地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

今朝のジョギング

2010-08-26 | 日記
今朝のジョギング

今朝は仲間もなく、たった一人でジョギングしました。
コースは下の地図の緑線です。



6:00スタートし我が家へのゴールは8:00頃でした。
距離は15kmですから、約7,5km/h。
 一寸遅いですね。少なくとも8Km/h でないと。
諏訪湖ハーフマラソンの制限時間2:40には??

初めは、いつものパーマネントコースだけで辞めようと、走り始めたのですが、久し振りのマイペース走が気持ちよく、走っているうちにターゲットが、中央公園になり、代々木公園になり、とうとう新宿御苑脇から神宮外苑になりました。

新宿高校正門前を過ぎ、新宿御苑横の並木道を気持ちよく走るつもりで居ましたが、朝が早いためか、未だゲートが閉まっていて、仕方なく、並行して走っている自動車道(甲州街道ではなく)を走りました。

そして、少しだけ甲州街道を走り、新宿警察署交差点から右に折れ慶応病院前を通って明治神宮外苑に入りました。
7:00ころでした。
ジョギング約1時間。マイペースですからあまり疲れは感じませんでした。

これが、仲間と一緒のときは、あまり遅れてはいけないとか、追い越してやろうとか、雑念が災いして、テンポが狂い、くたぶれてしまうのですが・・・

外苑のトラックを一周半して、イチョウ並木通りから青山通り(246号)に出ました。

この、外苑のトラックは一周1350mと表示してありました。
この秋に、諏訪湖マラソン・ハーフに挑戦しますが、制限時間が2:40とありましたので、自分のペースでは無理かな~と心配でしたので、ここで試してみることにしました。

一周:約8分でした。ハーフに換算すると2:10くらいか?
この体調が続けられれば、なんとかなりそうですが・・・無理かな~?

さて、スポーツドリンクを飲みながら、青山通りへゆっくり出て、そこから表参道経由、井の頭通りを大山交差点で右折して、いつもの玉川緑道を帰りました。

代々木公園は、やはり中を一寸走って、井の頭通りへ出ました。
何時走っても、いい公園です。
そして、いい汗かきました。










川越・狭山自転車道をサイクして

2010-08-16 | 日記
予定の一つ、荒川・川越狭山自転車道をサイクリングしました。

お盆休みで車も少なく、天気も上々。いや、上々以上で暑過ぎでしたが・・・

朝6時我が家を出発、新宿までサイク、そこからJR埼京線で南与野まで一本。
南与野駅で自転車を組み立て、7:00スタート。



入間大橋までは荒川自転車道。
大変よく整備された路で、荒川河川敷を緑豊かな田園風景やゴルフ場を楽しみながら気持ちよく走りました。
時々、自転車仲間とすれ違う程度で、極めてうららかなサイクリングでした。

荒川自転車道は、道案内や、案内表示板などがよく整備されていて、路に迷うようなことはありませんでした。

下は、入口の羽根倉橋に掲げられていた地図です。
コースの一部が工事中のための迂回路の案内板です。ご親切ですね!


そして、驚いたのは、入間川自転車道への入口です。
荒川と入間川の分岐点に上之江橋(元・日本道路公団建設の有料橋)が架けられていますが、その橋の真ん中に、中洲に降りる自転車のためのUターン道路が作られているのです。
こんなの、ほかで見たことありません。感謝!感謝!

荒川自転車道の道路状況も下の写真の状態です。


しかし、川越・狭山自転車道は、未だ整備も半ばといった状態で、所々走りにくいところや、展望の開けない土手下の路のところがたくさんありました。

土手下の路を延々と走っていると、「何のために、釈迦力(?)になって走ってるんだろう」と、自分の馬鹿さかげんに辟易することもあります。

しかし、そこは挑戦!完結のあとのあの美味いビールを夢見て走るのです。
これって、邪道でしょうか?
ある人が言っていました。恵まれた環境からは、そうした繊細な感懐は生まれてこないと・・・。

本日は、川越市を左に見ながら、落合橋を渡らず、そのまま入間川を狭山市へ南下しました。
日を改めて近いうち、この落合橋を渡って越辺川(えっぺがわ)沿いに坂戸市へも行くつもりです。

狭山市に入ると、サイクリング道路沿いに広々とした運動公園があり、高齢者を交えた男女の方がゲートボール(?)を楽しんでおられました。
下はそのヒトコマです。


体が不自由に成った方々に手を差し伸べるのは大切ですが、こうして健康維持に努めておられる方々に目をむけた行政も大切ですね。

ようやくの思いで、狭山市にたどり着きました。
10:30ころでした。60Kmは走りましたでしょうか。

狭山市駅前は都市計画工事中といった感じで、美味しいビールも狭山茶も、味わえる環境にはなっていませんでした。
残念!電車内でビールをゴクリ!

さて次は、比企自転車道でこども動物公園へ、荒川自転車道の全線を走って武蔵丘陵森林公園へ行ってみるつもりです。


藤沢周平さんの世界へウオーキング

2010-08-09 | 日記
藤沢周平さんの小説の舞台を訪ねて

都営地下鉄森下駅から、いま、読んでいる藤沢周平さんの小説の舞台を歩いてみました。

中川恵司先生の労作「復元・江戸情報地図」(朝日新聞社 刊)の地図を下敷きに今回歩いたコースを赤破線でなぞってみました。


森下駅から西へ暫くすると、隅田川に出ます。
江戸時代は大川といっていたようです。
川幅は170mぐらい(橋は116間=約200m)あります。江戸時代から木作りの橋が架かっていたようです。(現在より約200m位南にありました。)


川沿いにテラスが設けてあり、散歩に好適な路です。
所々に芭蕉の句が掲げられ、路行く人を楽しませているようですが、文才ゼロの私には無用の長物です。


隅田川(大川)に架かる新大橋の袂から川沿いのテラスを南に下ると、小名木川(おなぎがわ)の河口(川幅約50m)に差しかかります。

この小名木川は、江戸時代の江戸への物資の搬送口に当たり、「通船改めの番所」が設けられていました。
そして、その河口に万年橋が架けられていました。
その形は、船が通りやすくするため、虹型の優美な形をしていた様で、安藤広重の絵には「深川万年橋」として江戸名所図絵に描かれています。

また、北斎の浮世絵には、橋の下から富士が望める構図になっていて,ユニークです。
橋の袂にその絵のプレートが掲げられていました。下がその写真です。



現在は、ごくありふれた形の万年橋を向こうに見ながら、小名木川(おなぎがわ)を東進しました。まっすぐに・・・。

この辺りが、藤沢周平さんの小説に良く出る所ですが、今は、10階建てぐらいのマンションが立ち並んだ、穏やかな住宅地です。

1.5kmぐらい東進すると、やがて、自然の川では見られない、川の十字路に出ます。
掘割の所以ですね。
そして、ここには川角の2箇所に灯台の役目のためでしょうか、写真のような火の見櫓が保存されていました。


ちょっと情緒があっていいですね。夜の散歩には特に・・・。

大横川との交差点を北に辿って、高速道路の架かる竪川までは、所々歩きにくいところもありますが、北進していると、目の前に工事中のスカイツリーが大きく姿を現しました。
新しい下町の景観ですね。

その先には親水公園も設けられているようですので、是非早いうちにジョギングしてみましょう。

本日は実に暑いので、途中、高速道路の走る竪川を西に進み、六間堀と五間堀をジグザグ歩いて、最初の森下駅に帰りました。

上の写真が、今は埋め立てられた五間掘川跡で、下の説明板はその来歴です。



さて、本日の歩行距離 約5Km。
しかし、途中に全く飲食の出来るところなし。自動販売機だけがちらほら・・・。
お陰で、この暑いのにビールを飲まずに元の駅にたどり着きました。

次に来るまでには、藤沢周平全集(多分、20巻ぐらいありますが・・・)を出来るだけ味わっておきましょう。
それと、平岩弓枝さんの“かわせみ”宿も面白いですね。

中川恵司さんの労作『復元・江戸情報地図』(朝日新聞社 刊)を辿りながら読むのは楽しいです。

今日は独りでしたが、次は連れと一緒にジョギングするつもりです。




わが故郷 上下町

2010-08-05 | 日記
わが故郷=広島県府中市上下町へ行ってきました。

小・中学校時代のクラス会に参加するためです。
一寸早目の喜寿を祝う会ですが。

あの静か~な、田舎のクラス会に35人も参加者があり盛況でした。

小学5年生のときが終戦でしたので、疎開して来た人や、満州辺りからの引揚者が居て、名簿上の同級生は195人とか・・・

さらに、呉市からの集団疎開の人たちを加えると、250人にはなったでしょう。
過疎化した今の小学校(全校生徒50人くらい)では想像がつかないほどの生徒数でした。

事のついでにいい添えると、
この小学校に広島の幼年学校の生徒さんの三分の一(100人ぐらいか?)が引っ越してきていました。
はちきれんばかりのに人数で、まともな授業など出来る状態ではありませんでした。

そのわが田舎も、今では過疎化が激しく、独自では自治体が維持できなくなり府中市に吸収合併されました。
歴史ある街だけに残念です。



この上下町は、山陰の大森銀山から瀬戸内海へ銀を運んだ銀山街道(別名、石州街道)の宿場町で、明治になるまで代官所も置かれた幕府直轄の天領でした。

そのためか、周囲の田園地帯の地主たちが集落をなし、豊かな商人が多かったようです。
広島銀行の素をなした角倉財閥の蔵(現在キリスト教会)、造り酒屋や醤油蔵、さらに、豪商の二階には隠された博打場などもあったとか・・・。

現在でも、そのころの威容をしのばせる土蔵や町屋が並び、それらが白壁やなまこ塀、格子窓、そして、うだつや虫籠窓、奥行きの長~い町屋など、文化財的建物が数多く残っています。

友人の家などは、表の間口は3間(5m)ぐらいなのに、奥行きは85mぐらいあるそうです。
当時は間口の広さで税金が決まっていたそうですから。

街全体は
“白壁のにあうロマンのまち 上下” とうたい、
歴史街道としての国指定を受け、下の写真のように、街道沿いの電柱や側溝は地下に埋設され、実にすっきりした綺麗な街並みです。




過疎化のためか、その綺麗な街も、人通りは極めて少なく、人っ子一人見れない昼間のひと時もありますし、いやに、駐車場の多い街並みです。(取り壊したら、家は再建されず空き地になるからです)

ただ、感心するのは、カーテンをひいた店は多いですが、シャッターが使われていないことが、救いです。

この街も、これから10年の間に、どう変わるのでしょうか?

遠い昔の姿に収斂してしまうのでしょうか・・・?