地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

代々木公園へ夜桜見物

2015-03-31 | 散策

代々木公園へ夜桜見物

 

大変、天気がいいので、久し振りに代々木公園を散歩しました。

夜桜見物もかねて。

お花見にも好都合らしく、人出も月曜日にしては、多かったです。

緑道も、ご覧のように花盛り。

  

コブシの花も、モクレンも、大根の花までも、負けじと花盛り。

    

公園の中も、菜の花、スイセン、チューリップと、美しさを競い合っていました。

    

 

レンギョウも、少しですが咲いていました。
 

そして、薄暗くなり始めた公園に、桜が生えていました。

    

 


東京ドームへ野球観戦

2015-03-28 | 散策

東京ドームへ野球観戦

 

山の仲間から、東京ドームの「巨人 対 DeNA」 の切符を頂いたので、

喜び勇んで見に行きました。

今日はプロ野球開幕戦で、球場に行った時はオープニングショーとかで、ほぼ満席でした。

どうせ行くなら、歩いて行こうと、6時開演なのに、2時頃に出発。
ちょっと早く着きすぎたので、水道橋駅前で、焼き鳥でグビリ、いい気分で球場に乗り込みました。

さて、今日歩いたルートは、下の赤線です。よく歩きました。12Kmです。

歩いてる途中、先日観た映画のあらすじを想い出そうとして、もがきましたが、ダメでした。

認知症直前ですかね。タイトルは「風に向かうライオン」?でしたか・・・

(家に帰ってネットで調べました。アー、そうか、でした。)
 

四谷から、堀沿いに歩いていたら、立派は八幡宮の鳥居がありましたので、立ち寄りました。

若宮八幡とか。きれいに掃き清められていて、清々しい佇まいでした。

いつも疑問に思うのですが、こうゆう神社の経営は?

すぐ横に、大学予備校がありましたが、まさかお宮の経営ではないでしょうに。

 

さて、飯田橋駅前から高速沿いに左に曲がり、大曲交差点から右に登って行きました。

時間に余裕がありましたので、伝通院に寄りました。

ここは特に、立派なたたずまいです。徳川家ゆかりのお寺です。

そして、偶然、今読んでいる藤沢周平さんの「回転の門」の清川八郎の墓があることを知り、
探して、お参りしました。小さな貧弱なお墓でした。
ただ、並んで同じ大きさの御蓮さんの墓があったので救われた気がしました。

しかも、二基とも花が飾ってありました。

まだ小説は読み終わっていませんが、お二人は仲が良かったようです。

今日は、野球観戦が主目的なので、カメラは持参していませんでした。
またの日に撮影して、掲載します。

 

さて、それから後楽園の方に行き、まだ野球観戦までには1時間の余裕があるので、

水道橋駅前で、焼き鳥を肴に、芋焼酎の熱燗をグビリ、2杯で我慢。いいお酒でした。

 

それから、ドームへ。結果は 3-2 で巨人が勝ちました。

しかし、DeNA の選手の中には、やる気のないのがいて、中畑監督は可哀そう!

DeNA(横浜) がんばれ!  という私は 広島フアン!!

 

 

 

 

 


小仏峠・日影沢ハイク

2015-03-26 | ハイキング 里山歩き

小仏峠・日影沢ハイク

 

誘われて、日影沢ハイクに参加しました。小仏峠の近くです。

参加者は、年寄り四人です。うち一人は女性。

歩いたコースは赤線の通りです。7kmぐらいかな?

     誘いのはがきには、

「日影沢で花猫の目、羅生門かずら等めずらしいお花の写真を撮りながら散策を楽しみ、
帰りは(住まいの)近くで懇談の(一杯?)時間を作りたいと思っています。」

とありました。

特に、その後半を楽しみに参加しました。

 

日影バス停から山道に入りました。といっても簡易舗装道(林道)ですが。

そして、すぐ左に天然記念の花、「花猫目」(はなねこのめ)の生息地が案内されていました。

ユキノシタ科の花で、渓流沿いの苔むした岩の上に咲いている花だそうです。

だからといって、そういう環境の所には、どこでも咲いてるわけではなく、この狭い一角だけに咲いていました。

    

本来は、赤い斑点が見られるのですが、そこし遅かったようです。

 

同じ種類の、「猫目草」(ねこのめぐさ)は、コースの道端、あちこちに見れました。

一名、「よごれぐさ」とかいうそうです。一段下に見られているようです。

 

私には、同じ渓流に咲いていた、赤い実の青木が、清らかに見れました。

  

   

そして、そこから小仏峠へ向かって、林道を歩きましたが、「羅城門かずら」は見れませんでした。
この方は、ちと早かったようです。4~5月頃とか。また来るか?

 

そこから、延々と山道を歩きました。
小仏城山までは登りばかりです。
でも、自動車も通る林道ですから、ハイキング道です。ま~、楽なもんです。

 

そして、小仏城山から小仏峠までは120mばかり下ります。この方は山道でした。

そして、懐かしい狸ちゃん達にお参りし、日陰沢のバス停へ下りました。

  

下り道ですから楽ですが、石がらみの道で歩きにくく、結構つらかったです。

 

そして、小仏から始発のバスに揺られて、高尾駅へ。
そして住まいの近くへ京王線で帰りました。

お後は、例のごとく一杯、二杯・・・!


京王沿線ウオーキング(聖蹟桜ヶ丘周辺)

2015-03-22 | 散策

京王沿線ウオーキング(聖蹟桜ヶ丘周辺)

 

3/21(土) 誘われて、いつものメンバーでウオーキングに参加しました。

年に8回ぐらいはあるようです。

帰りに近くの小料理屋で一杯やるのも楽しく、出来るだけ参加するつもりです。

今日のコースは地図の赤線です。多分10Kmです。

先ず、コースを間違え、駅の南側に行きました。

「今日は参加者少ないねエ」 などと、おしゃべりしながら、何の疑問もなく先導者の後を行きました。

大栗川を渡ったところで気付き、Uターンしました。これもまた楽しからずや。

 

それから、玉川に架かる関戸橋を渡り、府中市の郷土の森博物館横を通って新田川緑道へ出ました。

親水公園です。どぶみぞとは違い、きれいなせせらぎです。

こんなにきれいでは、ドジョウも住めないし、蚊も発生しないでしょう。ましてやホタルなど・・・

 

さて、いつものことですが、歩いている年寄りの、足の速いこと、早いこと。
多分、1時間4~5Kmの速さでしょう。

一見、やや腰の曲がりかけた年寄りですが、2、3人グループで黙々と歩いておられます。

この人達には、介護施設はいらないでしょう。いいことです。

 

途中の鎌倉街道との交差点に「分倍河原古戦場石碑」がありました。

多摩川を挟んだ鎌倉街道沿いの古戦場で、
鎌倉幕府に不満を持つ新田義貞ら関東周辺の武士団と鎌倉幕府との闘いです。
小手指原の戦いなどもあり、決着のはっきりしない戦いだったようです。

 私も、鎌倉の頃、足利市の鑁阿寺まで一晩かけてタスキリレーしたことがあります。
その時、このそばを走ったはずですが、夜でよく覚えていません。

 

さて、中央高速の下をくぐり、ばかでかいNECの府中工場の横を通って、また多摩川に架かる府中四谷橋を渡りました。長い長い橋です。

そうして、ようやく終点に着きました。

 

後は、例のごとく飲み会です。

いい半日でした。


横浜 石川町界隈を散歩

2015-03-14 | 散策

横浜 石川町界隈を散歩

3/11(水) 仲間からの誘いで、横浜・石川町界隈を散歩しました。

実に愉快でした。

「~春の息吹を感じながら横浜・山手の街歩きをしてみませんか」 というテーマでした。

東京ばかりを散歩していましたが、横浜は、異国情緒豊かで、また楽しいですね。

今日は、皆さんとガヤガヤ、ニギニギ歩きましたが、
近く別の日に、一人で静かに歩いてみたいと思います。

 

さて、先ずは、『外交官の家』へ。
元、渋谷区南平台に建てられていたものですが、平成9年(1997)この地に移築されたそうです。

高台で見晴らしも良く、落ち着いた、しゃれた建物です。

風呂場も、トイレも、そして寝室も、台所も拝見できました。
今夜からでも、すぐ住めるような造りで、保存されていました。

それから、西欧風の建物の立ち並ぶ坂を登っていると、カkトリック山手教会やフェリス女学院等があり、
その中に中央大学中・高の建物がありました。

確か、私の孫娘も中央の付属高校に行っていたように聞いていましたが、まさかこんないい処の高校では?

家に帰り早速電話してみると、高1の時だけそこに行き、今は近くの新校舎に通っているとか。

今年卒業ですが・・・。

そこから、テニス発祥の記念館に行きました。
御嬢さんがたが、白いドレスをまとい、すそを釣り上げ ハシャイでいる姿も拝見できました。

元町公園も散策しました。

昔風の公衆電話も遺されていました。

 

そのすぐ先が、外人墓地です。
中には入れないので、垣根越しに垣間見ました。
遠く日本に来て、電車や建物の指導に当たっていた人たちの墓です。 

そして、「港の見える丘公園前交番」の前を横切り、公園に出ました。
展望の開けた、明るい公園です。


眼下に山下公園や横浜ベイブリッジが拡がっていました。

   (氷川丸)  

 

そこを降り、山下公園に出て、元町中華街をぶらつきました。

 (関帝廟)

勿論、紹興酒の熱燗で、いろいろ御馳走を頂きました。

今日は、異国情緒を楽しみながらの、愉快な散歩でした。

 

 

 


大橋JCTを見に行く

2015-03-05 | 散策

大橋JCTを見に行く

都心部に、ばかでかいジャンクションが出来たので、見に行きました。

昔、地理院がこの近くにあったので、大橋辺りにはよく行っていましたが、
今は昔の面影はありません。
というより、どこがどう変わったのかも解りません。

国道246の道には、東急田園都市線と首都高速3号線(渋谷線)が三重に走っており、
それとクロスして大橋JCTから、山の手通りと今回開通の中央環状線(地下道)が走っています。

その付近の道の様子は、次の写真の通りです。

  

氷川神社前の陸橋から撮ったものです。

人間、すごいことをするものです。年老いた私など、ついて行けません。

 

そして、そのジャンクションの中に入ってみて、再度びっくり!

目黒区や東京都や首都高が一緒になって計画したのでしょうが、

屋上は、広い公園になっていました。区立『天空公園』です。

全景はざっとこんなもんです。

      


そして、この下に環状道路のトンネルが走っております。
地上の道との勾配を緩めるために、環状に渦をまいているようです。

途中の階には、ケアハウスや図書館、そして高層マンションともつながっていました。

こんなことができるのなら、
電柱の地下埋設や、日本橋上の高速の地下化や、さてまた都市部の交通網全ての地下化も夢ではなさそうです。
地上は緑豊かな里山風景・・・。正に天空公園! 長生きしなくっちゃ!!

と夢を見ながら、屋上に出てみました。

色々な花や木が繁茂していました。

まず、梅です

紅いのもありました。紅梅でしょうか。それとも・・・

 春らしくジンチョウゲも咲き始めていました。

 ミツマタです

 ヒイラギが芽を吹いていました

 スダチも実をつけていました

 フイリヤブラン?(ユリ科)  はじめまして!

それらを眺め、圧倒されて、山手通り、緑道と我が家へ帰りました。

いい散歩になりました。

 

 

 

 

 


宝登山ハイキング

2015-03-03 | ハイキング 里山歩き

宝登山ハイキング

 

2月28日(土) ハイキングに参加しました。総勢25名です。

秩父の蝋梅観光です。

コースは地図の赤線です。

殆どの人は長瀞アルプスに向かいましたが、

私達5人は老人らしく、もと来た道を帰りました。

山頂には、1500本あると云われる蝋梅の花が満開でした。

 

そして、蝋梅だらけの中に、

春らしく、 フクジュソウやマンサクの花が、少し変わった趣を添えていました。

 

  

 帰りは、電車の中で酒盛り! 大いに盛り上がりました。

でも、周りの一般の乗客には迷惑を掛けないよう注意はしました。


二・二六事件の跡を辿る

2015-03-02 | 散策

二・二六事件の跡を辿る

 

今日(2/25) の散歩は、二・二六事件の記念碑を訪ねるコースで、

緑道を南行し、大山交差点から井之頭通りを東へ、代々木上原駅経由、富ヶ谷交差点から
山手通りを南行したものです。

帰りは、NHKから代々木公園を横切り、緑道を通って帰りました。
多分、6~7kmでしょうか。

 

先ず、二・二六事件慰霊碑を訪ねました。

  

 

昭和十一年二月二十六日 30年ぶりという大雪の朝早く 事件は起きました。

私の二歳のときです。

 

渋谷区役所横の慰霊碑には、次のような文が刻まれていました。

 

「昭和十一年二月二十六日未明、
東京衛戌(えいじゅ=一つの土地に長く駐屯し警備・防衛の任に当たる)の歩兵第一、第三連隊を主体とする千五百余の兵力が、かねて昭和維新断行を企画していた野中四郎大尉等青年将校に率いられて蹶起した。

当時東京は晩冬にしては異例の大雪であった。

蹶起部隊は積雪を蹴って重臣を襲撃し総理大臣官邸、陸軍省、警視庁等を占拠した。

斉藤内大臣、高橋大蔵大臣、渡邊教育総監は此の襲撃に遭って斃れ、鈴木侍従長は重傷を負い、岡田総理大臣、
牧野前内大臣は危うく難を免れた。

此の間、重臣警備の任に当たっていた警察官のうち五名が殉職した。

蹶起部隊に対する処置は四日間に穏便説得工作から紆余曲折して強行武力鎮圧に変転したが
二月二十九日、軍隊相撃ちは避けられ事件は無血裡に終結した。

世に是を二・二六事件という。

昭和維新の企画壌とて首謀者中、野中、河野両大尉は自決、
香田、安藤大尉以下十九名は軍法会議の判決により東京陸軍刑務所に於て刑死した。

此の地は其の陸軍刑務所跡の一隅であり、
刑死した十九名と是に先立つ永田事件の相沢三郎中佐が刑死した処刑場跡の一角である。

・・・

謹んで諸霊の冥福を祈る。

昭和四十年二月二十六日

仏心会代表 河野 司 誌」

 

反乱部隊は朝9時ごろまでに、赤坂見附、半蔵門、三宅坂、桜田門、虎ノ門を結ぶ線の内側、議事堂を中心とする官庁街を占拠した。


以後、29日の鎮圧の日まで日本の心臓部は反乱軍の手に抑えられていた。

昭和維新は予定どうり行われだが、その後の処理が拙く、鎮圧された。

 

その経過は、

陸軍は、川島陸軍大臣を始め混乱していたようですが、

天皇の「反乱軍をすみやかに鎮圧するように」との意向から、

大臣告示により鎮圧されました。

告示には、

「青年将校の真意はよく解った。
自分たちも賛成で、その線に沿って努力するから安心して原隊に帰れ」
という趣旨であったようです。

 

また、維新の「要望事項」には

「陸軍大臣は事態の収拾を急速に行うとともに、本事態を維新廻転の方向に導くこと。

決行の趣旨を陸軍大臣を通じて天聴に達せしむること。・・・」 

といったもので、具体的なプランは何もなく、ただ人任せに、「維新廻転の方向に」といってるだけのようです。

その結果は、ますます日本を軍国主義の方向に導いて行きました。

 

この事件の裁判は、急スピードで行われました。


3月4日に特設軍法会議が開かれ、
4月末から一審性、弁護人なし、非公開という乱暴な裁判だったようです。
刑の執行は、元陸軍刑務所のあった宇田川町一丁目の上の写真の場所で行われました。
今日も花が飾られ、弔われていました。

 

そこから、迂回してNHKの前を通り、

    

梅の花を観賞しながら、代々木公園を通り、帰路につきました。