地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

旧古河庭園から六義園への散歩

2013-10-31 | 散策

旧古河庭園から六義園への散歩

 

紅葉にはちと早いと思いましたが、あまりにもいい天気なので、昔の庭園の散歩に出かけました。

先ず、JR山手線 駒込駅下車。北に歩いて旧古河庭園へ、南に歩いて六義園に行きました。

先ず、旧古河庭園ですが、もと明治の元勲・陸奥宗光侯の別邸のあったところです。
それが、次男が古河財閥(足尾銅山から多角化・近代化した財閥)の養子になったことから、古河家の庭園になったそうです。

しかし、今ある建物や庭園(洋風も和風も)は、大正初期に作られたもので、当時のものではないそうです。

 

武蔵野台地の斜面と低地を活かし、北側の小高い丘には洋館を建て、その斜面には洋風庭園を造り、
そしてその低地には日本庭園を造っています。こちらの方は大変広い庭園です。

洋館と洋風庭園は英国人建築家のジョサイア・コンコルド(鹿鳴館、ニコライ堂、旧岩崎邸の設計者)によるそうです。

  

 

日本庭園は小川治兵衛(京都の庭師)の作といわれています。

   

園内を散歩していろいろな趣向に注目しました。


そして、ベンチでちょっと一休みした後、次の六義園に向かいました。
 ここは、川越藩主 柳沢吉保の「回遊式築山泉水」の大名庭園です。


入口のすぐ横には茶室がありました。宣春亭と心泉亭です。
ちょっと興味はありましたが、特別料金を払わないと入れてもらえないようで、
例によってパスしました。

 (表側から見た心泉亭)

以前にも訪れていますが、訪れる度に新しい発見がありますね。

  (つつじ茶屋 柱はサルスベリだそうです。)

 

そして、吹き上げ茶屋の緋毛氈に腰かけて、熱い甘酒を一杯頂きました。

  (すぐ前の景色です)

 

いつも思うのですが、こうした贅沢な公園を、老人の特別料金(確か150円くらい)で楽しめるとは、

ちょっと、申し訳ないように思います。

公的な施設(都立)だからでしょう。有難いことです。

 

 

 


 

 

 


葛西臨海公園を散歩する

2013-10-28 | 散策

葛西臨海公園を散歩する

 

東京のゴミを埋め立ててできた葛西臨海公園を歩いてみました。

“ゴミ(チリ)も積もれば山となる” をうまく利用した公園です。

サイクリングの大会で来たことが2,3度ありますが、それは西はずれのごく一部のようです。

今日は、JR京葉線の葛西臨海公園駅から、所謂公園の正面から堂々と(?)入りました。


 公園の全体像は、そこで頂いた次のパンフレットの通りです。

 

先ず、正面突き当りの展望レストハウス・クリスタルビューへ登りました。

シンプルな展望台です。余計な設備が全くありません。

今日は、うっかりして休日に訪れたためか、多くのお子様連れに出くわせて、賑やかすぎでした。
あちこちで、ギャーギャー泣きわめく声が ちとうるさかったです。
 

 

そこから、水族館を観に行きました。
   遠くに見えるのがデズニーランド

 

大きな水槽に、いろいろな魚たちが動き回っていました。餌は十分に頂いてるのでしょうが、弱い魚を追いかけ廻していました。私にはそう見えました。

   

 

魚たちは、この世に生まれて来てから、絶えず動き回っているのでしょうか。
よく疲れないものです。
私なぞ、こうした人ごみの中にいると、直ぐ疲れて休みたくなりますが。

調べてみると、魚は移動しながら眠っているようです。
目を開けたまま、少し動きを緩やかにして眠るそうです。
取り囲んだ水と一緒に移動するそうですが・・・。どうもその生態はよく解りません。

 

少し疲れましたので、早々とレストランに行き、生ビールとフライドポテトで一杯やりました。
ゆっくり、美味しく頂きました。 あ~ 甘露、甘露!

 ところで、浅草海苔の本拠はこの葛西なんだそうですね。
もともとは、浅草が海に面していて、海苔の生産が盛んだったようですが、
三角州が広がるにつれ、海岸が葛西の地に移動してきたようです。

全国的に有名な浅草海苔は実は葛西海苔なんだそうです。


昇仙峡とワイナリー見学の旅

2013-10-26 | ハイキング 里山歩き

昇仙峡とワイナリー見学の旅

 

山の仲間達17人と雨予報の中をハイキングに行きました。

台風が接近しているので大雨の予想もありましたが、
最近異常気象に対して気象庁は神経質になっていること、長年の経験から空模様は悪くないこと、それにバスをチャーター済みであることから、出かけることにしました。

 

ハイキングコースは地図の赤線です。経路断面図は昇仙峡だけのものです。

 

 

始めに、大滝見物に行きました。
大変見応えのある滝でした。
その滝を見せて驚かせようとしたのか、幹事さんの脚に早いこと。崖伝いに下るのがちょっと怖いぐらいでした。
  

 

次に、ロープウエイでせんがだき駅から450mぐらい登りました。

登るに従い、ぼつぼつの紅葉が眺められました。

悪天候の予報のためか、割りとすいていました。

頂上からの眺めは素晴らしいものでしたが、やはり遠くは望めませんでした。
  (中央は先に通った大滝近くの能泉湖です)
弥三郎岩まで登りました。
私はその手前で皆さんの後姿を楽しみました。
実は、相当に疲れていたのです。

 

 

さて、ロープウエイを降りて、いよいよ昇仙峡沿いのハイキングです。
出だしは凄まじいばかりの岩が、ゴロゴロしていました。

そして、暫く行って仙娥滝の河原で昼食をとりました。

私だけひとり、手打ちそばを食べに行きました。

土地で採れた茸がたくさん盛られていて、おいしかったです。
お店のおばあさんの話から、チャナメ(はりさしナバ・・・広島では)、クロマイタケ(クロッコ?)、ジコボウ(シメジ?)だそうです。
今日もおじいさんは山へ筍狩りにいてるそうです。仲のよさそうなお年寄りさんでした。

 

そして、本格的な昇仙峡を見ながら下りました。
途中、ちょっとだけ小雨が降りましたが、私は傘もささずに済ませました。その程度の雨でした。

 

そして、いよいよ今日の第二のイベント  “サントリー 登美の丘ワイナリー”  へ試飲と工場見学です。
よく整備されていました。流石 サントリ―!

そこで頂いた絵葉書を一枚添えます。

 新宿へは予定通り五時ぴったりに着きました。 幹事さんありがとう。


日本百名山 24、那須岳(1917m)

2013-10-22 | 日本百名山

日本百名山 24、那須岳(1917m)

「那須五岳と称えられるのは、南から、黒尾谷岳、南月山、茶臼岳、朝日岳、三本槍岳を指すが、
その中枢部の茶臼、朝日、三本槍を、所謂那須岳と見なしていいだろう。

茶臼は名の通り臼型のコニーデであり、朝日は峨々とした岩の盛り上がりであるのは、かっての噴火の火口壁の名残だという。
三本槍はその名から察して鋭い岩峰を思わせるが、
実はそうではなく、なだらかな頂きを待っているのは、その北肩が下野・磐城・岩代の三国境になっていて、
封建時代に黒羽藩、會津藩、白河藩の武士が所領を確かめるため、五月五日の節句にそれぞれ槍を携えて登山し、山頂に三本の槍を立てた行事から来た名ごりだそうである。・・・

那須七湯(湯本、北、弁天、大丸、三斗小屋、高雄、板室。現在はこのほかに、旭、八幡、飯盛、新那須の四つを加えて十一湯となっている)はこの火山脈のおかげである。・・・

そしてそれらの温泉を根城として登山の出来ることが、那須岳の大きな特徴であろう。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 


  

この解説書には、筆者が登ったコースの説明はないので、私が20代の頃登ったコースを辿ってみましょう。

赤いコースは、確かな記憶ではないですが、三斗小屋に泊まったのは間違いございません。

 

やっと山頂近くにたどり着いたら、ハイヒール姿の若い女性達がハッシャイでいたのには、参りました。
ロープウエイで登ってきたのですね。うんざりした覚えがあります。




六本木界隈の散歩

2013-10-20 | 散策

六本木界隈を散歩

 

久し振りにサイクリングで六本木界隈の散歩に出かけました。

そして、区立の檜町公園という素晴らしい公園を発見しました。

東京は、同じ所を何回散歩しても新しい発見があって、飽きないですね。

それだけ、歴史の深いところのようです。

 

今日の行程ですが、最初にサイクリングで六本木ミッドタウンに行き、そこの駐輪場を利用して、その界隈を散歩しました。

サイクリングと散歩道の地図は下の通りです。

 

 

久し振りのサイクリングなので、愛用の自転車が無事で動いてくれるか心配でしたが、どうにか大丈夫でした。
少し油の補充が必要のようでしたが・・・

 

さて、いつも使ってる駐輪場ですが、3時間以内無料、整備も良く立派なものです。
近くの国立新美術館の駐輪場もいいですが、屋内だけにこちらの方がより立派です。
あまりPRが行き届いていないようで、何時行ってもガラガラ、私には好都合ですが・・・。

下がその入口の写真です。ちょっと入口が解りにくいですが。

 

そこから、ぶ~らぶら、散歩しました。
始めに石の展示が目につきました。


広い芝生に点々といろいろな展示がしてありました。

中でも、人の骸骨が目を引きました。
石を一刀彫でよくここまで作れるものだと感心です。
         (ミッドタウンの広場)

 

そこから、あてどなく歩きまわっていたら、古風な檜町公園に出くわせました。

 

東屋風の休み所あり、風雅な渓流ありで、都心部らしくない静かなたたずまいです。

ここは、もと毛利家の下屋敷があったところで、庭園は「清水園」と呼ばれていました。
周りに檜の木が多かったことから毛利家の屋敷は「檜屋敷」とも呼ばれていたそうです。
今はあまり檜が目立ちませんが。

  

 

さらに、逍遥を楽しみながら坂道を登ると、途中に中学校がありました。
区立 赤坂中学校です。
大変に立派な中学校です。私などの、田舎の第一回新制中学校とは雲泥の差です。

 

そして、いつも訪ねている乃木神社と旧乃木邸を訪問しました。

 

今日は、乃木邸は工事中とかで中は覘けませんでした。
以前ブログにも書いた、 “粗末な扱いの屋敷内” に、管理者も反省して掃除を始めたのかな?
だといいのですが。

 

これにて、本日の行程は終わり。

後は、ミッドタウンの中のレストランで昼食です。

今日は、メキシコ風の料理屋で、メキシコのビールで一杯!


日本百名山 23、会津駒ヶ岳(2132m)

2013-10-15 | 日本百名山

日本百名山 23、会津駒ヶ岳(2132m)

「私が初めてこの山を親しく望んだのは、尾瀬の燧岳の頂上からであった。
北にあたって長い山稜をもった山が見える。
一頭地を抜いた峻抜な山の形には見えないが、その尾根の長いおだやかな山容が私を魅惑した。
そこで私は会津駒ヶ岳へ向かった。
昭和十一年(1936年)六月のことである。」

一寸、恰好付けた山登りの動機ではあるが、まあ~、いいか。
下山の際、苦労したそうですから。・・・

下のカシバード写真は、その燧岳から望んだ会津駒ヶ岳の山容です。

設定:カメラ:PRO、レンズ:16mm、風景:初秋の新雪、高さ強調1.3倍、

登った山の地図とその行程断面図は次のようです。

 


 「快晴に恵まれた私は早朝桧枝岐の宿を出て山へ向かった。・・・

登山道は細い尾根をグングン上っていた。

広葉樹が針葉樹に譲るあたりから、残雪がきれぎれに現われ、やがて雪はベッタリ、続いて木立も疎らになり、
前面に目の覚めるような景色が現れた。
会津駒ケ岳の全容である。

どこが最高点か察しかねるような長大な山が伸びていて、それがおびただしい残雪で輝いている。
会津駒を天馬の疾駆するさまに見たのはその時である。・・・」
 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

次の写真は、その眺めをカシバードで具現化した想定図です。どうですか?

 (駒ヶ岳小屋から山頂を望む)

設定:カメラ:PRO、レンズ:2mm、風景:初秋の新雪、高さ強調1.3倍、
 

筆者はこの後、道に迷い、えらい苦労をして桧枝岐に下ったようです。

「・・・とうとう私は気を腐らして谷川へ下った。
そして未知の谷へ軽率に足を入れることが、いかに愚かな所業であるかということを、それからの三時間の悪戦苦闘で思い知った。」

 原因は

「・・・(山頂で)どちらを向いても山ばかり、その山々を名指すことで一時間は素早く過ぎた。・・・
少し有頂天になり過ぎたのかもしれない。
下山に際していい気持ちで残雪を駆け下って行くうちに、登山道に移る接続点を見失ってしまった。・・・」

こんなベテランでも、山道に迷うことはあるようですね。
山は怖い! 
「慌てふためいた行動」 これが一番危険なようです。
原則は、 ‘谷へは下らない 。もと来た道へ帰る。’ だそうですが・・・。


北軽井沢から池の平へ

2013-10-12 | ハイキング 里山歩き

北軽井沢から池の平湿原へ

 

山の仲間達10人で、その中の人が所有している北軽井沢の別荘に泊まらせてもらい、翌日池の平へハイキングに行きました。


 

天気予報は二日とも芳しくありませんでしたが、そこは晴れ女のおかげで、
翌日は薄日のさすハイキング日和、賑やかに二日間を過ごすことが出来ました。

 

 

池の平のハイキングルートは下の地図の通りです。
池の平湿原のパンフレットも添えます。

  パンフは南が上に(逆に)変えてあります。


初めに、駐車場から湿原の真ん中を横切るコースを三方ケ峰に向かいました。
尾瀬ヶ原のように、広々とした湿原です。

国定忠治が隠れていたといわれる岩の横から、三方ケ峰に登りました。
すぐ上です。40mも登れば峰の頂上です。

頂上はガスが現れたり消えたりしていました。幻想的ないい景色でした。
写真も撮りやすいように、金網が四角く切り取られていましたが、マツムシソウはすでに終わっていたようです。

 

そこから、西側を雷の丘沿いにハイキングしながら駐車場へ帰る予定が、道を取り違えて鏡池の方へ出ました。
もと来た道です。

仕方なく、東側へ廻って帰りました。こちらも歩きよい、いい道のりでした。

 

途中、野菜などどっさり買い込んで、帰路につきました。

車を運転してくれた人達に感謝! 有難うございました。


日本百名山 22、磐梯山(1819m)

2013-10-10 | 日本百名山

日本百名山 22、磐梯山(1819m)

「明治二十一年(1888年)七月十五日の朝、磐梯山は大爆発をした。
噴きあげた濃い灰のため、暫くは四方暗黒、遠くから眺めると、柱状をなした煙の高さは磐梯山の三、四倍に達した。・・・
爆発の箇所は、主峰の北にあった小磐梯山で、その山形は吹っ飛び、溶岩は北に向かって流れた。
桧原村の村落はその下に埋没し、死傷五百余人、・・・
山北数里の地は変じて高原となり、川は堰かれて幾つかの湖を生じた。」
と書き出された、裏磐梯の爆発の情景です。

「・・・私の得た最もみごとな眺望は、湖の東南側にある額取山から高旗山に続く丘陵山脈上からであった。・・・」
それは、おおよそ下の写真のような姿でしょうか。(高幡山山頂より カシバード)

設定:カメラ:PRO、レンズ:16mm、風景:八ケ岳の風景、高さ強調1.5倍、

同時に、3年前、山の連中と磐梯山に登り、山頂から眺めた猪苗代湖と、その裏の裏磐梯との眺めも忘れられない光景です。
 

設定:カメラ:PRO、レンズ:16mm、風景:草原の風景、高さ強調1.5倍、

 

さて、
「表口の登山は猪苗代町から始まる。・・・
明治二十一年の裏磐梯の大爆発の時、見禰まで泥流が来ての一部を埋め、大きな噴石をもたらしたが、それがいま見禰の大石として天然記念物となっている。・・・
次第に傾斜が強くなり、赤埴山を越えると、鏡沼というひっそりした沼のほとりを過ぎ、沼ノ平の湿原へ入る。
ここは大昔の噴火口の底にあたる所で、そこから急峻な斜面を登る。・・・
沼ノ平から旧火口壁を登りきると、草原風の古い尾根になり、やがて弘法清水という甘露の水の湧き出ている所へ着く。ここで裏磐梯からの登山道と一緒になるので、にわかに登山者が多くなる。・・・」
 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

ここにある弘法清水は、弘法大師(空海)が杖を立てて清水をわかせたという伝説のあるわき水です。
ここで水を飲んでおかないと、この先には水飲み場はない所です。

 

 このコースを地図で辿ると次の赤線になります。

 

私も、この山には裏口から登りました。
初日は八方台までバスで行き、そこから猫魔ケ岳を経て雄国沼へ下り、だらだらと檜原湖へ下りました。

そして、翌日は、八方台から中の湯、弘法清水を経て磐梯山の頂上に登りました。その往復です。
今から思うと、2,3年前までは、まだ健脚だったのだなーと、驚いています。