり山道を歩くのは気持ちがいいですね。苦あれば楽ありですか。

 

途中の耳岩には、私は立ち寄りませんでした。
女性群は賑やかに登っていました。
女性群が健脚だというのは、こうゆうところでも証明されます。最後の硯岩への立ち寄りも同じです。

 

そして笹をかき分けながら、道らしくない道を、どんどん進みました。
足元の起伏が全く見えないのです。笹の高さが腰まであるのです。
 

これでも下見に来られた人の話では、少し秋らしく柔らかくなっていて歩きよかったようです。
遂に、私は足をとられて転びました。たいしたこともなく澄みましたが。

 

さて、西掃部ケ岳の頂上で昼食をとりました。見晴らしがよく、榛名山群の前景が見事に見渡せました。
榛名湖を遊覧船が浮かんでるのも見れました。

も一度、カシバードの写真も見ましょう。

食後、最高峰の掃部ケ岳に登り、そこから延々と下り道です。
でも、例の笹や700段もある丸太の階段に邪魔されて歩きにくい路のりでした。

硯岩は、先にも述べたように、私はパスして、先に国民宿舎に下りました。

立派な国民宿舎でした。風呂も大きなもので、しかも我々だけが独占していました。

その後、大広間に集まって、皆さんで乾杯! いい一日でした。

 

明日は、榛名湖マラソン大会があるようです。しかも第一回榛名湖マラソン(フル)です。
湖畔を約5周半の周回コースです。参加者は1169人 とか。

帰りのバスから明日の大会準備の光景を観ることが出来ました。

 

下は湖畔から撮影した榛名富士の姿です。

 


2泊3日の東北旅行(最終日)

2013-11-14 | 旅行

2泊3日の東北旅行(最終日)

さていよいよ旅行最後の朝を迎えました。


朝食を済ませて、仙台の青葉城に向かいました。

ここでも、道に迷いあちこちで道案内を乞いながら、ようやく目的地に着きました。
入ったのは裏口からでした。

顧みるに、この度のドライブでは、終始道に迷い、遠回りしました。
それは一つにはナビが故障していた事と、
慣れない土地を “誰かを頼り” にドライブしたことでしょう。
その“誰か” に
は “誰れもいない” のです。道に迷うわけです。

でも、大過なく過ごせたのは、冷静沈着なドライバーの御蔭と感謝しています。


さて、戦災で丸裸になった青葉城跡を散策しました。

先ず目についたのは、伊達正宗公の銅像です。


あるパンフからの抜粋を掲載すると、
「政宗は、関ヶ原の戦の後、徳川家康の許しを得て千代(後の仙台)に居城を移した。
仙台城は、本丸と西の丸からなる山城で、天守台はあるが天守は持たなかった。
しかし、世が泰平となると、山上と麓の往来は不便であったため、伊達忠宗が1637年(寛永14年)二の丸を造営した。
本丸と同じく広瀬川の内側にあるが、土地は平坦な場所である。これ以降、仙台城は平山城となった。

戊辰戦争でも戦場になることはなかったため、仙台城は一度も攻撃を受けず要塞としての役目を終えた。」

そのすぐ横に、妙な像が建っていました。高さ約20mの「昭忠碑」です。


そばの説明板によると
「昭忠碑は、明治7年佐賀の乱以来、西南戦争、日清戦争などに従軍した陸軍第二師団所属の戦没者に対する慰霊顕彰碑として明治35年(1902)11月に建立された。
頭頂部に据えられたブロンズ像は、日本書紀において神武天皇の軍を勝利に導いたとされる金の鵄(トビ)をモチーフとしており、・・・その後、昭忠碑は昭和11年(1936)の震災により翼などを破損(後に修復)するも、幸い戦時中の金属供出は免れたため現代に明治期の文化・技術を伝える貴重な歴史遺産となっていたが、平成23年3月11日の東日本大震災において再び被災、頭部金鵄が落下するなど大きな損傷を受けた。・・・」

そのもとの姿が写真で掲載されていました。

 

その後、城内にある瑞鳳殿にお詣りしました。
 
瑞鳳殿は伊達正宗公の霊屋(墓所)です。この地下には正宗公が眠っているそうです。

すぐ横の説明板によると、
「瑞鳳殿は『霊屋』(たまや、おたまや)と呼ばれる霊廟です。
政宗は寛永13(1636)年5月24日、江戸で70歳の生涯を終えると、仙台に送られ、ここ経ケ峰に葬られました。(政宗は生前、ホトトギスの初音を聞くために経ケ峰に登り、同行の家臣に死後ここに墓所を造るように命じていました。)
瑞鳳殿は翌年10月に完成しています。木造三間四方の建物は漆極彩色によって仕上げられた彫刻など、日光東照宮につぐ桃山様式の豪華絢爛たる廟として昭和6(1931)年国宝に指定されましたが昭和20(1645)年7月10日の戦災により焼失しました。現在の建物は昭和54(1979)年に再建されたものです。・・・」
とありました。
私には、日光東照宮のミニチュアに見えました。

さて、最後に白石城(または益岡城、枡岡城)を訪れました。


仙台藩伊達氏の支城とした片山小十郎の居城です。
元和の一国一城令以後も仙台藩は仙台城と白石城の二城が許されていました。

造りは往時の宮大工による頑丈なものです。
また、天守閣の石垣が、見ものでした。
近いうちに小石川の後楽園に行き石垣の組み方の説明板を読んでみたいものです。
 

天守閣に登ってみましたが、階段の勾配が急で、これでは着物姿の御姫さんは登るのに苦労されただろうな~と、余計な心配をしました。
途中の掲示板に
「天守閣 最も重要な施設で指令の中枢、物見や武器、武具他を貯蔵する機能を持ち、
防備の最後の拠点でもありました。」
下は天守閣からの眺めです。
 

 

最後の昼食は、市内の老舗 温湯麺(ううめん)の店で頂きました。 この土地ならではの食べ物です。
確か9cmぐらいに切ったそばを、ゴマダレの冷やしや、餅付き具だくさんのけんちん汁掛けにして食すのです。
胃弱の人に特にいいそうです。おいしく頂いて、さ~東京へ。

だけど、仙台~東京は遠いですね~。400kmとか。歳をとるにつれ、車ではちょっと応えます。
それと、段々我が家が恋しくなって、2泊3日が限度のようです。
歳はとりたくないね~。でも、もうすぐ80歳です!

 


2泊3日の東北旅行(2日目)

2013-11-13 | 旅行

2泊3日の東北旅行(2日目)

旅行二日目。初めに金華山詣です。



鮎川港から船で往復するのです。
一人往復3000円。ちょっと高いな~とは思いましたが、ここまで来て引き返すことは無かろうと乗りました。
我々だけの7人の貸し切りでした。船は14人乗りです。

15分くらいの走行ですが、その揺れる事揺れる事。
そして船底にぶっつかる波の抵抗の激しさ。凄まじいスリルを味わうことが出来ました。
瀬戸内海の船とは雲泥の違いでした。いい経験をしました。

着いた亀石港は先の地震で1.6m沈下したそうです。元の波止場のデッキが波の間に間に漂っていました。

そこから、マイクロバスが黄金山神社まで送り迎えしてくれます。その料金も込みでした。
歩いたら大変な距離と勾配です。

ここの島全体は、黄金山神社の神域になっているそうです。
恐山、出羽三山と並ぶ「奥州三霊場」の一つに数えられています。

ここに、『三年続けてお参りすれば一生お金に困ることはない』という言い伝えがあるそうです。
そのためか、有名人がお忍びでよく来るそうです。
 

多くの鹿が生息していました。神の使いとして保護されているそうです。

黒い茹で上がった小豆のような糞をあちこちにばらまいていました。
最初鹿の糞とは思いませんでした。
それくらい、匂いもしませんし、きれいなものでした。
 

お次は女川原発の見学です。
福島第一原発は1.4mの津波でメルトダウンまでしましたが、
女川原発には1.7m余の津波が来たのにびくともしなかったそうです。
しかし、中はもちろん、外観を見る事も出来ないそうです。
従ってパスして先を急ぐことにしました。
気仙沼の昼食と平泉へと急ぎました。

気仙沼では 牡蠣鍋をたっぷり頂きました。お酒も!

そして、そこから平泉に行くのでは、今日の宿の作波温泉へ着くのが遅くなり過ぎると、省略することにしました。
正解でした。
と申しますのは、ここでも途中、道を間違えたようです。仙台に入ってから1時間以上遠回りしていました。
作波温泉に着いたのは7時頃でした。平泉経由だと、多分10時頃になっていたでしょう。

さて、作波温泉では、先ず豊富なお湯にゆったり浸かり、それから我々だけの部屋で夕食を頂きました。
勿論、一杯飲みながらですが。おいしかったですね。
常日頃、独りでテレビを見ながら食べてますから、ムードが違って楽しい夕食でした。

その後、部屋に帰り、一部屋に集まって夜遅くまで仲間の棚卸を楽しみました。
これぞ、OB会の面白さです。

これにて、二日目はお終い。

 


2迫3日の東北旅行(1日目)

2013-11-12 | 旅行

2泊3日の東北旅行(一日目)

23日で東北旅行に行ってきました。

総勢617人です。+1人は仙台から同乗した人がいたためです。
目的は元の勤務会社OBの親睦と、東日本大震災後の復興状況を観るためです。


旅行のルートは次の通りです。

赤丸は実際に行ったところ、青丸は予定していたが事情が許さず訪問しなかったところです。

さて、東京駅丸ビル横をワゴン車で6人、8時出発で11時過ぎに仙台に着きました。
渋滞もなく、快適なドライブでした。それに、いい天気でした。

先ず営業所に顔をだし、一応の挨拶を済ませてすぐ、お昼ご飯に行きました。
牛タンの店です。柔らかく料理した牛タンを、冷酒で頂きました。
それも生の竹筒の銚子で頂くのですから、ムードも良く、この上なく美味かったです。

さて、腹ごしらえが出来た所で、先ずはお隣の塩竈市の鹽竈神社へ。

ところで、ここの市名の文字はちょっと書きにくく、むつかしい文字ですね

市が正式に認めているのは、「塩竈市」ですが、「竈」が難しいので「釜」でもいいことになっています。
ちなみに、駅名や郵便局名も「塩釜」になっているそうです。
本らい「竈」は「かまど」のことで、その上にのせる「釜」(ナベ、カマ)とは違うのですが、いいことになっています。
しかし、我々のお詣りしたお宮だけは「鹽竈神社」と、更に難しくした文字が石柱に彫られていました。

標記のことはさておき、ここは陸奥の国一之宮として、朝廷をはじめ庶民にもあがめられていた武神だそうです。


私には、東北にはお寺は多く存在しますが、神社は少なく、お粗末に扱われてきたように思えますが、
思い過ごしでしょうか。

さて、そこから松島を観てから宿へと予定していましたが、既に4時を廻っており、松島はすでに見た人も多く、直接民宿に行くことにしました。

東京からの長旅で、皆さんお疲れの様子でした。
ところが、そこから遠いこと遠いこと。約100Km以上は走ったと思います。
誰も民宿の在り処を正確には知らず、ナビだより。
その肝心のナビも故障気味で、むやみやたらと走り廻りました。
そうして、8時過ぎにようやく民宿にたどり着きました。

しかし、苦労の甲斐あってか、実にきれいな民宿でした。
女将さんも感じのいい人でしたし、その手伝いをしている実の娘さんも良かったで~す。

さらに、風呂もきれいで、料理は盛りだくさん。新鮮な魚料理をたらふく頂きました。
遂に、てんぷらを残してしまったのが心残りです。大きな海老天ですからね。
民宿は観光協会の紹介だそうです。

翌朝、4時に目が覚めたのですぐに周囲の散歩に出かけました。まだ外は薄暗かったです。
ところが、驚いたことに民宿のすぐ前は海でした。
昨夜は暗くて皆目見当もつきませんでしたが、牡鹿半島南西部の小渕浜という漁港の前でした。
金華山のすぐ近くまで来ていたのです。
 (民宿のすぐ前の景色)

さて、約1時間余り周囲を散歩しましたが、「のんびり散歩」というわけにいきませんでした。
この辺一帯は地震や津波の被害地なのです。
既に3年近くが経っていますが、いまだにその傷跡は諸所に残っていました。
 

後で聞いたのですが、民宿も完全に津波で押し流され、このたび泊まった宿は建て替えが出来たばかりの旅館だったのです。
どおりで、建物はきれいだが、あちこちに不備が目立ちました。
でも、女将さんも家族の方たちも、明るい笑顔で接してくれて、そうした暗さはみじんもありませんでした。