地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

上野原の里山 能岳と八重山ハイク

2014-04-28 | ハイキング 里山歩き

上野原の里山 能岳と八重山ハイク

 

GWの始め、天気にも恵まれ、山の連中とハイキングに出かけました。

コースは次の赤線です。

  

上野原駅からバスで新井まで行き、そこから爽やかな好天の下、ぶらぶら、ニギニギ、能岳に登りました。

標高差、約250m、全行程約7Kmです。比較的楽なコースです。

 

今はミツバツツジやヤマザクラがきれいでした。

  

そこから、八重山を経て展望台までは、ミツバツツジが多く、

われわれを気持ちよく迎えてくれました。

  

 

さて、今日は、山の会の元代表が転勤先の岡山から来てくれていたので、
その歓迎を兼ねていました。

従って、早めの下山して、地元で飲み会をやりました。

私は、連日の飲み会で、体調を一寸心配でしたので、
あまり呑まないように努力しましたが・・・???


ミニ同期会の前に 駒込~上野公園 散策

2014-04-26 | 散策

ミニ同期会の前に 駒込~上野公園 散策


今日は大学の頃の友達8人と夕食を共にすることとなり、上野の西郷さんの前に6時集合しました。

私は、例のごとく早めに出て、東京の街を散策しました。

散策したコースは次の地図の赤線です。約8Kmでしょうか。

駒込駅からスタート。
駅前の六義園は何回も行っているので、今回は素通り。

先ずは、本郷通りを南へ、吉祥寺へお参りしました。

なかなか立派な門構えです。

正式名称は、曹洞宗 諏訪山 吉祥寺 です。

ここは、僧侶の養成機関で、一時は一千名余りの僧侶が学んでいたそうです。
昌平黌(東京帝大の前身)と並び称された学問所です。

   

そして、ここに二宮尊徳の墓碑がありました。

説明板によると、

「天明七年~安政三年(1787~1856)。
相模の人、通称、金次郎。江戸末期の農政家。

人物が認められて小田原藩領下野国 櫻町の荒廃を復興したことで知られる。

その後、常陸その他の諸藩の復興に農政家として 、また政治力によって寄与するも、・・・」

立派な墓碑が建っていました。

その庭に、大きなセンダンの木が植えてありました。

黄色い実が沢山ついていました。

 『栴檀は双葉より芳し』 とか。
その意味は、神童は小さいころから違うそうです。だから、私には関係ありません! 

大きな木でした。毎朝ラジヲ体操に行く公園にもありますが、それより数倍も大きい木でした。

『楝』(おうち)の別名があり、邪気を払う霊木だそうです。

さて、ここには、江戸南町奉行の鳥居耀蔵や榎本武揚の墓もあるそうです。
大分探し回りましたが、解りませんでした。

榎本武揚さんの墓にはお参りしたかったが、鳥居耀蔵さんの墓には興味ありません。
彼は、蘭学者を目の敵にして追い回した男です。高野長英氏も被害者の一人です。


さて、大分時間をとりまして、次は目赤不動尊にお詣りしました。

  

御承知のように、江戸には五色不動尊があります。

目黒不動、目白不動は有名です。他に、目赤不動、目青不動、目黄不動です。

私は、目青不動尊(世田谷区太子堂)だけは、まだお詣りしていません。


そこから、本駒込駅に向かうと、駒込土物店跡が残っていた。

ここは江戸三大市場の一つに数えられていたところです。

江戸初期には、駒込茄子の産地でもあり、他に大根、人参、牛蒡などが土のついたまま売られていたそうです。
土物店(つちものたな)と呼ばれ親しまれていたのは、そのためだそうです。

その横の路地を散歩しながら、白山神社に行きました。

どうも、その路地は曰くありそうな通りです。 
古い地図で見ると、門前街などが たむろしていたようですが・・・。

そして、白山神社にお詣りしました。

  

大分疲れて来たので、先を急ぎましょう。
 

次は、“八百屋お七” で有名な大円寺です。
お七は確か鈴ヶ森の刑場で火炙りの刑に処されたそうですが、 

その後、この地に迎えられ、ねんごろに供養されたようです。

   (ほうろく地蔵)

「・・・天和二年(1682)におきた天和の大火の後、
恋仲になった寺小姓恋しさに放火の大罪を犯し、
火炙りの刑を受けた “お七” を供養する為に建立された地蔵様です。

寺の由来書によると、
お七の罪業を救うために、熱した焙烙(ほうろく)を頭にかぶり、
自ら焦熱の苦しみを受けたお地蔵さまとされている。・・・」

どうも、冤罪臭いですね。可哀そうです!

 

そして、ウロウロ歩いて、根津神社にお詣りしました。
丁度 “つつじ祭り” の最中でした。
  

ここに来ると、いつも想い出すのが文京学園様です。

園長さんが、ここの浮世絵を集めておられ、
私どもが納めていた地図帳の表紙に使っておられました。 

年々、浮世絵を変えられておられました。
よくこんなに浮世絵があるものだな~、と感心していました。

 

そうしてやっと、上野公園に辿りつきました。

いろいろ思い出のある公園です。


最後に、西郷さんの銅像の前で、仲間達8人と会いました。

後は、呑めや、歌えやで、二日酔い!








 

 


日本百名山 43、浅間山(2542m)

2014-04-25 | 日本百名山

日本百名山 43、浅間山(2542m)

小諸駅前からのカシバードです。

前掛山が阿蘇山頂です。
普通、ガスが立ち込めていて、ここまでしか登れません。
左隣の高い山が、黒斑山です。

設定: カメラ:PRE、レンズ:35mm、風景:奥秩父の森、高さ強調1.5倍。

 

 「わが国で火山の代表といえば、浅間と阿蘇である。

いつ頃から噴き始めたか知らないが、それは今日に至るまで絶えることなく煙をあげている。・・・

中でも有名なのは天明三年(1783年)の大爆発で、数粁にわたる溶岩を流して、山麓地帯に大災害を与えた。
今は名所となっている鬼押し出しはその名残である。」

筆者の登山コースは次の赤線です。

  

 

「私が初めて浅間に登ったのは、高等学校一年生の夏であった。
小諸から夜をかけて登った。

普通峰ノ茶屋からの登りは、ザクザクした砂礫を踏んで行く単調な道だが、
小諸からの登山は、牙(キッパ)山や黒斑(くろふ)山などの岸壁を見上げ、高山植物の咲き乱れる湯ノ平高原を通って、変化の多い楽しい道であった。
そこから頂上のドームにかかって、絶頂の火口壁で噴煙に襲われて逃げまどったことを今でも覚えている。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 

私も、浅間山には、途中までですが、何回も登りました。
お隣の黒斑山は素晴らしい山でした。
しかし、結構きつかったです。もう登れないでしょうが・・・。 

他人様の別荘を利用させてもらい、鬼押し出しにも何回か行きました。

下の写真は、2,008年の夏に、山の連中と登った湯の平(賽の河原)のものです。
素晴らしい眺めでした。後ろの崖が浅間山です。

 

別の日、その先に進んで、浅間の頂上を目指しましたが、霧が深く、ただただ牛乳瓶の中をさまよっているようで、
あと少しを残してUターンしたことがあります。 
今想うと、惜しいことをしたと残念です。もう、私には無理ですから・・・。 

 

 

 



 

 


大菩薩峠へ

2014-04-21 | ハイキング 里山歩き

大菩薩峠へ

 

山の仲間達と、昔懐かしい大菩薩峠へハイクしました。

 

昔懐かしいというのは、大学入学で上京して間もなく、だれの企画が、田舎の高校同級生たちと大菩薩峠へ登ったことがあります。

新宿駅から夜行で塩山駅へ、そこからバスで途中まで、そして朝日の輝く大菩薩峠に登りました。

今回はそれ以来です。六十数年ぶりです。

  (当時の写真です。後ろが大菩嶺への道です)

 

今回、登ったコースは、次の地図の赤線です。

      

 

今回は、往復上日川峠までバスで行き来しました。塩山駅手前の甲斐大和駅からバスです。

途中車窓から、昨夜降ったらしい雪景色が見れました。

木々に積もった新雪がきれいでした。路には積もっていませんでしたが・・・。

  

 

福ちゃん荘までは車も通る簡易舗装道路でした。

そして、雪景色を楽しみながら山道を比較的楽に登りました。

今日は一日中、濃い霧の中、それがまた感じいい!

  

 

ほぼ予定通り大菩薩峠に着き、小屋で昼食をとりました。

昔は何もなかったように記憶していますが、今は山小舎も、土産物屋も建っていました。

 

そして、それから先の賽の河原、雷岩まで登りました。

昔は大菩薩峠までで、それから先はなだらかな草原のように覚えていましたが、今回はその先の大菩薩嶺まで登りました。私は雷岩まででやめましたが・・・。(あと10分の距離)

 

ところが、当時なだらかな草原に見えて居たあたりは、岩がごつごつして登りにくく、大変苦労しました。
苦労に苦労を重ねて、やっと辿りついたのが雷岩です。

 

 若い連中(といっても孫のいる若いおばちゃんやお爺さん達)は、そこから大菩薩嶺まで足を伸ばしましたが、

私ら八十代はすぐ帰途につきました。

 

しかし、唐松尾根伝いの道は、昨夜来の雪もあり、滑りやすく大変苦労しました。

でも間もなく、健脚組の大菩薩嶺経由の連中は元気にはしゃいで追いつきました。

また今日も、歳を感じさせられました。

 

もうぼつぼつ、山登りはお終いかな~?

 

バスに乗る前に一杯、バスの中でまた一杯、そして電車に乗ってまたまた一杯!

お後がよろしかったで~す。


高尾山へサクラ見物

2014-04-13 | ハイキング 里山歩き

高尾山へサクラ見物

 

いい天気の金曜日、誘われて高尾山へハイキングに行きました。

逆回りが空いてるだろうと企画してくれましたが、小仏行きのバスは2台とも満員で載せてもらえず、次まで1時間も待たねばならないので、正常なルートに変更しました。

正解でした。比較的登山者は少なく、のびやかに桜を楽しめました。

 

ルートは次の地図のコースです。

  

 

比較的登りにくい稲荷山コース(3.1Km)を登りました。
意外としんどかったです。多分、歳の所為でしょう。
ひところは簡単に登れるコースだと、軽く考えていましたが・・・。

特に、頂上近くの石段がしんどかった。数えて登ったら251段ありました。

 

高尾山頂上では富士山がきれいに見えました。

 

そこの説明板を引用すると、

「高尾山は奈良時代の昔から信仰の山として、その後も江戸時代の幕府直轄、明治以降の御料林、そして戦後の国有林と、さまざまな形で森林が保護されてきました。

さらに昭和25年には、高尾山、陣場山を中心とした美しい景観を守り、広く都民に利用してもらうために、都立高尾陣場自然公園としての指定を受けました。

その後昭和42年には、明治100年を記念して、高尾山を中心とした地域が明治の森高尾国定公園に指定され、今日にいたっています。・・・}

 

東京に近く、交通に便利なこの山は、標高599m、年間登山者数260万人(一日平均7000人余)、世界一の登山者数を誇る山です。

 

高尾山頂からすぐ、奥高尾へ向かいました。休みもせず!

 

以前、山の仲間たちとバーベキュウを楽しんだあたりを徘徊しながら、城山公園へ向かいました。

やはり、途中で簡単な昼飯は採りましたが・・・。

 

途中の景色も見事でしたが、城山山頂のきれいなこと。

下手な説明は抜きにして、写真を見てください。どうです!

        

 

十分に堪能して、小仏峠に降りました。

  

 

誰のいたずらか、タヌキちゃんの酒徳利が腰にないのです。

多分、お家で秘かに楽しんでいることでしょうが、

独り占めにしないで、みんなで楽しみましょうよ・・・。

 

帰りのバスはスムーズで、高尾駅前で一杯、そして家の近くでまた一杯!

楽しい一日でした。

 

幹事さんありがとう。またね!


新宿御苑散策

2014-04-07 | 散策

新宿御苑散策

 

いい天気なので、久し振りに新宿御苑へサクラ見物に出かけました。


土曜日のためか、新宿門は入場規制を行うほどの人出で大混雑、私は足を伸ばして大木戸門から入りました。
殆ど平日と変わらないぐらいの静かな人出でした。

散策した道のりは下の地図赤線です。行程約10Km.

 

今日は、公園の一番外側を周回しました。
そのためか、ちらほらしか人に会いませんでした。大変静かにサクラ見物ができました。

 

 

先ずは、玉藻池

  

そこの説明板によると、

内藤下屋敷庭園の池だそうです。
池の形や中の島は当時のままだそうです。

写真でもわかるとおり、大変静かでした。

 

そして、スズカケ並木のある、フランス式整形庭園に出ました。

  

しばらく、そこのベンチに腰かけて、日向ぼっこを楽しみました。殆ど人影はなし。

 

その隣の林には、自然のまま生育させたスズカケの巨木がありました。
  

そこの説明板によると、

「・・・枝をきらないで自由にのびのびと育っています。
そのため、普通ではなかなか見られないような自然の樹形が観察できます。

ところが、フラン式整形庭園のスズカケ並木を見てください。
樹齢はほぼ同じにもかかわらず、樹高は低く、幹まわりも小さいことがわかります。
枝もあまり張っていません。

これは、定期的に枝をきっているためです。

都内でよく見かける街路樹も、枝がじゃまにならないよう枝をきっているため、
本来の樹形とはちがった形になっています。」


自由気ままに生育させると、こんなに立派な木になるのですね。
人間のエゴで、公園や道路際の並木にされているのは、可哀そう過ぎます。

 

しばらく行くと、奇妙な橋が架かっていました。

明治38年(1905)にフランス人が組み立てたものだそうです。

説明板によると、「日本初の擬木(ぎぼく)の橋」だそうです。

   

 
また、途中に「ヒートアイランド現象」の説明板がありました。

その説明板を紹介すると、

「都市では、アスファルト、コンクリートなどが太陽で熱せられたり、
ビルの冷暖房や工場からの人工的な熱が大量に放出されるため、
郊外に比べると常に気温が高くなっています。

建物が建ったり道路が出来たりして、自然の地面や緑やが少なくなったことも、
気温の上昇をより大きくしています。

等温線を描くと都市部が熱い島のようになるので、これをヒートアイランドと呼んでいます。

最近都内の桜が早く開花するのも、ヒートアイランドが一因と云われています。・・・」


公園の外周を歩いていると、大きな木が茂っているのに気付きます。

スダジイ、マテバシイ、シラカシなどの常緑広葉樹です。

昔は御苑の外へい建物が出来ると、それを嫌って、その辺りに木を植えて目隠ししたそうです。

 

ここにも、多くの樹や花が咲いていました。

その、2,3を紹介すると、
 (ヒサカキ=姫榊…神に備えるやや小さい葉の榊) 

  (イイギリ・・・ナンテンギリともいう。秋にはオレンジ色の実がブドウのように実ります。)

 (オドリコソウ=踊り子草・・・花の形が笠をかぶった踊り子に似ていることから)

  (だいこんの花)

 

 そうして、その中に、非常に奇妙なこぶ状の木の根っこが生えていました。

  

初めて見る光景です。
説明板によると、クラウショウ と云うのだそうです。

「秋になると枝が鳥の羽のように落葉することから、落羽松と云います。
北米原産のスギ科の落葉針葉樹で、湿地や沼地に生育するためヌマスギとも呼ばれています。・・・

地面にごつごつしたタケノコのように並んでいるのは、気根といってクラウショウの根から出ているるものです。 
地上や水面上に出て、酸素を取り入れる働きがあります。

ここのクラウショウは明治時代に植えられたもので、樹齢100年を超える大木です。

日本国内でこれほど古く、また気根の美しく発達したラクウショウは大変珍しく、
価値の高いものと云えるでしょう。」 


面白いものをみせてもらいました。もっと調べてみましょう。

 

そして、新宿門から出ました。

まだ、沢山の入場者で混雑していました。
今日は、出口は別になっていました。

 

腹は空いたが、家で一杯やろうと思い、いつもの道を急いで帰りました。

 いい一日でした。


外堀公園・小石川後楽園・神田明神・旧万世橋へサクラ見物

2014-04-02 | 散策

外堀公園・小石川後楽園・神田明神・旧万世橋へサクラ見物

 

お茶の水の眼鏡店へのついでに(?)、サクラ見物に行ってきました。

天気よく、平日の午前中なので人出も少なく、絶好のサクラ見物が出来ました。

 

歩いたコースは下の地図の赤線です。約10Km。

 

先ず、市ヶ谷から飯田橋まで江戸城・外堀公園。
お花見には、一番いいときでしょう。

    
所々、夜の酒盛りのシートが設けられていました。中にはテントを設営してるのもありました。
幹事さんご苦労さん。


飯田橋駅から、少々道に迷いながら小石川後楽園へ。
いつ来ても、いい眺めです。

ビルの谷間のオアシスです。

    

 

今日は、目当ての 『九八屋』 の修理が終わっていて、ゆっくり眺められました。

  

その説明板を紹介すると、

「九八屋

江戸時代の風流な酒亭の様子を現した。
この名の由来は 『酒を飲むに昼は九分夜は八分にすべし』 と、

酒のみならず万事控えるを良しとす、との教訓による。

戦災により焼失したが、昭和三十四年に復元した。」

 

私の大好きな遺物です。よくぞ、復元してくれたと感謝しています。

 

それにしても、夜の八分は解るが、昼の九分がどうも・・・?

以前これを見て以来、昼も時々飲むようになりました。少々ですが。

 

後楽園を後にして、外堀沿いをサクラを楽しみながら、神田明神へ行きました。

以前、通勤途中、車窓から下(しも)のものを船で運んでいるのを目にしていましたが、今は公衆トイレになっているようです。
この近代的な東京で・・・?と、不思議に思ったことがあります。

 

神田明神では、銭形平次親分と八五郎子分の記念碑にお詣りし、裏側を廻って万世橋に行きました。

 

以前ここには交通博物館がありましたが、今は埼玉に引っ越したとか。

その、赤レンガ造りの万世橋駅の建物を見に寄りました。

丁度、お昼時でもあり、そこで昼食を頂きました。もちろん、アルコール付で。

“MAACH” という、モダンなレストランです。
赤ワインにしました。2杯!

  

 

後で、そこの二階に上がってみましたら、かっこいい日本酒の飲み屋さんがありました。
是非次には寄ってみましょう。

 

でも、楽しい、美味しい昼ごはんでした。

 

そのためか、本来の目的を忘れてしまい、途中から引き返して眼鏡屋に寄りました。
The End


殿ガ谷戸公園を散策

2014-04-02 | 散策

殿ガ谷戸公園を散策

 

懸案の都立文化財9庭園の一つ、殿ガ谷戸庭園に行ってきました。

国分寺駅南口前です。

元岩崎家の別荘庭園が、昭和54年に都立庭園に指定されたものです。
ですから、私が住んでいたごろは、まだ岩崎邸で一般には公開されていなかったようです。


この庭園jは『国分寺崖線』と云われる段丘崖とその下の礫層からの湧水の池から成り立っています。

そこの説明板を引用すると、

「ここから下に見える傾斜地は国分寺崖線と呼ばれ、

多摩川が武蔵野台地を削り取って出来た段丘の連なりです。


この崖線は、国分寺市内から世田谷を下って大田区の方まで延長約30Kmあります。

崖下には、地下水が地表に湧き出している所があり、『ハケ』と呼ばれていますが、

 

次郎弁天池にその清水を見る事が出来ます。・・・

 

これらはやがて野川へと流れていきます。」 
 

その地図は下のようです。右の図は断面図と平面図が組み合わされています。

  

園内には、竹の道や、白いアシビの花や黄色いレンギョウの花が見られました。

    

 

 


 

 

 


日本百名山 42、四阿山(2333m)

2014-04-01 | 日本百名山

日本百名山 42、四阿山(2333m)

 

「四阿山と根子岳。あれがなかったら菅平の値打ちはなくなる。・・・
上越国境では、浅間を除けば、最高の山である。

日本武尊が東征からの帰り、鳥居峠の上に立って東を振り返り、弟橘姫を偲んで、
『吾妻はや』と歎かれた。
そこで峠のすぐ北にそびえる山を吾妻山と名付けた、と言われる。…

 (鳥居峠から見た四阿山)
設定: カメラ:PAN、レンズ:35mm、風景:八ケ岳の風景、高さ強調1.5倍、仰角-30度。

上州の吾妻山は信州では四阿山と呼ばれる。

四阿という名前もなかなかいい。
山の形があずまや(四方の柱だけで、壁がなく、四方葺きおろし屋根の小屋。庭園などの休息所とする)の屋根に似ているところから、その名が由来したと云われる。・・・」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

『吾妻はや』とは、 “吾が妻恋し” という意味だそうです。
私も、叫んでみようかな~、 広島の山で・・・。

私は、この山には裏側の浦倉山から登ったのと、別の日に、表側から根子岳まで登ったことがあります。
表側からの時は、帰りに小根子岳にも寄りました。

  

その小根子岳は花の名山らしく、仲間はいろいろ名前を呼んで喜んでいました。
私には、チンプンカンプンで、きれいだな~と、思うだけ。

仲間のファミリー一家が別行動で来ていました。
何時も朝のラジオ体操で見かけるボーヤも一緒でした。
家族で山登りもいいだろうな~。と、思うだけ・・・。

今でも、思い出すのですが、小根子岳分岐点から峰の原宿舎までの足元の悪いこと。
勾配もさることながら、小石が多く、歩きにくかった。それも、延々と長いのです。

最初は、避難小屋から牧場横を歩きましたので、なおさらでした。

でも、渋谷区の宿舎でゆっくり休憩で来て、よかったです。

これからも、何回も行きたいですね。そうゆうところです。