地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

江戸東京博物館の 『大浮世絵展』 を観る

2014-02-27 | 散策

江戸東京博物館の 『大浮世絵展』 を観る


仲間に勧められて江戸東京博物館へ浮世絵を観に行きました。

間もなく会期(3月2日まで)終了のためか、結構混んでいました。

 

家から直通の都営地下鉄で森下駅へ行き、そこからブラブラ両国まで散歩しました。

途中には、鬼平馴染の軍鶏なべ五鉄跡や、勝海舟生誕の地、吉良邸跡、回向院、旧国技館跡などがあり、それらをのんびり探索しながら両国の江戸東京博物館までの約2kmを歩きました。

先ずは五間堀跡を渡り竪川にかかりました。

この五間堀は、妙な形に曲がっている珍しい堀ですが、その理由は解りません。
なんでも、明暦の大火の後に、六間堀とともに出来た堀とか。

現在は埋め立てられていて、緑道や遊園地になっています。

 

そして、竪川の二之橋を渡ります。
ここが池波正太郎の『鬼平』で有名な軍鶏なべ屋の『五鉄』跡地です。

そこの説明板を引用すると

「 江戸の町  二之橋 

万治二年(1659)、竪川が開削されると五つの橋が架けられ、隅田川に近いほうから一之橋から五之橋と名付けられました。
その二つ目の橋で、長さ十間(18m)、幅三間(5.4m)ほどありました。

池波正太郎の『鬼平犯科帳』では、二之橋は『二ツ目橋』という名で数多く登城します。
鬼平が事件を解決するなかで、弥勒寺門前のお熊婆のいる茶店『笹や』へ行くにも、
大川から舟で乗り付けて軍鶏なべ屋『五鉄』に立寄るにも、
この橋は必ず登上し、正に欠かせない場所となっています。・・・」

そしてその横に、竪川の橋が描かれた浮世絵が添えてありました。
 

 

 軍鶏なべを過ぎて左に曲がると、小学校と公園があり、そこが勝海舟生誕の地です。

西郷さんと談合を重ね、江戸を火の海にせず平穏に引き渡した功績は大きい。

そして、この碑文を西郷さんが書いています。
人間の大きさを感じさせます。 

 

そして、間もなくして、奥まったところに吉良上野介の屋敷跡がありました。

  

 

忠臣蔵と謳った説明板がありましたので引用します。

「  吉良邸跡

吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西七十三間(131m)、南北三十五間(63m)で、面積は二千五百五十坪(約8400㎡≒普通の家80軒余)だったとされています。

現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の八十六分の一の大きさに過ぎません。・・・」

 

それから京葉国道に出て間もなくに、回向院がありました。

墨田区の説明板によると、

「明暦三年(1657)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は十万人以上、
未曽有の大惨事となりました。・・・
四代将軍徳川家綱はこうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に『無縁塚』を築き、・・・

後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者・・・
が埋葬供養されています。」

 

回向院横には、もとの国技館跡の記念碑があり、その屋敷の中庭には当時の土俵の位置が示されていました。
土俵の直径が4.55mといわれていますが、ここの円はそれより大分大きく見えました。

 

さていよいよ、今日のテーマである江戸東京博物館に向かいました。

 

最初に触れたように、結構な人出でした。

時代を追って展示され、解説されていました。

私は、「音声ガイド」を使い、丁寧に見て回りました。疲れました。

菱川師宣の「見返り美人図」がすでに他の会場へ移動していて見れなかったのと、
唯一女性画家である村上松園の美人画が見たかった。

 

またの機会を期待しています。


日本百名山 38、皇海山(2144m)

2014-02-26 | 日本百名山

日本百名山 38、皇海山(2144m)

この山名の読み方¥は、「すかいやま」(皇海山)だそうです。
そしてその所在は、栃木県と群馬県の境、足尾(日光)山地にあります。

あの有名な足尾鉱毒事件の渡良瀬川の源流です。

 (沼田市中心部より)

設定: カメラ:PEX、レンズ:35mm、風景:日本アルプスの朝、高さ強調1.5倍。

 

 

 

登山コースは赤線です。

 「まず庚申山に登り、それから十ほど小さなピークを越えて鋸(のこぎり)岳へ達する。

ピークに一々名前のついているのは信仰登山の名残である。
鋸から一たん深く鞍部へ下って、それから皇海の頂上まで一途の登りになる。・・・

皇海山は、南は六林班(ろくりんはん)峠を経て袈裟丸山に続き、
北は三俣山を経て宿堂坊山、錫ヶ岳、白根山へ伸びている。
この長い山稜も道が開かれているのは一部で、あとは籔と戦わなければならない。
それだけにまた原始的自然美を保っている山城であって、
『埋れた山』を探し求める人たちにとって、これから興味の多い舞台となるであろう。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

百名山を読んでいて、いつもこうした難行苦行して未知の世界を訪ねる気持ちを探っていますが、
いまだにハッキリしない。
ここでは、『原始的自然美を保っている山城』といっていますが・・・。

修験者たちの、命ギリギリまでを挑戦する気持ちは・・・、
何かを求めて挑んでおられるのでしょうが、結果は?

結果ではなく、多分、挑戦する心に意味があるのでしょう。

もう私には、その気力はないです。


日本百名山 37、奥白根山(2578m)

2014-02-19 | 日本百名山

日本百名山 37、奥白根山(2578m)

奥白根山(日光白根山)は関東地方の最高峰で、北や東にはこれより高い山はないそうです。
また、日光群山の最高峰でもあり、男体山の奥院ともいわれています。

 (男体山の頂上より。 霧で 遠くが青くかすんでいます)


設定: カメラ:PEX、レンズ:35mm、風景:日本アルプスの朝、高さ強調0倍、仰角0度。


同じ白根山でも、草津白根山は標高2162mで、この山には及びません。


登山コースは次の赤線です。

  


「私は日光側から登った。
湯本から白根沢の急坂を攀じて前白根山の頂きに着くと、目の前に奥白根山が大きくそびえている。・・・
前白根からいったん下って火口原らしい平らな草原へ達するが、その途中眼下に五色沼が見下ろされる。・・・
魔ノ湖と名づけられている火口湖で、四周山に囲まれた深い湖だけに、何か凄愴なおもむきがあって、それが魔を感じさせたのであろう。」

(“凄愴〈せいそう〉”とは、新明解国語辞典によると、“ひどい損害をうけたりして、痛ましい様子”とある。)

「火口原から奥白根の急登が始まる。
樹林の間を喘ぎながら登って行くと、やがてザクザクした砂礫を踏む高山帯となり、ついに巨岩の散乱した頂上に立つ。

奥白根の頂上は一種異様である。
それは蜂の巣のように凹凸が激しく、どこを最高点とすべきか判じ難い。
小火口の跡があちこちに散在しており、それをめぐって岩石の小丘が複雑に錯綜している。・・・


下山の道を私は上州側へ採った。
頂上からその側へ大きな薙ぎが崩れ落ちている。
それを御釜大割れと称しているが、明治六年の大爆発によって生じたものである。・・・」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 

想えば、日光へは何回も行きました。
会社の旅行で数回、そして山のグループやマラソンの合宿で、そして彼女とプライベートでも・・・

最初の会社旅行の時は、まだ金精トンネルは出来ていませんでした。 
日本道路公団により開通したのは、1965年(昭和40年)10月です。総延長755m。
想えば、私も長く生きてきたものです。

 

 それだけ行ってるのに、日光白根の存在を意識していませんでした。

戦場ヶ原や光徳牧場にはたびたび訪れましたが、関東一高いこの山には興味を持ちませんでした。
中禅寺湖あたりからは日光白根山までの展望が開けなかったせいもあるのでしょうが、認識不足が第一です。

元地図屋らしくないと、反省することしきり・・・。

 

 


すいせんの咲く 城ケ島ウオークへ

2014-02-18 | ハイキング 里山歩き

すいせんの咲く 城ケ島ウオークへ

 

大雪の2日後に、雪景色を見に城ケ島に行ってきました。

日曜日のグループ旅行予定を1日ずらしたためか、参加人数は9人に減りました。

 

この旅行の面白いことのひとつに、“三崎にまぐろを食べに行こう” とうたった『みさきまぐろキップ』があります。

「電車乗車券」、「バス乗車券」、「まぐろ食事券」、「入浴券」などがセットになったキップです。
素晴らしいいい企画です。便利で且つ安い!

 

われわれはその企画に乗って、ウオークを楽しみました。

今日のコースは、次の地図の赤線です。歩行距離約5Km.

  (ポイントの名称)

 

大雪の二日後だけに、雪景色や、荒波が楽しめるぞと思いきや、
残念なことに、雪はほとんど溶けており、風も無くおだやかないい天気でした。

城ケ島大橋にも全く雪が見られませんでした。
一生懸命除雪されたのですね。

有難うございました。

 

さて、まず白秋碑を訪れました。

♪ 雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の雨がふる ♪

 

残念ながら? 今日は雨は降りませんでした・・・。

 

そこから、スイセンの咲き匂う 道を歩きながら、

城ケ島公園を散策しました。

  

 

標高0mの荒磯に下りてみました。おだやかに波たゆとうていました。

  

 

もやっていなければ雪を被った富士山も眺められたはずだそうです。

 

さらに、磯伝いに歩いていたら、『馬の背の洞門』に出ました。

  

 

その三浦市の説明板を紹介すると、

「これは自然が作った海蝕洞穴で長い年月をかけて波浪、風雨等に浸食されてこのような見事な形となったものです。
地層は第三紀層、鮮新統、三浦層群に属し土質は凝灰質砂礫岩という柔らかい岩質です。
高さ8m、横6m、厚さ2mで、土地の人は『馬の背の洞門』のほか『めぐりの洞門』、『眼鏡の洞門』などと呼んでいます。・・・

明治の文豪、大町桂月はここを訪れて次のように述べています。

『…馬の背に至る、怒涛脚下の巌を嚙む、
左は房州、右は伊豆、前には雲の峰聳ゆ、
その雲の峰少し薄らぎて中より大島あらわる、
馬の背はやがて馬の首となり、長巌海に突出す。云々』

 

ここまで書かれては、もう何も云うことは無し。

そこから灯台の姿を遠望して、終点に着く。

 

バス停前で一応解散。

 

数人で、の~んびり湯につかり、セットのまぐろ丼など頂きながら生を楽しむ。

一杯のはずが二杯になりました。

 

今日もいい一日でした。
幹事さんありがとう。


日本百名山 36、男体山(2484m)

2014-02-11 | 日本百名山

日本百名山 36、男体山(2484m)

約7,000年前、噴火により湯川が堰き止められ、中禅寺湖、戦場ヶ原、小田代ケ原が出来、その流出口に、華厳の滝や竜頭の滝が出来たと云われています。

男体山は、それらを睥睨するようにそびえ立っています。

 (男体山の頂上からの眺め)

設定: カメラ:PRO、レンズ:16mm、風景:夏の山々、高さ強調1.5倍、仰角-18度

 

勝道上人、三度目の挑戦である。

「今度こそはと彼は堅く意を決したのであろう。
中禅寺湖畔に至って経を読み仏を礼すること七日、神仏の加護をひたすら祈って登山の足を踏み出した。
時に勝道四十八歳、われ若し山頂に至らざれば、また菩提に至らず、との強い発願であった。」

ところで、「菩提に至らず」とは、
辞書によると、(煩悩を断って入る悟りの境地)だそうです。

 

「湖畔から山頂まで約千二百米の高距で、殆ど登りずくめの急坂である。
勝道(天応二年旧歴三月=782年4月上旬・勝道上人)は自ら道を開いて行かねばならない。
まだ残雪も深く、樹木の生茂っている間を攀じ登って行く苦労は、なみなみではなかった。
身は疲れ力は尽き、途中二夜のビバーグを重ねて、元気を取り直しては登行をつづけ、とうとうその絶頂に立った。
その時のさまを、空海の文章(性霊集)はこう記している。

『遂に頂上を見る。
怳怳惚惚(こうこうこつこつ)として、夢に似たり、寤むるに似たり。・・・
一たびは喜び、一たびは悲しみ、心魂持し難し。』

この最後の言葉がまことに簡潔適切である。」

『勝利の最初の歓喜の後に、悲哀の感情が来た。
山は屈したのだ、誇り高い頂は遂に屈したのだ。』
(ヒマラヤに初登頂したティールマン氏の言葉)

 

  

「私が男体山に登ったのは昭和17年(1942年)8月・・・、
またこの表登山道が勝道上人の取ったルートに最も近いと思ったからである。
非常に急峻で、湖畔から頂上までひたすら登りずくめである。

行程を十合に仕切ってあって、三合目で初めて樹間に中禅寺湖を見下ろすことが出来た。

頂上は(湖は)細長く鎌の形に伸びていて、眼下に何十丈の深さに爆裂火口が落ち込んでいたが、
それは湖畔から眺めただけでは想像できない男体山の荒々しい姿であった。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 

経験豊かな、ある登山家は云っていました。
我々の登山は、ハイキングみたいなもんだ。人に踏み固められた、安全な道のりをただ歩いているだけだと、・・・
前人未到の山に挑むのは、さぞや難儀なことでしょう。

それを成し遂げて初めて、
『遂に頂上を見る。
怳怳惚惚として、夢に似たり、寤むるに似たり。・・・
一たびは喜び、一たびは悲しみ、心魂持し難し。』


大雪の明治神宮界隈ㇸ

2014-02-09 | 散策

大雪の明治神宮界隈ㇸ

 

予報通り昨夜から、雪はしんしんと降り積もっていました。

我が家の窓から、“真っ赤に燃える~” 日の出を採りました。

 

 

記録的な大雪が降りました。
都心部でも積雪20cmだそうです。17年ぶりだとか。

そこで、吾輩は喜び勇んで、子犬のように雪を楽しみました。

 

 

先ず、都知事さんの選挙です。
原発反対を標榜している夢のある候補者に一票を投じました。

そして、そこから、代々木八幡、代々木公園、明治神宮、玉川緑道と、雪の中を散歩しました。
2時間くらいかな?

雪山登山用の6本歯アイゼンの出番です。
こんな時でないと、ハイキング専門の吾輩にははく機会はありません。

前回は、雪の新宿御苑でした。あれからもう一年です。

 

先ず、代々木八幡へ。

 

それから、代々木公園へ。

 

子ども達が、雪投げをしたり、雪だるまや鎌倉を造ったりして楽しく駆け回っていました。

 

そして、明治神宮へお参りしました。今年初めてのお詣りです。

日本人より、外人が多かったようです。

   

 

その後、緑道を通って我が家へ帰りました。

雪道はいいですね。景色もいつもより清々しく感じられます。

でも、いつもでないから、いいのでしょうが・・・

 

そして、我が家で例のものグビリンコ!

選挙の結果はどうですかな?


日本百名山 35、高妻山(2353m)

2014-02-07 | 日本百名山

日本百名山 35、高妻山(2353m)

「高妻山は戸隠連山の最高峰である。」から、天の岩戸開きの神話で始まります。

「修験者は大てい岩の険しい山を選ぶ。
大峰山、石鎚山、八海山、両神山など皆そうである。
屏風のように長々と岸壁を連ねた戸隠山が見逃されるはずがない。」

ここで取り上げられる高妻山は、戸隠への表山コースと、高妻山への裏山のコースとに分かれています。
どちらも相当きつい山のようです。

 (赤線が表山、青線が裏山のルート)


先ず表山コースですが、

「奥社の裏から登って、蟻の戸渡とか、剣の刃渡りとかいう岩場を通って八方睨み(1911m)に達する。
ここが普通戸隠山の頂上とみられている。

そこから更に岸壁の上っぷちの尾根を一上一下しながら、一不動というキレットまで出て、そこから戸隠牧場へ下る。
これが戸隠の表山で、登山者の多い道である。」


さて、キレットとは、「切戸」とも書き、山の鞍部で特に 深くV字状に切れ込んだ所を云います。

ここでは、表山から、戸隠牧場へ下らず、直接高妻山へ辿るときの鞍部(一不動)がキレットです。

 

そして次に、戸隠牧場から登って、一不動から高妻山へ辿る道が裏山コースですが、


「一きわ高く峰頭をもたげている高妻山、その脇にかしずくようにつつましく控えている乙妻山、・・・

高妻山は2353m、乙妻山は2315m、戸隠・飯縄・黒姫連山での最高峰であるのみならず、山の品格からいっても一番立派であるに拘わらず、登る人は少ない。

昔はこの高妻・乙妻も戸隠の御裏山と称して、修験者が登拝した。」

そして山登りベテランの筆者さえも
「五地蔵の二つのコブを越えて、高妻山への長い登りは急峻で、実に辛かった。
ようやく頂上に達して私の喜びは無上であったが、
もう乙妻まで足を伸ばす元気がなかった。」そうです。

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

さて、経路断面図から見ると、
五地蔵岳から二つのコブを越えたあたりから、高妻山までの裏山コースの勾配は、
沿面距離1.27Km,最大傾斜40.4度(最大勾配85.1%)です。

ちなみに、戸隠神社から八方睨みまでの表山の勾配は
沿面距離1.36Km,最大傾斜44.9度(最大勾配99.7%)です。
ほぼ歩く距離と登る高さが同じです。

どちらも、私には真っ青!
私には、せいぜい30度弱の傾斜で300m程度が限度です。
よくやるよ!まさに百名山です。


小名木川、大横川界隈の散歩

2014-02-04 | 散策

小名木川、大横川界隈の散歩

 

池波正太郎の 『鬼平犯科帳』 でお馴染みの、小名木川、横川周辺を散歩しました。

前回は、確か夏の暑い日でしたが、今回は冬です。
ポカポカと暖かく、歩きよい天気でした。

 

さて、本日は我が家から都営地下鉄大江戸線で浜町駅まで真直に行き、浜町公園から歩きました。

コースは地図の赤線です。総延長は7~8Km。

 

先ず、隅田川(大川)沿いの遊歩道を散歩しました。

途中の堤防壁面に大きく象嵌されている広重の浮世絵を楽しみました。
江戸時代のこの界隈の様子を髣髴させてくれる、ほほえましい絵です。
 

 


 そして、清洲橋の手前を左曲り、小名木川に沿って歩きました。

 (隅田川。向こうに見えるのが清洲橋) 


小名木川は火付盗賊改方 『鬼平』 の主舞台です。
そのすぐ南に仙台堀川、北に 竪川が並行しています。

先ず、万年橋にさしかかりました。

ここの掲示板の一部を掲載すると、

「・・・小名木川に架けられた橋は、船の運航を妨げないよう高く架けられていました。
  
万年橋も虹型をした優美な橋で、安藤広重は『名所江戸風景』のなかで『深川万年橋』としてとりあげています。

また、葛西北斎は『富嶽三十六景』のひとつに『深川万年橋下 』として、美しい曲線を描く万年橋を大きく扱い、その下から富士山を望む、洋画の影響をうけた錦絵を残しています。」

下の図はおなじ掲示板にあった、北斎作・富嶽三十六景 『深川万年橋下』 です。

 

そして、江東区は小名木川について、次のような説明板を残しています。

「小名木川は、隅田川から旧中川まで江東区を東西一直線に横断する、延長4.64Kmの一級河川です。

今から約四00年前の慶長年間(1596~1615)、徳川家康が江戸の街づくりを進めていくなかで、物資の輸送路として開削されました。
以後、米や塩をはじめとする諸物資の輸送路として、または人々の交通路として活躍しました。

江戸幕府は、はじめは隅田川口に、のちに東端の中川口に番所を設置し、江戸と地方を結んで行き交う船を取しまりました。・・・」


小名木川を真直ぐ東に、万年橋から高橋、西深川橋、東深川橋、新高橋と行くと、
やがて横川との合流点に出ます。

ところで、川沿いの歩道の中にはに、2か所ほど『浮橋』なるものがありました。
これは、船のように浮かせた橋で、潮の満ち引きで橋が上がったり下がったりするようです。
実際渡っていると、足元がぐらぐらしました。 

合流点には、昔の面影を残すためか、二基の灯篭が据え付けてありました。

  

さて、地図屋としては、東西に走っているのが竪(縦)川で、南北に走っているのが横川とは?
その答えは途中の掲示板に書いてありました。

「江戸城から見て横に流れるので大横川と名付けられる。」とありました。 納得!

 

さて、横川をスカイツリーに向かって北上していると、江東区が造った『大横川親水公園』が延々と続いていました。

立派ないい公園です。
小さな子供さんたちが伸び伸びと走り回っていました。

  

横川を暗渠にして、その上に公園を造ったようです。

写真にはないですが、釣り堀もありました。
多くのお年寄りが糸を垂れていましたが、私の眺めてる間には釣り上げてる人は見掛けませんでした。

 

そして、言問橋に出ました。そこからのスカイツリーは壮観です。

 

私のカメラでは、上の方までは写りませんでした。

 

そして、裏(国際通り)から浅草寺に入りました。

気付きませんでしたが、今日は丁度 “豆まき” を祝う日でした。
正面には『恒例 節分大祈祷会 執行』 と大看板が建っていました。

 

豆まきが始まるのは、まだ先のようでした。

仲見世通りは人が混んでいましたので、横通りを通って、馴染の『神谷バー』に入りました。

そこで、乾いた咽喉を、生とステーキで一人乾杯しました。

帰り際に、田舎の友達に携帯で電話して、孤独を癒しました。
もちろん相手は女性です。 ハハハハ・・・ハ~。 

いい一日でした。