地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

長谷川町子美術館を訪ねて

2014-10-29 | 散策

長谷川町子美術館を訪ねて

 

東急田園都市線 桜新町駅から、一応歩きました。

歩いた距離はたったの2Kmです。でも、健康維持のため歩いたのです。

地図で示すと下図の赤線です。

駅前にサザエさん一家の像が並んで立っていました。

道案内と、お出迎えですね。

写真に収めるのは帰りにと、まずはお昼のラーメンを食べに通りを急ぎました。

結構、うまい店でした。

 

さて、サザエさん通りを下って、交番の先に、見たことのある美術館がひっそりと建っていました。

長谷川町子美術館です。

   

受付で65歳以上の高齢者チケットを頂き、おずおずと内覧を始めました。

  

館内での写真撮影は禁止でした。

従って、パンフレットの説明で、要約すると、

「画家の名はほとんど覚えず、絵だけで決める買い方です。」

知名度無視、自分が気に入ったものを求めるということです。

ただ、ある人から

「けど、何ぼいい絵があってもお家で眺めやすだけですわな。・・・」

と云われ、それからは

「そのしらけた空(むな)しさは、ずっと心に居座っていました。」

そして、お姉さんと相談して、美術館を建てることにしたのです。

それが、ここです。

という漫画入りの説明パンフレットでした。(著作権の関係で一部のみ抜粋)

 

長い時間をかけて、じっくり鑑賞しました。
描かれている「花」もいいが、その壺を置いた「敷布」がいいですね。

どれも、実にリアルです。

 

さて、帰りに、すぐ裏の「サザエさん公園」に寄りました。

       

 

 今日は、長谷川町子さんの顔写真も十分に拝ませていただいたし、
公園も静かに楽しませていただきました。

 急にこの公園を訪ねる気になったのは、一寸した知り合いから勧められたからです。

「桜新町はいい街です」といっておられました。

確かに、整然と整ったいい街です。
それは、電信柱がないからでは?

地下に埋められてるのですね。

私の生まれ故郷(広島県の上下町)も、銀山街道とかで電柱がありません。

すっきりした、いい街です。(ちょっとほめ過ぎかも?)

 

オリンピックに間に合わせては、どうですかな~。


お茶の水駅界隈の散歩

2014-10-29 | 散策

お茶の水駅界隈の散歩

 

駅前の眼科i医へ行く予定があり、ついでに界隈を散歩しました。

病院を出て、頑丈な造りの聖橋を渡って、湯島聖堂へ行きました。

木々がこんもりと繁り、いい感じです。まだ紅葉はしていませんでしたが。

歩いたコースは下の地図の赤線です。

 

入徳門をくぐり、杏壇門(きょうだんもん)を入ると、聖堂です。

厳かな感じです。私には無縁なようでしたが・・・。

    

 

元の「昌平坂学問所」で、孔子像が祀られています。

  

それにちなんで、楷(かい)の樹が大きく育ち、「楷樹の由来」が建っていました。

    

  

その説明の一部を紹介すると、

「楷は曲阜(きょくふ・孔子の生誕地)にある孔子の墓所に植えられている名木で、・・・
枝や葉が整然としているので、書道でいう楷書の語源ともなったと云われている。・・・

中国では殆ど全土に生育し、黄連木、黄連茶その他の別名も多く、
秋の黄葉が美しいという台湾では爛心木と呼ばれている。
牧野富太郎博士はこれに孔子木と命名された。・・・」

とありました。

 

そこをでて、昌平坂を登り、後ろの神田明神へ立ち寄りました。

いつ来ても参拝者が多いです。建物も華やかです。

 

  

 

捕物控の銭形平次と八五郎の記念碑を撮り、裏門の坂道を降りました。

 

そこから、万世橋へ歩きました。

いつか来て、食べ損ねた、昔の駅舎の二階の飲み屋に行ってみましたが、
今日は時間が少し早く(11時少し前)、入れてくれませんでした。

でも、少し周りをぶらついて、イの一番で入りました。

妙な名前の、「カフェー&和酒」 の店です。

冷酒とインドカレーを味わいながら、静かに、中央線と総武線の電車の走る姿を眺めました。

実にいい味わいでした。ちょっと高かったけど・・・。

 

そして、帰る途中、以前火災で消失し先日再開した、そば屋を覘いてみました。

お昼には少し早いらしく、大勢のお客さんが列を作って待っていました。

有難い『老舗』の光景です。

    

 


青山墓地を散策

2014-10-26 | 散策

青山墓地を散策

 

いい天気でもあり、暇に任せて、青山霊園を散歩しました。

 

何時もの緑道から、明治神宮内苑の中を通り、人の多い原宿駅前から表参道を経て、青山霊園に行きました。

表参道はいつものように若者たちで一杯でした。そのくせ、店内は割と空いています。

何の目的で集まってくるのかな~?

 

次は表参道交差点から歩いたコース図です。

 

青山橋を渡って、途中から左に入りました。

下が、公園内の案内図です。

4色に色分けされていますが、凡例だけではわかりませんでした。後日調べます。

 

結構、金を掛けた立派な墓石が立ち並んでいます。

墓地を見ながら、いつも思うのですが、

「お金をかけて、立派なお墓を建てる意味」???

せいぜい故人を慕ってお詣りするのも百年ぐらいのもの。

「やめようかな~」、と思うのですが、その時になると旧来の習慣に従ってしまうのが落ち、

そんなことを想いながら進んでいると、外人墓地の一角に出くわせました。

      

そして、『青山霊園――歴史の森 外人墓地の…』と書かれた説明板がありました。

その一部を紹介すると、

「明治10年、築地居留地などに住む外国人専用の墓地を青山霊園に設けることが決まりました。
そして最初の埋葬が明治13年に行われました。

明治32年居留地制度廃止に伴い外人墓地も一般墓所の一部として扱われることになりましたが、
現在も『外人墓地』と呼ばれています。

ここには、幕末から明治期にかけて我が国の教育や工学など様々な分野の基礎を作り、
日本の近代化に大きく貢献された方々や、その家族が多数ねむられています。・・・」

と、ありました。

帰りは、青山通り(国道246)を通り、表参道から、代々木公園の方へ曲がりました。

しかし、例の「デング熱」の蚊のため、入園禁止になっていました。

そこにいたホームレスの人たちはどうしているのだろう。
まさか、蚊に刺されるまま、放置してるのではないでしょうが・・・。


都内ウオーク

2014-10-20 | 散策

都内ウオーク

広島の上下高校同窓会が都心の如水会館で行われたので、出かけてみました。

関東支部会とかで、出席者は60名くらい。よく集まりました。
その中でも、我々の同期が一番多く、9人もいました。

さて、どうせ行くなら歩いてみようと思い立ち、12:00開催なので、余裕を見て9:30に出かけました。
コースは下の地図の赤線です。大体9kmくらいか? 

新宿までは、何時もの緑道を、新宿高校前からは御苑の側道を大木戸口まで、
殆どが緑道で、車にも人通りにも煩わされることなく、スイスイ歩きました。

そして、そこから四谷駅までは甲州街道(新宿通り)をぶらぶらしました。

大体は、四ツ谷駅あたりで少々疲れるのですが、どうしたことか今日は元気でした。

四谷駅からは、中央線沿いの土手を歩いて市ヶ谷駅まで、
そこからは、靖国神社を左手に見ながら、九段下まで歩きました。 

そうして、お堀端をぶらぶら、陽光を楽しみながら如水会館まで、少し道に迷いながら歩きました。

着いたのは、開催の12:00少し前でした。
大体、2:30歩いたことになります。

でも、別に疲れませんでした。
東京も、大して広くはないですね。
日頃乗り物に頼りすぎて、 広く、遠く感じるのでしょう。

今後も、大いに歩きましょう。ボケた徘徊老人にならないように。

 


「ぐるり多摩の里山歩き」に参加して

2014-10-20 | 散策

京王沿線ウオーキング 
「ぐるり多摩の里山歩き」に参加して

友達に誘われ急遽、多摩動物公園界隈の里山歩きに参加しました。
歩いた距離は9kmとか。

下の図がが今日のコース図です。

そして、下の写真が多摩動物公園駅前です。

いい天気で、いい散歩でしたが、参加者の多いのには驚きました。
それが皆、高齢者の男女で、皆さん黙々と歩いていました。

中には、友人たちとハッシャイでいる人たちもいましたが、大体が静かでした。

途中に、大きな大学のキャンパスがありました。
中央大学です。

もともと、お茶の水駅界隈に法学部中心の私立大学が固まっていたのですが、
ずいぶん遠くに移転したもんです。

そのためもあってか、毎年秋の大学祭(白門祭)には、ここから駿河台キャンパスまでの50kmを
夜間、ウオークされるのだそうです。
中大ナイトハイクというそうです。

さて、そこを過ぎてしばらく行くと、大栗(おおぐり)川の土手に出した。
鴨たちの遊ぶ、静かな川です。

何でも、鎌倉時代に存在したお寺の倉庫横を流れていた川で、大庫裏(おおくり)川の変化したものだとか。

2時間余りの、うららかないい散歩でした。 

 


日本百名山 55 穂高岳(3190m)

2014-10-14 | 日本百名山

日本百名山 55 穂高岳(3190m)

「穂高岳は昔、御幣(ごへい)岳ともいった。
空高くそびえる岩峰が御幣の形に似ていたからである。

また奥岳とも呼ばれた。
人里から遠く離れた奥にあったからだろう。


梓川ぞいにバスが通じて以来、人人は たやすく神河内(上高地)に入り、
そこから穂高を仰ぐことができるようになったが、
それ以前は徳本(とくごう)峠を越えねばならなかった。

峠に立た時、不意にまむかいに現われる穂高の気高い岩峰群は、
日本の山岳景観の最高のものとされていた。
その不意打ちにおどろかない人はなかった。・・・」

  徳本峠からの眺め。 
(注:藍色インキ欠落のための写真です。以下同じ)

設定: カメラ:STD、レンズ:35mm、風景:日本アルプスの朝、高さ強調1.5倍。


「明治末年頃から、日本山岳会の先輩たちが相次いで登り、

それまで一括して穂高と呼ばれた岩峰群に、北穂高、奥穂高、涸沢(からさわ)岳、前穂高、西穂高、明神岳という風に、それぞれの名称が与えられるようになった。
その最高は奥穂であってわが国第三位である。

初登頂は明治39年(1906)、陸地測量の時で、・・・」

   

赤線が経路断面図と同じ縦走のルートです。

「しかし、そこで永遠に眠った人も多かった。・・・

近年は冬期登山に毎年のように犠牲者を出している。・・・
死ぬものは今後も絶えないだろう。
それでもなお穂高はそのきびしい美しさで誘惑し続けるだろう。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 

井上靖 氏の小説 『氷壁』 でクローズアップされましたが、それは前穂高東壁の冬季初登頂の記述ーー
吹雪に見舞われる厳しい登攀のなか、頂上の直前でロープが切れて滑落し、深い谷底へ消えていった物語です。

そのルートは、今もなお、おぼろに私の脳裏に残っております。

 確か・・・?黒線のルートです。上高地の方からのルート。

 

私も、山の仲間に連れられて、一泊二日で登ったことがあります。

とは言っても、私を含む二人だけは、西穂手前のピラミッドピークまででU ターンしました。
それでも、今から思うと、よく登ったと思います。

すぐ右隣には前穂が聳えていました。
垂直に崖を攀じ登るような感じの処が、結構ありました。

そこを下るのが、また一苦労、恐怖でした。
足元に何も見えないのです。足探りです。
苦労なんてものではなく、生きた心地がしなかったです。 

今から、5年前の平成21年(2009)8月のことです。
もう、登ろうなんて気はありません。

下は、その時の記念写真です。 中央で標識を背に、へたり込んでるのが私です。

哀れな記念写真です。


 

 

 

 

 


赤塚植物園を散歩

2014-10-08 | 散策

板橋区立 赤塚植物園とその周辺を散歩しました

今日は、新宿駅、池袋駅を経由して東武線成増駅まで電車で往復しました。

そして、成増駅からは松月通りをてくてく歩いて赤塚公園界隈を散歩しました。

歩いた距離は約7Kmです。

 まず、板橋区立 赤塚植物園と万葉 薬草園に行きました。

  

よく整備されていて、名札がついていましたが、今頃は木花が咲いていないのですね。

ハギもこんな状況です。

  

 仕様がないので、木の実を撮りました。

    

 

そして、ぶらぶらと乗連寺に行きました。

 正面に東京大仏が鎮座していました。鎌倉大仏に次ぐ規模の阿弥陀如来像です。
座高:8.2m 頭部は3mです。 

  

 

そしてそのすぐ右隣に天保飢饉の供養塔が建っていました。

 その説明板を紹介すると、

「天保の飢饉は、享保・天明の両飢饉と並び江戸時代三大飢饉の一つに数えられています。
天保四年(1833)から同七年にかけて全国的な天候不順による凶作、疫病の流行によって
大勢の餓死者や行路病死者(行き倒れ)が出ました。

 幕府は、白米や銭を支給するとともに、同八年(1837)には、新宿・品川・千住・板橋の四宿に救助小屋を設けてその救済に努めましたが、亡くなるものは後を絶ちませんでした。

 この供養塔は、当時板橋宿の中宿にあった乗蓮寺の・・・死者を寺内に埋葬し、・・・
台座には同八年三月から十一月の間になくなった423人(男333人、女49人,子供41人)の戒名が刻まれています。・・・」 板橋区教育委員会


行路病死者(行き倒れ)” と一言で書かれていますが、ご本人の心情はいかがでしたか、
多分、地獄への三途の川が見えていたのでは・・・。

最近、地震・津波・台風・竜巻・・・などが多発し、異常気象が感じられますが、
情報の少なかった昔は、もっといろいろな天災や人災があったようですね。

せめて、人災だけは避けたいと思いますが・・・。

 

さて、その供養塔の後ろには、石仏が沢山祀られていました。

そして、この大仏の左には、妙な地蔵様達がまつられていました。

その一つは、三途の川の“奪衣婆”の像です。

おそる、おそる通り過ぎました。いい気はしませんでした。

それからしばらく歩いて、赤塚溜池公園を覘いてみました。

ここは、赤塚城の跡地で、武蔵千葉氏や北条氏の擁護を受けていました。

従って、秀吉の小田原城陥落と共に亡びました。

その城跡です。

  

 

そして最後に、松月院に寄りました。

ここは、高島秋帆先生ゆかりの地です。

 先生は阿片戦争による清国の窮状を知り、わが国に西洋式砲術を育成した人です。

その本拠地がこの松月院であり、その訓練をしたのが、すぐ近くの高島平団地です。
当時の徳丸原です。


正面玄関を後にして成増駅へ急ぎました。 

 

帰りは、成増駅前で、回転ずしと生ビールをたらふく頂きました。

台風一過の、いい一日でした。


一泊二日の山行

2014-10-01 | ハイキング 里山歩き

一泊二日の山行

渋谷区の山の家『峰の原』に泊まり、山の会メンバー24名で山とハイクに行きました。

例の御嶽山とは100kmくらい離れていますが、爆発があった翌日だっただけに、少々怖い気はしました。

でも、私の経験では、こんなに好天気の山行きは初めてです。
二日間とも、雲ひとつない快晴で、しかも気象条件も最高! 

私は、初日はハイキングにしましたが、翌日は山にしました。
しかし、ついては行きましたが、やはりハイキングにした方がよさそうです。
やはり、歳ですね!

さて、初日のハイキング・コースは 、途中トラブルもあり、次のように変更しました。

  

途中のトラブルとは、私のすぐ前の人が、道を踏み外して、少しばかり滑落したのです。
始めは、たいしたことは無いように思いましたが、転んだとき補聴器で耳を傷め られたらしく、
耳たぶから結構出血し、かつ胸の方も打たれ、動けなかったようです。 
仲間を呼び、助け出されたが、それからは、はやい下山のことばかり考えていました。 

高峰山へのハイクは止めにしました。


けが人は、救急車で、病院で治療と検査を受けられました 。
幸いその日のうちに治療を済ませ、夕食も共に出来ました。


さて、翌日ですが、生意気に登山に変更し、姫木平ハイク周回コースへ行きました

コースは下の図です。

全長8kmあまり、標高差350m。大笹峠を過ぎると下り道ばかりと聞いていましたが、
南の耳への坂道は急だし、殿城山からの下り道は、岩だらけの急坂が延々と続き、
年寄りにはきつかったです。

1/2.5万地形図のコ―ズ図だけでは判断できませんね。

そんなきつい処を、若い女性たちはピイチク、パアチク、おしゃべりしながら歩いていました。
やはり、若さにはかないませんね。

ところで、景色ですが、これが富士山。  拡大して見てください。

   

それから、下が大笹峠頂上の小屋。

そして、北の耳

南の耳

360度見渡せる景色です。
霧ヶ峰高原の車山の展望台がしっかり見えました。

 

ちょっと本コースからずれて殿城山

  

それから、忘れてはならない山が煙を吐いていました。

ここから約100km先の御嶽山です。
快・快晴ですから 、遠くの噴煙がよく見えました。

  
あの中で、幾人かの人がもがき苦しんでいるのかと思うと、
今の自分が、ちょっと・・・。


それから新宿へ一直線。
月曜日ですから高速も空いていました。