地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

国営昭和記念公園を散歩して

2013-08-29 | 散策

国営昭和記念公園を散歩して

 

やや秋風の吹く好天気を迎え、朝9時頃、懸案の昭和記念公園に行ってまいりました。

全体をぐるりと回るのは初めてです。(歩行距離・約5km)
実に広々とした公園でした。

 広い原っぱの中の一本のケヤキ  

立川基地の一部を利用して平成17年(2005)に出来た国立公園です。
 

    

こんな立派な公園ですが、ウィークデイ(夏休みですが)なのと暑さのためか、人出は極めて少なく、
のんびりと散歩させていただきました。贅沢の極みです。

 

園内には、バスと機関車のあいの子のような“パークトレイン”が走っていました。
車輪はタイヤで、機関車が引っ張っていました。もちろんレールはありません。
これも、乗ってる人はまばらでした。
 

自転車でも廻れるようですが、駐輪場近くを小さな子供さんが遊んでいるばかりで、苑内を周遊している人は一人も見掛けませんでした。勿体ない!

でも、こうしてのんびり散歩させていただけるのは、有難いことです。
どうも混んでいないと不自然に感ずるのは、東京人の生活習慣病なのでしょうか。

困ったもんです!
 

園内には、多くの珍しい木や花が目を楽しませてくれました。

 ホオノキ 赤い実がなっていました。

 オミナエシ

 サギソウ 10月には鉢植えの講習会があるそうです。参加予定

 パンパスグラス 大きいものでは6m」にもなります。お化けススキとも云います。

 ヒマラヤスギ 上に向いた青い実がなっていました。

 

あまり暑いので、遂に休憩所で “生” 一杯!

実にうまかったで~す。

ただ、その店の看板が木の茂みに隠れてはっきりせず、自分の位置の確認にひと苦労。

 

 


日本百名山 17、朝日岳(1870m)

2013-08-24 | 日本百名山

日本百名山 17、朝日岳(1870m)

 

「朝日連峰とは、普通、島原山、小朝日、大朝日、西朝日、寒江(さがえ)山、以東(いとう)岳、を差している。

大朝日岳が最高であるが、鳥海山や岩手山のように、主峰だけが断然抜きんでているわけではないから、
朝日の価値は連峰全体にあるとみなしていいだろう。・・・」

すなわち、ちょうど八ケ岳連峰の赤岳のような存在です。

そこで、今回は約20km東南の長井市から見たカシバードを、次の設定で撮影しました。
設定:カメラ:PRO、レンズ:16mm、風景:八ケ岳の風景、、高さ強調1.5倍、

 さて、朝日岳の縦走ですが、今回は距離も長く、ちょっと荷が重いようです。
山小舎のことには触れていませんが、健脚の人でも2泊3日ではないでしょうか。

「大学一年生であった私は友人のS君と二人で、重いテントを背負って、朝日鉱泉を出発して、忠実に主脈を辿って、以東岳から大鳥池に下った。

(そのルート図は次のようです) 

  

大鳥池から大鳥川の下りは、道がなく、ヘソまで浸かるような渡渉の連続で、
もし途中で運よく岩魚(いわな)釣りに出会って案内を乞わなかったら、私達の困難は数倍したことであろう。
今は池のそばに小屋が建ち、また渡渉せずに済む道も通じている。」

 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用)

 


日本百名山 16、月山(1980m)

2013-08-22 | 日本百名山

日本百名山 16、月山(1980m)

 

「どんな山でも頂上のあたりはいくらか鋭く立っているものだが、月山にはそれがない。
撫でたような緩やかな線であった。」

下は羽黒山から見た月山のカシバードです。

設定:カメラ:PRO、レンズ:28mm、風景:地図との合成マッピング、高さ強調1.5倍、
 

「かってはここの修験道がいかに盛んであったかは、羽黒山の、杉の大木を両側に並べた長い石の坂や、広壮な出羽神社の社殿を見ただけでも納得できる。」
 (2.5万分一地形図より 赤線の距離は約4km)

 

「羽黒から月山に登り、奥院の湯殿に参拝するのが、昔からの順路であった。」


芭蕉も奥の細道の途中で、この三山を巡礼しています。

その道のりは、次の地図の赤線です。

 

余り登山を経験したことのない芭蕉にとっては、羽黒山から月山までの22Km 余りの行程は
きつかったろうと想像します。
奥の細道には、その時の様子を次のように書いています。

木綿(ゆふ)しめ身に引きかけ、宝冠に頭を包み、強力(ごうりき)というものに導かれて、
雲霧山気の中に氷雪を踏んで登ること八里、
さらに日月行道の雲間に入(い)るかとあやしまれ、息絶え身こごえて、頂上に至れば日没して月顕はる。
笹を敷き、篠(しの)を枕として、臥(ふ)して明くるを待つ。

 ここを訪れたのは7月22日とか。距離は22Km余。それを「氷雪を踏んで登ること八里」とは?
ちょっとオーバーではないか。
しかし、当時はそんな感じだったのでしょう。

筆者も古例に従って三山の順路を辿っています。

 

羽黒に泊まって、
「翌日 登山バスに乗ると六合目まで行くので、たいした苦労もなく月山の上に立った。
途中に行者返しとか、阿弥陀ヶ原とか、普陀落とか、信仰の山らしい名前が残っている。
何合目ごとにある小屋も、芭蕉時代を偲ばせて『笹を敷き 篠を枕とする』(奥の細道)ような笹小屋である。・・・
頂上は実に広々とした高原であった。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用)

 

私にも登れそうですね。
月山から湯殿山に下って、お湯を楽しみながらの一杯もいいですね。芭蕉の想いを辿りながら・・・。

 

日本百名山の訪問が終わったら、奥の細道を辿ってみようかな。

なかなか、あの世とやらへは行けないね!

 

 


日本百名山 15、鳥海山(2237m)

2013-08-16 | 日本百名山

日本百名山 15、鳥海山(2237m)

 

「始めて、私が鳥海に登ったのは、その海ぎわの(山形県)吹浦(ふくら)という漁村からであった。」

鳥海山は東北地方第二の高山で、その高さは2236mです。

日本アルプスの山々と比べれば「なーんだ」といわれても仕方がありませんが、ここは海抜0mの海ぎわから直接登っている山です。決して引けを取る標高の山ではありません。

そして、連綿とつづく山並みの中のひとつではなく、孤立して聳える秀麗な山です。
『東北第一の名峰』と称賛されているゆえんです。 

そして、「鳥海山が山麓の住民に尊崇されているのは・・・
米の産地である庄内平野も秋田平野も、この山から流れ出る水でうるおっている・・・」からだそうです。

そう思ってみるとなおさら、美しく素晴らしい山容です。
そして、古くから信仰されてきた大物忌神社が祀られています。
昔は白衣の行者で賑わっていたようです。

 (秋田県由利本庄市の秋田平野から見た鳥海山・新山)=秋田富士

 (山形県酒田市の庄内平野から見た鳥海山)=出羽富士

設定:カメラ:PRO、レンズ:28mm、風景:夏の山々、
 

「早朝、駒止(こまどめ)の小屋を出た時は満天の星で、・・・
大平小屋に着く頃にはすっかり明るくなり、蔦石坂の急坂を登りきると、朝の太陽が差してきた。・・・

豊かな高原状の見晴らし台を過ぎ御浜に着くと、そこには夏の行者のための宿舎がある。
旧火山口の鳥海湖の神秘的な静かな風景も、そこから見下ろすことが出来た。・・・
正面には頂上の岩峰がドッシリと座っている。・・・

頂上の外輪山を伝って七高山に達し、火口に下りると、岩を積み重ねたような最高峰の新山が立っている。
そのお宮に参拝して下山の途についた。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用)

その行程を地図でおってみると下の赤線のようになります。

 

 

 


日本百名山 14、早池峰山(1914m)

2013-08-10 | 日本百名山

日本百名山 14、早池峰山(1914m)

 

今日はある人の郷里の山を採りあげました。若いころ、その人も登ったことがあるそうです。
しかし、なぜか、それで登山は懲りたそうですが・・・。 

登山ルートやその経路断面図は次の通りです。
 

現在は、河原ノ坊まで車が入るようですから、ちょっとしたハイキングの行程ですね。


「普通に採られる登山道は、花巻から岳川(たけかわ)に沿って遡り、最奥の岳(たけ)から登るものと、
北側を通じる山田線(盛岡~釜石)の一寒駅平津戸(ひらつど)から御山川に沿って登るものとがある。

前者を表口と見なしていいだろう。・・・私は表口を採った。・・・」から始まって

 

「登山路は岳から川に沿って六粁ほど上がった河原ノ坊から始まる。・・・
すぐ横の谷川は昔の登拝者が垢離場(こうりば)と称して身を浄めた所だという。・・・
そこから距離は短いが一途の急な登りであった。

垢離頭(こうりこうべ)と呼ぶ所が水の最後で、そこで沢を離れて尾根登りになる。・・・
それから岩石地帯にさしかかる。
巨岩がゴロゴロ転がっていて、特別の形をしたものには茣蓙走(ござはしり)岩だの打石だのという名がついている。・・・

頭上に城塞のように巨岩が立ち並んでいる所まで達すると、もう頂上は近かった。・・・」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用)

 

設定:カメラ:PRO、レンズ:50mm、風景:夏の山々、

カメラの設定位置は東北道 紫波IC からです。

その人の生まれ故郷です。 


日本百名山 13、岩手山(2041m)

2013-08-06 | 日本百名山

日本百名山 13、岩手山(2038m)

 

今回は、深田久弥さんが実際登られたルートが示されていたので、
それを追ってみました。

「私は 南側の網張温泉から登った。・・・
 

温泉から背後の尾根に登り、それを辿って大倉山、姥倉山を越えると、西岩手の旧火口に入る。
それを貫いて道が通じている。・・・

(樹木の)切れ間に気持ちのいい湿原が展がっている。・・・
夏期にはこの湿原帯は高山植物の咲き乱れるところで、天然記念物になっている。

その原を通り抜けて東岩手へ登って行くと、山頂を形作るドームの下へ出て、東麓から来る表登山路と一致する。ここを不堂平と呼び、表口から登ると九合目にあたる。・・・
(多分、この辺りで一泊?)

外輪山を一周し、御釜に下って妙高岳の社を拝してから、往路を引き返した。
姥倉山まで来て、網張道と別れて、今度は松川温泉へ下った。・・・

松川温泉からバスで下る途中、岩手山の西側を見る事が出来る。
盛岡側から見た端麗な姿と打って変わって、西側は凄惨と云いたいほどの峨峨たる風貌である。」

 盛岡駅から見た岩手山
 松川温泉から見た岩手山

設定:カメラ:PRO、レンズ:35mm、風景:残雪の山々、仰角5度・・・

 

二つのカシバード画像からわかるように、岩手山は複雑な山で、

「南部富士」と称されるのは東側から見た岩手山で、西側から見た岩手山は、まさに「凄惨と云いたいほどの峨峨たる風貌」である。

そのため、「南部の片富士」とも言われています。

 

「その複雑さは、この山が数回の爆発を繰り返したことによる。
初めに西岩手の噴火があった。
現在その火口壁が、北側の屏風尾根、南側の鬼が城尾根として残っている。
そしてその中央の凹地は、東西三粁、南北二粁のほぼ楕円形の旧噴火口であって、そこに御釜、御苗代と呼ぶ二つの火口湖がある。

その後、その東部が爆発して、現在の最後部を形作った。・・・」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用)


富岡八幡、清澄庭園から両国への散策

2013-08-01 | 散策

富岡八幡、清澄庭園から両国への散策

 

思い立ったが吉日と、都営大江戸線で門前仲町から両国へと散策しました。

7Kmぐらいでしょうか。結構、暑かったです。
途中、森下駅の元・弥勒寺橋の近くで生ビールと「肉きのこ南満」を頂きました。
昼食時を少し過ぎていたので、静かに、美味しく頂けました。

散策コースは下の地図の赤線です。

 

先ずは深川不動尊です。

  

“おみくじ”の喜ばれている御不動さんのようです。

「足腰お守りください」の祈願など微笑ましいですね。
やや腰の曲がったおばあちゃんの姿が目に浮かびます。 

 

そして、すぐ横の富岡八幡宮にお詣りしました。

  

説明板によると

「この神社の3年に一度の本祭りは、夏祭りにふさわしく神輿に水をかけながら練り歩くので、『水かけ祭り』の名もあり、50基余の連合渡御は江戸三大祭りのひとつとして有名です。・・・」

一度、見に行きたいですね。“50基余の連合渡御” は豪壮なものでしょう。

本祭りは来年だそうです。
今年は子ども神輿連合渡御が永代通りで行われるようです。
8月11日午前9時から12時です。

参加神輿46基、その他に仮装神輿が6基加わります。

行ってみるかな~!

 

入り口横には、お神輿が飾られていました。
大きなガラスケース入りです。


大きなものです。
実際にはこのお神輿を小型化したものが担がれるようですが・・・。

案内板がありましたので掲載します。

「富岡八幡宮御本社神輿(日本一の大神輿)

当八幡宮には、江戸時代深川に屋敷のあった紀伊国屋文左衛門より三社託宣に因み八幡造り・明神造り・春日造りの三基三様の神輿が奉納され、みこし深川と云われてまいりましたが大正十二年の関東大震災で惜しくもその全てを焼失しました。
それ以来、御本社神輿の復活は深川っ子の念願でありましたが、平成の御世になり漸く、昔に勝るとも劣らない豪華な大神輿が復活いたしました。
・・・重量 4.5トン・・・」

 

そしてそのすぐ横に伊能忠敬さんの銅像が立っていました。

その説明板も掲載させていただきます。

「近代日本地図の始祖である伊能忠敬先生は、事業に成功したあと五〇歳のとき江戸に出て、当宮近くの黒江町(現在は門前仲町一丁目)に隠宅を構えて居ました。・・・
全部で一〇回の測量を企画しましたが、遠国に出かけた第八回までは、出発の都度必ず、内弟子と従者を率いて富岡八幡宮に参詣し、無事を念願したのち、・・・」出発されていたそうです。

 

そこから、陽のカンカン照る中を、仙台堀川に架かる海辺橋を渡り、清澄庭園に参りました。

ここには、昨年の12月26日に来ております。

その時の記憶をたどりながら園内を一周しました。

その記事の一部を引用すると、
「本園は、初め江戸の豪商紀之国屋文左衛門の別邸であったといわれ、その後、諸大名等の下屋敷として用いられてきましたが、明治11年(1878)に至って岩崎家の所有するところとなり、同24年(1891)和洋両館を含む大庭園となりました。

池泉には、隅田川から水を導き、潮の干満により庭趣に変化をもたせた潮入りの回遊式林泉庭園で、大小の島や磯渡りを造り、池辺には岩崎家が全国各地より収集した奇岩珍岩が巧みに配置してあります。

大正12年(1923)の関東大震災後、現在の庭園部分を東京市が寄贈を受けて修復し、昭和7年(1932)一般公開しました。
また、この間には皇室より下賜された大正天皇葬場殿を現在地に移籍修築し、大正記念館と命名、集会場として一般に公開しています。

昭和20年(1945)3月、本園は全域にわたり戦禍を受けましたが、戦後は記念館の再建と併せて、奇跡的に消失を免がれた涼亭や池辺の庭石等をもとに逐次園景も修復され、今なお明治時代の代表的庭園として知られています。」

出口に近いところに、サンゴジュが紅い実をつけていました。
 

 

今日は、先を急ぎましたので、西の清澄公園の散策は省略し、清澄通りを両国の方へ進みました。

先ず、小名木川に架かる高橋を渡りました。
この橋は「たかばし」と濁るのですね。

 
そして、やや疲れましたので、遅めの昼食を採りました。
その様子は初めに書いた通りです。

多少いい気分になり、そこから、昔の六間堀跡や弥勒寺橋跡を通過して竪川の二ツ目橋(現在は二之橋)にさしかかりました。

この辺りは、小説「鬼平犯科帳」の舞台ど真ん中です。
懐かしい気分です。
 今の二之橋の写真です。

 昔の、二ツ目橋の様子です。

そこにあった、二之橋の掲示板を引用すると、
「万治二年(1659)、堅川が開削されると五つの橋が架けられ、隅田川に近いほうから一之橋から五之橋と名付けられました。その二ツ目の橋で、長さ十間(18m)、幅三間(5.4m)ほどありました。

池波正太郎の『鬼平犯科帳』では、二之橋は『二ツ目橋』という名で数多く登場します。・・・」

 

そしてその横に、軍鶏なべ屋『五鉄』があったそうです。

「小説「鬼平犯科帳」に登場する、鬼平の行きつけの店、本所二ツ目の軍鶏なべ屋『五鉄』の場所は、『二ツ目橋の角地で南側は竪川』とあるように、この辺だと推定されます。

鬼平とその配下の密偵たちは、ここに集まって、軍鶏なべをつついていました。・・・」

 

また、鬼平を読みたくなりました。全部で24巻です。

 

そして、最後の江戸東京博物館と両国国技館に到着しました。

  

暑く、湿度も高く、結構疲れました。

でも、東京近辺は見るところが多く、飽きませんね。
これからも、 あちこち歩きましょう!