地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

岩戸山から十国峠へ山歩きの予定

2011-01-31 | 日記
岩戸山(734m)から十国峠(774m)へ山歩きの予定


今日は、幹事さんの登山計画に基づいて、その下調べをしました。

大体の場所は下の図の通りです。


赤線が登山ルートで、黒線はケーブルとバス路線です。

計画書によると、
「湯河原からスタートして相模湾、駿河湾などの光る海を眺めながら・・・」
さて、その相模湾の眺めは


だけど、駿河湾は見えるのかな~?

「富士山、箱根連山などの好展望の岩戸山に登り、・・・」
箱根の山々の眺めは



そして、遠く富士の眺めは


「十国峠(伊豆の国、駿河の国、遠江の国、甲斐の国、信濃の国、武蔵の国、上総の国、下総の国、安房の国、相模の国の10カ国が見渡せるそうですが・・・?)まで歩きます。」

範囲が広すぎて、データ量が多くなり、展望図は上手く観れませんでした。
未だ未熟ですから・・・

「下山後は、熱海梅園で梅の花見・・・」とか

正しくは、実際に歩いてからブログします。

快晴を期待しています。

鳩森稲荷と善光寺を巡るジョギングコース

2011-01-30 | 日記
鳩森稲荷と善光寺を巡るジョギングコースを開発

いつもの、代々木八幡から代々木公園のコースに、鳩森稲荷(はとのもり・・・)と善光寺を加えたコースを開発しました。

ただし、代々木公園内は周回せず通過するのみ。
距離は7~8Kmでしょうか。余り距離には関心ありませんが・・・

そのコースは次の地図の赤線です。


鳩森稲荷は初めて行ったように思います。
随分古い歴史を持ったお稲荷さんのようで、周りの樹木は樹齢1000年前後はあるでしょうか・・・。
こんもりした、しばし憩いの一郭です。
千駄ヶ谷一帯の総鎮守として、近くの人々から慕われていたようです。



 そして、この境内には富士塚が大切に管理されており、その絵図面も建ててありました。




私も、登ってみました。高さ6mとか。
高齢者には都合よく富士の浅間神社詣でが出来るようです。

このほか敷地内には、お神輿のお休み所(8箇所もありました)、大変立派な能舞台、大山名人の将棋記念堂等が鎮座していました。
下の写真は能舞台です。



そこから神宮外苑、青山通と進み、青山通の善光寺にお参りしました。

善光寺の名前を持つお寺は全国津々浦々、沢山あるようですが、ここのお寺は厳然とした佇まいで私は大好きです。
「青山善光寺」と言うそうです。
信州善光寺の別院で、浄土宗の尼寺だそうです。

青山通から原宿に抜ける近道になるようで、学生さんや通勤の人たちが、正しく拝殿の道を90度に廻って急ぎ足で素通りされていました。(そうしないと砂利道を横切ることになりますので)
中には、黙祷されている人もいましたが・・・


境内には蘭学者・高野長英の碑が立っていました。
吉村 昭 著の「長英逃亡記」には、この寺にもしばし隠れていたと書かれていました。
もう暫く逃げおおせていたら明治維新で助かっていたでしょうに。
鳥居耀蔵らがひつこく広く探索していたようです。










「ふるさと澁谷の昔がたり」を見て

2011-01-28 | 日記
「ふるさと澁谷の昔がたり」の舞台(地図)をみて

先日、代々木公園を米軍が占拠していた頃のワシントンハイツを知るため、澁谷区の「郷土博物館」を訪ねましたが、カメラにバッテリーを入れ忘れていてコピーできず、目的を変え、ゆっくり全体をみて廻りました。

そして、発見したのが下の地図です。
陸地測量部発行の明治42年(1909年)の一万分一地形図です。

(原本はモノクロ。着色は私の手慰み)

先ずこの地図での発見一号は、
我が家のマンションが井村病院の跡地に建ったことです。
規模の大きい病院のようですが・・・?

そして次ぎは、現在の消防学校が阪川乳牛場跡地に出来たことです。

年寄りたちの語るこの土地の昔語りでは
「畑ばかりで、何にもないところ・・・」という記憶ばかりでした。

地図を眺めてる内に、現地を確かめたく、ジットしておれなくなって、現地を訪ねて歩きました。


先ず、近くの玉川上水緑道に建っている説明板(渋谷区教育委員会)ですが
「・・・この玉川上水は、承応二(1653)年に庄右衛門,清右衛門兄弟の手によって着工されました。取水口は多摩川の羽村で、そこから実に43Km先の四谷大木戸まで掘割を造り、上水を引くという大工事でした。上水は同年11月に四谷大木戸まで完成し、翌年6月には江戸市内まで完成して通水しました。(約2年間の工事?)(中略)
この上水は、江戸市民の飲料水として使われましたが、その余水は田畑の灌漑用水にも使われました。(後略)」

現在は暗渠になり、「玉川上水緑道」として散歩などに親しまれています。
下は、この説明板のすぐ横の緑道の写真です。
私も毎朝のジョギングに使わせていただいています。



その後、水質汚染により、明治新政府は、玉川上水路を使用しながら、代田橋付近から淀橋浄水場まで新たに「新水路」を建設しました。
明治31(1898)年12月に完成し、神田、日本橋方面にも給水を開始しました。

真直ぐな水路です。淀橋から代田橋まで約3.5Km,その間に16個の橋をかけ通行の便を図ったようです。
近くの六号商店街は今でも繁盛しています。
六号橋は痕跡もなくなっていましたが、「六号坂上公園」が、その名残をとどめていました。


昭和40(1965)年、武蔵水路が完成し、水不足解消の切札として利根川の水が東京へ導かれました。
そして、淀橋浄水場の役目も終わり、東村山浄水場へと移りました。



玉川上水緑道にも、「玉川上水」の頃の橋が各所に残っています。
近くの「ニ字橋」(ふたあざ橋)、初台駅横の「改正橋」(かいせい橋)、・・・

事のついでに、この地図の中の主な場所を拾ってみると、

○、こそだて地蔵:
甲州街道沿いの陸橋横に、窮屈そうに建っていました。
そこの説明板(渋谷区教育委員会)によると
「・・・地蔵は苦難のときに身代わりに現れるとか、冥界と現実界との境にあって死後救ってくれるとか、子供の安全を守ってくれるとか、・・・。この地蔵は江戸時代の貞亨三年(1686)の造立で、・・・甲州街道の道幅を拡げるとき、ここにあった大ケヤキのあとに移され、大勢の人々の浄財によって立派なお堂が造られました。」
狭いところですが、立派な鉄筋の建物に収まっていました。


○、幡代小学校:
ジョギングの途中にあります。百年以上の歴史ある小学校とか。ところが、この明治42年発行の地図には掲載されていません。
実は、このたびの調査でわかったのですが、元は今の八千代銀行初台支店のところにあったようです。

そこにも渋谷区教育委員会の説明板がありましたので引用してみますと、
「白水小学校跡:明治12年(1879)、水上忠蔵がこの場所に白水分校という私立の小学校を設立しました。・・・明治15年(1882)2月、白水分校を代々木・幡ヶ谷連合の村立として幡代小学校と改称し,同18年(1885)11月、西側に隣接する場所に新校舎を建築して、移転をしました。」
下が八千代銀行横の説明板の写真です。



○、清岸寺:
この地図は新中野通りが出来る前なので、清岸寺の場所が解りにくく、ずいぶん探し回りました。中野通りに面した由緒ある立派な浄土宗のお寺でした。
なお、ここの説明板に、「幡ヶ谷」は「畑ケ谷」ともかいた。とありましたが納得!?


だいぶ暗くなってきたので、帰りを急いでいましたら、中野通りを甲州街道を渡ったところに「牛ケ窪地蔵」と銘打った「道供養碑」がひっそりと鎮座していました。

○、牛窪地蔵:
渋谷区教育委員会の説明板によると
「・・・道路自体を供養して報恩感謝の念を捧げることにより、交通安全を守ろうとする全国でも珍しい供養碑です。・・・尚、甲州街道に中野通りが交わるこのあたりは、地形が少し低くなっていて、江戸時代から牛ケ窪と呼ばれており、幡ヶ谷地域の農民が雨乞行事を行う場所でした。」



さらには、火葬場→ 幡ヶ谷葬祭場、八幡神社→ 代々木八幡、福泉寺、代々木練兵場→ 代々木公園、春の小川・・・等等、書きたいが次回にしましょう。

先ずはこの辺で・・・









羽根木公園へジョギング

2011-01-25 | 日記
世田谷区の羽根木公園(はねぎこうえん)へジョギングしました。

いつものコースでは飽き足らなくなり、これからはドンドン新しいコースを設定して走ろうと言うことから、その手始めに羽根木公園へ梅を見に行くことになりました。
そのコースは次の地図の通りです。


距離は片道約 2Km. 園内のコース(一周600m)を何回かジョギングして帰るとトータルで約5~6Kmにはなるでしょう。

むかし六郎次という野鍛冶(刀や鎧でなく、農具や包丁などを作っていた。)が住んでいて、この一帯を「六郎次山」と呼ばれていたそうですが、のちに、根津財閥の所有となり、「根津山」と呼ばれていたそうです。

「○○山」というだけに、結構な勾配のあるこんもりした小山のような公園です。


現在は世田谷区の「区立羽根木公園」になっています。


梅林は南側の斜面にあり、650本の梅が植えられていました。未だ一部しか咲いていませんでしたが、その、まばらに咲いた風情がまたいいものですね~!





2月5日から「せたがや梅まつり」が始まるそうです。



藤村の「夜明け前」を読みながら

2011-01-23 | 日記

島崎藤村の「夜明け前」を暇にまかせ、のんびり読み返しています。


「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。」

の書き出しで始まっています。

若かりし頃、読んだ時と違い、急ぐでもなく、暇に任せて、の~んびり読んでいます。
作者の云わんとしているところも、よりよく伝わってきます。

この物語の主人公・青木半蔵の家はその宿役人の役=助郷(すけごう)を代々おおせつかっていました。

その仕事は、旅人たちを宿から宿へ継立(つぎたて=バトンリレー)し、人足や馬の世話から荷物の扱いまでを取り仕切るものだそうです。
大変な山坂の道なので、その維持管理も大変な苦労だったろうと思います。

時代と共に、その道筋は下へ下へ、すなわち川沿いへ降りてきたそうです。
道路や橋は流されやすいでしょうが、反対に安心して歩ける道だったのでしょう。

これは助郷(すけごう)という公役で、徳川政府の方針としては、宿駅付近の郷村にある百姓は皆これに従わなければならなかったそうです。
勿論、多少の口銭にはなっていたようですが・・・

彼の本拠地の馬込宿は、木曾十一宿の一つで、西からの木曾路への最初の入り口、美濃国境に近いところです。十曲峠(じっきょく峠)を越えたところの宿です。

その辺りの地図を示すと、


木曽路には十一の宿場があり、
西から
馬籠宿、妻籠宿、三留野宿(みどの宿)、野尻宿 の下四宿
須原宿、上松宿(あげまつ宿)、福島宿 の中三宿
 中でも、ここの福島宿は木曾路の総括的な役割を持った宿でした。
そして、宮ノ越宿、薮原宿、奈良井宿、贄川宿(にえかわ宿)の上四宿
からなっていました。総距離約22里余(約88Km)

上四宿の街道の経路断面図は、現在ある旧道でも次のように険しいものです。
まるで登山道です。


参勤交代や日光例幣使の行列、尾張候崩御を秘めた遺体の搬送、それに、和宮降嫁の行列・・・、これらの通行の手助けは大変なもののようでした。

尾張候の遺体搬送には1670人もの行列だったとか。「前代未聞の・・・」と書いてありました。

また、和宮降嫁の際は
「この道筋に当たる宿々村々は非情な光栄・・・」としながらも、
「彼らは一度は恐縮し一度は当惑した。」そうです。
 
未だ4巻のうちの1巻を読んだばかりなので、これからが面白い展開になるのでしょう。
まあ、ぼつぼつです・・・




箱根北部の矢倉岳登山

2011-01-17 | 日記
箱根北部の矢倉岳(870m)に行って来ました。

参加者総勢18人、内・女性8人。賑やかないい山のぼりでした。

天気予報では、日本全国は西高東低の大変な寒気団に覆われ、例年以上の寒さ到来と報道されていましたが、幸い関東南部だけは「晴れのち曇り」で、どうにか雪もなく、ほぼ予定の登山が出来ました。

それでも、気温 0 度以下、結構冷たい風も吹き、山頂付近には少々の残雪も見られ、かつ路も凍りついていました。幸い(?)アイゼンは使わないですみましたが・・・
(実は、前々日から、手袋をしてアイゼン装着の練習をしてきたのですが、残念!)

さて、このたびの目的地は次の地域です。


この矢倉岳は、登山計画書にもありましたが、「静岡県に近く、標高は低いが、富士山の裾野から頂上まで望める釣鐘を伏せたような特異な形の山。『櫓』に似た山容から名前がついたと言われる。・・・」と言う山で、小田急の電車の車窓からも、バスの窓からも、下の写真のような釣鐘状の特異な山容が眺められました。


登山経路とその経路断面図は次の通りです。




矢倉沢バス停から矢倉岳まではほぼ一本調子のなだらかな上り坂。
所要時間1時間半。その間には下り道がないのです。

山頂には予定通りお昼ごろつきました。

本来なら素晴らしい雪の富士山が見れるのですが、生憎と山頂に雲がかかり、全貌は楽しめませんでした。


その山頂で、寒さに震えながら昼食30分。

帰りは、最初降って山伏平まで登ったら、下り坂一本。

山伏平から万葉公園を経て足柄峠、足柄関所跡を一瞥して足柄古道へ出ました。

下は途中、振り返ってみた矢倉岳の全容です。綺麗なおにぎりのような山です。



この古道は奈良・平安時代の箱根越えの道で、足柄峠を越える御殿場廻りの路です。
主要地方道とジグザク交差しながらの歩きやすい路でした。


途中にあった説明板によると、
経路は 
御殿場~足柄峠~坂本(関本)~小総(国府津)~箕輪(伊勢原)~武蔵
だそうです。
やや現在の国道246号線に近い道のりですね。

その後、大分遠回りになるのを嫌ったためでしょうか、鎌倉・室町時代には箱根峠越えの湯坂路になり、江戸時代に入って旧東海道(今の杉並木道)に変わっています。

3時頃、目的のバス停・地蔵堂へ着きました。

ここの“湯うどん”は有名ですが、立込んでもいたのでバス停近くのおでんやで熱燗一杯いただきました。これで、我が胃袋も一段落。

後は小田急の「足柄古道・万葉ハイキングパス」券(2,110円)でゆっくり新宿へ・・・。

今日も、いい日いい一日でした。めでたし、めでたし。




つれづれなるままに・・・時には読書

2011-01-13 | 日記
徒然草の「北枕」について

徒然草の133段に「枕」の向きについて書いた記事があって、面白く読みました。

先ず、その記事を書き写すと

「夜の御殿は、東御枕なり。大方、東を枕として陽気を愛くべき故に、孔子も東首し給えり。寝殿のしつらい、或は南枕、常の事なり。白河院は、北首に御寝なりけり。『北は忌む事なり。また、伊勢は南なり。大神宮の御方を御跡(足のこと)にさせ給う事いかが』と、人申しけり。ただし、大神宮の遥拝は、巽(東南の方向)に向かわせ給う。南にあらず。」
(岩波文庫 西尾実、安良岡康作 校注 より。実際には多くのルビがついています。)

暇に任せ、帝国書院発行の「新詳高等地図」で調べてみると、次のように伊勢の方角に足を向けて寝ておられたわけではないようです。


しかし、北枕とは?

京都の地図を拝見すると、殆どの神社仏閣は北を上にし、南向きです。
とすると、白河院のように、北枕にするほうが部屋での納まりがいいのかも・・・?


なお、余談ですが、私のような年金暮らしの老人にとって、徒然草のような、古文だからスイスイ読めなくって、かつ短編だから飽きることもなく、の~びり読める本はいいですね。
お金ねもかからず・・・お勧めします。

江戸六地蔵巡りのサイクリング

2011-01-12 | 日記
「江戸六地蔵を巡る」サイクリングに参加して

TCA(東京サイクリング協会)主催の『2011年初詣ラン』の「江戸六地蔵を巡る」イベントに友人と参加しました。
参加者は総勢40人程度、我々の走行距離は家から出発地点の品川駅東口までの距離をいれ約50Km? 

大変いい天気でいい気分のサイクリングでした。

そのコースのあらましは下の図のとおりです。


案内書によると
「宝永五年(1708)、江戸深川の僧、地蔵坊正元が15歳のときかかった病が地蔵祈祷によって治療(癒?)したため建立志願を志し、浄財が集められ(72,000名余からとか)、座高2.75mの青銅の地蔵菩薩坐像(造立時には渡金されていた由)が、江戸・神田鍋町の鋳物師・太田駿河守正義によって鋳造され江戸の出入り口となる六つの街道筋に安置されました・・・」

現在は第六番の永代寺のみ廃仏毀釈で廃寺となり,地蔵菩薩像が行方不明になっていますが、ほかは曲折を経て残っていました。

それを、今日は訪ねて走ったわけです。

第一番は、旧東海道筋の品川宿にある品川寺(ほんせんじ)。

後で、全部の地蔵さんの写真を見比べてわかったのですが、ここの地蔵さんだけ笠を被っていません。何故でしょうか?


多分、いい顔に出来上がったので、笠で隠したくなかったのでしょうか?
いい顔かたちをしておられます。

次に訪れたのは、高輪、白金、有栖川記念公園、青山霊園、神宮外苑を経て新宿御苑横の第三番の太宗寺です。


ずいぶん走りました。東京の街は平坦そうに見えて実にアップダウンの激しい街で、ギアチェンジをフル活用しながら、約15Kmを走りました。

それにしても、このコースを企画した人は、東京を良く知っていますね。細い旧道を経巡って案内してくれていました。感謝感激です。
多分、この人は暗闇でも路に迷うことはないでしょう。

太宗寺は甲州街道の一寸奥にある立派な寺でした。

新宿は良く知ってるつもりでしたが、このお寺には初めてお目にかかりました。

この近くは内藤宿のあったところで、昔、賑わった辺りです。

ここで昼食。近くのラーメン屋で一休み、体も温かまりいい気分。

さて、そこから早稲田大学、椿山荘、護国寺を経て、巣鴨の眞性寺・第四番に着きました。

途中の椿山荘横の講談社社主・野間邸横の石段は初めて登りましたが、まつすくの長い坂路(石段)で、おそらく屋敷内を散歩するのも大変な骨折りだったろうと、金持ちの苦労をお察ししましたが・・・

さて、このお寺は旧中山道の出入り口にあたり、旅の安全を祈願するため古くから賑わっていたそうです。
今日も参拝者が多く、線香の煙、“もうもう”でした。


そして、六義園、千駄木、谷中霊園横を通り、永代寺に代わり新六番として祀られた浄明寺にお参りしました。

ここのお地蔵さんの笠は蓮の葉のような笠で平たく、やや軽々しいいでたちでした。


そこから、吉原界隈を経巡り、第二番の東禅寺につきました。

奥州街道の守り地蔵さんです。

ここには、お地蔵さんの直ぐ横に銀座四丁目にある“木村屋のあんぱん”で有名な木村安兵衛夫婦像が祭られていました。


少し離れすぎた夫婦像のようでしたが・・・?

そして、ここから隅田川に架かる桜橋を渡り、墨田区役所横から三つ目通りを真直ぐ3Km余り南下して第五番の霊(巌)岸寺にたどり着きました。
たどり着きましたと言うぐらい疲れてきました。


梅が美しく咲き始めていました。

さあ、最後の力を振り絞って深川公園の第六番永代寺に着きました。
フィニッシュです。

ただし、先にも書いたように、ここには地蔵さんはいません。

廃仏毀釈のあおりで行方不明になっています。多分溶かされたのでしょう。
祟りはなかったのでしょうか?

そして、一本締めをして、仲間にご挨拶しながら、都営地下鉄大江戸線で都庁前まで帰りました。

今日は、外で飲まないで家に帰って、独り静かに一杯!!

幹事さんたちに、感謝!感謝!!









三浦富士ハイキング

2011-01-07 | 日記
三浦富士ハイキングへ行ってきました。

この冬一番の寒さでしたが、空は快晴、見晴らしも良く快適なハイキングでした。

スケジュール通り京浜急行で津久井浜駅に着き、ここから今日のハイキング開始。
コース図は以下の通りです。


先ずは、今日の安全を祈願して、駅前の浅間神社におまいりしました。
ここは富士山にある浅間神社を勧請したもので、今日登る三浦富士にはここの奥宮ガ祭られています。

ここからビニールハウスの群がるイチゴ畑をのんびり歩きながら、先ずは東光寺に着きました。
開基は僧・行基とか・・・古くからの由緒あるお寺のようです。
ここで、我々は一発100円の鐘を鳴らしました。
まともに撞くとなかなかいい音がしました。

さて、そこからややハイキングらしい山道に入ります。
途中のお地蔵さんが清々しい顔をしておられ、私の帽子を被せ“ハイ!ポーズ”


やや、登山道らしい山道を登り三浦富士(184m)に着きました。
先にも述べた浅間神社奥宮が鎮座しておられました。


ここからの三浦半島先端部、太平洋、大島、伊豆半島、房総半島等が確り見えました。
残念ながら本家の富士山はもやっていて見れませんでしたが・・・


一休みの後、砲台山に向かいました。
その間は勾配もなだらかで道幅も広く、全くの散歩道でした。
約30分の後、見晴台に付きました。ここからの展望も素晴らしかったです。


ここからやや上に寄り道をして砲台跡に着きました。
想像していたより大きく、立派なものでした。
説明板がないのが残念ですが、海軍が造った高角砲跡だそうです。


今は、海上保安庁の受信所になっており、大きなパラボラアンテナが建っています。

ここから、山路を約30分、アップダウンして武山に着きました。
不動明王が祭ってあります。
ここでも、我々は100円一発の鐘を撞きました。
いい音がして、いい気分でした。
直ぐ横の展望台でも、ゆっくり360度の展望を楽しみました。

特に、北側に見える「YRP」は、見ごたえがありました。
はじめ、何だろうと思い、帰って調べたら、「横須賀リサーチパーク」の略だそうです。

㈱アルファシステムの建物だそうで、
「公的な研究開発機関や大学のサテライト研究室および国内外のリーディング企業等が集積する都市近郊型のリサーチパーク」だそうです。
所謂こうゆう研究機関に場所を提供している大家さん企業のようです。
面白い企業が出来たものです。

はじめ、駅の「YRP野比」とは、妙な駅があるものだな~と、不思議に思っていましたが・・・

さて、そこから帰途に着きました。殆どが舗装道路です。
途中、観光農園に立寄りました。
ビニールハウスでのイチゴ刈も面白いかも。
我々は、早めに切り上げて、次の「風呂」と「一杯」へ急ぎました。

津久井浜駅から海岸に出て、三浦海岸駅まで約30分歩きました。
潮風に吹かれながら、先を急ぎ、マホロバマインズ三浦で日帰り温泉を堪能し、駅前の寿司屋「海鮮」で美味しい握りずしをたらふく食べながら三杯吟醸酒を楽しみました。(酒は私だけ!)

今日も、いい日、いい一日でした!











2011年 初ハイキング・三浦富士

2011-01-04 | 日記
三浦富士ハイキングの下見計画


新年を迎え、先ず温かいだろうと思う三浦半島へのハイキングを計画しています。


太平洋を一望でき、三浦大根畑やミカン畑の広がる、うららかな三浦半島は、寒いこの時期、最適なハイキングコースではないかと思っています。
そして、帰りは日帰り温泉で一風呂浴び、お屠蘇を楽しんで、京浜急行で帰る予定です。
そのコース図は


歩行時間はゆっくり歩いて約3時間半でしょうか、距離は約12Km程度です。

出来れば、帰り道の津久井浜駅から三浦海岸駅までの約2kmは、海岸沿いをジョギングしたいと思っていますが・・・
装備や手荷物の問題でどうなることやら?

今回予定した三浦富士は、富士山が良く見えるばかりでなく、富士山に良く似た姿の山だからだそうです。呼び名も「フジヤマ」と一寸変えています。
標高は183m,なだらかな道のりです。

この辺りの人々は、「富士登山には一寸しんどいな~!」と言う人たちが富士講を組んでお参いりしていたようです。その中心が浅間神社で、津久井浜駅近くの本社にお参りしてから、三浦富士の奥社にも顔を出す予定です。

その先へ、尾根つたいに約1km行くと砲台山(204m)があります。
ここは、第二次世界大戦時の砲台跡で、それだけに見通しも良いはずですが・・・?

さらにその先に武山(200m)があります。その一寸先の展望台がこの辺りでは一番見晴らしのいいところだそうです。

そこから降って、観光農園を覗き、美味しそうな果物があれば土産に買って、元の津久井浜駅に帰ります。

ここから、京浜急行で帰ってもいいのですが、我々ランナーは次ぎの三浦海岸駅までの2Kmをジョギングするつもりです。
海岸沿いに太平洋の潮風を愛でながら走ります。
いいお天気を祈ります。

そして、本日の終点「マホロバ・マインズ三浦」の日帰り温泉の部へ駆け込むか予定です。

ここは、温泉大浴場もあり、本格的なホテル「オーシャン・リゾート・ホテル」ですが、日帰り温泉も兼ねているようです。入浴料500円(タオルなし)。

こんな予定です。