地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

草津(本)白根山(2171m)へのハイキング

2013-07-29 | ハイキング 里山歩き

草津(本)白根山(2171m)へのハイキング

 

恒例の地元山歩会主催のハイキングへ行ってきました。

朝、7時集合。28人という大勢で、貸切バスで新宿駅前を出発しました。

先ずは、前橋、沼田と高速で進み、八ツ場ダム(計画中)経由草津温泉、白根レストハウスへと渋滞もなくスムーズに進みました。

 

そこから、準備運動をし、三班に分かれて出発しましたが、間もなく昼飯になりました。

下の写真は、昼食を摂ったあたりの緑豊かな光景です。

この辺は、スキー場のメッカでもあります。(私は冬スポーツは全くダメ)

 

今日のコース図は下の通りです。

 

風の向きで硫黄の匂いを嗅かされる噴煙立ち込める活火山地帯です。

 

先ず、やや平坦な道を本白根山頂に向かって進みました。

どこで間違ったか、本来のコースとは逆に進んでいました。

途中、鏡池の見える所に着き、希望者だけで湖岸に下りました。

鏡池だけに、顔に自信のある女性だけ来てくださいと誰かがのたまいましたが、

結果はほとんどの女性がついてきていました。

女性はかくあるべきだと思います。

 

そして、火口の広がる本白根山本来の広場に出ました。

直径約350mもある火口です。雄大です。私の気に入った光景です。

 設定:カメラ:PRO、レンズ:10mm、風景:花崗岩の山、高さ強調1.5倍、仰角-16度・・・

写真で見ると


周囲には紅いコマクサの花がたくさん咲いていました。別名「高嶺の花」だとか。

このコマクサは、他の植物も生育しにくいような厳しい環境に育つ「高山植物の女王」です。
50~100cm位深く根をはっているようです。

 

そして、余裕をもって元の白根レストハウスに着きました。

気分が乗っていたので、そのまま湯釜へ上りました。

以前、マラソンの連中たちと走って登ったことがあります。

従って、年を忘れて、なめて登りましたが、遂に、途中ちょっと立ち止まって、ようやうにして頂上にたどり着きました。

やはり、歳です。

 

そして、すべての日程を終え、バスで帰路に着きました。

 

最近の不安定な天気にも悩まされず、時折さわやかな風にさえも恵まれた好天気でした。

途中、バスの車窓から、虹を何回も見る事が出来ました。
路面は濡れていましたが、我々は全く雨に逢いませんでした。

今日は、長距離バスなので、風呂も宴会も止めて、一路東京を目指しました。
しかし、バスの中では大分盛り上がっていたようです。(私は自重?) 

 

幹事さん、大変気苦労されたことでしょう。ありがとうございました。

 

この本白根山は日本百名山にも属しておりますので、また後日、再会しましょう。


日本百名山 12、八幡平(1614m)

2013-07-25 | 日本百名山

日本百名山 12、八幡平(1614m)

 

八幡平は岩手県と秋田県にまたがる高原状の山の総称で、最高点は1614mの二等三角点です。

特別に峰と称するほど際立ったものはなく、茶臼岳(1578m)、安比岳(1493m)、畚(もっこ)岳(1577m)、杣角(そまずの)山(1495m)などの山の連なる高原です。

赤線は通常の登山ルートで、筆者のルートはこの本ではわかりません。

その通常ルートの経路断面図です。

 

「・・・八幡平の真価は、やはり高原逍遥にあるだろう。
一枚の大きな平坦の原ではなく、緩い斜面をもった高低のある高原で、気持ちのいい岱(たい)を一つ横切るとみごとな原始林へ入ったり、一つの丘を超すと思いがけなく沼があったりして、その変化のある風景が面白い。」

「おそらく八幡平が有名になり始めたのは奇湯蒸の湯(ふけのゆ)からではなかろうか。
これは人間の浸たる湯ではなく、人間を蒸(ふ)かす湯であった。
浴舎は山小舎のように中央に通路があって、両側の土間の上にムシロを敷き、浴衣一枚で横になっていると、下から湧いてくる空噴(からふき)に蒸されるのである。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用)

 今は、そうした蒸かす湯はなく、オンドル状のものが一つ残ってるようです。

下のカシバードは見返峠の上空から撮影したものです。

設定:カメラ:PRO、レンズ:28mm、風景:地図と合成、高さ強調1.5倍、仰角-16度・・・

八幡平の山頂(1614m)は普通の山のように突出していません。
あまりなだらかなので岩手県が土盛をしたそうですが、それも崩れやすく、今では囲いをして展望台を作ったようです。

 

私にも登れそうですから、腰が少し良くなったら、行ってみたいですな~!


榎本武揚の晩年を訪ねて徘徊

2013-07-23 | 散策

榎本武揚の晩年を訪ねて徘徊

 

何故、榎本武揚か、それは私どもの会社名が『武揚堂』だからです。

今日は、その会社のOBたちと、向島界隈を散歩しました。

散策のコース図は下の図の通りです。

赤の破線が墨田区内循環バス路線です。そして緑実線が散策のルートです。


5名の小グループで、押上駅から出発しました。
東京スカイツリーが出来た為か、周囲は極めてよく整備されていました。

 

榎本武揚像入口バス停からすこー し歩いて立像の前に行きました。

晩年はこのあたりの墨堤を馬に乗り、悠々自適の生活をしていたようです。

 

そして、再度バスで地蔵坂まで行き、白髭神社にお詣りしました。

地蔵坂には『旧墨堤の道』の説明板(区教育委員会)が建ていました。

このあたりが櫻の名所の中心で、榎本武揚も馬で逍遥していた土地のようです。

当時の写真が掲示板に添えてありましたので掲載します。

 

 

そして、同行の人の勧めで狭い路地に進みました。鳩の街通りだそうです。
昔、赤線の在った地域だそうです。
狭い道が延々と続いています。戦災に逢わず残ったからだそうです。

途中に、吉川英治の旧宅(現在は保育園)がありました。20歳の頃のわびしい佇まい跡だそうです。

 

そして、途中から道を隅田川沿いにそれたら、目の前に『榎本武揚旧居跡』と記した掲示板に出くわせました。
今日の我々が来るのを待っていたかのように。

 

その掲示板を拝借すると

「父は将軍側近で天文方として伊能忠敬にも師事した知識人であった。
武揚も幼いころから学才に長け、昌平黌で儒学を、江川太郎左衛門から蘭語、中濱満次郎から英語をそれぞれ学び、恵まれた環境で洋学の素養を身に着けた。
19歳で函館奉行の従者として蝦夷地に赴き、樺太探検に参加する。
安政3(1856)年には長崎海軍伝習所に学び、蘭学や造船学、航海術などを身につけた。
文久2(1862)年に幕府留学生としてオランダに渡って、船舶に関する知識をさらに深める一方、国際法や軍学を深めた。
慶応3(1867)年、幕府が発注した軍艦『開陽』に乗艦して帰国、翌4年に海軍副総裁に任ぜられた。

戊辰戦争では徹底抗戦を唱えたが、五稜郭で降伏、3年間投獄された。
この函館戦争で敵将ながらその非凡の才に感服した黒田清隆の擁護を受け、北海道開拓使に出仕。
明治7(1874)年に駐露特命全権公使となり、樺太・千島交換条約を締結。海軍卿、駐清公使を経て文部大臣、外務大臣などを歴任した。

明治38(1905)年から、73歳で没する同41年までこの地で暮らし、墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたという。」

 

この掲示に「父は将軍側近で天文方として伊能忠敬にも師事した知識人であった。…」とあるように、榎本武揚の血筋には地図とのかかわりが感じられます。

また、晩年の12年間は、既に「武揚堂」(明治30年創業)が出来ていたことと、かかわりがないとは思えません。
名前の拝借は公認されていたようです。

 

さらには、昭和16年陸軍省検閲済の『戦陣訓』の奥付(下の写真参照)にも、「発行所 株式会社 武揚堂」と明示してあることからも、榎本武揚との関係が歴然としているように思えます。

 

 

「・・・晩年は向島に住み、墨堤を馬に乗って散歩する等悠々自適の生活を楽しみ、同四十一年に七十三歳で死去しました。

隅田公園内の『墨堤植櫻之碑』や多門寺の『毘沙門天』の標石等、武揚の筆跡が区内の諸所に残されています。 平成十八年三月 墨田区教育委員会」

と、先の墨田区堤通二丁目の「榎本武揚像」の説明板にもありました。

 

書を好む氏の『武揚堂』の筆跡が、必ずどこかにあるはず。

墨田区教育委員会に訊くのも一つの方法では?・・・(保存されてないとのことでした。)

 

その後、言問団子をおいしく頂き、

そこで案内された「すずめの御宿」でそばを、
そして後から駆けつけてくれた一人を加え6人で、浅草一丁目1番1号の神谷バーでビールと電気ブランを頂いて賑やかに散会しました。

浅草は、何時行ってもいいですな~!


日本百名山 11、八甲田山(1585m)

2013-07-20 | 日本百名山

日本百名山 11、八甲田山(1585m)

 

八甲田山でよく知られているのは、青森歩兵連隊の雪中行軍の遭難でしょう。

私も、新田次郎さんの「八甲田山死の彷徨」で知りました。
夢中でストーリーを追いかけたことを思い出します。

 

明治35年(1902)1月下旬、一大隊210名は、雪中行軍の途中猛吹雪に逢って遭難し、
199名が凍死した事件です。

 

当初、私は八甲田山の山中深くで遭難したものと思っていましたが、
下の地図で見るように麓の比較的緩やかな地帯で遭難したようです。

 紫の線が雪中行軍のルートです。

従って、「登山とは言えないけれど、わが国で最初の大きな雪山遭難として、長く人々の記憶に痛ましく残った。」
ということです。

後で云うのはたやすいでしょうが、はっきり言えることは、
他の連隊は遭難していないことです。
冬山を軽く見たのかな?

私も、富士登山で懲りています。もう、簡単な気持ちで登山はしません。

 

さて、筆者が勧める温暖な時期の登山ルートは
下の地図の赤線であり、経路断面図です。

 

「大岳に登ったら、帰りは是非反対側の井戸岳を経て毛無岱(けなしたい)に下ることをお勧めしたい。
これほど美しい高原は滅多にない。
豪華な絨毯を敷いたようなその原には、可憐な沼が幾つも点在し、その脇には形のいいハイ松が枝を拡げている。・・・まことに神の工を尽くした名園の趣である。」
(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用)

 

その様子をカシバードで垣間見ると、

中央の谷の中に酸ケ湯温泉が広がってるのか、・・・

設定: 設定:カメラ:PRO、レンズ:28mm、風景:ハイマツの山々、高さ強調1.5倍、仰角-16度・・・

 

私も一度、八甲田山、酸ケ湯、奥入瀬と散策してみたいです。


日本百名山 10、岩木山(1625m)

2013-07-16 | 日本百名山

日本百名山 10、岩木山(1625m)

 

この弘前市は石坂洋次郎氏の生まれ育った土地で、朝夕岩木山を眺め暮らしたようです。
その姿は津軽富士と呼ばれるだけあって、
標高1600mの山とは思えないくらい堂々として、思う存分その裾を延ばし、どっしりしています。

 弘前城址より

設定:カメラ:PRO、レンズ:35mm、風景:夏の山々、高さ強調1.5倍、・・・

また、北側の金木町(現・五所川原市)は、太宰治氏の故郷で、
山の姿は、十二単衣をまとったお姫様が、優美な姿で軽く浮かんでいるようだそうです。

 五所川原市内より
 設定:カメラ:PRO、レンズ:35mm、風景:草原の風景、高さ強調1.5倍、・・・

 

筆者は夏、登山されました。
弘前市からバスで百沢(ひゃくさわ)へ行き、そこからトラックに便乗して岳の湯へ行き一泊しました。

翌朝は雨模様をおして登山。
それにしても、深田久弥さんの百名山はよく降りますね!

 

登山ルートとその経路断面図は次の赤破線です。

 


「岳の湯の裏手から登山道がついていた。
肩(山頂直下の平坦地)まで登ると、巨岩のみごとな爆裂口があって鳥の海と呼ばれている。 
そこで表口からの道と一緒になる。そこから頂上までは岩のガラガラした道である。

・・・帰りは百沢の方へ降りた。
ガクンガクン膝こぶしの痛くなるような下りが続いて、やがて広潤な台地へ出た。・・・」
(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用)

現在は、スキー場は開け、スカイラインやケーブルは山頂まで通じ、
当時とは様変わりのようです。


日本百名山  9、後方羊蹄山(しりべしやま)(1893m)

2013-07-14 | 日本百名山

日本百名山 9、後方羊蹄山(しりべしやま)(1893m)

 

筆者たちは、9月2日の早朝、比羅夫駅を出発、霧に覆われた後方羊蹄山に登っています。

この、比羅夫駅は阿倍比羅夫が蝦夷征伐にこの地を訪れたことに由来しているそうです。

 

さて、そのルートと経路断面図は次のようです。

  

「山麓の半月湖まで歩き、・・・
何の変化もない道をただひたすらに、富士山のように登るのである。
・・・(霧のため)何も見えない乳白色の中を、旧火口を一周して下山についた。
麓へ下りてきた時は、もうトップリ暮れて、灯のない真っ暗な原野が展がっているだけであった。」
(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用)

 

休み時間を入れて、9~10時間はかかったようです。

 

火口周は「頂上が富士山のそれのように大きく窪んでいて、周囲一里半許り・・・」実際は2.5Kmです。

ちなみに富士山の頂上一周は2.2Kmくらいで、ほぼ同じ規模です。

また、羊蹄山を正式には「後方羊蹄山」(しりべしやま)と呼んでいますが、本来の羊蹄山はこの山の東南10Kmの所にある尻別山だと云われているからです。

 

私にも懐かしい山です。
会社勤めをして間もなく(20歳代)、仕事で倶知安町の書店を訪ねましたが、その際車窓から見た羊蹄山が実に美しく豪快で、見とれてしまった覚えがあります。

その美しさにひかれて、
お店の主人から自転車を借りて、ひたすら羊蹄山に向かって走りました。
しかし、行けども行けども羊蹄山は大きく、近づけなくって橋の所から引き返しました。
多分、国道5号線の倶知安橋だったのでしょう。

設定:カメラ:PRO、レンズ:28mm、風景:北アルプスの山、・・・
倶知安駅の一つ南の比羅夫駅からのカシバード写真です。
手前の窪地が半月湖でしょうか。 

後で聞きましたが、その数日前に、自衛隊員が一人遭難して亡くなられたそうです。
原因は覚えていませんが、冬でもないのに遭難死されたとは、やはり山は怖いですねえ。


日本百名山 8、幌尻岳(2052m)

2013-07-12 | 日本百名山

日本百名山 8、幌尻岳(2052m)

 

日高山脈の最高峰です。 地理院の標高(2052m)と変わりません。

「ホロシリ(幌尻)岳」は、アイヌ語で「ホロ」は「大きい」、「シリ」は「山」の意味です。

さて、筆者らは、トラックで新冠川上流のダム工事事務所まで行き、そこから、

「いきなり川の中をジャブジャブ渡った。
川筋が即ち道だから,渡渉はそれから限りなく続いた。・・・
大岩を乗り越えたり、川っぷちの岩の縁を伝ったり、それもかなわなくなると嫌でも水の中だ。」
 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用)

そうした苦労の末に、原野の拡がる七ツ沼へ、たどり着いたようです。


現在もこのコースには登山道はなく、
幌尻岳へは別の山尾根コース(下の図)で登られているようです。

 

そして一行は、七ツ沼でキャンプを張り、
その翌朝から、次の地形図と経路断面図のコースを登られています。

 

 

七ツ沼の景観は素晴らしかったようです。

次のような記事が記されていました。

「その肩から戸蔦別岳(とつたべつだけ)に続く稜線が、カールの上縁をなして、
みごとな圏谷壁(カールブアント)が七ツ沼の原を取り囲んでいた。・・・
広々した明るい平和な別天地であった。・・・

(昔)そこは熊の遊び場所だったというが、実際熊の親子も浮かれ出したくなるだろう。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用)

その景観をカシバードで拝見すると、

設定:カメラ:PRO、レンズ:16mm、風景:八ケ岳の風景、仰角-16度

(七ツ沼上の尾根からの眺め。 やや濃い緑の円が沼です。)


日本百名山 7、十勝岳(2077m)

2013-07-07 | 日本百名山

日本百名山 7、十勝岳(2077m)

 

「今日、盛んに噴煙を上げているのは、・・・新噴火口と呼ばれるものである。
それは大正15年(1926)5月24日、突如爆発したものであって、火口壁崩壊による岩屑は噴火物と一緒になって西方の斜面に流れた。
積雪を溶かして泥流となり、その長さ28Kmに及んで、おびただしい田畑や人家を埋め、死者144名を出すという大被害であった。」

そのことが、三浦綾子著 『泥流地帯』 にも書かれている。

その、火砕流の上を、現在の登山観光バスは走っていますが、

昭和37年(1962)には、またも大爆発が起こっています。
ここは活火山地帯で、要注意ですね。

 

さて、筆者たちのルートを辿ってみると、

 

「岩のゴロゴロした泥流の登り道はちょっと辛いが、
噴火口の縁に立った時の眺めは素晴らしい。・・・

その噴火口のかたわらから右手の尾根へ登ると前十勝岳の上に出る。
そこから広い尾根が十勝岳の方へ伸びている。
尾根と云っても高原のようにのびやかである。

頂上に近づいてしばらく急な坂が続くが、やがて大きな岩のある絶頂に到着する。
大雪山の旭岳、トムラウシにつぐ北海道第三の高峰である。・・・」

そして、頂上付近の(当時の)様子は、
「火口壁の残骸のボロボロの岩尾根や、
一木一草もない黒ずんだ砂礫のザクザクした斜面や、
噴火の猛威のあとがまだなまなましく残っている。」
(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 

今も、同じなのでしょうか?

一度、登ってみたいが、私には無理かな?


トムラウシ山遭難事故

2013-07-05 | 読書

トムラウシ山遭難事故

2009年7月16日、トムラウシ登山者15名、添乗員3名の内、9名が低体温症で死亡した事件。
参加者15名の性別は男性5人、女性10人。その年齢は、50~60才。

 

一行は、天人峡温泉から旭岳を経て大雪山系の主稜線を縦走し、トムラウシ温泉へ下山する2泊3日の登山予定でした。

行動予定は下の地図赤線です。

そのおおよその日程は次の通りです。
登山1日目(7月14日 ):
 旭岳温泉 - (旭岳ロープウェイ) - 姿見平駅 - 旭岳 - 間宮岳 - 北海岳 - 白雲岳避難小屋 - 白雲岳 - 白雲岳避難小屋(泊)

登山2日目(7月15日):
 白雲岳避難小屋 - 高根ヶ原 - 中別岳 - 五色岳 - 化雲岳 - ヒサゴ沼避難小屋(泊)

登山3日目(7月16日):
 ヒサゴ沼避難小屋 - 日本庭園 - 北沼 - トムラウシ山 - トムラウシ公園 - 南沼 - 前トム平 - トムラウシ温泉

最初の二日間は、大体予定通り進みましたが、
次の7月16日からが台風の中の強行軍のようでした。

報告書の要旨では

「7月16日
午前3時半起床。午前5時の出発予定であったが、天候悪化のため雨と風が強く、待機。
ガイドらはラジオで十勝地方の予報『曇り、昼過ぎから晴れ』と聞き、
午後から天候は好転すると見越して出発を決定。
 

一行は午前5時半頃に避難小屋を出発。

ヒサゴ沼の窪地から稜線に出ると風速20~25m(90Km/h)の強風をモロに受けて転ぶ人が続出。先頭のガイドの声が最後尾まで届かない状況。
ガイドからは『風が強く吹いたらとにかくしゃがんで』と繰り返し指示。


通常なら3時間のところを6時間近くかけて山頂下の北沼に到着。
しかし大雨で沼から溢れた水が大きな川(幅約2m、水深は膝ぐらいまで)となり登山道を横切って居た。
川の中に立ったガイドの助けを借り何とか渡りきるが、ここで多くの人がずぶ濡れになった。(実際はガイドだけがずぶぬれで、他はそうでもなかった様子)

午前10時半頃、北沼の川を渡ったすぐ先の分岐手前で女性1人が低体温症のため歩行困難となった。

一行はガイドの指示によりその場で1時間半待機させられた。
座り込んだ人を囲んで風よけを作ったり、『寒い、寒い』と叫び声を上げる女性客も居た。
結局パーティはツエルト(小型のテント)を設営しガイド(リーダー)を残して先に進んだ。

前設営地から距離を置かずして別の女性客1人が意識不明に陥った。
ここで岩陰を探してテントを設営。
この女性に加えて歩行困難になった女性客2人と付き添いの男性客1人、ガイド(メインガイド)の計5人がこの場でビバーグ(緊急野営)することとなった。

登山客と付き添いのガイド(添乗員)はトムラウシ山頂を迂回し西側の平坦なコースで下山を続行した。
この時ガイドは遅れた人を待つことなく大急ぎで進んだため列が伸びて全員を確認できなくなったという。・・・


この時点(午後三時ごろ)で霧や雲で視界は悪いが雨や風は弱まっていたという。・・・」

遭難事故にまでならなくて済ンだでしょうに、
残念でしたね。(他のパーティーはOKのようでした。)

 

その原因を後でたどってみましたが、


1) 天候判断のミス、そして早めに引き返す決断のミス、
2) にわかづくりのチーム、現場での協議不足、
3) 「安全優先」が実際には「経済優先」、
4) ツアー参加希望者の選定(経済優先)、
5)  着用すべき防寒着の指示・確認不足、
6) 「低体温症」に対する認識不足
 等々の要因が重なって起きた事故のようです。

後ではなんとでも言えますが・・・。


日本百名山 6、トムラウシ(2141m)

2013-07-04 | 日本百名山

日本百名山 6、トムラウシ(2141m)

 

現在の測量成果と同じ標高値です。旭岳に次ぎ、北海道第二の高い山です。

この山名はアイヌ語のままです。
国土地理院の一等三角点調書では「富良牛山」と、記るされているようですが、仮名書きの「トムラウシ」の方が、重宝されているようです。


さてその意味ですが、十勝川の上流トムラウシ川から来た名称のようで、
温泉鉱物の為、川水がぬらぬらしていたことから、「水垢の多い川」とつけたことからだそうです。

 

筆者らは、トムラウシ温泉のほうから登っています。

そのコース図とその経路断面図は下の赤線だと思います。

  

「・・・トムラウシにかかると石のごろごろした登りになり、やっと達したその頂上は、大きな岩の積み重なりであった。・・・(霧がかかっていて視界ゼロ)
下りは反対側の山稜の道をとったが、これがまた長かった。
小さな沼(北沼?)の脇を通ったり、広い斜面を上ったり下ったりして、ようやく稜線から外れて右へおりると、

その下に雪渓があり、雪渓の下にヒサゴ池が広がっていた。
私たちは第二夜のテントをその池のほとりに立てた。

 翌朝、山稜の方へ広い原を登っていくと、あたり一面、白、赤、黄、紫の高山植物の褥(しとね)であった。
あちこちに雪の溶けた池があり、その原が果てしなく広がっている。

この雄大、この開豁(かいかつ)、こんなおおらかな風景は内地では求められない。・・・」
 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用)

 そして、化雲岳に達したごろからは完全に晴れたようです。

 化雲岳よりトムラウシを望む

設定:PRO,28mm、夏の山々・・・

下山ルートはよく解りませんが、中別川沿いに、天人峡へ下ったのではないでしょうか。

 

さて、この山を検索しながら、ブログを書いていると、どうしても先の遭難事故を避けて通れない感じでした。

 

次回は、その際の遭難に触れてみます。