地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

日本橋人形町を散策する

2010-09-23 | 日記
日本橋人形町を散策する

向田邦子さんの全集を読んでいましたら、人形町散策のエッセイに出くわしました。

彼女は10年くらい日本橋で仕事をしていて、夜は銀座や六本木ばかりで遊んでいて、すぐ隣の人形町へ行ったことがなく、今回訪ねてみてこんなに老舗の多い、歴史豊かな街があったのかと驚き、かつ残念がっていた内容でした。

私も、約半世紀も日本橋に通っていたのに人形町の記憶がなく、慌てて訪ねて見ました。

人形町探訪のルートは下の地図の赤線です。


夕方4:30頃から、独りでブラブラ徘徊しました。

街角にある看板地図で大体の行程を定めて歩きました。

気がかりなのは、地図屋は常に北を上に見るのが普通ですが、街の地図は現在地と合わせて位置関係を示しているので、時々まごつきます。
ここの地図も南が上を向いていました。

先ず、人形町三丁目の風呂敷専門店の「唐草屋」を覗いてみました。
京都、名古屋、東京の3店舗あるそうです。
金ね回りがよければ、いろいろ買い集めて楽しんでみたい風呂敷がありました。
風呂敷文化を伝え続けている素晴らしいお店でした。

そこのパンフレットに、次のような文章が載っていました。
「『包』という漢字の源字は、胎児が母親の胎内にやさしく包まれ、守られている様を表しています。風呂敷を通じて、モノを慈しみ大切にする気持ちを皆様に感じて頂ければうれしいです。・・・」
日頃、忘れかけていた大切な心を、取り戻したような気分で、何も買わずに出ました。
女性同伴で訪ねたいお店です。

電気の輝き始めた人形町交差点界隈には、帰りに立寄って一杯飲みたいお店がたくさんありました。また、向田さんのエッセイに書かれていた老舗も目に付きます。

先ず、交差点すぐ近くの大観音寺に寄ってみました。商売繁盛を願う街だけに、大事に祭られていました。もともと鎌倉に在って、廃仏毀釈の難に会われた仏像をこの地の人が持ち帰って祀られたのだそうです。

水天宮さんの方へ向かう途中に、今半のコロッケのお店がありました。
老舗でもあり、夕飯のおかずの足しにと、2個ほど買いました。
「あったか惣菜・精肉水天宮駅前店」です。
おばあさんも買っておられました。
第三者から見れば私もおじいさんでしょうが・・・

その先の路地に、「快生軒」というコーヒーのお店がありました。
向田さんのエッセイにも載っていました。
今日は、時間もお金も少ないので、また今度!

この人形町商店街には写真のような「からくり櫓」が2箇所設けられています。
刻限になったらからくり人形が歌に併せて踊るのでしょうが、その時刻を知らなかったので通り過ごしました。また今度ね!


水天宮交差点を渡ると、角に“重盛の人形焼”の「重盛永信堂」の店が賑わっていました。“ゼイタク煎餅総本店”です。砂糖と卵をふんだんに使った固焼き煎餅です。

少し買って食べてみたら、確かにやさしい甘みが漂ってお茶うけにもってこいですね。

次には人形焼も食べてみましょう。

下はそこのパンフレットの地図を拝借しました。よく出来ています。


元の方へ少し帰ると、土地柄を残す瀬戸物屋さんがありました。「紅とも」さんです。
有田焼や伊万里焼が並んでいましたが、私には手が出ません。一寸値がはります。
魅力的な酒徳利がありましたが・・・

元の人形町交差点近くの「浜の院」に魚の切り身の粕漬がありました。
晩のおかずに一番安いのを一つ買ってきました。
酒の肴に一杯。今夜が楽しみです。

時計は既に6時を過ぎていました。
楽しみにしてきた飲み屋を懐具合と相談しながら物色、「すし三崎丸」で秋刀魚を肴に一杯、いやニ杯楽しみました。

また近い内に来たい街でした。






国営・武蔵丘陵 森林公園までサイクリング

2010-09-21 | 日記
国営・武蔵丘陵森林公園へサイクリングしました。

久し振りにやや涼しい、うす曇で絶好のサイクリング日和でした。

今日は敬老の日。三連休の最後の日で、皆さんお出かけか、お家で体を休めている所為か、電車も、サイクリングロードも、公園の中も比較的人が少なく、ゆったり過ごせて、大変いい一日でした。
山の仲間と二人で行きました。勿論男二人です。それがやや物足りませんでしたが・・・

サイクリングコースは下の図の赤線で、約50Km,走行時間約3時間10分でした。
約15Km/hですか。


朝7:00に家を出て、新宿駅までサイクリング。南(高島屋)口で自転車を携帯にし、埼京線で南与野駅へ行き、そこから今日のサイクリングを始めました。
出発は8:45でした。

駅から羽根倉橋までは国道463号線、そこから荒川沿いに走る荒川自転車道に入ります。入間川大橋までは先日走ったコースと同じです。

ゴルフ場や黄色く色づいた田んぼの間を、今日ある健康な体に感謝しながらひたすらスイスイ走りました。

先日、撮り損ねた、上江橋の途中にある自転車道のUターン道路は下の写真です。
サイクリストたちが次々と入ってきます。実に気の利いた取り付け道路です。


入間大橋の先に、ホンダエアポートがあり,丁度ヘリコプターが飛び立つところでした。
割合に小さな機体でした。

そして、太郎兵衛門橋を過ぎてしばらく走ると、長大な白い橋がありました。
現在位置を確かめるため、小休止して2・5万分一地形図(平成15年11月5日発行)でその橋を探しましたがそれらしい橋はなく、表示板も見当たりません。
“おかしいなー”と、通りかかったサイクッリストに聞きましたら圏央道の新しい橋だそうでした。
建設工事のスピードが速いのはいいのですが、それより国の作る地図が遅いのは?
せめて計画線でも入れられなかったのかと、疑問に想いました。

現在位置を確認する必要があったのは、今日走る荒川自転車道と比企自転車道の分かれ道が近いためです。良く、間違えて走る分岐点です。
そのためか、割合親切な案内標識が立っていました。小さな松永橋です。

トラブルのもう一つは、虫がたくさん舞っていて、走る私らの顔に容赦なくまつわりつくことでした。目も開けられないくらいでしたが・・・そうもしてられなくって往生しました。羽根の生えた蟻のようでした。

ここを過ぎて、しばらくすると“さくら堤公園”に入りました。桜の頃は確かに素晴らしいでしょう。長い長いさくら並木でした。
実は今日は敬老の日、若いものの世話にはならないぞと、年寄りの男女達が写真機を持って彼岸花をパチパチやっていました。
この堤には、桜と一緒に彼岸花(まんじゅしゃげ)が多く、下の写真のように、今を盛りに咲いていました。


運動公園を愛でながら、大芳橋の袂に出、そこを左折していよいよ最後の行程に入りました。そこまでは「武蔵森林公園」行きの案内表示が確りしていたのですが,公園に近づくにつれ不親切になり、途中何回も立ち止まって首を傾げました。
最後には、中央口への入口を見落とし、大きく迂回して南口から入りました。
下の図は、公園のパンフレットの地図です。


今日は、敬老の日、普通大人400円のところを笑顔で無料で入れてくれました。

花園近くの休憩所で、缶ビールを飲みながら、幸せを満喫しました。周りではバーベキューを楽しんでいるファミリーや子供たちがいました。

帰りは、森林公園駅までのよく整備された松並木3.5Kmを気持ちよく走ってお仕舞。

一つ、残念でしたのは、この公園には、自転車持込で、一周17Kmの林間コースがあるんですね。自転車で園内をくまなく散策できたはずです。しかも、今日はタダで!
大分疲れていたので気が回らなかったようです。次回は是非!

でも、いい日、いい一日でした!





西沢渓谷探訪

2010-09-13 | 日記
関東の渓谷美・西沢渓谷を探訪して

マイクロバスをチャーターし、山の仲間たちと西沢渓谷を探訪しました。
塩山市を流れる笛吹川上流に位置しています。

久し振りにやや涼しく、そしてなぜか比較的人も少なく、十二分に、滝の多い渓谷美を堪能できました。

この西沢渓谷は関東では奥日光の竜王峡と並び称される美しさで、今回で両方とも堪能できたわけです。

歩行時間4時間、約10kmの行程です。

入口に下のような絵地図が掲示されていました。


途中から右にそれる東沢やナレイ沢では、もっと自然のままの渓谷美が楽しめるのだそうですが、初心者の私には無理のようです。

そこにはまともな道がないそうで、それが本当の“登山道” なのだそうです。

今回の道は、十分に整備され、手摺や鎖などで防護された道で、単なる人工ルートのトレースだとか・・・マア、いいや。滝や緑が楽しめるのだから。

さて、ここには滝が多く、その流れがたるむところの、コバルトブルーが素晴らしい色でした。


コースの折り返し点近くの、七つ釜五段の滝が下の写真です。
本日のメインエベントです。


やや半分進んだところで昼食をとり、一休みしてトロッコ道を小走りで帰りました。

実に歩きいい道でした。それもそのはず、戦後しばらくまでトロッコが走っていた道だそうで、今でも、レールがあちこちに残っていました。

途中に、山梨市が建てた掲示板「トロッコの由来」を引用しますと、


いい日、いい一日でした!




鎌倉・源氏山ハイキング

2010-09-11 | 日記
鎌倉・源氏山ハイキングの下見に行ってきました。

何人かの人たちを誘導するときは、やはり丹念に下見をしておかないといけませんね。
下見をするごとに新しい発見があります。
例えば、11月の鎌倉はあまり花がないそうで、そのぶん人も少ないとか・・・

今日のコースは下の図の赤線です。


先ず、北鎌倉駅前の円覚寺から

②円覚寺:
正しくは臨済宗の寺で「瑞鹿山大円覚興聖禅寺」(ずいろくさんだいえんかくこうしょうぜんじ)です。
円覚寺には鹿が住んでいたそうで、そのことから円覚寺を「瑞鹿山」とよんでいるとか。

起源は蒙古襲来の文永・弘安の役での両軍の死者・菩提を弔う目的で、時の執権・北条時宗が創建したと伝えられています。
現在は、関東禅界の中心的存在であり、近くの浄智寺、東慶寺、瑞泉寺、大慶寺などはこの末寺です。
下の写真は方丈の裏庭です。


座禅道場「居士林」では夏目漱石も座禅をしたそうで、それを真似て私もと思い、案内書を見ましたら、泊り込みですし、結構蚊もいるようで、止めました。
最近は、土曜1日だけの座禅会もあるようです。

少しおくに、次のような額が掲げられていました。

“すべてとどまるとき くさる
このおそろしきことを 知ろう
つねに前進 つねに一歩”

そして、一番奥に、写真のような奥院があります。ここは四季折々の花が豊富なのですが・・・?


また、少し東にそれた小高い岡の上の鐘楼「洪鐘」(おおがね)も見ものですが、ここへ通じる石段を数えたら140段ありました。お覚悟を!国宝だそうです。


③東慶寺 :
 かけこみ寺、縁切り寺ともいいます。
松岡山・東慶寺は臨済宗・円覚寺派に属する寺です。


明冶35年に至るまで男子禁制の尼寺で駆け込み寺または、縁切り寺として、不憫な女性を救済してきた寺です。
今でも、寺の左側には宿舎らしきものが残っています。実物ではないでしょうが。
江戸時代、夫と別れたい女性が、この寺で3年間修行し、幕府公認の離婚ができたそうです。
宝蔵には三行半(みくだりはん)の離縁状が陳列されていました。

またここには、著名人が多く眠っています。
主な墓石の名前を挙げると、
鈴木大拙、西田幾多郎、岩波茂雄、安倍能成、田村俊子、和辻哲郎、佐々木茂索、太田水穂、高見順、小林秀雄、野上弥生子、・・・
その位置や、向き、配列が面白いとか・・・?

④浄智寺 : 
臨済宗円覚寺派で、鎌倉五山の一つ。
樹木が豊かで起伏に富んだお寺です。国の指定史跡。
裏庭のトンネルを抜けると、洞窟に七福神の一である“布袋さま”が祭られています。

鎌倉は、戦国時代、江戸時代と、鎌倉時代から遠ざかるにつれ、世から忘れられ単なる農漁村になり、寺院の多くは寂れ、さらに関東大震災で決定的といえる打撃をこうむりました。

浄智寺を裏山に辿ると、葛原ケ岡ハイキングコースに出ます。


このコースには2箇所、一寸落差の大きい岩道がありますが、あとは楽な山道ですが。
850m、約10分も歩くと、平らな源氏山公園に出ます。

⑤葛原岡神社:
ここは後醍醐天皇の側近・日野俊基を祀る神社です。
日野俊基は鎌倉幕府の倒幕の謀議に加わり、正中の変(1324)で捕らえられ許されたが、元弘の変(1331)で再度捕らえられ、翌年ここで処刑されました。
近くにその処刑場跡があります。

そのときの辞世の句が残っていました。
“秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらむ”

近くに、正月にする羽根突きの玉に成る「むくろじ」の大木があります。鎌倉では宝戒寺とここの2本だけだそうです。

⑥銭洗弁天 : 
頼朝が飢饉に苦しむ世の救済を祈願したいわれから、その霊水でお金を笊にいれて洗うと2倍になると言う信仰が生まれたとか・・・

⑦源氏山公園:
八幡太郎義家(頼朝の祖先、平安時代の武将)が山上に白旗を立て戦勝祈願をしたと いう伝説から、源氏山(白旗 山)と呼ばれたそうです。
ここは桜の名所でもあります。
のんびりおやつや弁当を食べてるとトンビが舞い降りてくるそうですからご用心を!油揚げでなくってもとか・・・

⑧化粧坂(けわいざか):
写真を撮ろうとしたらバッテリー切れのサインが出ました。残念!

「化粧」とは 「身だしなみを整える」意味ですが、鎌倉へ入る境のこの坂道(切り通し)で身だしなみを整えたんだそうです。
また、お化粧姿の女性がたむろしていたと言う説もあります。

元弘3年(1333)、新田義貞の鎌倉攻めの時、激戦地となったつづら折の坂道です。
わずか80m程の坂道ですが幕府軍の抵抗は激しく新田軍は、4日後になっても突破できなかったそうです。(しかし、5日目に稲村ガ崎が攻め崩され、遂に鎌倉幕府は崩壊します。)

雨が降った跡や、氷ついた冬は、滑りやすく、一寸通りにくい所です。

⑨、英勝寺 :
鎌倉唯一の尼寺で、尼寺に相応しい佇まいを見せている寺ですが、改修工事中です。素通り。

⑩、寿福寺:
寿福寺は臨済宗建長寺派の寺で、鎌倉五山の第三位です。
参道が素晴らしく、こころ洗われる心地がします。
しかし、中には入れず、参道のみでUターン。

ここは源氏家父祖伝来の地であり、また源頼朝の父・義朝の居館があった所でもあります。

裏手の墓地には陸奥宗光、高浜虚子、大佛次郎などの墓があり、
さらにその奥の“やぐら”(鎌倉特有の横穴式墓所)には北条政子と源実朝の墓・五輪等があります。
ただ、夫・頼朝の墓と離れているのが疑問ですが・・・?

⑪、日本料理・かまくら山路:
ここで一杯呑みながら食事しました。ここ特有の冷酒が珍味でした。一寸値段が張りますが、いい気分で休めます。

今日は、終始独りでした。





鎌倉・源氏山ハイキングの計画

2010-09-05 | 日記
鎌倉・源氏山ハイクの計画

この秋訪れたい、源氏山ハイクの計画を建てています。

距離は3~4Km、 ゆっくり観光して歩いても 2~3時間の行程です。
そのあと、仲間と小町通で一杯やるのが楽しみです。

さて、行程ですが、地図は下のようなしだいです。



訪問先のガイドをまとめて見ますと

先ず、北鎌倉駅前の円覚寺から

②円覚寺:
正しくは臨済宗の寺で「瑞鹿山大円覚興聖禅寺」(ずいろくさんだいえんかくこうしょうぜんじ)です。
起源は蒙古襲来の文永・弘安の役の両軍の死者・菩提を弔う目的で、時の執権・北条時宗が創建したと伝えられています。
現在は、関東禅界の中心的存在であり、近くの浄智寺、東慶寺、瑞泉寺、大慶寺などはこの末寺です。
座禅道場「居士林」では夏目漱石も座禅をしたそうで、それを真似て私もと思い、案内書を見ましたら、泊り込みですし、結構蚊もいるようですし、年寄りには無理で、お断りされてるようです。
また、少し東にそれた小高い岡の上の鐘楼「洪鐘」(おおがね)も見ものです。国宝だそうです。

③東慶寺 :
 かけこみ寺、縁切り寺ともいいます。
松岡山・東慶寺は臨済宗・円覚寺派に属する寺です。
明冶35年に至るまで男子禁制の尼寺で駆け込み寺または、縁切り寺として、不憫な女性を救済してきた寺です。
今でも、寺の左側には宿舎らしきものが残っています。実物ではないでしょうが。
江戸時代、夫と別れたい女性が、この寺で3年間修行し、幕府公認の離婚ができたそうです。
宝蔵には三行半(みくだりはん)の離縁状が陳列されていました。
ここはまたの名を「花の東慶寺」といわれ、秋には 萩、彼岸花、コスモス、秋明菊、紫苑(しおん=菊の種類)などが咲いています。

またここには、著名人が多く眠っています。
なんとここの墓石には戒名でなく生前の名前だけが刻まれています。
私もそうしたいものです。
主な墓石の名前を挙げると、
鈴木大拙、西田幾多郎、岩波茂雄、安倍能成、田村俊子、和辻哲郎、佐々木茂索、太田水穂、高見順、小林秀雄、野上弥生子、・・・
その位置や、向き、配列が面白いとか・・・?

④浄智寺 : 
臨済宗円覚寺派で、鎌倉五山の一つ。
樹木が豊かで起伏に富んだ素晴らしいお寺です。国の指定史跡。
裏庭のトンネルを抜けると、洞窟に七福神の一である“布袋さま”が祭られています。
また、背後の谷戸(ヤト)も見ごたえがあります。

鎌倉は、戦国時代、江戸時代と、鎌倉時代から遠ざかるにつれ、世から忘れられ単なる農漁村になり、寺院の多くは寂れ、さらに関東大震災で決定的といえる打撃をこうむりました。
現在の姿に復興したのは、文化財保護と軍国主義興隆のなせる業でしょうか?

浄智寺を裏山に辿ると、葛原ケ岡ハイキングコースに出ます。
このコースの一箇所だけ、一寸落差の大きい岩道がありますが、あとは楽な山道です。
1000m、約10分も歩くと、平らな源氏山公園に出ます。まず、葛原岡神社へ

⑤葛原岡神社:
ここは後醍醐天皇の側近・日野俊基を祀る神社です。
日野俊基は鎌倉幕府の倒幕の謀議に加わり、正中の変(1324)で捕らえられ許されたが、元弘の変(1331)で再度捕らえられ、翌年ここで処刑されました。
近くにその処刑場跡があります。

日野俊基は1323年(元享3年)に後醍醐天皇に抜擢され蔵人になり、日野資朝とともに後醍醐天皇の側近として倒幕計画を先導し、武士団を組織しました。
正中元年(1324)の正中の変(1325)で倒幕計画が漏れ、日野資朝・日野俊基が捕らえられ鎌倉に連行されました。俊基は、証拠不十分で罪を許され、資朝は死罪を免ぜられ、佐渡へ配流になりました。
俊基は、後醍醐天皇の下で再び北条氏倒幕計画を進めたが、元弘元年(1331)の元弘の変で六波羅に捕らえられ、鎌倉に護送されて、翌年元弘2年(1332)に葛原岡で処刑されました。

そのときの辞世の句が残っていました。

“秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらむ”

⑥、銭洗弁天 : 
頼朝が飢饉に苦しむ世の救済を祈願したいわれから、その霊水でお金を笊にいれて洗うと2倍になると言う信仰が生まれたとか・・・

⑦、源氏山公園:
八幡太郎義家(頼朝の祖先、平安時代の武将)が山上に白旗を立て戦勝祈願をしたと いう伝説から、源氏山(白旗 山)と呼ばれたそうです。
ここは桜の名所でもあります。

⑧、化粧坂(けわいざか):
「化粧」とは 「身だしなみを整える」意味ですが、鎌倉へ入る境のこの坂道(切り通し)で身だしなみを整えたんだそうです。
また、お化粧姿の女性がたむろしていたと言う説もあります。
元弘3年(1333)、新田義貞の鎌倉攻めの時、激戦地となったつづら折の坂道です。
わずか80m程の坂道ですが幕府軍の抵抗は激しく新田軍は、4日後になっても突破できなかったそうです。
雨が降った跡や、氷ついた冬は、滑りやすく、一寸通りにくい所です。

⑨、英勝寺 :
尼寺に相応しい佇まいを見せている寺ですが、昨年、私が訪れたときは改修工事中で、なかは見れませんでした。

⑩、寿福寺:
寿福寺は臨済宗建長寺派の寺で、鎌倉五山の第三位です。
参道が素晴らしく、こころ洗われる心地がします。

ここは昔、奥州征伐に向かう源頼義が勝利を祈願したと云われる源氏山を背にした源氏家父祖伝来の地であり、また源頼朝の父・義朝の居館があった所でもあります。

裏手の墓地には陸奥宗光、高浜虚子、大佛次郎などの墓があり、
さらにその奥の“やぐら”(鎌倉特有の横穴式墓所)には北条政子と源実朝の墓・五輪等があります。
ただ、夫・頼朝の墓と離れているのが疑問ですが・・・?

⑪、日本料理・かまくら山路:
ここで一杯呑みながら食事するつもりです。一寸値段が張りますが、いい気分で休めます。
鎌倉在住の友達に教えてもらいました。

近い内に、下見を兼ねて訪問するつもりです。






「ボク東綺譚」の世界を垣間見て

2010-09-03 | 日記
玉の井を散歩して
 

久しい振りに永井荷風さんの「濹東綺譚」を読んで(再読)、急に「玉の井」なる土地を訪ねてみたくなりました。

現在では、「玉の井」なる地名は残っておらず、駅名も「東向島」になっています。
ただし、駅の看板には「旧玉の井駅」と、その名残を惜しんでいました。
有名な私娼街「玉の井」があり、当時、当駅はその最寄り駅として賑わっていたそうです。

夕方の5時頃家を出て、本所吾妻橋駅から歩き始めました。

そのルートは、下の地図の赤線です。

既に、勤務を終えたサラリーマンらしき群れが、昼間の馬鹿暑さを癒すためか、喫茶店やビヤホールに群がり始めていました。

吾妻橋たもとには、かの有名なアサヒビール本社の“うんこ”ビルが聳えていて、周りにはビアホールがあります。


吾妻橋の袂から単に北へ進もうと考えていましたら、なにか川岸に降りる階段があるのでそこを降りてみましたら、下の写真のようなテラス状の散歩道が出来ていました。
さらに、サイクリング道路らしきものも並行して設けてありました。


そして下のような看板地図で案内されていました。



区役所近くでもあり、のっぽビルと高速道路とで壮観でした。
そこへ勝海舟さんの銅像が肩を怒らして存在を鼓舞しているように見えました。

しばらく北上し、北十間堀を渡ると、下のようなジョギングルートの案内看板に出くわせました。
隅田川に沿ったジョギングルートで、特に桜の咲くころが快適なようです。
是非一度、生あるうちに走ってみましょう。


そして、道路一本隔てて、墨田公園が広がっていました。
ここは、もと水戸藩の下屋敷のあった場所だそうで、綺麗に整備された公園になっていました。

この頃はもう薄暗くなっていて、のんびり公園を散策していると、蚊に喰われて落ち着きません。

この地区は蚊が多いのでしょうか。

荷風さんの小説にも蚊に悩まされた情景が良く出ていました。

この公園から、スカイツリーが良く見えましたのでパチリ!


どんどん暗くなるので、急ぎ足で進もうとしたら、見過ごせない大きな神社に出くわしました。
牛嶋神社です。

薄暗い境内の影に、大きな牛の象が蹲っていました。もう暗くて説明版も読めませんでした。

例祭が近いらしく、あちこちにポスターが貼られていました。



水戸街道に並行して走る路を進んでいましたら三囲神社に出会いましたが、既にゲートは閉まっていて入れませんでした。

その横の道が「見番通り」と言うのだそうです。
仰々しく緑色の看板が立っていました。
今時、芸者さんたちに関係する組織がこの辺にはあるのでしょうか。

そういえば、水戸街道に出るまでのこの地帯には、大きな料理屋や待合のような建物が散見されましたし、着物を着たなまめかしい姿の女の人を見かけました。

車の多い水戸街道へ出て、暗くなった道を急いでいましたら、やがて街灯に照らされた地蔵坂商店街と交差し、さらに進むと、明治通りとの交差点につきました。

明るければ、すぐ近くの向丘百花園を覗くのですが、またの機会にして、ようやく東向島駅に着きました。

駅前は、夕餉の買い物客でごった返していました。
一寸寄ってみたいようななまめかしさは皆無でした。

さらに先を、西に曲がって、「濹東綺譚」の本場、大正通りに入りましたが、わずかに残る街灯にその面影を残す淋しい通りでした。

白髭橋でUターンして、東向島駅近くの飲み屋で一杯味わって、いい気分で帰途に着きました。
9時頃でしたでしょうか。

一寸、付け加えますが、その飲み屋で、隣で楽しそうに飲んでいた年寄りに話しかけたら、表情はにこやかなのですが言葉が出ないのです。
時間を置いてゆっくりその理由を聞き出したら、声帯を手術したのだそうです。
昭和16年9月1日、盛岡市生まれの人でした。
昨日が69歳の誕生日でしたそうです。
こうした細かいやり取りは筆談しました。
幸多かれと祈るのみ!