江戸東京博物館の 『大浮世絵展』 を観る
仲間に勧められて江戸東京博物館へ浮世絵を観に行きました。
間もなく会期(3月2日まで)終了のためか、結構混んでいました。
家から直通の都営地下鉄で森下駅へ行き、そこからブラブラ両国まで散歩しました。
途中には、鬼平馴染の軍鶏なべ五鉄跡や、勝海舟生誕の地、吉良邸跡、回向院、旧国技館跡などがあり、それらをのんびり探索しながら両国の江戸東京博物館までの約2kmを歩きました。
先ずは五間堀跡を渡り竪川にかかりました。
この五間堀は、妙な形に曲がっている珍しい堀ですが、その理由は解りません。
なんでも、明暦の大火の後に、六間堀とともに出来た堀とか。
現在は埋め立てられていて、緑道や遊園地になっています。
そして、竪川の二之橋を渡ります。
ここが池波正太郎の『鬼平』で有名な軍鶏なべ屋の『五鉄』跡地です。
そこの説明板を引用すると
「 江戸の町 二之橋
万治二年(1659)、竪川が開削されると五つの橋が架けられ、隅田川に近いほうから一之橋から五之橋と名付けられました。
その二つ目の橋で、長さ十間(18m)、幅三間(5.4m)ほどありました。
池波正太郎の『鬼平犯科帳』では、二之橋は『二ツ目橋』という名で数多く登城します。
鬼平が事件を解決するなかで、弥勒寺門前のお熊婆のいる茶店『笹や』へ行くにも、
大川から舟で乗り付けて軍鶏なべ屋『五鉄』に立寄るにも、
この橋は必ず登上し、正に欠かせない場所となっています。・・・」
そしてその横に、竪川の橋が描かれた浮世絵が添えてありました。
軍鶏なべを過ぎて左に曲がると、小学校と公園があり、そこが勝海舟生誕の地です。
西郷さんと談合を重ね、江戸を火の海にせず平穏に引き渡した功績は大きい。
そして、この碑文を西郷さんが書いています。
人間の大きさを感じさせます。
そして、間もなくして、奥まったところに吉良上野介の屋敷跡がありました。
忠臣蔵と謳った説明板がありましたので引用します。
「 吉良邸跡
吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西七十三間(131m)、南北三十五間(63m)で、面積は二千五百五十坪(約8400㎡≒普通の家80軒余)だったとされています。
現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の八十六分の一の大きさに過ぎません。・・・」
それから京葉国道に出て間もなくに、回向院がありました。
墨田区の説明板によると、
「明暦三年(1657)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は十万人以上、
未曽有の大惨事となりました。・・・
四代将軍徳川家綱はこうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に『無縁塚』を築き、・・・
後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者・・・
が埋葬供養されています。」
回向院横には、もとの国技館跡の記念碑があり、その屋敷の中庭には当時の土俵の位置が示されていました。
土俵の直径が4.55mといわれていますが、ここの円はそれより大分大きく見えました。
さていよいよ、今日のテーマである江戸東京博物館に向かいました。
最初に触れたように、結構な人出でした。
時代を追って展示され、解説されていました。
私は、「音声ガイド」を使い、丁寧に見て回りました。疲れました。
菱川師宣の「見返り美人図」がすでに他の会場へ移動していて見れなかったのと、
唯一女性画家である村上松園の美人画が見たかった。
またの機会を期待しています。