地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

関八州見晴台へハイキング

2013-01-28 | ハイキング 里山歩き

関八州見晴台へハイキング

 

今年初めて、山の会のハイキングに参加しました。

場所は飯能市と茂呂山町の境にある小さなピークですが、関八州見晴台として有名です。

 

 

当日は誠に好天気で、雲一つない絶好の見晴日和でした。

従って、途中経過の説明は省いて、山頂の様子から始めます。

 

先ず南西にそびえる富士山です。写真のようにくっきりと見れました。

いろいろな山名も、説明板でばっちり確かめられました。

家に帰ってカシミールで展望図を作り、並べてみました。

  

 

各方角のパノラマ写真も次の如しです。まったく雲がないでしょう。

  

 

東側の展望板には東京スカイツリーの説明が後からくわえられていました。(一番右の写真)

今日はその実物もはっきり見る事が出来ました。多分夜景は絶品でしょうが。

 

本末転倒しましたが、ここは高山不動尊の奥の院で、標高は771mの高台です。

本来ならそこで昼食をとるはずでしたが、まだ時刻も早いので1km先の本尊まで降りました。

不動尊の前には県指定天然記念物の「子育てイチョウ」の木が聳えていました。樹齢800年とか、高さは約40mだそうです。

その説明板を引用しますと

「・・・露出した根には乳と呼ばれる気根が垂れ下がっている。またの名を『子育てイチョウ』といい、昔から産後、乳の出の悪いものが祈願すると、出がよくなることからこの名がつけられたといわれる。
幹の一部には文政年間、高山一山が焼失した火炎の跡が残り、そのときの火炎の激しさを物語っている。・・・埼玉県教育委員会・・・」

 

そして、そのすぐ横に小学校の分教場らしきものがありました。一部屋のようです。

教えるほうも、教えられるほうも、張り合いがないだろうな~と、実感しました。

そして、富士山の良く見える展望台の東屋で、にぎにぎ、きゃあきゃあと昼食を取りました。

そのすぐ近くに、和紙の原料に使われたミツマタが花を咲かせていましたのでパチリ!

 

その後、元気に(?)山を降って、埼玉県経営の『奥武蔵 あじさい館』のお湯を楽しみに行きました。

 

その途中、吾輩は遂に足が動かず転倒し、ダウン。歳ですかね~。

ハイキングといえども、これからは十分体力を養って参加することにしましょう。

それでもだめなら、ハイこれま~でよ!


関東大震災を覘き観る

2013-01-22 | 読書

関東大震災を覘き観る

 

図書館に備えられていた「復刻写真集 大正大震災号 高橋五山編」を見ました。

この本の『はじめに』 に

「1923(大正12)年9月1日土曜日、正午2分前に関東南部から静岡県にかけて襲ったマグニチュード7.9の巨大地震は震災当時『大正大震災』と呼ばれていました。

本書は今から約90年前に起きた関東大震災(大正大震災)の写真を復刻したものです。
子供向けの絵雑誌『ぼっちゃん』増刊「大正大震災号」として、1923(大正12)年10月14日に出版されたものを使用しました。・・・」とありました。

そして、震災で火災にあった地域が『東京市大震災区域図』として掲載されていました。

現在の地勢図と重ね合わせてその概要を示すと次のようになります。

紫に着色した地域が火災の地域です。

 

翌9月2日の東京日日新聞(現・毎日新聞の前身)のトップ記事が掲載されていました。
その一部を引用すると

強震後の大火災 東京全市火の海に化す 

日本橋、京橋、下谷、浅草、本所、深川、神田 殆んど全滅、死傷十数万人 

電信、電話、電車、瓦斯、山手線全部杜絶

・・・火の手は八方にひろがり・・・水道の多くが断水したので火の手は猛り狂うのみで数十万人の人々が上野、宮城前、日比谷、芝公園などの広場に夜を徹して非難する有様は全くこの世ながらの焦熱地獄である。・・・」

 

それから約90年後の今日、

東北地方太平洋沖地震が起きました。マグニチュード9.0。

これは観測史上最大の地震で、経済損失額は9兆円で、世界最大といわれています。

 

日本列島全体が、今地震多発期に入っているそうです。

このことはある新聞の社説に堂々と掲載されていました。

小松左京さんの小説「日本沈没」のようなことが実際に起こるのでしょうか?

他人ごとではない気がしてきました。


国会議事堂周辺を散策

2013-01-20 | 散策

国会議事堂周辺を散策

 

お天気も良く、出かけました。急なことなので準備もなく、いつもテレビで見る首相官邸など国会周辺を歩きました。

 

コースは地図の赤線です。

 

明治初期の地図と比較すると、下の図のようになります。

特に目立つのが、溜池です。今は駅名でしか残っていませんが、外堀通り沿いに、ずいぶん長細い大きな溜池だったのですね。

 

先ず、日枝神社にお詣りしました。

   

元官幣大社で国の保護を受けていました。

東京では明治神宮とここの2社だけです。

戦後、このような社格を表章する制度はなくなりましたが・・・。

立札の由緒によると

「鎌倉の初期秩父氏の流れ重継は江戸太郎を名乗りその館の中に日吉の大社を勧請した。降って文明年間(1478年ごろ)足利の宰相太田道灌持資が城内に、更に天正18年徳川家康が入府し江戸城内の紅葉山に新社殿を造営した。徳川三代家光は一般市民の参拝の便を企るため半蔵門外に遷座、朱印地を六百石に加増、・・・

振り袖火事のため永田町溜池に臨む景勝の星ヶ岡に遷座、現在に至る。・・・

明治維新、遷都により江戸城は明治天皇 皇居(宮城)となり、当神社は皇城の鎮守神として官幣の大社に列した。」

 

そこから、石段(明治16年の旧図にもあります)を下って

首相官邸へ出ました。

テレビではちょっと貧相に見えますが、実物はどうしてどうして、立派なものです。

竹籔の植え込み沿いに登っていくとあります。正面入り口までは見れませんが。

 

そこから議員会館を経て国会議事堂へ

そして、国会前の和風庭園に足を延ばしました。

 

この庭園の地は、大変古くから見晴らしのいい風光明媚な土地として重宝され、室町時代の末期、太田道灌がよんだ歌が紹介されていました。

  わが庵は 松原つづき海ちかく ふじの高根を軒端にぞ見る

 

そこから、隣に連なる庭園の「日本水準原点」を観に行きました。ここは、もと参謀本部のあった所でもあります。

紹介記事ではよく目にしていましたが、実際お目にかかるのは初めてです。遅くなりました。

東京都教育委員会の説明板によると

「日本全国の統一された標高決定のための基準として、明治24年(1891)5月に水準原点が創設されたが、この建物はその水準原点標を保護するために建築されたものである。設計者は工部大学校第一期生の佐立七次郎(1856~1922)。建物は石造りで平屋建。建築面積は14.93㎡・・・

日本水準原点標庫は石造による小規模な作品であるが、ローマ風神殿建築に倣い、トスカーナ式オーダー(配列形式)をもつ本格的な模範建築で、明治期の数少ない近代洋風建築として建築史上貴重である。(前の日銀の建屋に似ているように思いますが・・・)」とありました。

また、その横に国土地理院が設置した最新の説明板によると、

「・・・日本水準原点の位置は、この建物の中にある台石に取り付けた水晶板の目盛の零線の中心である。
その標高は、明治6年から12年までの東京湾の潮位観測による平均海面から測定したもので、当時24.500メートルと定めた。

その後、大正12年(1923)の関東地震による地殻変動に伴いその標高を24.4140メートルに訂正したが、平成23年(2011)3月11日の東北地方太平洋沖地震による地殻変動に伴い24ミリメートル沈下したため新たに24.3900メートルに改正した。平成23年10月21日」とありましたあ。

常に標高が変化しているのですね。

山の標高もその都度変わります。

その庭園内には、もう一つ、憲政記念館があります。

維新の時の薩長中心の藩閥政治に対抗し、公平な日本憲政を確立した尾崎行雄氏を記念したものです。

かくして、本日の散歩は終わりにしました。


雪の新宿御苑を散歩

2013-01-17 | 散策

雪の新宿御苑を散歩

 

一昨日の成人の日に大雪が降りました。

以前から雪の新宿御苑を見たかったので、翌日ネット検索したらお休み、それで翌日伺いました。

都心で8センチの積雪を記録しました。こんな積雪は2006年以来7年ぶりだそうです。

 

今日は新宿口から入りました。ちょっと薄曇りで、薄暗い様子でしたが・・・

 

園内は写真家がたむろしているだけで、いたって人も少なく、雪景色を楽しむには好都合。

私は、積雪で歩きにくいだろうと、登山用のアイゼンを携行しましたが、正解でした。

通行止めの箇所も無視して歩き回りました。

  

 

花はほとんど見られず、僅かに、ボケと水仙が咲いていました。

残念ながら水仙の写真は撮り忘れました。

 

あちこちに倒木が見られました。特に、タイサンボクの枝が多く見られました。

葉が大きくて雪の重みに堪えかねたのでしょうか。

 

下は御涼亭前の池の写真です。

カモの泳いだ軌跡が氷の上に描かれていて、ちょっと微笑ましい風景でした。

 

フランス式整形庭園横の巨木が目を引きました。

 

 

案内板によると、モミジバスズカケノキだそうです。別名プラタナス、

「春に長い花軸の先に花が咲き、やがて球状の実が垂れ下がります。」

とありました。

そして、その横の説明板を引用すると、

「園内のスズカケノキは、枝をきらないで自由にのびのびと育てています。そのため、普通ではなかなか見られないような自然の樹形が観察できます。ところが、フランス式整形庭園のスズカケ並木を見てください。樹齢は同じにもかかわらず、樹高は低く、幹まわりも小さいことがわかります。

都内でよく見かける街路樹も、枝がじゃまにならないよう枝をきってるため、本来の樹形とはちがった形になっています。(国民公園 新宿御苑)」とありました。

 

そこから先は、イギリス風景式庭園が、広々と雪に覆われ、足跡もまばらで実に気持ち良く歩きました。

丁度、管理人らしい人に遭遇して立ち話をしたら、

「めったに見られない景色です」と、彼も嬉々として楽しんでいました。

 

そして、その中にユリノキが一本聳えていました。

 

その説明板を紹介しますと、

「ユリノキ (百合の木)

北アメリカ原産の落葉高木で、明治20~30年代に日本で初めて新宿御苑に植えられたといわれています。

明治40年(1907)には東京市に街路樹育成用として種が払い下げられ、赤坂迎賓館などに植栽され、全国に広まりました。」とありました。

花は5月だそうです。

代々木公園にも大きな木があります。両方とも見に行きたいですね。

 

そのあと、園内のレストランで、雪景色を見ながら昼食をとりました。

もちろん熱燗付きで、それも興に乗り2本!

 

いい日、いい一日でした。

 

 


旧東海道・品川宿を徘徊

2013-01-14 | 散策

旧東海道・品川宿を徘徊

 

以前、サイクリングの仲間たちと東京の六地蔵めぐりをしたとき、品川寺(ほんせんじ)にお参りしたことがありましたが、今回は一人で品川宿だけを訪れてみました。

歩いたコースは下の図です。距離は片道4.6Kmで、往復10Km?

 

八山橋から品川寺を過ぎたあたりまでは、『旧東海道』として街並みは整備されていました。

そのコースを、例によって、明治初期の参謀本部発行の地図と比較してみると、150年間の変遷が明瞭です。

特に海岸線の変遷が目を見張ります。

 

先ず、八山橋を渡るとすぐに、旧東海道の入口の案内が明示してありました。

よく整備された道のりです。

 

暫く行くと、品川橋の手前の荏原神社に出くわしました。

 

品川橋の来歴が『品川橋の今昔』として次のように記されていました。

「この辺りは江戸の昔、『東海道五十三次 一の宿』として、上り下りの旅人で大変にぎわいました。また、海が近く漁業もさかんなところでした。今でも神社仏閣が多く、当時の面影がしのばれます。

『品川橋』は、旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ、江戸時代には『境橋』と呼ばれていました。・・・」(品川区)

 

荏原神社はサイクリングの仲間たちと来て、二度目です。

  

 

「龍神を祀る元品川宿の総鎮守」、和銅二年{709}創建だそうです。特に徳川時代には寺領を寄進され擁護されていたようです。

 

さらに、さきに進むと、品川寺(ほんせんじ)に出ました。ここも二度目です。

2011年1月12日に「江戸六地蔵巡り」サイクリングで訪れています。

ここのは、大きくどっしりしていて、都内六地蔵尊の中でも特に立派ですが、なぜかここのだけは笠をかぶっていないのです。何故でしょう?

 

 

そこを過ぎてしばらくすると、道のりはごく普通の街並みになり、商店街も質素になります。そして天祖諏訪神社に出ました。

 

旧図で見られるように、元は立会川を挟んで天祖神社と諏訪神社が並びまつられていましたが、南側に集合されたようです。

そのことが、説明板『由緒』に書かれてありました。

「天祖諏訪の両社は江戸時代から此の地の鎮守とし神威昭々郷々の発展と共に今日にいたりました。昭和36年1月氏子各位の要望により天祖神社諏訪神社御改築奉賛会が設立せられ新社殿を建立し昭和40年11月1日両社を合祀いたしました。」

 

そして、今日の終点、鈴ヶ森刑場跡に出ました。

今は、第一京浜国道との合流点になっていますが、旧図によると、海岸未面した田圃の中の鬼子母神の一角にたたずむひっそりとした森だったようですね。

 

 

ここの鈴ヶ森遺跡は東京都指定の旧跡で、都教育委員会の説明板によると、

「鈴ヶ森遺跡は品川宿の南、東海道沿いに慶安四年(1651)に開設された御仕置場の跡です。大井村鈴ヶ森の刑場は、東海道に面し、規模は元禄八年{1695}実施の検知では間口40間、奥行き9間であったとされます。東海道(現在は第一京浜)の拡幅等により旧態をとどめていません。大経寺は御仕置場に隣接し処刑者の供養のために建てられた寺で、髭題目を刻んだ石碑は池上本門寺二五世管主日顕の筆によるもので、・・・この鈴ヶ森刑場では、丸橋忠弥、天一坊、新井権八、八百屋お七、白木屋お駒など、演劇などで知られた者が処刑されたとされます。江戸の刑制史上重要な遺跡です。」

 

長々とほとんど全文を引用しました。

 

さて、そこの『火炙台』を紹介すると、

 

「八百屋お七を初め火炙の処刑者は皆この石上で生きたまま焼き殺された。真ん中の穴に鉄柱を立て足下に槇を積み縛りつけて処刑されたのである。鈴ヶ森 史跡保存会」とありました。

読んでいてゾッとしました。

他に、『磔台』もありましたが、省きます。

 

すぐ横の「しながわ区民公園」などを散策しながら家路につきました。

何か、歴史の重みにつぶされそうな散策でした。

家まで飲まず食わずに帰って、我が家で一杯やりました。


大宮八幡神社にお参り

2013-01-09 | 散策

大宮八幡神社にお参りする

 

散歩コースは下の地図の赤線です。

以前は、井之頭公園までジョギングしていた善福寺川沿いのコースの一部です。今はウオーキングです。

後で測ったら、我が家から大宮八幡神社近くの永福町駅まで9Kmありました。

朝のジョギングと併せると13Kmぐらいになります。どおりで、ちょっと疲れたわけです。

 

 

途中の、神田川と善福寺川の分岐点が珍しく、写真に撮りました。

明治13年の陸地測量部の二万分一地図と比較しても、川のコースはあまり変わっていません。多少河川改修で蛇行がなくなっているのと、当時はこの辺り水田でしたのですね。大分盛り土して、宅地化されており、その分、川が深くなっています。

 

そして、大宮神社へ行く緑色の橋を渡り、しばらくして正面入り口に出ました。

正面からまともにお参りするのは初めてです。立派な構えです。

   

広いはずです。境内は15,000 坪(5万㎡=5㌶)と言われています。
発祥は、1063年、源頼朝の祖先=頼義が東征するとき、石清八幡を勧請し祀ったそうです。
今から約1000年前のことです。

ここはまた、東京のちょうど中央に位置していることから、『東京のへそ』とも呼ばれています。

境内の様子や、ちょうど花盛りの寒桜『十月桜』を写真に撮りました。

 

そこから延々と歩いて京王線の永福町駅に出ました。

途中、道を聴いた“おばあさん”が地元の人で、丁寧に教えてくれた上に、途中まで道案内をしてくれました。

お年寄りだから駅は近いだろうと思ったら、結構距離があり、そこを“すたこら、すたこら”歩かれて、結構な健脚でした。

分かれてのち、その途中に大円寺という立派なお寺があり、寄ってみました。

門構えに葵の紋があり、一緒に〇に十の字の薩摩の紋が在り、珍しいのでゆっくり見物しました。

 

当寺の説明板(杉並区教育委員会)には

「・・・延宝元年(1673)薩摩藩主島津久光の嫡子綱久が江戸で死去した際、当寺で葬儀を行って以来、島津家の江戸における菩提寺となり、寺内に薩摩家代々の位牌堂が設けられてあります。・・・」とありました。


初詣に代々木八幡へ

2013-01-02 | 散策

初詣に代々木八幡へ行ってきました。

 

散歩コースは下図の赤線です。

明治16年頃の地図には、代々木神社もそのすぐ横の福泉寺も書いてありました。

古い神社仏閣なのですね。

もちろんすぐ横の代々木公園や明治神宮はまだありません。

他には、現在の代々幡葬祭場の前進の火葬場が記入してあります。

一部に茶畑が散在していますが、後は雑草地と畑ばかりです。

 

今日は、玉川上水緑道と山手通りを歩き、代々木神社にお参りしました。

元旦の朝8時ころでしたが、結構多くの人たちがお参りしておられました。

0時から2時くらいまでなら甘酒の振るまいがあったようですが・・・

  

ここは、代々木八幡遺跡と呼ばれ、渋谷区が本格的に発掘調査しています。

「・・・なかでも中期の遺物、加曾利E式と呼ばれている土器(約4,500年前頃)がたくさん出土しました。

また、縄文人が生活した家の跡(住居跡)も確認され、・・・」と掲示がありました。

 

 

往復4,5Kmの初詣ウオーキングでした。

今年も、東京中を大いに歩き回るつもりです。