地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

芦花公園を散歩

2014-09-27 | 散策

芦花公園を散歩

代々木公園は蚊に刺されるというので、芦花公園まで足を伸ばしましたが、、三度も刺されました。
蚊の多いとこのようで、『蚊に注意』の看板もありました。

京王線八幡山駅まで電車で行き、そこから歩きました。約5kmです。

ちらっと地図を見て、駅の南へ真直ぐ行けばいいんだなと早合点し、松沢病院の塀際を歩きましたが、
歩けども歩けども、それらしい公園に辿りつけず、遂に通り掛の人に聞きましたら、大分東に来ていました。
環八通りを南に歩けばよかったようです。

さて、散歩だからいいやと、遠回りも気にせず、まず駅名と同じ名の八幡山にお詣りしました。

こじんまりしたお宮ですが、けっこう手入が行き届いていました。

そして、その先の蘆花恒春園に入りました。無料でした。

入口のすぐわきに、蘆花記念館がありました。
中は私独りきりでした。 
静かに、ゆっくり見学しました。

入口の「徳富蘆花旧宅」 (東京都教育委員会)の掲示板を紹介すると、

「徳富蘆花は、肥後国葦北郡水俣村手水(水俣病の土地)に代々惣庄屋を勤めた徳富家の三男として
明治元年(1898)・・・に生まれた。

明治31年から翌年にかけて『国民新聞』に連載した長編小説『不如帰』が
明治文学の中でも有数のベストセラーとなった。

明治40年(1907)・・・この地に転居した。
トルストイの示唆を受け、自ら『美的百姓』と称して晴耕雨読の生活を送り、
大正2年(1913)、6年間の生活記録を『みみずのたわこと』として出版、
大正7年(1918)には自宅を恒春園と名付けた。・・・
昭和2年(1927)・・・駆け付けた兄蘇峰と会見したその夜に満58歳で死去した。・・・」とあります。


御存じのように、蘆花には、言論界を代表するジャーナリスト徳富蘇峰・兄がいました。
ふたりとも、時はずれているが、ロシヤに行きトルストイと交流がありました。


そして、トルストイから感化を受けた蘆花は、
日本に帰ってから、晴耕雨読の生活をしようと、世田谷区柏谷村で田園生活を送ります。約20年間。

しかし、お百姓仕事はうまく行かなかったようです。
『みみずのたはごと』の中で、自分はとうとう美的百姓に終わってしまったと書いています。

記念館の中に、蘆花が晴耕雨読の生活を楽しんだらしい額がかかっていたので紹介すると、

 『・・・一方に山の雪を望み、一方に都の煙を眺むる儂の住まいは、

 即ち都の味と田舎の趣とを両手に握らんとする儂の立場と欲望を示している。』

                                         ( 「みみずのたわごと」 にもありました。 )

そして、その横に蘆花の百姓姿が紹介されていました。

 そして、すぐそばに広がる旧宅を眺めました。
そして、問題の蚊にあちこち刺されました。 園内はゆっくりできませんでした。

  

改めて、木枯らしの吹く頃でも、ゆっくり見学しましょう。

後は、蘆花の墓や、公園の中を散策しました。
花園の多い公園です。 

    

  

 


日本百名山 54、槍ゲ岳(3180m)

2014-09-21 | 日本百名山

日本百名山 54、槍ゲ岳 3180m)

 

  (笠ヶ岳から臨んだ槍ヶ岳)
設定: カメラ:STD、レンズ:35mm、風景:日本アルプスの朝、高さ強調1.5倍。

 

「富士山と槍ケ岳は、日本の山を代表する二つのタイプである。

一つは斉整なピラミッドで悠然と裾を引いた『富士型』であるのに反し、

他の一つは尖鋭な鉾で天を突く『槍型』である。

この二つの相対するタイプは、他の地方の山々に多くの『何々富士』や『何々槍』を生んだ。」

 

「槍ヶ岳の初登頂者は、播隆(ばんりゅう)という越中生まれの念仏僧であった。・・・

信仰の厚い播隆は・・・背に阿弥陀如来、観世音菩薩、文殊菩薩の三尊を負っていた。

その加護を念じて、播隆は遂に文政十一年(1822年)・・・頂上に達した。」

 

そのルートは次の赤線です

    

地形図を表現するのに苦労しました。
全く新しい方法で、やっと表現できました。
機械だけの問題ではなく、いたずらされてるように思いますが、
ちがうかな~? 

 さてと、
「一生に一度は富士山に登りたいというのが庶民の願いであるように、

いやしくも登山に興味を持ち始めた人で、まず槍ヶ岳の頂上に立ってみたいと願わない者はいないだろう。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 

私もその一人です。
富士山にはどうにか登りましたが、この槍ヶ岳には登れそうにありません。

歳ですから、無理は禁物です!


日本百名山 53 鷲羽岳(2924m)

2014-09-04 | 日本百名山

日本百名山 53  鷲羽岳(2924m)


  

「初の鷲羽岳(わしばだけ)とは今の三ツ俣蓮華岳を指していた。
そこは三国の御境目であったから、名前の存じたのは当然だろう。
ところが文政(1818~1830))の頃の記録に、
その三国境の鷲羽岳の東北方にある顕著な一峰に東鷲羽岳の名が現れた。
現在の鷲羽岳はその東鷲羽岳である。・・・」

 

諸先輩たちの単なる誤りから来たものらしいが、私は今の地名でいいと思う。
すなわち、
三国の境目が『三ツ俣蓮華岳』で、鷲羽池の上にあるのが『鷲羽岳』。

 

「鷲羽乗越は匍松(森林限界の上部)で覆われた広い台地で、
その緑の中に埋もれたように山小屋(現在の三俣山荘)がある。
そこから鷲羽岳への登りが始まるが、小屋の前から仰ぐ鷲羽の姿は雄々しく美しい。

 (三俣蓮華岳から見た鷲羽岳)

設定: カメラ:STD、レンズ:28mm、風景:森の山々、高さ強調1.0倍。

急坂を登って行くと、稜線の右側にスリバチ形の火口湖があって、その底に水を湛えている。
それが、旧称竜池、現在の鷲羽池である。」 

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用)