地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

日本百名山 57、笠ケ岳(2898m)

2014-11-27 | 日本百名山

 日本百名山 57、笠ケ岳(2898m)

「笠ケ岳」と名の付く主な山を拾うと、
長野県志賀高原、岩手県盛岡市、群馬県尾瀬、、群馬県谷川、山口県下関市と・・・
その数は多い。

多分、山の姿が笠の形をしているからなのでしょう。

そして、深田久弥の『日本百名山』にはこう記してあります。

「それらの多くの笠ヶ岳の筆頭に挙げられるのは、北アルプスの笠ヶ岳である。

そしてこの山ほどその名に忠実なものはない。

どこから望んでも笠の形を崩さない。」

それが下の姿(カシバード)です。

設定: カメラ:PRO、レンズ:35mm、風景:雪の季節、高さ強調1.5倍。

 

「双六からは気持ちのいい静かな道で、深い谷を距てた向こう側には、
槍から穂高に向かう三千米の山なみが、大自然の壁を作っていた。
これだけ大規模な壁は日本には例があるまい。
その荒々しい岩襖に引きかえ、
反対側は、丸みを持った大まかな緑の斜面が、ゆったりと双六谷に落ちていた。」

  

 勝手に双六小屋から辿ってみました。

「若い猟師が村人の迷信をあざ笑って、こっそり案内してくれたのであった。
ウエストンは素朴な日本の山村を愛したが、
麓の浦田の人たちは、笠ヶ岳の絶壁や渓谷には魔力を持った山の精が住んでいると信じていた。
そしてよその人を神聖な山に案内すると、怖ろしい嵐が村を襲うと信じていたのである。
明治二十年代の奥深い村は、大ていそんな状態であったのだろう。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 


日本百名山  56 常念岳(2857m)

2014-11-03 | 日本百名山

日本百名山  56 常念岳(2857m)

「松本から大町に向かって安曇野を走る電車の窓から、
もしそれが冬であれば、前山(前常念岳?)を越えてピカリと光る真白いピラミッドが見える。

私はそこを通るごとに、いつもその美しい峰から目を離さない。
そして今年こそは登ろうと決心を新たにするのが常である。」

と、文章は結ばれている。


 (松本市の大糸線梓橋駅から)

設定: カメラ:PRO、レンズ:35mm、風景:雪の季節、高さ強調1.5倍。

「・・・六十年も前にウエストンが云っている。

『松本付近から仰ぐすべての峰の中で、
常念岳の優雅な三角形ほど、見るものに印象を与えるものはない』と。

ウエストンもやはりその美しい金字塔に惹かれて登ったのだろう。

彼がその頂上に立ったのは明治二十七年(1894)の夏だった。」

 

黄色のインクが不足していたので、今日はモノクロで表現しました。

  


「金字塔と呼ばれるにふさわしい山はわが国に幾つも数えられるが、
その最も代表的な一つとして常念岳があげられよう。

ウエストンはその頂上に小さなケルン(
天然には生じない、人によって組み立てられた積み石)を見つけた。
彼より以前にもう熊やカモシカを追う漁師たちが登っていたのである。・・・」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 

本沢の「三段」から山道に入ると、直ぐ急な山道になります。等高線間隔も密です。
2.5万分一の地形図で辿ると、蛇行の数は60ぐらいありました。実際はもっと多いはずです。
したがって歩行距離は3Kmではなく、その数倍はあるはずです。

そのようにして、うねうねと登る、直線状の急な坂道です。

前常念岳への道は崖や鎖場はないが、きびしいようですね。

 


日本百名山 55 穂高岳(3190m)

2014-10-14 | 日本百名山

日本百名山 55 穂高岳(3190m)

「穂高岳は昔、御幣(ごへい)岳ともいった。
空高くそびえる岩峰が御幣の形に似ていたからである。

また奥岳とも呼ばれた。
人里から遠く離れた奥にあったからだろう。


梓川ぞいにバスが通じて以来、人人は たやすく神河内(上高地)に入り、
そこから穂高を仰ぐことができるようになったが、
それ以前は徳本(とくごう)峠を越えねばならなかった。

峠に立た時、不意にまむかいに現われる穂高の気高い岩峰群は、
日本の山岳景観の最高のものとされていた。
その不意打ちにおどろかない人はなかった。・・・」

  徳本峠からの眺め。 
(注:藍色インキ欠落のための写真です。以下同じ)

設定: カメラ:STD、レンズ:35mm、風景:日本アルプスの朝、高さ強調1.5倍。


「明治末年頃から、日本山岳会の先輩たちが相次いで登り、

それまで一括して穂高と呼ばれた岩峰群に、北穂高、奥穂高、涸沢(からさわ)岳、前穂高、西穂高、明神岳という風に、それぞれの名称が与えられるようになった。
その最高は奥穂であってわが国第三位である。

初登頂は明治39年(1906)、陸地測量の時で、・・・」

   

赤線が経路断面図と同じ縦走のルートです。

「しかし、そこで永遠に眠った人も多かった。・・・

近年は冬期登山に毎年のように犠牲者を出している。・・・
死ぬものは今後も絶えないだろう。
それでもなお穂高はそのきびしい美しさで誘惑し続けるだろう。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 

井上靖 氏の小説 『氷壁』 でクローズアップされましたが、それは前穂高東壁の冬季初登頂の記述ーー
吹雪に見舞われる厳しい登攀のなか、頂上の直前でロープが切れて滑落し、深い谷底へ消えていった物語です。

そのルートは、今もなお、おぼろに私の脳裏に残っております。

 確か・・・?黒線のルートです。上高地の方からのルート。

 

私も、山の仲間に連れられて、一泊二日で登ったことがあります。

とは言っても、私を含む二人だけは、西穂手前のピラミッドピークまででU ターンしました。
それでも、今から思うと、よく登ったと思います。

すぐ右隣には前穂が聳えていました。
垂直に崖を攀じ登るような感じの処が、結構ありました。

そこを下るのが、また一苦労、恐怖でした。
足元に何も見えないのです。足探りです。
苦労なんてものではなく、生きた心地がしなかったです。 

今から、5年前の平成21年(2009)8月のことです。
もう、登ろうなんて気はありません。

下は、その時の記念写真です。 中央で標識を背に、へたり込んでるのが私です。

哀れな記念写真です。


 

 

 

 

 


日本百名山 54、槍ゲ岳(3180m)

2014-09-21 | 日本百名山

日本百名山 54、槍ゲ岳 3180m)

 

  (笠ヶ岳から臨んだ槍ヶ岳)
設定: カメラ:STD、レンズ:35mm、風景:日本アルプスの朝、高さ強調1.5倍。

 

「富士山と槍ケ岳は、日本の山を代表する二つのタイプである。

一つは斉整なピラミッドで悠然と裾を引いた『富士型』であるのに反し、

他の一つは尖鋭な鉾で天を突く『槍型』である。

この二つの相対するタイプは、他の地方の山々に多くの『何々富士』や『何々槍』を生んだ。」

 

「槍ヶ岳の初登頂者は、播隆(ばんりゅう)という越中生まれの念仏僧であった。・・・

信仰の厚い播隆は・・・背に阿弥陀如来、観世音菩薩、文殊菩薩の三尊を負っていた。

その加護を念じて、播隆は遂に文政十一年(1822年)・・・頂上に達した。」

 

そのルートは次の赤線です

    

地形図を表現するのに苦労しました。
全く新しい方法で、やっと表現できました。
機械だけの問題ではなく、いたずらされてるように思いますが、
ちがうかな~? 

 さてと、
「一生に一度は富士山に登りたいというのが庶民の願いであるように、

いやしくも登山に興味を持ち始めた人で、まず槍ヶ岳の頂上に立ってみたいと願わない者はいないだろう。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 

私もその一人です。
富士山にはどうにか登りましたが、この槍ヶ岳には登れそうにありません。

歳ですから、無理は禁物です!


日本百名山 53 鷲羽岳(2924m)

2014-09-04 | 日本百名山

日本百名山 53  鷲羽岳(2924m)


  

「初の鷲羽岳(わしばだけ)とは今の三ツ俣蓮華岳を指していた。
そこは三国の御境目であったから、名前の存じたのは当然だろう。
ところが文政(1818~1830))の頃の記録に、
その三国境の鷲羽岳の東北方にある顕著な一峰に東鷲羽岳の名が現れた。
現在の鷲羽岳はその東鷲羽岳である。・・・」

 

諸先輩たちの単なる誤りから来たものらしいが、私は今の地名でいいと思う。
すなわち、
三国の境目が『三ツ俣蓮華岳』で、鷲羽池の上にあるのが『鷲羽岳』。

 

「鷲羽乗越は匍松(森林限界の上部)で覆われた広い台地で、
その緑の中に埋もれたように山小屋(現在の三俣山荘)がある。
そこから鷲羽岳への登りが始まるが、小屋の前から仰ぐ鷲羽の姿は雄々しく美しい。

 (三俣蓮華岳から見た鷲羽岳)

設定: カメラ:STD、レンズ:28mm、風景:森の山々、高さ強調1.0倍。

急坂を登って行くと、稜線の右側にスリバチ形の火口湖があって、その底に水を湛えている。
それが、旧称竜池、現在の鷲羽池である。」 

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 


日本百名山 52、黒 岳(2978m)

2014-08-24 | 日本百名山

日本百名山 52、黒 岳(2978m)


 

普通は、野口五郎岳から真砂岳、赤岳を通り三俣蓮華へ、裏銀座という縦走路を通るのですが、
このルートは赤岳から北にそれて黒岳に向かいます。

ルートは赤線の通りです。

  


そして、下は西隣の雲ノ平からのカシバードでの眺めです。

名前のように、黒々と男性的な強さを現しています。

 

設定: カメラ:STD、レンズ:28mm、風景:森の山々、高さ強調1.5倍。

 

「黒岳は南北二つの岩峰から出来ていて、その北峰のある三角点の2978mが、この山の高度と見なされている。

しかしその三角点から眺めると南峰の方が優に二十米は高い。

すると黒岳の最高点は三千米を越えていることになる。

三千米峰の少ない北アルプスで、この高さはもっと尊重されていい。」と、ありますが、

現在の測量成果では、北峰2977.7m(三等三角点)、南峰2,986mで、
残念ながら3,000mには少し足らないようです。
くだらない話ですが・・・。

 

さて、この山は、別名『水晶岳』とも呼ばれています。

 「・・・というのは

今でも赤岳から黒岳へ行く道筋で、岩の中に白く光った水晶が見出されるからである。

立派な印材を拾おうなどという欲深い人は、尾根筋から谷の方へ下って、一日根気よく探しても見つかるかどうか疑わしいが、登山記念のための水晶ならば、小さいながら六角に結晶した半透明のものが、容易に手に入るだろう。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 

しかし、自然保護のため、あまりお勧めは出来ませんね。

それより、露天風呂を楽しんだほうがよさそうです。

 

故障中でしたカシミールが、ようやく稼働し始めました。

これからはまた、投稿を急ぎましょう。


日本百名山 51、黒部五郎岳(2840m)

2014-07-28 | 日本百名山

日本百名山 51、黒部五郎岳(2840m)

下は黒部五郎岳周辺図です

  

赤丸は百名山、青丸は注目したい地名(過去に登った山もあります)

 雲の平から見た黒部五郎岳

設定: カメラ:PRO、レンズ:10mm、風景:北アルプスの初夏、高さ強調1.5倍。


「黒部五郎は人名ではない。山中の岩場のことをゴーロという。
五郎はゴーロの宛字で、それが黒部川の源流近くにあるから、黒部のゴーロ、即ち、黒部五郎岳となったのである。

北アルプスには、ほかに野口五郎岳がある。
二つのゴーロの山を区別するため、黒部と野口を上に冠したのである。」

さて、余談ですが、この「野口」は、この山の属する大町市の集落「野口」に由来しています。

ちなみに、歌手の野口五郎はこの山の名前に由来しているそうですが、
なぜ百名山の黒部五郎にしなかったかは、その山の方が少し高かったからだそうです。
下らない理由です。山には登らないそうです。 

次は、筆者が登ったらしいルート図です。
  

「私は、・・・上ノ岳の方から匍松の間を通って、黒部五郎岳の肩(山頂直下の平坦地)に着くと、眼の下が、巨人の手でえぐり取ったように、大きく落ち込んでいる。
三方を高い壁に囲まれて、いかにも圏谷(カール)といった感じである。
その肩から私は頂上へ登った。・・・

私は愛する山の頂上に触れずにすぎることはできない。
霧のために何も見えなかったが、ガラガラした石を踏んで頂上に立ち、満足して肩へ引き返した。

肩から圏谷の底へ急斜面を降りる道には、真夏でもまだ若干の雪が残っている。
底から見あげたカールは実に立派である。
三方を岩尾根に包まれて、青天井の大伽藍の中に入ったようである。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 


日本百名山 50、薬師岳(2926m)

2014-07-11 | 日本百名山

日本百名山 50、薬師岳(2926m)

薬師岳は北アルプスのほぼ中央にあり、
その周辺には百名山と呼ばれる山々が、うじょうじょしています。(赤丸が百名山)

「当時は立山行きの電車は千垣(ちがき)までしか通じていなかった。

千垣で一泊して、そこから和田川に沿って登ること七里、もう飛騨境に近い高原に有峰(ありみね)と呼ぶ村があった。(今は有峰湖の湖底)
昔はここが薬師岳の登山口であった。

しかし私が行った時にはすでに廃村になっていた。
村人は水力電気会社に祖先以来の地を売って、金をふところに山を下った後で、
軒が破れ柱の傾いた廃屋が点々としていた。
草むらの中に崩れた墓の並んでいるのも哀れであった。

(墓はいずれはこうした運命を辿るのでしょうが・・・。)

この有峰の高原から眺めた薬師岳の姿は、今も記憶に残っている。」


設定: カメラ:CAN、レンズ:28mm、風景:スケッチ風 高さ強調1.5倍。

 

「私の二度目の登山はそのダムからであった。

朝、汽車で富山について、その夕方にはもう太郎兵衛平小屋で一ぱいやっていたのだから、隔世の感があった。

小屋から薬師岳への道は、広々とした高原をいったん鞍部まで下って、
そこから森林地帯を登って行くと、
丈の低いオオシラビソと小さな池の布置のよろしい、美しい小庭園のような原に出る。

それから先は白い砂礫のザクザクした尾根で、
右手には黒部の谷を隔てて雲ノ平の大きな台地を望み、
左手には有峰のダム湖が覗かれる。・・・

頂上に近づくと、右手に大きなカールが眼下に口をあけていて、
その内壁の縞が美しい。・・・」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 

 


日本百名山 49、立山(3015m)

2014-07-05 | 日本百名山

日本百名山 49、立山(3015m)

 

下は室堂から立山への一般的な登山ルート図です。

  


「・・・かずかずの古い由緒を持つ立山も、現在では一変して近代的な観光地になりつつある。

ケーブルカーが通じ、新しい自動車道が開かれ、旅舎があちこちに建って、もはや人々は労せずして都会の服装のまま、高山の気に接しられるようになった。・・・


お山まいりの立山は消え、登山の対象としての立山も消え、
一途に繁華な山上遊園地化に進んでいる風にみえる。

立山は、私がその頂を一番多く踏んだ山の一つである。
中でも頂上の雄山神社の社務所に泊めて貰って、早暁、日の出を拝した時の印象は忘れられない。

四方の山々が雲海の上に眼ざめるように浮かび上がってくるのを眺めながら、
やはり立山は天下の名峰であることを疑わなかった。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

(約20万分一の地勢図)

 

筆者は、登山家らしく、山が都会の「山上遊園地化」してゆくことを、嘆いておられるようです。
私も、以前書いたように、
那須岳の頂上にやっと辿りついたとき、ハイヒールを履いて騒いでいる女性達に出会い、「山上遊園地化」を嘆いたことがあります。

麓まで近代的な交通機関で行くのはいいとして、
山頂は自然のままに保存して欲しいものですが・・・。


日本百名山 48 剣岳(2998m)

2014-06-29 | 日本百名山

日本百名山 48 剣岳(2998m)

 

「北アルプスの南の重鎮を穂高とすれば、北の俊英は剱岳(つるぎだけ)であろう。

層々たる岩に鎧われて、その豪宕(ごうとう)、峻烈、高邁の風格は、
この両巨峰に相通ずるものがある。」

と、書き出されている。

 

これらの山の記述には、これっきゃないという、山の “おごそかさ” の文字が書き記されています。

  (仙人山山頂より)
設定: カメラ:PRO、レンズ:35mm、風景:地形図と合成、高さ強調1.5倍。

 

「(前人未踏の)その剱岳の神秘の開かれる日が来た。

明治四十年(1907)七月十三日、陸地測量部の一行によって、ついにその頂上が踏まれた。

ところが、

人跡未踏と思われていたその絶頂に初めて立ったのは彼らではなかった。
彼等より以前にすでに登った者があった。

測量部一行は頂上で槍の穂と錫杖の頭を発見したのである。・・・

 古来登山者絶無と見なされていたこの峻烈な山に、誰か勇猛果敢な坊さんが登っていたのである。
それはいつの頃で、どのコースを採ったのであろうか。・・・」

 

「この発見から二年後に、純粋な登山を目的とする四人のパーティーによって登頂されたが、
それを案内したのは、前の測量隊に同伴した宇治長次郎であった。
そしてその時一行の登路に採った雪渓に長次郎谷という名が与えられた。

 宇治長次郎と並んで、わが国近代登山黎明期の越中の名ガイドと呼ばれた佐伯平蔵は、
やはり剱岳当面の雪渓に平蔵谷の名を遺した。

 そして長次郎谷と平蔵谷を分かつ岩稜は、
やはり名ガイドの一人の名をとって、源次郎尾根と呼ばれている。」

 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 

ここに、その3ルートの地図と経路断面図を並べます。

  (長次郎谷)

  (平蔵谷)

  (源次郎尾根)

 

但し、今はこのルートはあまり使われていないそうです。

 

 さて、数年前、私も 『剱岳』 新田次郎著・文春文庫 を読んだことがあります。

その裏表紙には、こうまとめられていました。

「日露戦争直後、前人未到と云われ、決して登ってはいけない山と恐れられた北アルプス、剱岳山頂に
三角点埋設の至上命令を受けた測量官、柴崎芳太郎。

機材の運搬、悪天候、地元の反感など様々な困難と闘いながら柴崎の一行は山頂を目指して進んでゆく。・・・」

 そして、その本の巻頭には

「点の記とは三角点設定の記録である。

一等三角点の記、二等三角点の記、三等三角点の記の三種類がある。

三角点標石埋定の年月日及び人名、覘標(測量用やぐら)建設の年月日及び人名、測量観測の年月日及び人名の他、その三角点に至る道順、人夫賃、宿泊施設、飲料水等の必要事項を収録したものであり、
明治二十一年以来の記録は永久保存資料として国土地理院に保存されている。・・・」

 

この小説には、先ごろ映画にもなりました木村大作カメラマンによる、厳しい山の天候との闘いが記録されています。

私もその映画を見、小説も読みました。

つい先日見た『春を背負って』の映画は、その時のカメラマンが、監督もかねて撮影されたものです。

 

 

われわれの山の会にも、この山に登ったものが数人います。その中には女性も混じっています。

恐ろしい会に入ったものです。
でも、今の私はハイキング・オンリーですが・・・