地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

地形図 砺波平野の散村を観る

2013-04-30 | 読書

地形図 で砺波平野の散村を観る

 

散村(散居村)で最も有名な砺波平野を覘いて見ます。

先日、北茨城の岡倉天心美術館を覘いたとき、砺波平野の散村が描かれた絵がありました。
それが大変印象的で、地形図でも覘いて見ようと思ったわけです。

この地帯は、庄川と小矢部川の扇状地です。
20万分一地勢図で見ますと次のようになります。

扇状地ですから、地下水は豊富でしょうが、水はけが良すぎて、用水路を縦横に走らせませんと水稲耕作は出来ませんね。
そこに、先人たちは散村という集落形式で水稲栽培を成功させました。

 
左の図は普通の地形図です。
右の方は左の地形図から文字や道路などを取り除いて、集落や水路を目立たせた地図です。

 

農家とその屋敷林が散在している様子が解ります。

農業は共同作業をするものですが、ここではバラバラに集落し、農業を営んでいたようです。

これは、どうも昔、加賀藩の執った開墾奨励策が影響しているようです。

すなわち、
「開墾した田畑は藩主に属するが、開墾した百姓にはその田畑を自前で耕作することを許された」そうで、
そのことがバラバラに耕作を営むもとになったとか。

また、砺波平野にはしばしば水害が起こり、多少でも高く土盛りのした土地に住もうとしたようです。
そのためか、この地方の地名には島のつく地名が多いです。
例えば、小島、孤島、水島、西島、鴨島、鹿島、野村島、三島、神島、・・・
また、それらのことから、各々の住まいと耕作地を近づけ、バラバラの散居になったのかとも思います。
 

 

ずいぶん前、仕事で松江の方へ出張したことがありますが、車窓から見た大山の北側には家が全く見られず、奇妙に感じたことがあります。

後で分かったのですが、防風林で各農家が囲まれていて、北東の方からは農家が全く見られなかったのです。

それと同じように、この砺波平野の農家も屋敷林でおおわれています。
これは、防風林としての役目ばかりではなく、焚き木や、果樹栽培や、冬暖かく夏涼しく過ごす生活の知恵でもあったようです。防水のためにもなったのかな?

 

砺波平野の散村は日本一の規模だそうで,おおよそ7000戸、220㎢ です。


地形図 甲府 扇状地を見る

2013-04-26 | 読書

地形図 甲府 扇状地を見る

 

甲府盆地は、釜無川と笛吹川の合流でできた “湖” ではなかったかといわれています。
次の地図を見てもうなずけます。

 

富士川ができて、現在のような地形、甲府盆地ができたのでしょう。

 

しかし、周囲の山々から流れ出る川水は、平野部でその流れの勢いを緩め、いわゆる扇状地をあちこちに作っています。
甲府盆地は複合扇状地といわれています。

 下の地図はその一つです。

 

図は達澤山から流下する川の扇状地です。
扇状地には桑畑やブドウ園が開かれています。

 現在は、桑畑を中心にした養蚕業は衰退しましたが、それに代わってブドウ栽培とワイン醸造が盛んになり、全国の約半分はここ甲府で生産されているそうです。

 多分、水はけのよい扇状地と温暖な気温に支えられているのでしょう。

 

ところで、三角州と扇状地の違いがよく解らないのですが、

検索してみると、

・・・扇状地の場合は山にちかく、ちょっと流速が落ちたぐらいで堆積するような粒の大きな土砂です。
水が地下に染み込みやすく、伏流することもあります。
したがって、土地利用として水田は出来ず、果樹園が多い。
三角州の場合、(海や湖の)河口まで流れてくるようなものは(土砂の)粒が小さいので、保水力もあって水田ができます。」 とありました。

これからも、実例で検証してみましょう。

                         

                 


地形図 諏訪湖

2013-04-25 | 読書

地形図 諏訪湖 を懐かしむ

一昨年、一昨々年と2年続けて諏訪湖マラソン(ハーフ)に参加したのが懐かしく思い出せます。
コースは下の赤線です。


コース図を眺めていると、沿道の様子が思い浮かびます。
ホッサ・マグナの崖を過ぎ、左へ最後のコナーに曲がってから、結構距離があり、しんどかったです。

私の人生で、あれが最後のマラソンですね。
もう、歳ですし、腰を痛めてからはその意欲も湧かなくなりました。

 

さて、諏訪湖といえば、ホッサ・マグナ(赤線)ですが、西南の湖岸に沿って結構高い崖が走っています。
一方、東南には八ケ岳の噴火で川が堰き止められ、内陸部へ向かって逆流しています。(赤い矢印)
そうしてできたのが諏訪湖です。
諏訪湖に向かっては、三角州(薄い黄色)が広がっています。広い水田地帯です。
同じように西北にもできています。

こうして溜まった水は、天竜川へ流れるのみです。
他の30余りの川はみな、諏訪湖に流れ込んでいます。


従って、人口が増え、温泉町として栄え、工業化が進むに従い、水質の悪い湖になりました。

特に70年代から80年代にかけては、アオコが大発生し、湖面は緑色になるわ、悪臭はするわで放置できない様相を呈してきました。

下水道の整備事業などで大分きれいにはなりましたが、もとの姿には及ばないそうです。
ワカサギが多く獲れるのは、水質が悪い証拠だといわれています。

日本列島の “へそ” を清潔にしましょう。


根津神社へ ツツジを見に行きました

2013-04-24 | 散策

根津神社へ ツツジを見に行きました

 

ツツジが見たくて、千葉県野田市の清水公園を予定していましたが、ちょっと遠いので迷っていましたら、テレビで本郷の根津神社が紹介されていたので、天気の合間を縫って見に行きました。

ルートは下の図です。

 

近くの文京学園さんが、記念品に使われた地図帳の表紙に、根津神社の錦絵(浮世絵)を毎年変えて掲載していたので、印象深い神社です。

よくぞ、こんなに根津神社の浮世絵があるものかと驚いていました。

 

先ず、地下鉄南北線で本駒込駅に行き、ここからぶらぶら白山神社に行きました。
 

サイクリングのグループで一度来たことがあります。
アジサイがきれいだそうです。そのうちに・・・・・・。

 

次は、大円寺を訪れました。

 

地形図には高島秋帆の墓(国指定史跡)が記されています。

教育委員会の掲示によると

「・・・幕末の砲術家。アヘン戦争で清国が敗れたことを知り幕府に洋式砲術の採用を建議し、1841年(天保12)武州徳丸原(板橋区高島平あたり)で洋式砲術演習を行った。
翌年、鳥居耀蔵のいわれなき訴えによって投獄され、のち追放に処せられた。
ペリー来航とともに許されて、1857年(安政4)富士見御宝蔵番・兼講武所砲術師範役を命じられた。」とありました。

 

お寺の入口には、八百屋お七を祀る“ほうろく地蔵”が祀られていました。

 

「・・・天和の大火の後、恋仲になった寺小姓恋しさに放火の大罪を犯し、火炙りの刑を受けた“お七”を供養するために建立されたお地蔵様である。・・・」

 

お七は、先の品川宿散策の際、鈴ヶ森刑場で火炙りの刑になったと知りましたが、亡きがらは遠く離れたこの地に葬られたいたのですね。
この土地の八百屋の娘さんだったとか。

 

どうせこの世に生を受けた身なら、お七のような娘さんに思われてみたいと、空想しながら、少しジグザグ歩いて、根津神社の裏門に出ました。

今日のコースは目的地からは逆のコースになりました。

たくさんの屋台店が並んでいました。つつじ祭りのせいでしょうか。

 

さてさて本番のツツジ園へ入場料200円を払って入りました。
大変な人出です。100人や200人ではなく、それ以上です。

 

こんなに大盛況とは知りませんでした。

 

最後に、根津神社にお詣りしました。
  

楼門だけを写真に納めました。ここが最も見応えのある姿のようです。

錦絵もこの門ばかりが描かれていました。

文京学園さんの表紙の中に雪の降り積もった錦絵が記憶に残っていますが、実物も見たいものです。

 

そこから、うねうねと曲がった“へび路”を楽しんで、千代田線の千駄木駅に帰りました。

本日の散歩はこれにてお終い。


地形図 霧ヶ峰

2013-04-20 | 読書

 

地形図 霧ヶ峰を訪ねて

 

2010年6月に山の会の人たちとハイキングに行ったことがあります。

霧の立ち込めた広い美しい高原でした。

下は20万分1 地勢図で見た周辺図です。

 

左の黄色い線は中山道です。
諏訪湖から北へ和田峠を越え、軽井沢経由で江戸に降っていたのですね。
皇女和宮もこの道をたどって江戸に降ったようです。
笹子トンネルの有難味がよく解ります。
(機会を見て東海道との比較を含め眺めてみます。)

 

さて、霧ヶ峰ですが、

先ず、1/2.5万の地形図を見ると

霧ヶ峰は、標高1500~1900m、東西10km・南北15kmの、東から西に緩やかに傾いた溶岩台地です。
主峰は車山(1925m)で、その大部分は草原です。
そして、このなだらかな地形は、富士山と同じ成層火山ですが、長い間の侵食でなだらかになったそうです。
すぐ隣の八ヶ岳とほぼ同じ頃(約140万年前)の大爆発で、霧ヶ峰は山頂部が吹き飛ばされ、そして長い間の浸食でなだらかな高原状の地形になったそうです。
八ケ岳は厳しくそそり立ち、霧ヶ峰はなだらかな高原のわけは私にはよく解りませんが、多分地質の違いもあるのでしょう。

さて、地形図に手を加えてみると

縦横にハイキングコースとスキーのゲレンデが広がっています。
さらにはゴルフ場やグライダーの滑走路もあります。
まさに、レクリエーションのメッカです。

2010年6月の時のハイキングコースの経路断面は次です。

霧ヶ峰という地名からも、霧の立ち込めることが多いようです。
この時も、一時期霧が立ち込めました。

霧が濃く立ち込めた時は視界がゼロになるそうです。
そのために、ハイカーに方角を知らせるために鐘(霧鐘)を鳴らすそうです。
車山観測所の報告によれば、年間298日霧が発生するそうです。

また、ここの高層湿原は、本州の南限だそうで、尾瀬ヶ原よりも泥炭層が発達していて、深さ約8m、およそ1万年以上も堆積して現在のような湿原になったそうです。

ここでは、何故か木が育たず、山全体がなだらかな草原です。
ここの土壌は酸性度が強く、そのためにミミズも育たず、樹木が茂るような土壌が出来にくいためだそうです。
しかし、いろいろな花の宝庫にはなっています。

霧ヶ峰で忘れられないのが、新制中学生の頃、ある先生がいつも歌っていた『山小舎の灯』です。
今でも、その姿が浮かびます。誰かをしのんでいたのかな~?

 た~そがれの灯は ほのかに点りて~
  懐~かしき山小舎は ふもとの小径よ~
  想い出の窓に寄り 君~をしのべば
  風は~過ぎし日~の 歌をばささやくよ~ ♪

 



 


富津岬

2013-04-17 | 読書

 地図で富津岬を拝見

 

1/2.5万 地形図で富津岬を拝見しました。

今から45年くらい前、子供達をつれて潮干狩りに行った土地です。

妻が元気はつらつとしていた頃のことです。

富津岬は、東京湾に奇妙な形で突き出した土地です。
東京湾と太平洋の境です。 

近くの小糸川から東京湾に流れ出した土砂が、時計回りに流れる潮の流れで岬に流れ着き、
たまってできた岬であり、干潟だそうです。

地図に書いた線に沿って、断面図を書いてみると下のようになります。

左が北側で、右が南です。陸地の長さは約800m、標高の一番高いところで13m。

南側の砂れき地には針葉樹(多分松でしょう)が植わっています。
まさに「白砂青松」の土地です。

南は、太平洋側からの潮の満ち引きが、長い浅瀬に打上げられてできた砂れき地です。

県立の富津公園に指定され、その先端には展望台が作られています。

下は 1/20万 地勢図で、それに干潟地(薄赤)と潮の流れ(青い矢印)を加えてみました。

北側の干潟(薄赤の土地)が潮干狩りの出来る土地です。

干潟とは、干潮時には水面上に出、満潮時には水面下にしずんでしまう砂、泥等の場所です。
地形図では、広さが50メートル×50メートル以上(1/4 ha以上)のある場所をいいます。

ここは、それより大分広く、東京湾内では絶好の潮干狩りの場所であり、渡り鳥たちの憩い場です。

これからは家にいるときは、時々地形図を拡げてブログを試みてみます。

 




東北応援ツアー (2)

2013-04-17 | ハイキング 里山歩き

東北応援ツアー (2)

 

二日目の朝を迎えました。

旅館の朝ごはんは、今まで食べたことがないくらい豊かなおかず揃いの御馳走でした。
それを残さず全部頂きました。 また、太ったかなあ~?


そして、昨夜舞いを披露して我々を歓待してくれたおかみさんに送られて、
今日のコースに出発しました。 

 

今日の山は茨城県内で一番標高の高い栄蔵室{882m}です。筑波山より5m高いそうです。

花園渓谷をさかのぼり、猿ケ城林道出口までバスで登り、そこから山へ向かいました。

先ず、亀谷地湿原を観光しました。
ミズバショウが沢山咲いていました。

そこから奥に入ると、バイケイソウ(梅恵草)が、むやみに生えていました。

 

林道が絶え、山道に差し掛かったころから、段々と勾配がきつくなり、特に展望台の手前はきつかった。
同好の輩は、涼しい顔で登っていましたが・・・。
(初日のハイキング組は途中から横道にそれていました。)

そして、富士の見られる本邦北限の展望台で一休み。
今日は晴天でしたが、多少もやっていて富士山は見れませんでした。

そしてそこからすぐに榮蔵室(882m)に着きました。
展望の開けたすばらしい景色でした。一等三角点の展望です。

 

そして、すぐ横のテレビ塔を過ぎ、更に眺めの良い広場に着きました。

そこから、帰路に入るのかと思ったら、山登りの連中には物足りなかったようで、
さらの花園山(798m)まで足を延ばすことになりました。

経路断面図のように、花園川の渓流沿いに下り、そして登りました。その往復です。

私には、ちょっときついところもありましたが・・・。どうにかついて歩きました。

なんたって、女の人が大勢いましたからね、音は上げられませんよ!

 

そして、お昼ごはんを、幹事たちの同級生がやっている魚園で採りました。

そこで食べたニジマスの焼き魚がよかったね!実に美味しい昼食でした。
幹事さんたちに再度感謝!感謝です。

 

それから、更に花園神社に案内されました。
普通なら、山登りのあと、あちこち連れまわされると、段々疲れて来ていやになるものですが、
ここは、一段といい気分になりましたね。

自然と頭の下がるような荘厳な雰囲気でした。

 

先ずは、巨大な杉の木です。中でも、県指定の文化財・大杉(三本杉)は見事でした。

 

その説明板を紹介すると
「地上十メートルのところより三本に分かれているので通称三本杉という。
樹高四十八メートル 幹囲八・五メートル 樹齢七百年を経ています。・・・
この付近の巨木も前文の樹々に同じです。」 

そして、ここのユニークな狛犬さんにも、ほれぼれしました。

  

最後に、この度のバスツアーは、幹事さんの並々ならぬご配慮に感謝、感謝ですが、
同時に、行きも、帰りも車の渋滞が全くなかったことも感激です。

本当にいいツアーを有難う!! 


  


東北応援ツアー (1)

2013-04-17 | ハイキング 里山歩き

東北応援ツアーに参加して(1)


我々山の仲間約20人で、茨城県北部の「山と観光」を楽しむ2日間のツアーに参加しました。

場所は、初日は日立市の高鈴山(623m)に登り、その後、岡倉天心ゆかりの五浦海岸の六角堂(観欄邸)を観光、
そして翌日は県最高峰の榮蔵室(882m)に登りました。

先ず初日ですが、

初日のコース図とその経路断面図は次の通りです。高鈴山へのスイッチバックです。

 

登山組とハイキング組に分かれました。

私は、ハイキング組の5人(私以外は女性)と、つくしやたじな(いたどり)を楽しみながら、登山組との合流地点(御岩山)へ向かいました。殆どが林道なので、のんびりと登りました。

登山組は、御岩神社経由で、かつ先の東日本大震災で道が荒れていて、大分苦労したようです。

そこから、大勢で、にぎにぎ、がやがやと楽しく登りました。

「花の百名山」(田中澄江氏選定)だけに、上を見ればヤマザクラ、ウメ、コブシと若葉が燃え立ち、下を見るとアオキが赤い実をいっぱいつけていました。所々、スズランのような白い花も見られましたが、ただきれいな花とだけにしておきましょう。

  

頂上は、展望も良く、四海が見渡せましたが、少しもやっていて定かには見れませんでした。

昼食をとり、来た道を帰りました。
そして、そこから五浦海岸を散策し、岡倉天心ゆかりの六角堂(観瀾邸)と五浦美術館を訪れました。

五浦(いずら)海岸は、読んで字のごとく南から「小五浦」「大五浦」「椿磯」「中磯」「端磯」と五つの海食崖に囲まれた白砂青松の地で、六角堂はその「小五浦」と「大五浦」の間にありました。

ここを、先の平成23年3.11の地震の後の大津波が襲ったのです。

六角堂は基盤を残すのみで、そっくり海に流され、天心のお住まいも床下まで海水が押し寄せたそうです。

   

六角堂のいわれがガイドブックに記されていたので引用しますと

「・・・この建築には三つの意図が込められているといわれています。まず、杜甫の草堂である六角亭子の構造。つぎに、朱塗りの外壁と屋根の上の如意宝珠は仏堂の装い。そして、内部の床の間と炉を備えた茶室としての役割。つまり六角堂には、中国、インド、日本といったアジアの伝統思想が、ひとつの建物全体で表現されているのです。・・・」

 

上は、国の予算や世界からの浄財で平成24年に復旧なった六角堂の姿です。

その後、五浦美術館を訪ねました。実に立派な建物でした。

私は、砺波平野の散村集落と能登半島でしたか千枚田の絵が気に入りました。
写真は撮らせてもらえませんでしたが・・・

最後に、幹事さんのお友達の旅館に入りました。
ここも、天井までくる津波に襲われ、大惨事にあわれたそうです。

今は、全くその面影をとどめていませんが・・・。

そして、お風呂で一日の汗を流し、皆さんと一堂に会して土地のさしみをやお酒(一会員の知り合いからの差し入れだそうです。)を味わい、カラオケも呻り、眠りにつきました。

これで、初日は目出度く終了しました。
天国でしたヨ! 幹事さんありがとう。 

 

 

 



江戸東京たてもの園を徘徊

2013-04-06 | 散策

江戸東京たてもの園を徘徊しました。

 

『春に三日の晴れなし』 の格言どおり、格別いい天気の今日も、また明日からおかしくなるようで、思い切って小金井市の公園に出かけました。

武蔵小金井駅から歩き、公園を一周して東小金井駅に帰る一周コースです。

30分も歩くと玉川上水沿いのサクラ並木に出ました。

独身の頃、友達の病気見舞いで歩いた道です。あの時以来です。写真をパチリ!

 

そして、そこの掲示板に、明治30年頃の同じ小金井橋の写真がありました。

チョット拝借!

 

そこの教育委員会の説明板『名勝 小金井(サクラ)』を紹介しますと、

「小金井堤の桜は、元文二年(1737)頃、八代将軍徳川吉宗の時代、幕府の命により川崎平右衛門定孝が、大和(奈良県)の吉野や常陸(茨城県)の桜川など各地の桜の名所から種苗を取り寄せ、小金井橋を中心に玉川上水両岸の六キロメートルにわたり植えたものです。これは、新田の賑わいのためのほか、桜の根が土手の崩壊を防ぎ、花びらなどが水の毒を消すなどの理由によるものといわれています。

(中略)

小金井堤の桜は、東京大学三好学博士(植物学)の調査研究により、若葉の色、花の色、形の大きさ、早咲き、遅咲きなど一本一本が異なるほど多様な天然変種があり、他に類を見ない山桜の一大集植地として、大正十三年(1924)・・・吉野・桜川等と共に名勝に指定されました。

(中略)

戦後、名勝小金井(サクラ)は、樹木の老化や周辺の都市化などによって年々衰えましたが、・・・吉野や桜川等の系譜を引き継ぐ山桜の苗が補植され、名勝小金井の桜並木の再生、復活が図られます。  平成二十三年八月」

とありました。

 

サクラ並木沿いに公園入口まで歩き、先ず櫻の園を散策しました。
人出は多いのですが、なにしろ広いのでゆったりした空間を楽しめました。

 

そして、たてもの園に入りました。園内の案内図は下の図の通りです。

田園調布のしゃれた洋館建てや古風な農家などが立ち並んでいました。

中には、実際に囲炉裏を囲んで雑談を楽しんでいる人たちもいました。

私は、実際に火を焚いている『くど(竈)』を懐かしみました。

  

その農家の入口には昔懐かしい「とうみ(唐蓑)」がありました。

私の生家は農機具屋でしたので、犂を造る傍ら、唐箕、稲扱機(せんば)、除草機、縄綯い機、稲鎌などを扱っていました。ですから、民家園でこうした光景を目にするのは、大変懐かしいです。

 

それから、おばあちゃんのお家のお風呂場にお目にかかりました。

足場が竹の簀子で、その下が肥え壺になっているのです。怖くて入れず、泣き喚いたことを覚えております。結局、庭で盥を使いましたが・・・。

 

その他、神棚、石臼、天井、部屋割りなど等、懐かしいことがいっぱいでした。

 

ただ一つ物足りないのは、農家特有の匂いを嗅ぐことができないことです。

牛小屋の匂い、便所の匂い、それらに混じった生活の匂いが全くありません。仕方ないことでしょうが。

 

さて、そこを見物して、異様な赤い霊屋が目に入りました。

三代将軍家光の側室の霊屋(たまや)だそうです。

 

そして、そのさきに高橋是清邸がありました。

 

本来は赤坂御用邸の前の高橋是清記念公園にあるはずですが移築されていました。

『坂の上の雲』で西田敏行さんが演じた“だるま宰相”は、見事な演技でしたが、・・・

 

入口に、掲示板がありましたので、その一部を掲載します。

「・・・是清は1936年(昭和11年)2月26日早朝、青年将校によって殺害された。(2.26事件)

兵士数名が寝室になだれ込み、白の寝間着姿で布団に座っていた是清に銃弾を浴びせ、軍刀で切り付けた。即死であった。

是清は市民から『ダルマさん』と呼ばれ、親しみを持たれていたため、葬儀には別れを告げる人々が多数参列した。

波乱に満ちた83年の生涯であった。」

 

その部屋が下の写真です。

 

そのあと、当時の銭湯(今とあまり変わりませんが)、

お店屋さん、飲み屋さんなどを覘きながらたてもの園を出ました。

最後に、伊達家の門が厳然と聳えていました。総欅造りだそうです。

帰りは、東小金井駅からJRで帰りました。

駅前は橋上駅に伴う再開発で、大工事中でした。