地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

旧東海道の品川宿を歩く

2016-01-29 | 散策

旧東海道の品川宿を歩く

四年前、一度来たことのある品川の旧東海道を、また歩いてみました。

品川駅前でラーメンを食べ、腹ごしらえをして歩くつもりでしたが、
地震対策で工事に入っており、、どの店も開店休業でした。 

仕方なく、途中何処かでと、歩き始めました。

コースは駅から鈴ヶ森の刑場跡までで、下の青線の区間です。

以前歩いたときは、脊椎すべり症の手術直後でしたが、大して遠くは感じませんでしたが、
今回は、行けども行けども、という感じで、遠く感じました。
ウオーキング・カウンターで往復24000歩、約15kM(4里弱)ですか、
やはり、ちょっと歳を感じました。
 

さて、まずは目黒川にかかる品川橋を右折して、荏原神社へ。


品川橋には、以前も紹介した橋の説明板がありました。

再度紹介すると、

「品川橋の今昔 

この辺りは江戸の昔、『東海道五十三次 一の宿』として、上り下りの旅人で大変賑わいました。・・・
『品川橋』は、旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ、
江戸時代には『境橋』と呼ばれていました。・・・」

そして、荏原神社へ

    

梅の花が、凄く美しく咲いていました。

そこから、東海寺へ足を伸ばそうと、探し回りましたが見つからず、
品川神社にお詣りして、旧東海道に出ました。 

  

そこから、南品川商店会、青物商店会、鮫洲商店会と、歩きに歩き、
やっとの思いで、鈴ヶ森に辿りつきました。 

    

道々、この途を、「八百屋お七」は、どういう思いで辿ったのだろう、
篭に載せられたのか、歩かされたのか、・・・ 
だんだん近づくにつれ、その思いは・・・ やるせない!
冤罪だとしたら、なおさらです。 

 

西鶴などの物語では

「お七の家は天和2年の大火(天和の大火)で焼け出され、
お七は親とともに正仙院に避難した。
寺での避難生活のなかでお七は寺小姓生田庄之介と恋仲になる。

やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、
お七の庄之介への想いは募るばかり。
そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、
庄之介に会いたい一心で自宅に放火した。

火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまったが、
お七は放火の罪で捕縛されて鈴ヶ森刑場で火あぶりに処された。」

と、なっています。

それが事実としても、火炙りとは・・・かわいそう!
賽銭をおさめ、線香を立て、お詣りしました。 

 

 

行きはバカに遠く感じましたが、帰りはそうでもなく、再度品川橋に帰り着きました。
そして、もう一度、東海寺を探しました。

通りがかりのお爺さんに聞きましたら、よく御存じの方らしく、
親切に教えてくれました。
「沢庵和尚のお寺ですね」とまで、解説付きで・・・ 

  

 

東海寺梵鐘として品川区教育委員会が次の説明板を建てています。

「東海寺は寛永十五年(1638)に
三代将軍徳川家光の信任をうけていた沢庵禅師のために、
建立されたものであります。・・・」

それにしても、あの有名なお寺さんが、なぜこうも淋しく扱われているのだろう。

廃仏毀釈のあおりだと云われますが、それではなぜここだけが?

どうもよく解りません。これからも調べてみましょう。

近くで、遅い昼飯を食べました。「石臼づくり」のそば屋さんでした。

久し振りに、美味しいそばにありつきました。
ビールもうまかった。




手賀沼鳥見学会

2016-01-27 | 散策

手賀沼鳥見学会


我孫子市の手賀沼へ鳥の見学に行きました。

総勢10人、内、うら若き女性3人。

私は、代々木上原駅から千代田線で我孫子駅まで直行で往復しました。

雪になるかもとの予報で、厚着をして行きましたが、暑いくらいの好天気!

ある夫人が、「空が、空色できれい!」と漏らしましたが、
それくらい雲ひとつない好天気でした。スモッグらしきもの全くなし。
本来の空は「空色」ですよね。「青色ではありません」。

さて、久し振りの我孫子の街を散策しながら、
手賀沼公園の方に下りました。

手賀沼をネットで見ると、

「もともと 『つ』 
の形をした大きな沼であったが、
現在では干拓事業によって約8割の水域が消滅し、
北と南に分離された形になっている。・・・

およそ2万年前、
海面が著しく低下し
た際に形成された下総台地の浸食谷が、
縄文海進時の地盤沈下により溺れ谷となり
古鬼怒湾と呼ばれた海の一部であったが、
その出口を河川の運搬物(土砂など)がせき止て形成された沼である。」

と、ありました。


われわれ以外、人のいなかった池には、鴨たちが沢山日向ぼっこをしていました。

平和なひとときです。我々もゆっくり散策しました。

暫く行くと、かっぱたちの踊る姿の像が見れました。

どうせ作るなら、「かっぱを躍らせたれ」と、粋な配慮です。

その遊び心が、ほほえましいですね。

その像に、サギらしき鳥が一羽、ジット止まったままでしたが・・・
 

それから、「我孫子市鳥の博物館」に寄りました。

財政豊かな街らしく、立派な建物で、中も充実していました。

その中で、私の見たものは、

「鳥の指は5本でなく4本」、「コウノトリ、ヨタカも実在の鳥」、でした。
 

一覧ののち、昼食をとり、案内役のリーダーが、要領よく鳥の説明をしてくれました。

「鳥は餌を求めて一日を過ごしていること、6000kmも移動する渡り鳥もいること、

渡り鳥たちは餌を求めて移動すること、地声とさえずり声のふたいろの声をもっていること、

菜食と肉食の鳥がいること、鳥の種類は世界に一万種弱あること、等々」
 

その後、山階鳥類研究所に立寄りました。

もともと、渋谷区南平台にあったようです。東洋一とか・・・


そして、ぶらぶら駅に向かって帰る途中、志賀直哉さんの別荘があり、
立ち寄りました。

  

手賀沼は白樺派ゆかりの地であったらしく、
ほかに武者小路実篤、、有島武郎らの別荘もあったようです。


そして駅に出て、教会のようなレストランに立寄りました。

ビールやワインを飲み、ポテトチップに焼き鳥(?)、ピザなども頂き、
お一人様 @1100-、 安い!!


いい気分で帰りました。

リーダーさん、ありがとうございました。




 


箱根二ノ平荘へ

2016-01-18 | 旅行

箱根二ノ平荘へ

 

15,16、一泊二日で箱根に行ってまいりました。


山の仲間たち16名と一緒ですが
私は、15日は二宮の墓参りに、
16日は、足腰自信がないので、一足お先に帰りました。 

でも、久し振りのいい旅行になりました。

下の写真が渋谷区経営のホテルです。

  

 

さて、初日の墓参りですが、往復歩きです。距離は片道4Km、結構登っていてキツイです。

以前は、この道をジョギングしていましたが、今は歩いて登るのがやっとです。
特に、帰りの下りがきついです。
姿勢が前のめりになったままで、足のブレーキがあまり効かないようでした。 

行きは1.2時間、帰りは1時間くらいか。

でも、妻の33回忌を済ませた後だけに、いい気分でした。
もうすぐ、私もここに入るのかと、落ち着いた気分ひとしおです。

 

そして、仲間たちのいる二ノ平荘へ急ぎ、
温泉に入り、酒をたしなみ、夕食をくらい、カラオケを呻り・・・

いい気分で、一夜を過ごしました。 

そして、翌日は朝食を済ませ、一人でお先にかえりました。


湯河原で、お土産用のかまぼこと、列車内で飲むウイスキーを かかえて、
ロマンスカーで帰りました。12時には家に着きました。

 

今日18日 、朝のニュースで東京も雪が降ったと聞き、
玄関口の雪景色を写真に納めました。
   

あと何回お目にかかれるやら、この雪景色!


靖国神社にお参り

2016-01-07 | 散策

靖国神社にお参り

正月らしく靖国神社にお詣りしました。

歩いたのは、九段下駅から神社境内を一回りし、靖国通りを市ヶ谷駅に至るコースです。

物足らないような、ゆったりした道のりです。

下は、靖国境内の案内図です。

大鳥居をくぐると、すぐに大村益次郎の銅像がありました。

その説明板には、

「大村益次郎は文政七年(1824)、周防国鋳銭司町(現・山口市)の医者の家に生まれ、・・・
江戸に出て私塾『鳩居堂』を開き、幕府の講武所教授等を勤め蘭学者、蘭方医、兵学者としてその名を高めた。・・・
兵部大輔(兵部省の実質大臣の地位)に任じられ、
建議して軍制を洋式に改めることを主唱したため譲位主義者を刺激し、
京都出張中の明治二年(1869)、不義士族に襲われて重傷を被り・・・
大阪にて没した。四十八才。・・・」

とありました。

特に注目したのは、「江戸に出て私塾『鳩居堂』を開き」とある点です。

鳩居堂は鎌倉時代からのお店ですが、この辺の関係がよく解りません。
御存じの方、是非教えてください。

さて、その先に、拝殿があり、お詣りしました。初詣です。

この神社の「御由緒」書によると、

「・・・幕末、嘉永六年(1853)以来幾多の事変戦役を経て先般の大東亜戦争に至る間に
戦没せられた人々のみたまをおまつり申し上げている神社であります。

御祭神は北白川宮能久親王、同永久王の御霊を始めとし、
沖縄の男女生徒の年若きみたまに至る迄、国民各層に及び
その数は二百四十万柱の多きを算へます。

 
この起源は、明治天皇の思召しに依り明治二年(1869)六月二十九日、
一身を捧げて国難に殉ぜられた人々の勲を永く顕彰し、そのみたまをお慰め申上げる為に、
この地に東京招魂社として創立せられたのに始まり、
明治十二年(1879)に至り靖国神社と改称せられました。・・・」 

それなのに、何故天皇を始め皇族方がお詣りされないのか、

それは、先の戦争のA級戦犯を 合祀したからです。
お参りされないのは、それ以来のことだそうです。

 

正面拝殿に額づいてから、右にそれ、裏庭に回りました。

そこからは、人も少なく、きわめて静かに散策ができました。

先ずはロシヤの贈ってくれた大砲です。

 その横の説明板によると、


「 鋼製三十封度(ポンド) 船用加農砲

安政元年(1854)、伊豆下田港外に停泊中の露国軍艦デイアナ号は、大地震の津波により座礁した。
乗組員は幕府に請い、スクーナー船二隻を造り、之に乗じて帰国した。
後露国政府はデイアナ号 の備砲五十二門を幕府に贈り、その厚誼を謝した。
本砲はその一門である。

口径  160mm

全長  2,570mm(2.5m)」

とありました。 

私は、以前この当時の詳細な物語を小説で読んだことがありますが、
下田代官所の川路という役人が大変苦労されたようです。 

なにしろ、黒船が来て腰を抜かした時代です。
その当時、海外へ漕ぎ出す船を建造したのですから・・・
日本の大工さんたちの腕前は大したもんだ。
 

そして、その奥の神池庭園を散策しました。

    

よく手入れされた庭園です。

それに、ほとんど人がいません。いるのは鯉ばかりです。
多分、靖国神社の奥に、こんな庭園のあるのを御存知ないのでしょう。

それから、ぶらぶら市ヶ谷駅の方に行き、一杯も飲まないで帰りました。

やはり、なにかものたりないです。

 

 


新年のお詣り

2016-01-05 | 散策

新年のお詣り


申年が明けました。本年も “一年の計” を基に頑張ってみましょう。

元旦、代々木公園を散策しました。

最初、代々木八幡にお詣りしましたが、行列ができるほど混んでいましたので、

帰りに寄ることにしました。

代々木公園は、日の出の参拝者が帰った後らしく、大変空いていました。

子供達が「たこ揚げ」で走り廻っているだけでした。

  

晴天で、うららかなお天気でした。

噴水を見て、ゆっくり散策を楽しみました。

今年のモットーは3S です。 Simple,Slow,Steady 

先ずは、あわてず騒がず、ゆったりした一時を過ごせました


そして、最初の予定通り代々木八幡を裏口から訪いましたが、まだ長蛇の列が続いていました。

並ぶのは止めて、住居遺跡を時間をかけて見学し、帰りました。

帰り際に正門前を写真に納めました。

私はどおもこうした行列が苦手で、並ぶ気がしません。

ゆっくり歩いて帰りました。

それでも、往復ですから、12、000歩、8Km でした。