地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

四谷見附あたりを散策

2012-08-29 | 散策

四谷見附あたりを散策

 

登山用地図ソフトの講習会が市ヶ谷であるので、それに先立ち、四谷見附あたりの堀端を散策しました。

歩いたコースは下の地図です。

 

 

赤坂見附駅から弁慶橋を渡りスタートしました。

今日も、34度と暑い午後でした。

 

ここ紀尾井町の名前は、紀伊徳川、尾張徳川、彦根井伊の三家より一字ずつ取って名づけられました。
そして、紀尾井坂から南、弁慶橋あたりまでの低地は、清水が湧き出ていたことから清水谷と呼ばれていました。

 

先ずは、大久保利通公が暴徒に襲われた清水谷公園へ。

現役のころ、公園の前はよく歩いていましたが、中に入るのは初めてです。

立派な石碑が立っていました。

「贈 右大臣大久保公哀悼碑」とあり、その説明板には

「明治11年(1878)5月11日朝、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿大久保利通が暗殺されました。
現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保の暗殺は、一般に『紀尾井坂の変』と呼ばれ、人々に衝撃を与えました。・・・」

とありました。

 

この公園の裏山に登り、迂回して紀尾井坂に出ました。
結構きつい山あり、坂ありでした。

 

そして上智大学横の土手を散歩しました。
サクラの木が多く、季節には見事な花が楽しめることでしょうが、いまは人も少なく、静かに散歩ができました。

 

 

四谷見附を過ぎ、市ヶ谷駅までもほぼ同じような土手道でした。

 

やや早く着きましたので、ゆっくりコーヒーを楽しみ、仲間たちと講習会へ。

そして、後はいつものように一杯!


小石川植物園をたずねる

2012-08-27 | 散策

小石川植物園をたずねる

 

「高温注意報」が出るほど暑い日でしたが、前から行ってみたかったので、朝早く、午前10:00に電車で向かいました。
それでも、暑かったですね。それに、短パンはいいのですが、虫よけスプレイを忘れ、植物園内の蚊には閉口しました。

従って、詳細に見るのは後日のことにして、急ぎ足で一周して出ました。

 

今日の、散歩のルートは次の地図の通りです。

 

 

やはり、予期してたように、この植物園はよく整備されており、木々には必ず名札がついていました。
今は、サルスベリ以外には花もなく、やや単調なたたずまいでしたが、珍しい巨木が生い茂っていました。

蚊に刺されさえしなければ、ゆっくり見て歩くのですが、蚊には参りました。

最初に撮った写真です。これだけです。後は後日に・・・。

 

 

赤いユニークな建物がありました。元の「東京医学校本部」です。
その前にはには広い泉水庭園があり、鯉が悠々と泳いでいました。

 

蚊を追い払いながらも、注目させられたのは、

「関東大震災記念碑」でした。
「・・・焼け出された市民3万人以上が一時的に植物園に避難しました。その一部は園内の震災救護所でさらに長期にわたる避難生活を送りました。
大正14年1月(震災から1年5か月)に最後の居住者が退去し、有志によってこの記念碑がたてられました。」
下がその写真です。

 

また、旧養生所の井戸がありました。

「小石川養生所は徳川幕府が設けた貧困者のための施療所で、町医者小川笙船の意見により、享保7年・・・(1723)に、この場所に開設され、明治維新の時に廃止されるまで続きました。
養生所は町奉行所の管轄で、40名(後に170名)の患者を収容することができました。
この養生所の井戸は水質がよく、水量も豊富で、大正12年(1923)の関東大震災の時には避難者の飲料水として大いに役立ちました。」

下は、その井戸の写真です。

 

さて、暑いので次の念速寺へ急ぎました。

先日、吉村 昭著『梅の刺青』を読んでいて、このお寺を知り、是非、小石川植物園を訪問する際、立ち寄ってみたいと思っていました。

 

お寺の裏の墓地に「みき女」の墓がありました。

彼女の墓は、「特志解剖第一号 美畿女墓 ~1869 (文京区指定史跡)」とあり

その説明板には、

「美畿女(みき)は、江戸時代末期の人。駒込追分の彦四郎の娘といわれる。美畿女は、病重く死を予期して、死後の死体解剖の勧めに応じ、明治2年(1869)…、34歳で没した。死後、直ちに解剖が行われ、美畿女の志は達せられた。当時の社会通念、道徳観などから、自ら死体を提供することの難しい時代であって、美畿女の志は、特志解剖第一号として、わが国の医学研究の進展に大きな貢献をした。・・・」

 

小説『梅の刺青』によると
死後解剖について本人の了解を得たことは、

「口をつぐんでいたみきの心を動かしたのは、解剖後、厚く弔うという医師の言葉であった。遊女は、死ぬと投げ込み寺の穴に遺棄されるのが半ば習いとされていて、その霊はむなしくさ迷うと言われている。医師は、解剖後、丁重の葬儀を行い、戒名もつけてしかるべき寺の墓地に埋葬し、墓も立ててやる、」と説き、本人も了解した。

また、

「遺体を見つめる医師たちは、みきの片腕に思いがけぬものがあるのに視線を据えた。それは刺青で、梅の花が数輪ついた枝に短冊が少しひるがえるようにむすばれている。短冊には男の名の下に『・・・さま命』と記されている。」
これが、この本題『梅の刺青』の所以でしょう。

 

解剖後、埋葬されたお寺が、今日お参りした「一向宗東本願寺末寺 念速寺」であり、戒名は「釈妙倖信女」で、約束通り厚く葬られたようですが、下の写真にもあるように、「美畿女墓」とは書いてありましたが、正式な戒名は見当たりませんでした。

序でに書き加えますと、このお寺に祀られている墓の戒名には「釈妙・・・」が多いように見ましたが・・・。

 

次は、伝通院に向かいました。
結構の登りのきつい善光寺坂を上りきったところに、けばけばし過ぎる感じの豪壮な寺がありました。初めてのお詣りです。

 

この墓地には、お大の方をはじめ、千姫や三代将軍正室孝子の方等、徳川家ゆかりの子女たちが埋葬されています。

徳川家康の生母「於大の墓」が区指定史跡として祀られていました。

法名は

『伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼』(でんつういんでんようよこうがくちこうだいぜんじょうに)

 


久しぶりの鎌倉散歩

2012-08-20 | 散策

久しぶりに鎌倉散歩へ

 

昔のランニング仲間に招かれて鎌倉に行きました。

例によって、どうせ行くなら鎌倉散歩や末の子の住まい訪問をもと、盛りだくさんになり、2:15 新宿発の湘南ライナー逗子行で向かいました。

 

今日は天候不順で、東京は朝とお昼過ぎには雷雨があったようです。
私は、朝の雷雨は経験しましたが、その後は天気の良い鎌倉で過ごしました。

 

先ず始めに、極楽寺へ
静かなたたずまいのお寺です。この名前からまずはお参りを。

説明板によると

「・・・極楽寺は正元元年(1259)に深沢に創建され、後に開基となる北条重時が現在地に移転したといわれています。
元寇に際しては、幕府の命により異国降伏の祈祷を行い、また、鎌倉幕府滅亡後も勅命により国家安泰を祈る勅願所としての寺格を保ちました。
かっての寺域は広大で、中心の七堂伽藍を囲むように多くに子院、そして療病院などの病院施設もあったことが当寺に伝わる絵図からわかります。」
そのうち、絵図を調べておきます。

 

境内には素晴らしい百日紅の巨木が、花を咲かせていました。

 

そこから長谷観音様へ向かう途中に、アジサイが見事な成就院がありました。

明月院のアジサイもいいですが、ここのアジサイは誠に見応えがあります。
鎌倉の海を背景に、参道一杯に延々と咲き乱れます。今は終わって観れませんが・・・。
 

 

長谷駅の近くに住むわが子の住まいを訪ねたのち、長谷観音様にお参りしました。

入り口前に、素晴らしい椨(タブ)の巨木がありましたので写真に納めました。
近くの女性も一緒に撮りましたが、縁もゆかりもない人たちです・・・。 

 

そして、何時ものように説明板を紹介します。

「本尊の十一面観音像は日本最大級の木造の仏像です。
寺伝によると、開山の徳道上人が大和国(奈良県)初瀬の山中で見つけた樟(くすのき)の巨大な霊木から、二体の観音像がつくられました。
一体は大和長谷寺の観音像となり、残る一体が衆生済度の願いが込められ海に流されたといいます。
その後、三浦半島の長井浦(現在の初声あたり)に流れ着いた観音像を遷し、建立されたのが長谷寺です。

境内の見晴台からは鎌倉の海が一望でき、また、二千株を超えるアジサイをはじめ、四季折々の花木を楽しめます。」

 

 

今日は、眺望散策路と弁天窟を特に丁寧に見て回りました。

 

 

その後、大仏を外からお参りし、深沢の飲み屋まで歩きました。

結構距離がありました。以前は仲間と走っていた道ですが・・・。

 

そして、6:00頃から懐かしい連中たち9人で一杯やりながら、ワイワイ・・・

 


孫たちと浅草へ

2012-08-19 | 散策

孫たち2人と浅草へ

どうせなら、船で隅田川を遡り、浅草の仲見世で買い物をし、神谷バーで食事を楽しむことにしました。

 

さて、9:00に家を出発、
まずは汐留駅から浜離宮恩賜庭園に行きました。
中の御門橋から入りました。 
ここは、東京湾の海水を引き入れた潮入り庭園です。

ここのパンフの説明を引用すると、

「・・・江戸時代には、江戸城の『出城』としての機能を果たしていた徳川将軍家の庭園です。
承応3(1654)年、徳川将軍家の鷹狩場に、四代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重が、海を埋め立てて
甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てました。
その後、綱重の子、綱豊(家宣)が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、
『浜御殿』と呼ばれるようになりました。
・・・明治維新ののちは皇室の離宮となり、名称を『浜離宮』と変えました。
関東大震災や戦災によって、御茶屋など数々の建造物や樹木が損傷し、往時の面影はなくなりましたが、
昭和20(1945)年、東京都に下賜され公開へ・・・」

という経過をたどっています。

国の特別名勝及びと特別史跡に指定されています。

 

 

しかし、暑い暑い日でした。
ゆっくり逍遥というわけにもいかず、早々と水上バスの乗り場に向かいました。

我々の乗ったのは「隅田川ライン」で浜離宮から日の出桟橋を経由して浅草までの45Kmの船旅です。
東京スカイツリーに向かって真っすぐ北へ向かうわけで、孫たちも喜びました。
船も天蓋が透明になっており、快適な45分でした。

  

中央のビルはアサヒビール本社です。屋上の金色の雲のような形が有名です。ウンコビルとか!

 

さて、そこから神谷バーの前を通り、雷門から仲見世を散策しました。
いつものことですが人が多いところです。特に外国人が多いですね。

 

途中で孫たちの両親あてのお土産に『人形焼』を買い、お腹もすいたので神谷バーへ駆け込みました。
私は特大ジョッキーでご満悦。1.1ℓ入りですからね!