地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

師走30日の明治神宮の様子

2011-12-31 | 日記
師走30日の明治神宮の様子

今日は、いつものジョギングコースを歩いてみました。

元旦は参詣の人で猛烈に混みますので、その前夜の準備万端整った神宮の様子を見て回りました。





様子見のためか、欧米の人たちが比較的目につきましたが、写真のように嵐の前の静けさでした。

お賽銭受けの囲いが、いつも参詣できる庭にまで広がっていて、壮観でした。
ここに、今年も万円札がちらほらお目見えするのでしょうが・・・。



例年のことですが、お参りする人たちの厄年一覧が掲げられていました。
平成24年は壬辰(みずのえたつ)だそうです。

「人生儀礼のご案内」を拾い読みしてみますと

大切なお子様の命名(名付け)・・・命名は、お七夜(生まれた日を含めて七日目)に付けるのが古来からの習わしだそうです。

初宮詣・・・生後男子31日目、女子33日目に産土様(うぶすなさま=お住まいの土地の神様を祭る神社)や特に崇敬する神社にお参りし・・・。

お食い初め・・・生後百日か百二十日目に初めてご飯を食べさせるお祝いごと。形式ですが・・・。

七五三詣・・・古くは男女三歳で髪置き(かみおき=胎髪を取りこの日より髪を伸ばし始める)儀式、
       男子五歳で袴着、
       女子七歳で紐解き(着物に着いた紐を帯に変える儀式)と称した儀式。

入学と卒業の報告・・・

成人報告・・・古くは男子の元服、女子の裳着(もぎ)などで自主独立を促すもの。

結婚式・・・

結婚記念日の報告式・・・銀婚式25年、金婚式50年、金剛石婚式75年、(または60年)などがあります。

厄払・・・厄年は精神的にも身体的にも変調をきたす節目の時です。
「厄年一覧」には年齢18歳~62才(数え歳)までしかありませんが、それから後はやはり付録(または余禄)と考えられていたのでしょうか。
還暦祝・・・男女数え61才を祝う古くからの美風です。

更に、70才を古希、七十七才を喜寿、八十才を傘寿、八十八才を米寿、九十才を卒寿、九十九才を白寿、百歳は百寿などと称し・・・お祝いします。

今日は一人でもあり、「春の小川は・・・」の歌で有名な小田急踏切脇の一杯飲み屋で昼酒を一杯やりました。
「ぬた」がありました。懐かしい味わいでした。山道にもよくありますね。

公園の中の景色を愛でながら、文庫本「日本史探訪6-源平の争乱」を読みながら歩くのは実に楽しいね。

こんな心境では、この先あまり長くないのでしょうか・・・。
まあ~、いいか。


































小石川後楽園を散策

2011-12-28 | 日記
小石川後楽園を散策

今日は、念願の小石川後楽園を訪ねました。
水戸黄門ゆかりの大名庭園で、国の特別史跡、特別名勝です。

パンフレットの説明によると
「江戸時代初期、寛永六年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房(家康の子)が、
その中屋敷(のちに上屋敷となる)として造ったもので二代藩主の光圀の代に完成した庭園です。
庭園の様式は池を中心にした回遊式築山泉水庭になっています。
光圀は、造成に当たり明の遺臣朱舜水の意見を用い…(中略)。
後楽園の名は、中国の范仲淹(はんちゅうえん)・・・の
「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から名づけられました。(以下略)」

庭園は次の案内板の通りです。正門から出入りしました。





パンフレットにもありましたが、この時期は何も見るべき花はなく、
マツの「雪吊り」と「冬櫻」がみられるだけでした。





したがって、入園者も少なく、ゆっくり庭園を楽しむことができました。

こうして、都内の庭園を楽しんでいると思うんですが、
僅かな入園料で、あちこちの公園や庭園が楽しめるのは、贅沢な極みです。
自分で造園したわけでもなく、清掃管理もせず、
気の向いたときに、気ままにエキスだけを楽しむのは、申し訳ない気分です。

庭園の中の写真を2,3掲載します。



池に写っている白い屋根は東京ドームの屋根です。






この後楽園は、内庭と後庭からなっていて、われわれの言う後楽園は後庭のようです。
その境に唐門がありました。
この門は唐様の極彩色の彫刻の施された壮麗な建造物で、朱舜水の書いた「後楽園」の扁額が掲げられていたそうです。
下の写真がその面影で、礎石は残っていました。(戦災で焼失)




水戸のご老公が住まっていたのもこの内庭で、水戸藩書院のあったところです。

下が内庭の風景です。



私の気に入ったのに「九八屋(くはちや)」というのがありました。



これは、江戸時代の風流な酒亭の様子を表したもので、
この名の由来は『酒を飲むのに昼は九分夜は八分にすべし』
という深酒を控えるよう示したものです。ということは昼酒は認められていたんですねエ。
早速、家に帰って一杯やりました。うまいですねエ~。

神田上水も残っていました。泉水公園の出来た所以でしょうか。
苑内には水田や菖蒲園も残っていました。

カルガモたちも気持ちよく、安心しきって泳いでいました。



散策時間は約1:30 是非、また来てみたいと思っています。

目黒の自然教育園散策

2011-12-26 | 日記
目黒の自然教育園散策

漸く、時間にゆとりが持てるようになり、念願の都内の公園・庭園を見て歩けるようになりました。
今日は、目黒の自然教育園を訪ねました。

入口の写真です。



庭園の案内図です。


この庭園のゆかりが案内板に記してありました。
その内容は

「自然教育園は、中世の時代に白金長者とよばれる豪族が館を構えたのが始まりです。
江戸時代は高松藩主松平讃岐守の下屋敷、
明治時代は陸海軍の火薬庫、
大正時代は白金御料地と移り変わり、
昭和24年に「天然記念物及び史跡」に指定されるとともに国立自然教育園として一般に公開されるようになりました。
大都会‘東京’の中にあって、今なお武蔵野の面影をとどめているオアシスのような森です。
この森には、シイ・マツなどの常緑樹や、コナラ・ケヤキなどの落葉樹の巨木がうっそうと茂り、静かな池や流れ、湿地・草原などがあります。
カタクリ・ニリンソウ・ヤマユリ・ノギクの仲間など四季折々に咲く野草類が、私たちの心をなごませてくれます。
また、東京都区内では見ることが少なくなってしまったホタル・メダカ・ヘビなど、多くの動物が生き続けていることが自然の豊かさを物語っています。」

庭園の中の写真を数枚掲載しました。









今の季節にはあまり花は咲いていませんが、
千両、万両や、ヤツデの地味な花、イイギリの赤い実、それにムクロジの大木がありました。

イイギリのたわわについた赤い実は近くの緑道にもあります。
ムクロジの大木は珍しく、鎌倉でも2本ほど見つけました。正月の羽根つきの実が着きます。


教育園だけあって、動・植物の説明板が小学生にもわかるよう、多く掲げてありました。
その一つに林の移り変わり(遷移)が説明してありました。


「この林は、1950年頃にはまだ若いマツ林でした。
しかし、自然教育園になって、下刈りを止めるとミズキ・イイギリなどの落葉樹やスダジイ・タブノキなどの常緑樹がマツ林の下に育ってきました。
1963年頃には、マツは下から育ってきた落葉樹に光を奪われて枯れ始めました。
今ではその落葉樹も、成長が遅かった常緑樹が高くなるにつれて下枝などが枯れ始めています。
やがてこの林は、長い年月の間には、スダジイなどの常緑樹林へと変わっていきます。
このように、林が時間とともに変化していくことを遷移(せんい)といい、
遷移が進んで変化の少ない安定した林を極相(きょくそう)林(りん)と言います。」



林の変遷は想像以上に速いのですね。
しかし、自然のままにしておいたら常緑樹に占められてしまうというのは疑問ですね。
もしそうなら、今のような針葉樹や落葉樹のない、常緑樹林ばかりになっているのでは?

動物たちの働きも書いてありました。
「自然の中のそうじ屋さん
落葉の下にはササラダニやトビムシ・ミミズ・ダンゴムシなどたくさんの小さな生き物がいます。
落葉はこれらの生き物に食べられ細かくされます。
そして、バクテリアなどの微生物の働きによって、ついには土にとけて植物の栄養分になるのです。
また、動物の死骸もシデムシやアオオサムシなどによって食べられてなくなってしまいます。
林の中が落葉や動物の死骸で埋もれてしまわないのは、このような自然の中のそうじ屋さんたちが働いているからです。」

夏の夕刻、コタルを見に来ようかな。開園中ならいいのだが。

言い忘れたが、この公園は「国立科学博物館」の付属で、入園料は300円。
ただし、小・中・高校生と、65歳以上は無料。

夏ころの開園時間は9:00~17:00。
ホタルの光を鑑賞出来るかな?

お墓参り

2011-12-24 | 日記

お墓参り

二宮のお墓参りに行きました。
いつもはジョギング調で走るのですが、今回は走ることにドクターストップがかかっていましたので、
お花を片手に歩いてお参りしました。
片道約4Kmの道のりです。

ルートマップは下の図の赤線の通りです。(青線は近いうち歩いてみるつもりです)



天気予報は快晴でしたが、どんより曇った、時折小雪も舞う寒い一日でした。
しかし、震えるほどではありません。

ミカン畑を過ぎ、富士の見晴らし台を過ぎ、妻の眠る墓にたどり着きました。
お墓参りは、いい気分です。


花を飾り、周りを掃除し、線香を手向けて、家族の報告を、口の中でムニャムニャしゃべります。
これを済ませないと、どうも気持ちよく新年が迎えられません。


お寺の本堂も新しく建てられました。


これで、安心してあちらへ行けそうですが、
まー!急ぐことはありません。片道切符ですからね。

兄が私に送ってくれた人生訓に「人生は七十才より」というのがあります。

「七十才にてお迎えあるときは 今留守と言え
八十才にてお迎えあるときは まだまだ早いと言え
九十才にてお迎えあるときは そう急がずともよいと言え
百才にてお迎えあるときは 時機を見てこちらからボツボツ行くと言え」

その兄も、ようやく八十才ですが、只今、入院療養中です。
思うようにはゆかないようですな~。

富士に超接近 三方分山からパノラマ台へ

2011-12-20 | 日記
富士に超接近 三方分山からパノラマ台へ

山の仲間15人(内4人は女性)と、いつものマイクロバスで精進湖の近くの三方分山(さんぽうぶんざん 1422m)へ登りました。
特に難しい山ではありませんが、私は腰のあたりに少し違和感を感じていました。
症状がこのまま進行したらもう登山は止めたほうがいいのかな。

ルートは下の図の通りです。



今回、特筆すべきは二つ。

一つは山の大先輩である渡邉玉枝先生が合流されたことです。
もう一つは、パノラマ台からの富士の絶景です。
こんな富士山を拝めるのは、わが人生の最初で、最後かな!

最初の、渡邉先生は今の会発足当時の会員だったそうです。
私の入会前に、世界的に有名人になられ、なかなか我々とご一緒する機会が持てなかったそうです。

2001.5.17 「世界最高齢女性エベレスト登頂者」として、その記録はいまだに破られていません。

気さくな、近しい人柄で、一緒に写真に収まっていただきました。(写真省略)


次は、パノラマ台からの富士山です。180度以上の展望でした。そして快晴!

何も言うことはありません。下の写真をご覧ください。
左端に見えるのが三ツ峠山か?



年賀状にはこの写真を掲載しましょう。


今回の登山口は精進湖北からの「中道往還」です。
甲州から駿河へ抜ける道です。御坂山地を抜ける道の一つです。



途中に説明板がありましたので、そのまま掲載します。



書き込まれている内容は
「阿難坂(あなんざか)(女坂)
中道往還(なかみちおうかん)は、甲府市右左口町から富士河口湖町精進の区間において御坂山地を二つの峠で越える。甲府盆地側のひとつの峠は、釈葉坂(右左口峠=うばぐち峠)で、もうひとつの精進側の峠がこの阿難坂(女坂)である。阿難坂の「難」という字が示すように、中道往還の中でも難所の一つである。「峠」と「坂」は同じ意味をもち、「坂」という名前のものは、古い道に多く見られる。
女坂という別名は、昔身重な女性が道中で出産後、母子ともに亡くなり、そこに埋葬され供養のため、子を抱いた石地蔵を建て、この石地蔵が女石と名付けられたことから女坂と呼ばれるようになったと伝えられる。
富士河口町教育委員会」

あとは、いつものように近くの温泉につかり、ビールなど飲んで帰途につきました。渋滞全くなし。

神田川沿いのウオーク

2011-12-19 | 日記
神田川沿いのウオーク

高井戸から神田川沿いをウオークしました。

少々寒くはありましたが、うららかないい天気でした。

コースは下の図の通りです。



はじめ罹りつけの病院で胃カメラの予約をいただいてからと、窓口まで行きましたが、大混雑。
今日は止めにして、玉川上水道路を西に進むウオークにしました。

環状七号線を跨いだあたりから小用をもようし、トイレを探しながら急いでるうちに本来の上水道路に出ました。
(その近くで用は済ませましたが・・・)





上水道路のよく整備されていること、狭い公園よりよっぽど子供さんには喜ばれそうです。


環七から環八まで結構距離がありました。
甲州街道沿いの距離で約4kmはあります。それを中央高速道に沿って歩きましたから環八分岐点までは5Kmはあるのでは?

そして、北に折れ環八道路沿いに高井戸駅まで行きました。

杉並区の[高井戸]地区は広いですね。
下高井戸、上高井戸、高井戸東、高井戸西と広がっています。相当歩いても高井戸の地名から脱却できませんでした。

そして、いつも仲間と走っている神田川上水地帯を歩きました。
走るのより相当に遠く感じられました。

結局、中野通りから我が家へたどり着いたのは、午後2時過ぎでした。
午前9時半から歩いていますので、今日も4時間余り歩いたことになります。

やり過ぎかな?
それでなお、明日は朝早くから山登りです。

再度、新宿御苑へウオーキング

2011-12-17 | 日記
再度、新宿御苑へウオーキング

先の新宿御苑が予想以上によかったので、再度伺いました。
前回見残しのフランス式庭園を中心に歩きました。
ルート図は下の通りです。



途中、新宿駅南口の工事現場横を通るとき、仕上がり予定図が掲げてありましたのでパチリ。
昔の甲州街道陸橋の姿は全く見えなくなり、この上が遠距離バスのターミナル駅になるようです。



長生きして、広島など遠くへ行くとき利用してみたいものです。

今日は先日と逆に新宿門から入りました。

モミジのトンネルをくぐったとき、掲示板に「カエデ」の由来が書いてありました。
「カエルの手に似ている」ことが原点だそうです。紅葉のときは特に似ていますね。

真っ赤な、ボケに似た花がありました。



「ヒボケ(緋木瓜)」が正式名称で、寒にも咲くことから「カンボケ(寒木瓜)」ともいうそうです。
中国原産で平安時代の渡来したそうです。この赤は確かに中国風ですね。

そのすぐ近くに、寒桜が咲いていました。正式には「十月櫻」と言うそうです。
小ぶりで、しかもちょっとはにかんだ時の娘さんのほほに似た色に似ています。可憐な花です。



ものすごく大きな「ユリノキ」に出会いました。
その説明板と一緒に掲載します。
 

 


咲いた花を見ないとこの掲示板の説明がピンときませんが、確かに、街路樹でもよく見かけます。

この新宿御苑には、三つの庭園があります。日本庭園とフランス式庭園、イギリス式庭園です。
下は、日本式庭園です。
特に火ともし頃がいいのですかね。こうした石灯籠に火の入った時をまだ見ていません。是非、味わってみたいものです。





今日の主眼はフランス式庭園です。バラ園です。
この時期、あまり華やかには咲いていませんでしたが、広いバラ園でした。





イギリス式庭園は、広いゴルフ場といった感じでした。
シンプルに芝生が広がっていました。ごてごてしていないだけ、心が癒されます。



この公園の樹木の管理で特筆すべきは、枝を剪定しない木が多くあるそうです。自然のままに延ばさせるのだそうです。
ですから、すごく横に広がった風流な樹木が多く見かけられます。見ごたえがあります。

ゆったりした散歩の延長に、静かな休息も味わいたいと、人一人いないレストランに入りました。
窓際に席をとり、ぬる燗をいっぱい頂きました。月桂冠の上撰一合です。
ここの給仕をしてくれたおばさんは非常にできた人のようで、人の応対も、お燗の具合も大変気持ちよく、いい休息のひと時が過ごせました。
人の多いのは梅や桜の咲くころとか。
でも、比較的のんびりしているようです。国営ですから、じたばたするこたーないですし。

出口に、新宿御苑の由緒示したプレートがありましたので、写真を掲載します。



家に着いたのは12:00. 8:30頃出発しましたから休み時間を除き約三時間のウオークですか。
やはり、三時間はかかりますね。


新宿御苑を散策

2011-12-14 | 日記
新宿御苑を散策

近くて遠い公園です。記憶では学生時代に行ったきりでは?

そう思うと、すぐにでも行ってみたくなり、11:00頃出かけました。

代々木駅までは昨日と同じコースです。約一時間かかりました。



そこから公園沿いに千駄ヶ谷口まで歩き、園内に入りました。

入園料大人200円。安い!
環境省管轄の国民公園だけあります。
国民公園としては他に、皇居外苑、京都御所、千鳥ヶ淵戦没者墓苑があるそうです。

苑内にはほとんど人はいませんでした。
やや雨模様なのと、少し寒いのと、平日のお昼時でしたから、一番人の少ない時間帯でしょう。
散策には静かで好都合でした。

苑内は、想像以上に巨木がうっそうと茂り、それが都合よく紅葉していました。





苑内の案内図を添付します。



雪でも降ったら、必ず来てみましょう。
櫻も見事でしょうが、人けのない雪景色が魅力的です。

水仙や寒桜が咲いていました。写真をパチリ!





苑内の休憩所でコーヒーと菓子パンを少し食べました。
外の景色を楽しみながら、ゆっくりした時間を過ごしました。

そこから、日本庭園を巡りながら新宿口に出ました。

出口のモミジのトンネルが素晴らしく、これも写真に。



新宿口も素晴らしく、またまた写真に。



後ろ髪を引かれる(私にはもう、ないが・・・)思いで、家路につきました。14:00でした。
今日も約三時間の散歩になりましたが、冥途へいいお土産ができました。


高野長英先生を訪ねてウオーキング

2011-12-13 | 日記
高野長英先生を訪ねてウオーキング

今朝は特に寒く、いつもの時間には出られず、朝ドラを見てから、9:20頃家を出ました。
今日のコースは下の通りです。



帰り着いたのは12:20頃。三時間のウオーキングでした。

こんなに精出して歩いていたら長続きはできないでしょう。ぼつぼつにしましょう。

下の写真は、私の好きな緑道です。木々が紅葉して見事です。



参宮橋駅から高速道沿いに代々木駅近くに出ましたが、WCへ行きたくなり、代々木公園に駆け込みました。
急ぎ足でジョギングしていたら、管理人に「ここは走ってはいけませんよ」と、注意されました。
でも、無視してWCへ急ぎ、事なきを得ました。

いつもの神宮内を散策しながら、原宿駅からケヤキ並木へ。
途中、太田記念美術館の所在を確かめに立ち寄りました。
今は「浮世絵展」をやっていました。改めて別の日に見に来ましょう。



元のケヤキ並木にかえり、有名な表参道ヒルズの前を通り、青山通りへ出ました。
前の同潤会アパートの一角が記念に残してあります。今の建物は私のような年寄りには馴染めない建物です。






そのすぐ近くに長野の善光寺の別院があります。
高野長英先生の碑があります。



次に、その碑文を丹念に記録しました。

「高野長英先生(1804~1850)
先生は岩手県水沢に生まれ長崎でオランダ語と医学をおさめ西洋の科学と文化の進歩しておることを知り発奮してこれらの学術を我が国に早く広めようと貧苦の中に学徳を積んだ開国の先覚者である。その間に多くの門人を教え又訳書や著書八十余を作ったが、夢物語で幕府の疑いを受け遂に禁則(?)の身となり四十七歳で不幸な最後を遂げた。最後の処は今の青山南町六丁目四三の隠れ家で遺体の行方も分からなかったが明治三十一年先生に正四位が贈られたので同郷人等が発起してこの寺に勝海舟の文の碑を建てた処、昭和戦災で大部分こわれたようで、ここに残った元の碑の一部を保存し再建する。
昭和三十九年十月」
とありました。

場所は道一つ隔てた処のようです。それにしても遺体の行方も不明とは。

私は、吉村 昭著の「長英逃亡」(上下二巻)を二回も読んでいますので、余計に印象深く感じています。

そこから、原宿のほうへ蛇行していましたら、大分古くなった都営住宅のアパート群に迷い込みました。
そして、例の竹下通りから原宿駅に出ました。
お昼過ぎになると大変な人並なのですが、昼前なので比較的スムーズに通り抜けました。

再び、私の好きな緑道を通り家に着きました。12:20でした。約三時間の散歩でした。



神宮内苑、代々木公園、NHK界隈をウオーク

2011-12-12 | 日記
神宮内苑、代々木公園、NHK界隈をウオーク

朝、起上るときやジョギングを始めるとき、多少左腰に違和感がありましたが、
最近それがややひどくなり、ジョギング中も違和感を感じるので、近くの整形外科医に診てもらいました。

「ちょっと、やり過ぎだね。2~3週間、ウオークだけにしてみたら」と言われました。
「過ぎたるは、及ばざるがごとし」ということかと、今日から暮れまで、ジョギングを休み、ウオーキングに切り替えることにしました。

今朝のコースは、いつもの緑道から、神宮内苑、代々木公園を少し歩き、隣のNHKを周回して帰りました。
時間は6:30~8:30、約2時間です。
フィニッシュのとき、いつものジョギング仲間に、ばったり会いました。いい汗かいていました。ま、しばらく我慢するか。

今日のコースは下の地図の通りです。



神宮内苑には、まだ参拝者はちらほらと少なく、私の大好きな森を静かに味わいました。




さて、そこから隣の代々木公園へ。
代々木公園もまだ人は少なく、ジョギングを楽しむ人が散見される程度でした。



それにしても、最近ジョギングする人が増えましたね。皇居周辺では規制を始めるとか。
ジョギングの規制とは。ちょっと異常では?


代々木公園は、今、黄葉の真っ盛り。
私の好きな銀杏の林も、やや盛りは過ぎたものの、眞黄色の落葉を踏みしめて、身も心も黄色く染まってしまうような感じでした。




そこから、陸橋を渡ってNHKに行きました。まだ、朝早いためか、目についたのは守衛さんだけでした。





そこを迂回して、いつものジョギングコースを家路につきました。
ちょっと寒かったが、快晴でもあり、いい散歩でした。
明日はどこを歩こうかな~?