地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

大統領補佐官 ボルトン氏へ

2018-03-25 | 旅行

大統領補佐官 ボルトン氏へ

 

米国はさらにタカ派色を強めたようだ

 

ボルトン氏の時、イラクから「大量破壊兵器は発見されず」

米国は国際社会の非難を浴びて孤立した。

 

ボルトン氏は北朝鮮との交渉は「時間の無駄」の姿勢

 

トランプ氏は強硬姿勢の側近をそろえて

北朝鮮への圧力を強めたいのだろう。

 

米朝間の摩擦で対話機運が一転、対決に向かうような事態は避けたい。

 

日本の河野外務大臣も危険だ。

貿易制限一辺倒も良くないのでは


箱根二ノ平荘へ

2016-01-18 | 旅行

箱根二ノ平荘へ

 

15,16、一泊二日で箱根に行ってまいりました。


山の仲間たち16名と一緒ですが
私は、15日は二宮の墓参りに、
16日は、足腰自信がないので、一足お先に帰りました。 

でも、久し振りのいい旅行になりました。

下の写真が渋谷区経営のホテルです。

  

 

さて、初日の墓参りですが、往復歩きです。距離は片道4Km、結構登っていてキツイです。

以前は、この道をジョギングしていましたが、今は歩いて登るのがやっとです。
特に、帰りの下りがきついです。
姿勢が前のめりになったままで、足のブレーキがあまり効かないようでした。 

行きは1.2時間、帰りは1時間くらいか。

でも、妻の33回忌を済ませた後だけに、いい気分でした。
もうすぐ、私もここに入るのかと、落ち着いた気分ひとしおです。

 

そして、仲間たちのいる二ノ平荘へ急ぎ、
温泉に入り、酒をたしなみ、夕食をくらい、カラオケを呻り・・・

いい気分で、一夜を過ごしました。 

そして、翌日は朝食を済ませ、一人でお先にかえりました。


湯河原で、お土産用のかまぼこと、列車内で飲むウイスキーを かかえて、
ロマンスカーで帰りました。12時には家に着きました。

 

今日18日 、朝のニュースで東京も雪が降ったと聞き、
玄関口の雪景色を写真に納めました。
   

あと何回お目にかかれるやら、この雪景色!


伊豆長岡への旅

2015-02-21 | 旅行

伊豆長岡への旅

 

旅といえるほどではないが、子供たちの招待で一泊どまりの小旅行に行きました。

伊豆長岡です。

今は伊豆の国市(昔の伊豆長岡あたり)という妙な名前になっています。
しかも南隣が伊豆市(昔の修善寺あたり)です。

大分もめて決まったのでしょうかね。

 

さて、今日は末っ子の車で、4人でドライブの旅。

先ず、昔住んでた街を廻り、妻の眠る墓地へお墓参りです。

    

今年は33回忌です。秋までにしてやらないと。

 

箱根峠を越えたあたりから雪です。
朝は晴れていましたが、周りがいやに暗くなったなあと思ったら、車窓を叩くほどの雪が降りはじめました。

 

変化にとんだいいドライブです。

 

宿は上等のいい旅館でした。結構高そうだが・・・

ま~!今日はお世話様になりましょう・・・と。

 

翌日は、道路沿いにある“村の駅”により、魚や野菜類を物色したり、試食したりして、
結構ゆっくり楽しんで過ごしました。

この駅は、道の駅以上にアイデアに富んでいるようで、
車で来た地元のお年寄りたちが、お店の人たちとおしゃべりを楽しんでおられたのが印象的でした。

 

その後は一路、沼津港へ。

先ずは「沼津港深海水族館」へ

 

そこのパンフレットを見ると

相模湾と深海生物と題して

「『富士山』とともに、そのスケールにおいて決して引けをとらない静岡県の『日本一』。

それは最深部2,500m、豊富な海洋資源を持つ日本一深い湾『駿河湾』です。

この湾の深海には、光の届かない闇と低水温、想像を絶する水圧という、生き物にとって過酷な環境があります。

その中で生き続ける深海生物たち。

その生物たちの多くは、今もなお秘密のベールに包まれています。・・・」

 

その中には、ヒカリキンメダイ(深海の光)という、
真っ暗な水中に、青白い光だけを放つ魚が群れを成して泳いでいました。

 

また、そのパンフ裏の巻頭に深海魚ではないが、
「『シーラカンス』と『ハリモグラ』」と題して、この進化の謎の説明がありました。

シーラカンスは絶滅の危機にありますので、ここでは剥製しか見れませんでした。

  

「・・・シーラカンスは、陸上動物(両生類)に近い特徴を持った魚類で(魚類から両生類へ進化。

その為かヒレが多く、歩ける足のようです)、

 

 

ハリモグラは、卵を産み、母乳で子育てする不思議な哺乳類(鳥類から哺乳類へ進化)なのです。・・・」

 確か、ハリモグラのメスは、排泄とお産と受精を同じ穴で済ますそうです。

聞き間違えたかな?

 

そして最後に、回転ずしやに入りました。

ビールを頂きながら、腹いっぱいに、大いに頂きました。


2泊3日の東北旅行(最終日)

2013-11-14 | 旅行

2泊3日の東北旅行(最終日)

さていよいよ旅行最後の朝を迎えました。


朝食を済ませて、仙台の青葉城に向かいました。

ここでも、道に迷いあちこちで道案内を乞いながら、ようやく目的地に着きました。
入ったのは裏口からでした。

顧みるに、この度のドライブでは、終始道に迷い、遠回りしました。
それは一つにはナビが故障していた事と、
慣れない土地を “誰かを頼り” にドライブしたことでしょう。
その“誰か” に
は “誰れもいない” のです。道に迷うわけです。

でも、大過なく過ごせたのは、冷静沈着なドライバーの御蔭と感謝しています。


さて、戦災で丸裸になった青葉城跡を散策しました。

先ず目についたのは、伊達正宗公の銅像です。


あるパンフからの抜粋を掲載すると、
「政宗は、関ヶ原の戦の後、徳川家康の許しを得て千代(後の仙台)に居城を移した。
仙台城は、本丸と西の丸からなる山城で、天守台はあるが天守は持たなかった。
しかし、世が泰平となると、山上と麓の往来は不便であったため、伊達忠宗が1637年(寛永14年)二の丸を造営した。
本丸と同じく広瀬川の内側にあるが、土地は平坦な場所である。これ以降、仙台城は平山城となった。

戊辰戦争でも戦場になることはなかったため、仙台城は一度も攻撃を受けず要塞としての役目を終えた。」

そのすぐ横に、妙な像が建っていました。高さ約20mの「昭忠碑」です。


そばの説明板によると
「昭忠碑は、明治7年佐賀の乱以来、西南戦争、日清戦争などに従軍した陸軍第二師団所属の戦没者に対する慰霊顕彰碑として明治35年(1902)11月に建立された。
頭頂部に据えられたブロンズ像は、日本書紀において神武天皇の軍を勝利に導いたとされる金の鵄(トビ)をモチーフとしており、・・・その後、昭忠碑は昭和11年(1936)の震災により翼などを破損(後に修復)するも、幸い戦時中の金属供出は免れたため現代に明治期の文化・技術を伝える貴重な歴史遺産となっていたが、平成23年3月11日の東日本大震災において再び被災、頭部金鵄が落下するなど大きな損傷を受けた。・・・」

そのもとの姿が写真で掲載されていました。

 

その後、城内にある瑞鳳殿にお詣りしました。
 
瑞鳳殿は伊達正宗公の霊屋(墓所)です。この地下には正宗公が眠っているそうです。

すぐ横の説明板によると、
「瑞鳳殿は『霊屋』(たまや、おたまや)と呼ばれる霊廟です。
政宗は寛永13(1636)年5月24日、江戸で70歳の生涯を終えると、仙台に送られ、ここ経ケ峰に葬られました。(政宗は生前、ホトトギスの初音を聞くために経ケ峰に登り、同行の家臣に死後ここに墓所を造るように命じていました。)
瑞鳳殿は翌年10月に完成しています。木造三間四方の建物は漆極彩色によって仕上げられた彫刻など、日光東照宮につぐ桃山様式の豪華絢爛たる廟として昭和6(1931)年国宝に指定されましたが昭和20(1645)年7月10日の戦災により焼失しました。現在の建物は昭和54(1979)年に再建されたものです。・・・」
とありました。
私には、日光東照宮のミニチュアに見えました。

さて、最後に白石城(または益岡城、枡岡城)を訪れました。


仙台藩伊達氏の支城とした片山小十郎の居城です。
元和の一国一城令以後も仙台藩は仙台城と白石城の二城が許されていました。

造りは往時の宮大工による頑丈なものです。
また、天守閣の石垣が、見ものでした。
近いうちに小石川の後楽園に行き石垣の組み方の説明板を読んでみたいものです。
 

天守閣に登ってみましたが、階段の勾配が急で、これでは着物姿の御姫さんは登るのに苦労されただろうな~と、余計な心配をしました。
途中の掲示板に
「天守閣 最も重要な施設で指令の中枢、物見や武器、武具他を貯蔵する機能を持ち、
防備の最後の拠点でもありました。」
下は天守閣からの眺めです。
 

 

最後の昼食は、市内の老舗 温湯麺(ううめん)の店で頂きました。 この土地ならではの食べ物です。
確か9cmぐらいに切ったそばを、ゴマダレの冷やしや、餅付き具だくさんのけんちん汁掛けにして食すのです。
胃弱の人に特にいいそうです。おいしく頂いて、さ~東京へ。

だけど、仙台~東京は遠いですね~。400kmとか。歳をとるにつれ、車ではちょっと応えます。
それと、段々我が家が恋しくなって、2泊3日が限度のようです。
歳はとりたくないね~。でも、もうすぐ80歳です!

 


2泊3日の東北旅行(2日目)

2013-11-13 | 旅行

2泊3日の東北旅行(2日目)

旅行二日目。初めに金華山詣です。



鮎川港から船で往復するのです。
一人往復3000円。ちょっと高いな~とは思いましたが、ここまで来て引き返すことは無かろうと乗りました。
我々だけの7人の貸し切りでした。船は14人乗りです。

15分くらいの走行ですが、その揺れる事揺れる事。
そして船底にぶっつかる波の抵抗の激しさ。凄まじいスリルを味わうことが出来ました。
瀬戸内海の船とは雲泥の違いでした。いい経験をしました。

着いた亀石港は先の地震で1.6m沈下したそうです。元の波止場のデッキが波の間に間に漂っていました。

そこから、マイクロバスが黄金山神社まで送り迎えしてくれます。その料金も込みでした。
歩いたら大変な距離と勾配です。

ここの島全体は、黄金山神社の神域になっているそうです。
恐山、出羽三山と並ぶ「奥州三霊場」の一つに数えられています。

ここに、『三年続けてお参りすれば一生お金に困ることはない』という言い伝えがあるそうです。
そのためか、有名人がお忍びでよく来るそうです。
 

多くの鹿が生息していました。神の使いとして保護されているそうです。

黒い茹で上がった小豆のような糞をあちこちにばらまいていました。
最初鹿の糞とは思いませんでした。
それくらい、匂いもしませんし、きれいなものでした。
 

お次は女川原発の見学です。
福島第一原発は1.4mの津波でメルトダウンまでしましたが、
女川原発には1.7m余の津波が来たのにびくともしなかったそうです。
しかし、中はもちろん、外観を見る事も出来ないそうです。
従ってパスして先を急ぐことにしました。
気仙沼の昼食と平泉へと急ぎました。

気仙沼では 牡蠣鍋をたっぷり頂きました。お酒も!

そして、そこから平泉に行くのでは、今日の宿の作波温泉へ着くのが遅くなり過ぎると、省略することにしました。
正解でした。
と申しますのは、ここでも途中、道を間違えたようです。仙台に入ってから1時間以上遠回りしていました。
作波温泉に着いたのは7時頃でした。平泉経由だと、多分10時頃になっていたでしょう。

さて、作波温泉では、先ず豊富なお湯にゆったり浸かり、それから我々だけの部屋で夕食を頂きました。
勿論、一杯飲みながらですが。おいしかったですね。
常日頃、独りでテレビを見ながら食べてますから、ムードが違って楽しい夕食でした。

その後、部屋に帰り、一部屋に集まって夜遅くまで仲間の棚卸を楽しみました。
これぞ、OB会の面白さです。

これにて、二日目はお終い。

 


2迫3日の東北旅行(1日目)

2013-11-12 | 旅行

2泊3日の東北旅行(一日目)

23日で東北旅行に行ってきました。

総勢617人です。+1人は仙台から同乗した人がいたためです。
目的は元の勤務会社OBの親睦と、東日本大震災後の復興状況を観るためです。


旅行のルートは次の通りです。

赤丸は実際に行ったところ、青丸は予定していたが事情が許さず訪問しなかったところです。

さて、東京駅丸ビル横をワゴン車で6人、8時出発で11時過ぎに仙台に着きました。
渋滞もなく、快適なドライブでした。それに、いい天気でした。

先ず営業所に顔をだし、一応の挨拶を済ませてすぐ、お昼ご飯に行きました。
牛タンの店です。柔らかく料理した牛タンを、冷酒で頂きました。
それも生の竹筒の銚子で頂くのですから、ムードも良く、この上なく美味かったです。

さて、腹ごしらえが出来た所で、先ずはお隣の塩竈市の鹽竈神社へ。

ところで、ここの市名の文字はちょっと書きにくく、むつかしい文字ですね

市が正式に認めているのは、「塩竈市」ですが、「竈」が難しいので「釜」でもいいことになっています。
ちなみに、駅名や郵便局名も「塩釜」になっているそうです。
本らい「竈」は「かまど」のことで、その上にのせる「釜」(ナベ、カマ)とは違うのですが、いいことになっています。
しかし、我々のお詣りしたお宮だけは「鹽竈神社」と、更に難しくした文字が石柱に彫られていました。

標記のことはさておき、ここは陸奥の国一之宮として、朝廷をはじめ庶民にもあがめられていた武神だそうです。


私には、東北にはお寺は多く存在しますが、神社は少なく、お粗末に扱われてきたように思えますが、
思い過ごしでしょうか。

さて、そこから松島を観てから宿へと予定していましたが、既に4時を廻っており、松島はすでに見た人も多く、直接民宿に行くことにしました。

東京からの長旅で、皆さんお疲れの様子でした。
ところが、そこから遠いこと遠いこと。約100Km以上は走ったと思います。
誰も民宿の在り処を正確には知らず、ナビだより。
その肝心のナビも故障気味で、むやみやたらと走り廻りました。
そうして、8時過ぎにようやく民宿にたどり着きました。

しかし、苦労の甲斐あってか、実にきれいな民宿でした。
女将さんも感じのいい人でしたし、その手伝いをしている実の娘さんも良かったで~す。

さらに、風呂もきれいで、料理は盛りだくさん。新鮮な魚料理をたらふく頂きました。
遂に、てんぷらを残してしまったのが心残りです。大きな海老天ですからね。
民宿は観光協会の紹介だそうです。

翌朝、4時に目が覚めたのですぐに周囲の散歩に出かけました。まだ外は薄暗かったです。
ところが、驚いたことに民宿のすぐ前は海でした。
昨夜は暗くて皆目見当もつきませんでしたが、牡鹿半島南西部の小渕浜という漁港の前でした。
金華山のすぐ近くまで来ていたのです。
 (民宿のすぐ前の景色)

さて、約1時間余り周囲を散歩しましたが、「のんびり散歩」というわけにいきませんでした。
この辺一帯は地震や津波の被害地なのです。
既に3年近くが経っていますが、いまだにその傷跡は諸所に残っていました。
 

後で聞いたのですが、民宿も完全に津波で押し流され、このたび泊まった宿は建て替えが出来たばかりの旅館だったのです。
どおりで、建物はきれいだが、あちこちに不備が目立ちました。
でも、女将さんも家族の方たちも、明るい笑顔で接してくれて、そうした暗さはみじんもありませんでした。