地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

新宿中央公園を散歩

2012-12-30 | 散策

新宿中央公園を散歩

 

十二社と熊野神社を訪ねて新宿中央公園に行きました。

以前は、新宿へ出るのに電車か自転車でしたが、最近はほとんど歩きです。

それくらい近く、20~30分も歩くと新宿駅に着きます。

 

さて、今日の歩きのルートは下の図の赤線です。

行きは玉川上水緑道で、帰りは水道道路です。どちらも人の通りが少なく歩きやすい道のりです。

 

 

明治13年測量二万分一東京近傍図(陸地測量部)も載せてみました。

 

旧図によると、十二社は元の位置から東に移築されたようです。十二社通りを作るためでしょうか。

 

写真は、熊野神社横の今の十二社通り界隈の写真です。

  

 

この辺りに元の熊野神社があり、大小二つの池があって、多数の茶屋が賑わった景勝地でした。

パンフレットによると

「十二社の池は、慶長11年(1606)伊丹播磨守が田畑の用水溜として大小2つの池を開発したもので、現在の熊野神社西側、十二社通りをへだてて建つビルのあたりにありました。…水源は湧水であったようです。

池の周囲には享保年間(1716~35)より多数の茶屋ができ景勝地としてにぎわっていました。明治時代以降は、大きな料亭ができ花柳界として知られるようになり、最盛期には料亭・茶屋約100軒、芸妓約300名を擁したほか、ボート・屋形船・釣り・花火などの娯楽も盛んに行われましたが、昭和43年(1968)7月に埋め立てられました。・・・」

  

 

以下が、熊野神社正面の鳥居と社殿であり、全体の見取り図です。

  

 

そして、そこの掲示板を引用しますと

「十二社の熊野神社は、室町時代の応永年間(1394~1428)中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州熊野三山より十二所権現をうつし祠ったものと伝えられます(一説に…)。・・・この十二所が、昭和45年(1970)までこの地の町名であった十二社と読み変わったものとされますが、別に複数の社をひとつに祀る相(双)殿形式で十二の社を祠った十二相(双)殿からきたという説もあります。江戸時代の文献にはこの他、十二處、十二荘、十二叢、十二層などの記述が見られます。・・・

また、享保年間(1716~35)には八代将軍吉宗が鷹狩を機会に参拝するようになり、滝や池を擁した周辺の風景は江戸西部の景勝地として賑わい、文人墨客も多数訪れました。・・・」とあります。

 

 

公園に珍しい木がありましたので掲載します。

左はメタセコイア(スギ科)、右はトクサ?

 

園内には小さな動物を守るためにビオトープ(生物空間)が設けられていました。

金網で厳重に守られていました。

地球はまだまだ大丈夫なのか?

 


清澄庭園を徘徊

2012-12-26 | 散策

清澄庭園を徘徊

 

先に旧岩崎邸にうかがった際、ガイド嬢に清澄庭園のことをお聞きしたので、

今日は、都営地下鉄で清澄白河駅に下車、駅前の清澄庭園を訪ねました。

 

現在は清澄公園の東半分が清澄庭園として公開されています。

西半分は、清澄公園として公開されていますが、

庭園として整備され有料になっているのは東半分の庭園です。

 

下は、チケットと清澄公園全体の図です。

 

 

先ず、清澄庭園を散歩しました。コースは下の赤線です。

 

チケット裏の説明を紹介しますと

「本園は、初め江戸の豪商紀之国屋文左衛門の別邸であったといわれ、その後、諸大名等の下屋敷として用いられてきましたが、明治11年(1878)に至って岩崎家の所有するところとなり、同24年(1891)和洋両館を含む大庭園となりました。(最後尾の写真参照)

池泉には、隅田川から水を導き、潮の干満により庭趣に変化をもたせた潮入りの回遊式林泉庭園で、大小の島や磯渡りを造り、池辺には岩崎家が全国各地より収集した奇岩珍岩が巧みに配置してあります。

大正12年(1923)の関東大震災後、現在の庭園部分を東京市が寄贈を受けて修復し、昭和7年(1932)一般公開しました。また、この間には皇室より下賜された大正天皇葬場殿を現在地に移籍修築し、大正記念館と命名、集会場として一般に公開しています。

昭和20年(1945)3月、本園は全域にわたり戦禍を受けましたが、戦後は記念館の再建と併せて、奇跡的に消失を免がれた涼亭や池辺の庭石等をもとに逐次園景も修復され、今なお明治時代の代表的庭園として知られています。」

とあります。

     

 

この公園には、いろいろな岩が配置されており、歩くにも庭石伝い、池の中は磯伝いに歩かせてくれました。ここでは「磯渡り」というそうです。

そしてさらには、足元を大きな鯉が悠々と泳ぎまわり、その周りにはいろいろな鳥たちが何の危険もなくのびのびと飛び回っていました。

他では味わえない、心休まる趣でした。

 

 

また、マンリョウ(万両)、センリョウ(千両)のほか、ヒャクリョウ(百両)、ジュウリョウ(十両)などという珍しい木も見られました。

   

名前がめでたいので正月の縁起物としt飾られるようです。園内あちこちにそれとなく見せる姿がんjくいいですね。

 

その他で、目についたのは見事な赤い実をつけたナンテン、

名前が解らないが、きれいな花

そして、今回、記憶に留めておきたい石仏の数々

 

 

 

そのあと、ほぼ同じ広さの隣の公園も散歩しました。

もともとは、ひとつにつながっていたようです。

 


旧岩崎邸周辺を散策

2012-12-24 | 散策

旧岩崎邸周辺を散策

 

地下鉄の本郷三丁目駅から旧岩崎邸へ向かいました。

散歩コースは下の地図の通りです。

 背景にした地図は、明治16年発行の「五千分一東京図測量原図」です。

まだ、岩崎邸(明治29年完成)ができる前のものです。

 

先ず、❶ 麟祥院へ。

想像以上に広い墓地のあるお寺で、 ❷ 春日の局が祀られていることで有名です。

文京区の掲げた掲示板によると、

「幼名は福、父は明智光秀の重臣斉藤内蔵助利三、母は刑部少輔越智道明の女で、はじめ稲葉佐渡守正成の妻となり、・・・三子をもうけましたが、慶長九年(1604)三代将軍家光公の乳母として召出され三千石を賜りました。

家光公が将軍職に就くため献身的な活躍をし、大奥の制度の確立に尽くしたことは有名です。

寛永五年家光公二十五歳の折、疱瘡にかかられ、諸医の手当にも験がなかった時、局は斎戒沐浴して東照大権現の神前に詣で、『将軍の病が平癒したら今後私が病気になっても絶対に薬を服用しません』と祷りました。その忠誠心に感応してか、日ならずして家光公の病気が恢復しました。…寛永二十年(1643)・・・六十五歳で卒し、当院墓地に葬られました。」とあり、

また、その墓石は三方に穴が開いて空洞になっている珍しい形でした。

なお、この墓地は大変古いらしく、下の写真のように、今は無縁仏となった墓石が沢山ひしめいて並べられていました。

 

そこから、坂道を下っていると、 ❸ 湯島神社の鳥居に出会いました。

今日は横目に見て、湯島切通しを下り、 ❺ 旧岩崎邸に向かいました。

 

ここは、今年7月に一度訪問していて、二度目です。

明治29年(1896)に建てられた、魅力的な洋風建築物です。

東大の建築科教授に招かれたジョサイア・コンドル(英国人)の設計で、ニコライ堂や鹿鳴館も彼の設計です。

 

今日は、都合よくガイドさんとタイミングが合い、いろいろとユニークな話を聞くことができました。

❺ コースは下の赤線です。(詳細はまたの機会に)

 

一回りした後、広い芝生の御庭に出て、❻ 木斛(モッコク)や手水鉢や巨大な ❼ 石灯籠を見て回りました。

石灯籠の大きさが解りやすいよう、前に私のリュックを置いてみました。

  

 

十分に堪能した後、森鴎外の「雁」の舞台になった ❽ 『無縁坂』や “気になる女性のすみか”のあたりを、ゆっくり散歩しました。

 

 

無縁坂の説明板(文京区教育委員会)を引用しますと

「・・・森鴎外の作品『雁』の主人公岡田青年の散歩道ということで、多くに人々に親しまれる坂となった。

その『雁』に次のような一節がある。

『岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れこむ不忍池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。』・・・

  不忍の 池の面にふる春雨に 湯島の台は今日も見えぬかも

・・・」

 

❾ 鉄門、 ❿ 竜岡門の前を通り本郷三丁目駅まで歩きました。

途中、偶然に吉川弘文館の社屋に出くわしました。ずいぶんと質素な社屋でした。


駒場東大周辺の散歩

2012-12-19 | 散策

駒場東大周辺の散歩

 

二日に一回は散歩するようにしています。健康と文化遺産探訪の為です。

今日は、近くの駒場東大近くを散歩しました。

残念ながら、後で調べたら旧前田侯爵邸は通り過ごしていました。

また、サクラの季節にでも伺いましょう。

 

散歩コースは下の地図です。7.5Kmはあります。

 

先ずは、東大先端科学技術研究センターへ。

使われていないような古い建物と、先端科学を研究するにふさわしい超近代的な建物が混在していました。

 

 

そこから、駒場野公園へ。

 

入口の説明板『駒場の今昔』によると

 

「駒場一帯は台地で、かっては駒場野と呼ばれ、笹が一面に生い茂り、所々に松林などがある原野が広がっていました。そのため古代から中世にかけて東国武士たちの軍馬の放牧地として利用されてきました。

江戸時代になると、鳥や獣が数多く駒場の一帯は、高狩り場となりました。

将軍の鷹狩のたびに、田畑は人馬で荒らされ、そのうえ地元の農民たちは場所ごしらえや道普請、鷹の餌の昆虫集めなどに駆り出されました。

江戸末期には幕府の軍事訓練所が計画され、明治にはいると初めての陸軍観兵式がここ駒場野の原野で行われました。

維新後日が浅かった当時、軍事教練のスタイルもイギリス式、フランス式、ドイツ式とバラバラであったものでした。」

 

それにしても、鷹狩のたびに農地を荒らされた農民はたまったものではありませんね。

戦国時代の戦場やその通路の農民も同様でしょう。保障なぞなかったでしょうし。

 

また、ここには農学校があり、そのための農園もありました。

 

今でも、『ケルネル田圃』があります。その説明板によると、

「ケルネル田圃は、旧駒場農学校の実習田です。駒場農学校は、明治政府が近代農学に基礎を置く欧米農法をとりいれるために、農業指導者を養成する学校として明治11年(1878)に設置されました。

札幌農学校がアメリカ系統の農業技術を導入したのに対し、駒場農学校はドイツ系統の農学が取り入れられました。・・・

ドイツ人教師ケルネルの名を付けたケルネル田圃は、新しい日本農業の指導者を育てた駒場農学校の実習地の跡として貴重な史跡です。・・・」

 

アップダウンの多い土地柄だけに、いろいろなことを感じさせる公園です。

 

そこから、駒場東大前駅の出て、「一般の人の入場お断り」標識を無視して大学構内に入りました。

人の少ない静かな大学です。野球場もテニスコートも人一人見えません。贅沢な学園環境です。

 

そうして、『東大裏』バス停から山手通りを北上し、代々木八幡から緑道へ出て帰りました。

この、山手通りと新中野通りの接点の工事もようやく終わりましたが、長かったですね。

多分4,5年はかかったのでは?

 

総延長距離約7.5Km 所要時間二時間半のウオーキングでした。

いい汗をかきました。後は家で一杯。


皇居東御苑を散歩

2012-12-15 | 散策

皇居東御苑(本丸)を散歩

 

久し振りに兄や甥と日本橋で一杯やることになり、早めに出かけ、皇居本丸を散歩しました。日本人より西洋人が多く、しかも熱心に観察していました。

 

見て歩いたコースとポイントは下の地図です。

 

❶ 平川門から入りました。この門を通るのは初めてです。

 

掲示板によると

「平川門は、竹橋門より侵入した敵を撃退できるよう平川濠に伸びた細長い城郭(=帯曲輪)を持つのが特徴です。また城内で罪人や死人が出るとこの門から出されたので、不浄門とも呼ばれました。」

 

きれいに清掃されていて、実に気持ちのいい公園です。

しばらく進むと、上り坂になり、ここが ❷ 梅林坂というそうです。

 

「梅林坂は、本丸と二の丸を結ぶ坂です。文明10年(1478年)太田道灌が天神社をまつり、数百株の梅を植えたので梅林坂の名が付いたと言われています。

現在は約50本の紅白の梅が植えられており、12月末から2月まで花が楽しめます。」

 

何より静かに散歩できるのがいいです。

独り生活は、ほとんど気を使わないで済みます。使うのは、懐勘定と健康だけです。

 

間もなく、 ❸ 天守台の前に出ました。

 

江戸城全体から想像すると、割合小ぶりです。

ここに天守閣がないのが、ちょっと淋しい気もしますが、コンクリート造りで再現されるより、この方が趣があっていいですね。

 

「最初の天守閣は、1607年二代将軍秀忠の代に完成しました。その後、大修築され、1638年三代将軍家光の代に、江戸幕府の権威を象徴する国内最も大きな天守閣が完成しました。外観5層、内部6階で、地上からの高さは

58メートルありました。しかし、僅か9年後の1657年、明暦の大火(振り袖火事)で、飛び火により全焼し、以後は再建されませんでした。」

 もう、お城を構える時代ではなくなったのですね。

 

天守台に登りました。

素晴らしい見晴らしでした。特に、❹ 大奥、本丸のあった広場が見通せていいですね。

 

天守台の説明板には

「この天守台から見える大芝生とその周辺には、江戸城本丸御殿の建物が立ち並んでいました。
本丸御殿は、表、中奥、大奥という三つの空間に分かれていました。

表は、将軍の謁見など公的な儀式・行事、幕府諸役人の執務の場で、中奥は将軍の日常生活、政務をとる場、大奥は御台所と呼ばれた将軍の正妻をはじめ家族や女性たちの生活の場でした。」

 

そこから、小路を歩いていましたら、竹林が広がっていました。13種類ぐらいの竹が植えられていました。

昭和天皇が面倒を見ておられたそうです。

 

その先に、洞穴がありました。❺ 石室だそうです。

「抜け穴とか、金蔵とか諸説がありますが、大奥御納戸の脇という場所柄から、非常の際、大奥用の調度などを納めたところと考えられます。内部の広さは、20平方メートルあります。伊豆石(伊豆半島産の安山岩)で作られており、天井には長い石の板が使われています。」

 

そして、白壁の ❻ 富士見多門がありました。

「『多門』とは、防御を兼ねて石垣の上に設けられた長屋造りの倉庫のことで、多門長屋とも呼ばれました。鉄砲や弓矢が納められ、戦時には格子窓を開けて狙い撃つことができました。
本丸の周囲は、矢倉と多門で囲まれて、万一に備えられていました。」

 

その先に、❼ 松の大廊下跡が残されていました。

こんな狭い場所で、後世に残る事件が起こったのかと思うとき、人工衛星の飛び交う世の中も必要なのかな~と、飛躍した思いに誘われました。

 

それから、❽ 富士見櫓の見えるところにたどり着きました。
何時も和田蔵門のほうからのみ見ているのですが、今日はその裏側のほうから眺めました。三層の櫓です。

 

そこから、❾大番所、❿百人番所、⓫同心番所を見て、大手門から退出しました。

先ず、大番所ですが、

 

「『番所』とは、警備の詰所のことで、百人番所、同心番所とこの大番所の3つが残っています。
中之門の側に設けられ、他の番所より位の高い与力・同心によって警備されていました。・・・」

 

次は百人番所の写真です。大きなものです。

「・・・鉄砲百人組と呼ばれた、甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組の4組が昼夜交替で詰めていました。
各組には同心が100人ずつ配属されていました。」

 

最後に、⓬ 大手門から一般道へ出ました。
約一時間半散歩して、東京駅の新社屋を眺め、日本橋へ飲みに向かいました。

手は震えますが、酒は死ぬまで止められません。ヘヘヘ・・・


目黒の自然教育園(国立科学博物館付属)を散歩

2012-12-13 | 散策

目黒の自然教育園(国立科学博物館付属)を散歩しました。

 

昨年の12月に訪問していました。偶然、同じ時期に行っています。

ちょっと残念!違う季節に訪問したほうがよかったのに。後で気付きました。

 

ここも、65歳以上は入園料無料でした。園内を散歩している人たちは、ほとんどが65歳以上のリボンをつけていました。幸せな高齢化社会です。

 

庭園の案内図です。赤線が散歩したコースです。

 



入口の掲示板を紹介します。


「自然教育園は、中世の時代に白金長者とよばれる豪族が館を構えたのが始まりです。(今でも、そのころの土塁が残っています。)
江戸時代は高松藩主松平讃岐守の下屋敷、明治時代は陸海軍の火薬庫、大正時代は白金御料地と移り変わり、昭和24年に『天然記念物及び史跡』に指定されるとともに国立自然教育園として一般に公開されるようになりました。
大都会‘東京’の中にあって、今なお武蔵野の面影をとどめているオアシスのような森です。
この森には、シイ・マツなどの常緑樹や、コナラ・ケヤキなどの落葉樹の巨木がうっそうと茂り、静かな池や流れ、湿地・草原などがあります。
カタクリ・ニリンソウ・ヤマユリ・ノギクの仲間など四季折々に咲く野草類が、私たちの心をなごませてくれます。
また、東京都区内では見ることが少なくなってしまったホタル・メダカ・ヘビなど、多くの動物が生き続けていることが自然の豊かさを物語っています。」

   

武蔵野の面影とありますが、こんなにアップダウンのある台地だったのでしょうか。今は都市化して平坦地としか感じませんが。徳川期以前の渋谷駅界隈を見てみたいですね。


教育園だけに、動・植物の説明板が小学生にもわかりやすく、掲示してありました。
その一つに林の移り変わり(遷移)が説明してありました。

「この林は、1950年(昭和25年)頃にはまだ若いマツ林でした。
しかし、自然教育園になって、下刈りを止めるとミズキ・イイギリなどの落葉樹やスダジイ・タブノキなどの常緑樹がマツ林の下に育ってきました。
1963年(昭和38年)頃には、マツは下から育ってきた落葉樹に光を奪われて枯れ始めました。
今ではその落葉樹も、成長が遅かった常緑樹が高くなるにつれて下枝などが枯れ始めています。
やがてこの林は、長い年月の間には、スダジイなどの常緑樹林へと変わっていきます。
このように、林が時間とともに変化していくことを遷移(せんい)といい、
遷移が進んで変化の少ない安定した林を極相(きょくそう)林と言います。」

 

今の教育園はまだ極相林とは言えないのでしょう。松やモミジを残した混交樹林のように見えます。 

   

動物たちの働きも「自然の中のそうじ屋さん」として掲示してありました。
「落葉の下にはササラダニやトビムシ・ミミズ・ダンゴムシなどたくさんの小さな生き物がいます。
落葉はこれらの生き物に食べられ細かくされます。そして、バクテリアなどの微生物の働きによって、ついには土にとけて植物の栄養分になるのです。
また、動物の死骸もシデムシやアオオサムシなどによって食べられてなくなってしまいます。
林の中が落葉や動物の死骸で埋もれてしまわないのは、このような自然の中のそうじ屋さんたちが働いているからです。」

 

また、森の小路の掲示板には

都市にふえるシュロと題して

「シュロは中国原産の植物ですが、暖かい地方では昔から栽培されていました。しかし、最近都市では冬の気温上昇にともなって、ヤツデなどとともに多くの緑地で野生化しています。

自然教育園でも木の実が減る冬になると、ヒヨドリ、ツグミなどが周辺の人家に植えられているシュロの実を食べ、その種子をふんとともに園内にたくさん落とします。また、そのシュロの芽生えは暗い林の下でも枯れずに、暖かくなった冬を越すことができるようになったのです。

しかし,都市の中の林も安定した常緑樹林に移り変わるにつれて、林内のシュロも衰えて、本来の自然林にもどるかもしれません。」とありました。

 

 

現役の頃、印刷工場が目黒にあったため、この近くにはたびたび来ていましたが、その頃、自然界にはこんな変化があったのかとの想いを、経巡ります。

 

帰りに、駅ビルの中の天ぷら屋で、昼間から一杯楽しみました。

独り楽しむひと時です。


一年ぶりのハイキング

2012-12-02 | ハイキング 里山歩き

一年ぶりのハイキング参加

 

脊椎すべり症を患ってから、約一年間、体のコンディションを整えるため休んでいましたが、

漸く皆さんのハイクに参加してみました。

どうにか、ついていけました。

コースと断面図は下の赤線です。

 

 

計画は「中津山地・仏果山{747m}~高取山(750m)ハイク」ですが、山頂でアラレ混じりの雪に見舞われ、高取山は止めて、仏果山から直接、予定のバス停へ下りました。

 

山々は紅葉真っ盛り。今年の秋は、先日の京都と言い,紅葉の眺めに恵まれました。

しかし、今回の記憶すべきことは、アラレちゃんに見舞われたことです。

山頂で昼飯を食べていましたら、霧に視野を遮られ、やがてパラパラと賑やかにアラレが降ってきました。

気温が急に0度ぐらいに冷えた時、発生しやすいそうです。

 

私は、物珍しく、山頂の展望台に登っていました。70段あまりありましたので20.mぐらいの高さです。頂上から写した写真を下に掲示します。

  

こんな珍しい景色、見に登ったのは私だけでした。

やはり、ちょっと “おっちょこちょい” らしいです。

下山後は、駅前で一杯やりました。

久し振りの乾杯です。うまかったな~!