地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

日本百名山 32、苗場山(2145m)

2013-12-31 | 日本百名山

日本百名山 32、苗場山(2145m)

「もし苗場が平凡な山であったら、ただの奥山として放っておかれただろう。
ところがこれは人の目を惹かずにはおかない。
そして一遍その山を見たら、その名を問わずにはおられない特徴を持っている。
すぐれた個性は、どんなに隠れようとしても、世に現れるものである。・・・

方々の頂上から、この独自の姿をもった山をすぐ見分けるだろう。
それは緩く傾いた長い稜線を持った山である。

 (4.5Km南の赤倉山頂からの眺望)

設定:カメラ:PRO、レンズ:5mm、風景:南アルプスの春、高さ強調1.5倍、仰角10度



いわゆる山らしい山の沢山重なっているあいだに、
苗場だけはまるで鯨の背のようにその膨大な図体を横たえている。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 

私も、20歳台の頃、会社の仲間に誘われて登ったことがあります。

初日は、バスで三国トンネルを超え、二居本陣に泊まりました。

本陣の主人はユニークな人で、一緒に囲炉裏を囲んで食事をとり、そのあと延々と囲碁を打った覚えがあります。
主人は、時々東京に来て、日本棋院で碁を打っているような本格的な実力者で、我々は上手く遊ばれたようです。

そして、次の日は山を越えて赤湯温泉に泊まりました。
11月3日の文化の日(当時)で、赤湯温泉最後の営業日でした。

まだ電気が付いておらず、ランプの下で食事をし、茣蓙に寝ころんで寝た覚えがあります。

風呂は、河原の砂土に穴を掘っただけの、全くの天然風呂で、時々前を流れるせせらぎをザブザブ渡って温度調節をしました。

2,3の他の泊り客は、一杯気分で歌を呻っていました。月も輝きいい夜でした。

 

次の日、苗場山に登りました。
途中の苦しさはよく覚えていませんが、頂上へ達したとき、まるで尾瀬ヶ原に出てきた気分でした。
広々とした原野のあちこちに、小池が散乱していました。

仲間の一人はそこで記念品の “うんこ” を置いてきました。

 

これは、「・・・人の目を惹かずにはおかない。・・・」素晴らしい原野でした。
今でもその時の感動は忘れられません。

そして帰りは、長い長い笹薮を掻き分けて長時間歩いて、バス停に辿りついた覚えがあります。

そのくせ、次の日は清津峡を歩いたのです。

若かりし頃の、いい想い出です。


日本百名山 31、雨飾山(1963m)

2013-12-29 | 日本百名山

日本百名山 31、雨飾山(1963m)

 

「・・・北側から仰いだ雨飾山は良かった。
左右に平均の取れた肩を長く張って、その上に、猫の耳のような二つのピークが睦まじげに寄り添って、すっきりと五月の空に立っていた。
やはり品がよく美しかった。」

 (大糸線根知(ねち)駅より)
設定:カメラ:PRO、レンズ:28mm、風景:日本アルプスの朝、高さ強調1.5倍、仰角10度

 

遠眼には、二つのピークをもった、優しい稜線を描く山のようですが、
実際登った記録だと、見ると聞くとでは大違いの山のようです。

 

「(二度失敗して)三度目の雨飾山は、戦後のある年の十月下旬であった。・・・
登山口はやはり小谷(おたり)温泉を選んだが、道路は途中までしかなかった。・・・
大海川へ入るともう道は消え、河原伝いに遡って行くほかなかった。

  
大海川は上流で二つに分かれ、私達は左のアラスゲ沢を採った。
それまで比較的ゆるやかだった谷が、にわかに急な沢となり、石を飛び越えたり、へつったり、谷を避けるために藪の中を高捲きしたりせねばならなかった。


沢筋に水が無くなって、ゴロゴロした大きな石を踏んで行くようになると、もう森林帯を抜け出て、見晴らしが開け、直ぐ頭上に素晴らしい岸壁が現れた。
それはフトンピシ(布団菱?)と呼ばれる巨大な岩で、その岩の間に廊下のような細い隙間が通じていた。
その咽喉(ゴルジュ)を通り抜けて上に出ると、既に沢の源頭で、あとは枯草つきの急斜面を登るだけであった。
急登にあえぎながら稜線に辿りつくと、ハッキリした道がついていた。・・・
それから頂上まで、急ではあったが、一登りにすぎなかった。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 


日本百名山 30、谷川岳(1963m)

2013-12-23 | 日本百名山

日本百名山 30、谷川岳(1963m)

「・・・今日までに谷川岳で遭難死亡した人は二百数十人に及ぶという。
そしてなおそのあとを絶たない。
この不幸な数字は世界のどこの山にも類がない。・・・」

そして、その数は、2005(平成17)年までで 781名に達しています。
世界のワースト記録としてギネスに認定されています。不名誉な記録です。

それほどまでして、この危険な山に登りたいのか?
私には、よく解らない。理解できません。
後で出てきますが、これだけの死者の出る理由は、谷川岳のロッククライミングにあるようです。

 

 

「・・・五万分の一の地図に山名が誤記されたので、名称の混乱が起こった。

 (現在発行されている1/5万地形図)

現在の谷川岳は古来『耳二つ』と呼ばれていた。

そしてさらに、その『耳二つ』の北峰オキノ耳を谷川富士、南峰トマノ耳を薬師岳と称していた。
そして谷川岳という名は、今の谷川の奥にある俎(まないたぐら)に付せられていたのだという。・・・

今では『耳二つ』を谷川岳と呼ぶことは決定的となってしまった。
 

『耳二つ』とはいみじくも付けられた名前で、上越線の上牧(かみもく)あたりから望むと、遠くに猫の耳を立てたようなキチンと二つの耳が並んでいる。・・・」

 (上牧駅から見た谷川岳)
設定:カメラ:PRO、レンズ:28mm、風景:奥秩父の森、高さ強調1.5倍、仰角20度

 

「上越線が開通して土合(どあい)からの登山道がひらけた。
土合はまるで谷川岳登山のためにあるような小駅で、下車するとすぐそこがもう登山口である。・・・

土合から清水峠に向かって、谷川連峰の腹を縫って断続した道が見える。
これが清水越えの旧道で、・・・
現在はその下に、湯檜曽川に沿って小路がついている。

この小路を私は数回通ったが、これほど素晴らしい景観に恵まれた道も数少なかろう。

(現地に入っていないので写真がありませんが、そのうち転載させていただくつもりです。)

マチガ沢、一ノ倉沢、幽ノ沢等、凄い岸壁をつきあたりに持った沢を、一つ一つのぞいて行くのである。
こんなに手近に、こんなみごとな岸壁がある以上、岩登りの好きな連中がここに集まるのも無理はない。
そして谷川岳の遭難の大半はこの岸壁であった。・・・」

一ノ倉沢の岩場は、その険しさから剱岳、穂高岳とともに日本三大岩場といわれています。
ロッククライミングのメッカとなっています。

私も、瑞牆山へ登った時、すぐ横のローソクのような切り立った岩にぶら下がっていた若い男女を観ましたが、
彼らはなんのてらいもなく、その岩を攀じ登っていました。
今でも信じられない光景です。 
私は、今後ともハイキングでやめときましょう。 

さて、本題ですが
「私が最初に谷川岳に登ったのは昭和8年(1933年)の秋で、・・・
谷川温泉で一泊して、翌日天神峠を経て頂上に立ったが、当時は登山者一人にも出あわなかった。

帰途は西黒沢を下り、湯檜曽まで歩いた。」

(あるガイドブックによると、 素人は西黒尾根は下るなと注意書きがありました。
多分急坂すぎるからでしょう。)

  

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 


日本百名山 29、至仏山(2228m)

2013-12-20 | 日本百名山

日本百名山 29、至仏山(2228m)

書き出しは
「尾瀬沼を引き立てるものが燧岳とすれば、尾瀬ケ原のそれは至仏山であろう。」
から始まっている。

「燧と至仏は尾瀬ヶ原を挟んで相対しているが、前者の威のある直線的な山容に引きかえ、後者は柔らかな曲線を描いて、何となく親しみやすい。」


至仏より燧を、    燧より至仏を、

設定:カメラ:PRO、レンズ:28mm、風景:地図との合成(白)、高さ強調1.3倍、仰角-12度

この両山の対照は、カシバードでは あまりはっきりしないようです。
その姿を実見するのは何時の事やら解りませんが、テレビや雑誌の写真を注意して待つことといたします。

 

  

「私が初めて至仏山の頂上を踏んだのは、大正十五年(1926年)の秋であった。・・・
狩小屋沢から登った。
当時は(今でも)その沢には道がなく、飛沫を浴びて滝を攀じたり、岩を匐い上ったりしながら、登って行った。

沢を詰めると、頭上に至仏の全容が現れた。
満山紅葉で、その間に点々と浮島のような岩石が立っている。

優美な紅葉の色調と、それを引緊めるように峻厳な岩と、双方のコントラストが実にみごとな眺めを形作っていた。・・・

頂上が近くなって、沢を離れて左の尾根に取りついたところ、その深い灌木帯に入りこみ、籔と戦いながらようやくそれを切り抜け、今度は岩石を攀じ登って、遂に頂上に達した。

狩小屋沢の野営地を出てから六時間かかった。・・・」

4Km 余りの道のりだから、1時間に700m位の速さになります。普通の1/3~4の速度です。

この道の厳しさが想像されます。

 

「原一面まるで燃えるような代赭色(たいしゃいろ)で、それがずっと向こうの端、ピラミッドの燧の裾まで伸びている。・・・

下りは滑りっこい狢沢を採って、待望の湿原に踏み込み、あの広い尾瀬ヶ原を夕日を浴びながらトボトボと横切っていた。・・・」

 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 

今後、いろいろな書籍やテレビ等で見る機会は多いでしょうから、是非その紅葉の美しさを見てみたいと思います。

私には、もう実見は無理でしょうから。


日本百名山 28、燧岳(2346m)

2013-12-14 | 日本百名山

日本百名山 28、燧岳(2346m)

私は20代の若かりし頃、会社の仲間達と燧ケ岳に登ったことがあります。
三平峠から長蔵小屋に泊まり、翌日登りました。
燧ケ岳頂上の厳しかったことをおぼろに記憶しています。
アップダウンが激しく、その上、鉢巻状に辿る山腹を腹這いで伝い歩きした記憶があります。

『もういいよ、勘弁してくれ!』という感じでした。

 

さて、『日本百名山』の書き出しによると、
「広大な尾瀬ヶ原を差し挟んで東西に対立している燧岳と至仏山。
燧の颯爽として威厳のある形を厳父とすれば、至仏の悠揚とした柔らかみのある姿は、慈母にたとえられようか。
原の中央に立ってかれを仰ぎ、これを眺めると、対象の妙を得た造化に感嘆せざるを得ない。」

 (尾瀬沼から燧)   (尾瀬沼の同じ所からの至仏)
設定:カメラ:PRO、レンズ:16mm、風景:初秋の新雪、高さ強調1.3倍、仰角20度

 

今回は、燧岳の記録にとどめ、至仏山は次回の29章に譲ります。

 

「(燧ケ岳)頂上は二峰に分かれ、三角点のある方を俎(まないたぐら)と呼び、他を柴安(しばやすくら)と呼ぶ。後者が二十米あまり高い。
クラ()は岩の意で、マナイタグラは俎のような岩の形に由るものであるが、シバヤスクラのシバヤスは何かまだわからない。・・・」

 


「この峠(富士見峠)の近くのアヤメ平から、広い原の向こうの果てに、遮るものもなく燧岳の全貌を臨んだ時は、天下一品と云う気がした。
それは胸の透くような伸び伸びした線を左右に張って、ほぼ純正なピラミッドであった。・・・
山岳展望台として燧岳は無類の位置を占めている。」

 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

設定:カメラ:PRO、レンズ:16mm、風景:初秋の新雪、高さ強調1.3倍、仰角20度

 

何時か近いうちに本物の写真を撮ってみたいです。

 

 

 


泉岳寺近くを徘徊

2013-12-13 | 散策

泉岳寺近くを徘徊

 

義士の討ち入りの日も迫っていたので、泉岳寺にお詣りしてきました。
しかし、二日後がその日だとは知りませんでした。

お寺には『義士祭』の赤い旗があちこちに飾られ、多くの法被姿の人たちが準備に走り廻っていました。

 

先ず、品川駅に近い東禅寺に寄りました。

入口近くに、『東海道と東禅寺』の説明板がありました。

「江戸時代、この辺りの東海道は後ろに小高い台地、前に江戸湾を臨む海沿いの道だった。
背後の高輪台地には、四十七士で知られる泉岳寺をはじめ由緒ある寺院が多い。
また付近には、幕末の頃最初のイギリス公使宿館となった東禅寺がある。
台地の上からは眺望絶景。
東海道第一の宿場“品川”も間近に望めた。・・・」

 

東禅寺は国指定史跡になっていて、厳めしい門と参道がありました。

  

その説明板(都教育委員会)には

「東禅寺は、幕末の安政六年(1859)、最初の英国公使館が置かれた場所です。・・・
幕末の開国に伴い、安政六年六月、初代英国公使(着任時は総領事)ラザフォード・オールコックが着任すると、東禅寺はその宿所としてて供され、慶応元年(1865)六月まで七年間英国公使館として使用されました。・・・
現在の東禅寺の寺域は往時に比べ縮小し、建物の多くも失われていますが、公使館員の宿舎となっていた『僊源亭(せんげんてい)』やその前の庭園などは良好に残っています。・・・」

  

 

ここでも、生麦事件同様に、水戸藩浪士や松本藩士らによる襲撃事件が起こっています。

 

さて、次に本日の目的地、泉岳寺に赴きました。

古くから残っている伊皿子への道を登り、泉岳寺に参りました。


前にもふれましたように、『義士祭』の準備で賑わっていました。

 

さて、ここの義士墓解説によりますと、

「赤穂城主浅野内匠頭長矩は、士道を弁えぬ吉良上野介義央の仕打ちに抗して刃傷に及びし咎により即日切腹を仰せ付けられた。
家臣はこの処断に承服せず、筆頭家老大石内蔵助良雄を統領に四十七士が結束して主君浅野内匠頭長矩の無念をはらすため元禄十五年(1702年)十二月十四日本所吉良邸に討ち入り主君の辱めを雪ぎ、その墓前に吉良上野介義央の首級を供え成就を報告し、敢えて官に裁きを求めた。・・・
翌元禄十六年二月四日、幕府は苦心の末、武士の体面を立て、切腹せしめた。・・・」

 

さて、それにまつわる疑問を並べてみると

1)内匠頭刃傷後、赤穂藩は改易され、藩は取り潰しされました。
藩士は路頭に迷うわけで、その際浅野家の財産分配では結構もめたようです。
塩田からの蓄財が多少あったからよかったようですが・・・ 

内蔵助が自分の取り分を辞退したため、おさまったという。
しかし、その後の行状から?

2)改易後の期間を調べてみると、

浅野内匠頭長矩の切腹・・・・・・元禄14年4月21日

吉良邸討ち入り・・・・・・・・・元禄15年12月14日(切腹後一年九ケ月)

大石内蔵助以下四十七士切腹・・・元禄16年2月(討ち入り後二ケ月)

この間の、自分や家族の生活は?
最初の人数からは、ずいぶん減ったと思いますが、それでも47人が決行とは立派です。
その後に、多分切腹が待っているのですからね。 

余程、腹に据えかねた幕府方のやり方だったのでしょう。

3)討ち入りの際、吉良方は60~80人の雇員が居たそうだが、死者16名、負傷者23名とか。
後は逃げたのか?
反面、赤穂方は47名、2人負傷したが死者ナシ。必死の討ち入りだったのでしょう。

 

こうした観点から、多分明日のテレビなどでは、どこかが触れるでしょうから、注意して見てみましょう。

大分、腹も空いたので、久しぶりに駅前の蕎麦屋で、中華そば(塩味)をおいしく頂きました。
650円也! 


堂平山ハイキング

2013-12-09 | ハイキング 里山歩き

堂平山ハイキング

 

急に、笠山を加えた「笠山・堂平山」登山コースに変えられました。参加人員は18人(内女性5人)。

しかし、男3人だけは従来のハイキングコースにこだわりました。

無理をしないで、なが~く野外活動を楽しもうという心づもりからです。

 

さて、このコースは2年前に登った大霧山と併せ比企三山と呼ばれている秩父の山々です。

堂平山(875.8m)、笠山(837m)に加えて大楠山(766.6m)の三山です。

 

今日は、マイクロバスでなく東武東上線の電車コースです。

池袋駅7:45発の急行で小川町に行き、そこからバスで白石車庫まで行きました。帰りも同じいコースです。
車の渋滞の心配もなく、、これもまたいいものですね。
特に、帰りの電車内での缶酎ハイが楽しかった。

 

さてさて、準備運動もそこそこに、スタートしました。
少し涼しくはありましたが、まあほどほどの天気で、爽快でした。

 

コース図(ハイキング組)は下の赤線です。登山コースと殆ど変りません。

 

 

登山組は笠山へ寄っただけです。その分、ハイキング組は柴山に寄りました。

 

そして5分後に七重峠で合流し、昼食をとりました。
結局、登山コースとハイキングコースは5分の差です。たったの5分です! 

 

さて、そこから今日の主たる目的地、堂平山に皆さん一緒に向かいました。

頂上からの展望はよく、360度の展望が開けていました。

ただ、富士山やスカイツリーを確認できるほどには晴れていませんでした。

 

遠くに見えるのが両神山だそうです。パネルと対照してみてください。

 

頂上近くに天文台もあり、天測点(一等三角点)もありました。

 

この天測点とは・・・「天文測量を実施するために設けられた基準点です。
天測点自体は測量機器の重量に耐えうる単なるコンクリート製の観測台で、四角柱や八角柱などさまざまな形をしています。
ただし、どの点にも台上部に指標鋲、側面に銘板
『第何号 天測点  地理調査所』が取り付けられています。

天文測量を実施した目的は、三角測量で求められた位置座標を規正する(三角測量の微調整)ためでした。
昭和29年から5年間、天測点を利用した天文測量が一等三角点のすぐそばで実施されています。
全国48箇所で設置・観測がなされましたが、その後は機器の軽量化により天測点を設置することはなくなりました。(一等三角点そのもので役立ったのでしょう) ・・・」

また、この頂上には、スカイダイビングの広場もあり、4,5人がトライしていました。

  

空高くから見おろすと、地上の我々はちっぽけなもしに見えるでしょうが、地上から見る我々としては、命を大切にしない若さのバカに見えます。どちらが正しいのやら。

 

そして、一路白石峠経由、白石車庫前のバス停へ急ぎました。

ただ、今日のコースは頂上付近まで、諸所に自動車の通れる道があり、作業車の他に乗用車も時折走っていました。それが少し興ざめではありました。

下はバス乗り場の観光地図です。

 

ハイキングの後、『露天風呂で汗を流し、みんなで一杯』が楽しめなかったのが、ちょっと心残りですが、
しかし私には手ごろなコースでした。

 

幹事さん、ありがとう!


日本百名山 27、巻機山(1960m)

2013-12-06 | 日本百名山

日本百名山 27、巻機山(1960m)

今は、JRの普通線も新幹線も、そして高速道路も『清水トンネル』で谷川岳の下を快適に通過しています。
しかし、その昔(明治の中ごろ)、越後と上州を結ぶため清水峠越えの街道が計画されましたが、雪崩のためポシャてしまい、そのまま放置されているそうです。

それだけの難工事なのに、なぜその都度、別々にトンネルを掘るのでしょうかね?
一緒に工事すればいいのに!

 さて、その清水峠越えの拠点に『清水』があり、そのすぐ上に、この辺では、「最も高く、最も立派な」巻機山があります。

 

「山間の僻村清水はこの巻機山の真下にある。
から少し登ると、巻機山の前に、天狗岩(あるいは黒ツルベ=割引岳)と呼ばれる黒々とした岩峰がニョキと立っているのが印象的である。
その右裏に、頂きの平らな巻機山がゆったりと伸びている。」

設定:カメラ:PRO、レンズ:35mm、風景:春山の追分、高さ強調1.3倍、仰角20度

 

 

「巻機山に登ったのは(昭和11年)四月八日であったが、村はまだ深い雪の下にあった。

上越線の塩沢駅で下車して、登川に沿って、最奥の清水までの長い道を歩き、そこで一泊して、翌日、案内荷担ぎを一人雇って登った。
初っぱなから檜穴ノ段(ひのきあなのだん)と呼ぶ急斜面は辛かったが、それを登りきると、思わず歓声を発するような気持ちのいい広々とした雪原に出る。
それからもう一度、上檜穴ノ段の急坂を登ると、間もなく前山(ニセ巻機山)である。」

 

前山を「ニセ巻機山」とも呼ばれているのは、清水から登ると、巻機山はほとんどこのニセ巻機山と重なり、ニセモノを目指して登るからだそうです。

「前山から巻機山の頂上まで三十分足らずだが、その鞍部は、雪が消えると、お泉水(池塘)が幾つも現われ、ナンキンコザクラの敷き咲く気持ちのいい所である。
頂上は広々としている。・・・」

 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 

  

次の山名は、今の地形図とは一致しないが、
天狗山(黒ツルベ)は、割引岳の事か、「・・・黒々とした岩峰がニョキと立っているのが印象的…」とある?

また、「檜穴ノ段」「上檜穴ノ段」とあるのは、六合目への急な取り付け道と、その背後の前山への急な尾根道の事か? このコースは井戸尾根コースといわれています。

その他にもいろいろあって、コースを尋ねるのに難儀をしています。

 


日本百名山 26、平ヶ岳(2140m)

2013-12-03 | 日本百名山

日本百名山 26、平ヶ岳(2140m)

ここは、日本海側へ流れる阿賀野川と、太平洋側へ流れる利根川の分水嶺です。
新潟県側の豪雪地帯との境でもあります。

 

そして、書き出しに

「・・・あまり人に知られていないが、十分にその(百名山の)資格がある。

第一、    利根源流地域の最高峰である。・・・
二千百米を超す山は、平ケ岳と至仏山と武尊岳しかない。・・・

第二、    その独自な山容。長く平らな頂上は甚だ個性的である。・・・

第三は、・・・どこの山へもワンサと人が押しかける時代に、まだろくな登山道もない・・・。」

筆者は、この三つを百名山にした理由に挙げている。

 

 

「残雪を踏んで行く頃が一番登り易い。・・・(しかし)残雪期を逃した私は秋のさ中に、遂に多年の念願を果たした。
越後側から登って、上州側へ下った。・・・
小出から枝折峠を越えて石抱橋までバス、それから舟で近年ダム湖(奥只見湖)になった北ノ又川の支流・中ノ又川へ入った。・・・
そこから名だたる越後の山の籔との悪戦苦闘が始まった。・・・

翌日も猛烈な藪くぐりが続いた。方角が解らなくなると、木によじ登って行衛を定める。
ようやく池ケ岳の気持ちのいい草原に出てホットした。
そこから中ノ岐の源流を渡って,又しても藪の中に入ったが、うるさい枝を掻き分け掻き分け登っているうち、ひょっこりきれいな空地に出た。そこが平ケ岳の頂上であった。・・・

 

頂上のテントで明けた朝は、素晴らしい天気に恵まれた。
ところどころ小池をちりばめた草原には、あの忌まわしい屑類一つなく、汚されない自然のままの美しさで広々と続いていた。・・・」

 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 

ここに出てくる藪との戦いは、人跡未踏の山では特に厳しいようです。

「方角が解らなくなると、木によじ登って行衛を定める。」とありました。

先日登った榛名山・箒部ケ岳の藪(むしろ笹の部類)などは、問題外のようです。

以前、旧東海道を小田原から箱根峠経由三島へ下ったことがありますが、三島からは背丈以上の藪の中を歩きました。そこは足元に旧街道の石畳があったからよかったのですが、そんな道の向かいからザワザワ何者かに出くわすと怖いですよね。

さて、尾根を伝っても、花崗岩特有の岩塊に出くわすと、なかなかその先には行けません。

花崗岩は一名御影石ともいわれ、古くから石材にも使われた緻密でかたい岩石です。ちなみに三角点や石橋にも使われています。国会議事堂もそうです。

籔とそんな岩塊と闘いながら頂上を目指しました。

 

そうかといっても、沢に下りるのはさらに危険です。
そして、その下り路ががさらに?・・・しんどいとか・・・。
私には無理!

 ところで、地形図では、多くの湿地帯や池が散見できますが、所謂『池塘』です。

 
近くの尾瀬沼もそうですが、これは豪雪のために出来る泥炭地・湿地帯であり、水たまりです。