地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

地形図で 黒部川扇状地 を観る

2013-05-08 | 読書

地形図 黒部川扇状地 を観る

典型的な扇状地です。
後背地に黒部峡谷で代表される急流をもち、それが宇奈月町愛本で一気に平坦地に放出されてできた扇状地です。

1/20万地勢図でその概要を知り,1/5万地形図でその詳細を知ることができます。

 

さらに、平野部に放出された流れは、河口部の自然公園(緑地公園)で邪魔され、愛本新の船見面と、西側の入善面に分かれています。
その標高差は20~30mもあります。入川を境に歴然と分かれているのが下の断面図でよく解ります。

   

そして、愛本から広がった扇状地には散村が広がっています。
散村は河岸段丘上部の舟見面にも見れます。
これは、いかに水量に恵まれ、水田耕作に好都合であったかを物語っています。
縦横に走る水路と、日本でも有数といわれる豊富な湧水で、その様子が想像できます。
しかし、同時に洪水の禍にも苦労されたことでしょう。

 なお、舟見面には散村に囲まれた街村も発達しています。高台のため洪水の心配がなかったためでしょうか。

 

江戸時代、前田氏は防衛と技術上の問題から黒部川に橋を架けなかったそうです。
しかし、あまりにも不便なため、愛本の地に初めて橋を架けました。

しかし、氾濫の度に流失し、終いには橋脚のない全長63mもの刎橋(今はない)を造ったそうです。
この愛本刎橋は錦帯橋、猿橋と並ぶ日本三奇橋の一つにされています。


瀬島龍三 回想録「幾山河」を読んで(2)

2013-05-06 | 読書

瀬島龍三 回想録「幾山河」を読んで(2)

 

その戦況も、翌年(昭和17年)の夏頃から、米軍は制空・制海権を奪回し、増援・補給力に物を言わせ、逆転したようです。
それに対して、わが軍の補給はままならず、特に食料は「一人平均、定量の三分の一ないし五分の一」という状態だったようです。わかってなかったのかな~?

 

昭和17年6月頃からのミッドウエー海戦の報告を聞いて、「一驚、暗然とした気持ち」になり、
さらに「ガダルカナル島へ、艦隊支援の下に米軍上陸開始・・・同島に海軍の飛行場設営隊と警備隊を派遣し、飛行場を建設中であり、ほぼ完成しつつある。」とありました。

「・・・我々はこの連絡によってはじめて『ガダルカナル島』の名前を知った。
地図で探すと、ラバウルの東南方約千㌔の地点であった。」 どうもどうも・・・
 

この辺から、戦況はおかしくなったようです。

翌18年1月より、止む無くガダルカナル島撤収作戦に入ったが、わが方の損害は多大なもののようでした。
とくに「・・・陸軍が投入した兵力33,600人の内、戦死者8,200人、戦病死者約11,000人。戦病死者のほとんどは食料不足による栄養失調、マラリアによるものであった。」とありました。


食料不足は悲惨ですね。
いまだに精神論を振りかざす老人がいますが、日清、日露の夢を追っていたのでしょうか。

 

これだけ兵站線を拡げながら、当初から食料補給が十分でなかったのは何故でしょう。
多分現地補給を原則にしていたからではないでしょうか。
現地住民もたまったものではないですよね。

 

私は、以後の戦況を読むに堪えなくなり、ここで本を閉じます。

 

なお、小学生の頃、三つ上の兄と、夕刻のラジオ放送で戦況を聞いて、戦果を記録して喜んでいましたが、
いつも 『わが方の損害軽微なり』 でした。

よく言うよ! ですね。


瀬島龍三 回想録 「幾山河」を読んで(1)

2013-05-03 | 読書

瀬島龍三 回想録 「幾山河」を読んで(1)

 

昭和16年(1941)12月8日頃の記事を読んで、当時を思い出しました。

小学校1年生でした。開戦を伝えたラジオ放送を覚えています。

最初に軍艦マーチが鳴り、つづいて
「帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」

と、声高らかに放送されました。

子供心に、カッコよく聞きました。

 

記事を一部引用すると

「・・・ハワイ奇襲作戦は海軍の精鋭延べ三百五十機をもって大戦果を挙げた。米空母を逸したことが若干、気がかりではあった。
また、第二十五軍もマレー半島への奇襲上陸に成功し、長駆シンガポールに向けて作戦根拠地を確保した。
香港、フィリッピン攻略も順調に進展しつつあった。・・・」

また、

「十二月十日、海軍航空部隊はマレー・クアンタン沖を北上中の英東洋艦隊を捕捉し、・・・英海軍最新鋭の戦艦『プリンス・オブ・ウエールズ』及び『レパルス』を撃沈し、英東洋艦隊の主力を事実上壊滅させた(マレー沖海戦)。」

 

当時を振り返ってみると、
燃料問題で米英等から経済封鎖を受け

「昭和16年7月下旬 米、英、香港、蘭印から対日資産凍結。石油の対日供給もストップ。
我が国のストック:重油1.5か月、灯油1か月、軽油1/3か月、航空揮発油15か月。」

という状況であったらしい。

そして、米国との交渉は11/27の米国務長官の「ハル・ノート」で、決定的になったようです。

その要点は、
「支那及び仏印から一切の陸海空部隊及び警察の全面撤退」「三国同盟の死文化」等で、

「もしこれを忍ぶとしたら、日清、日露両戦争の成果をも一蹴することになるばかりでなく、満州事変の結果をも放棄しなければならないこととなる。・・・開戦やむなき次第である。・・・」

こうした、日本ののっぴきならない状況が、米英で読めなかったはずがないだろうに、ハワイ奇襲を受けた米国もうかつであったと思いますが・・・。
丁度、今の北朝鮮の状況によく似ています。

そして、北(ソ連)からの脅威の少ないであろう冬を選んで、火ぶたが切られました。

今回は、『12月8日と南方要域攻略作戦の遂行』を読んで、いったん本を閉じます。

ちょっと、書き加えますと、

私は、シンガポール陥落記念に軟式ボールを貰った覚えがあります。

確か、数が少なく、選ばれてもらった記憶です。当時は貴重品でしたからね。
ボールには『シンガポール陥落記念』と青い判が押してありました。
2年生の頃だったのですね。