地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

銀座,から佃島をウオーク

2011-04-30 | 日記
銀座・佃島界隈をウオークしました

恒例(高齢)のジョギングを終え、今日は仲間の関係で絵の個展を銀座へ見に行きました。
どうせ行くなら、天気もよさそうだし、早めに出て銀座界隈をウオーキングしようと、9:00に家を出ました。
結局、待ち合わせの13:00ぎりぎりまで歩き回りました。

ウオーキングしたコースは下の地図の赤線です。


まず、都営地下鉄の日比谷駅で降り、有楽町駅までブラリ。
普通、人で混み合う有楽町駅界隈も、「昭和の日」で休日のためか、ゴールデンウイーク初日のためか、極めて人通りも少なく、歩くには好都合でした。

交通会館前は、戦後闇市が立ち並び、「すし屋横丁」などがにぎわったところですが、今はその名残をとどめているだけで、様変わりしました。下がそのあたりの写真です。


そこから、マロニエ通りをぶらぶらしながら、銀座通りを横切って、中央区役所の近くへ出ました。
ファッショナブルな綺麗な街筋です。

しばらくして、佃大橋に出ました。
東京オリンピックの際に架けられた橋だそうです。
佃大橋と朝潮大橋を一緒にまとめた、長大な高架橋です。その規模と、素晴らしさに驚きました。
勿論、昔からの人の歩く佃大橋や朝潮大橋も並行してありますが、・・・

徳川家康公が江戸に移された当時は砂州のような島で、大阪から迎えた住吉大社と刑場のあった島ですが、こんにちは4.50階建てのマンションビルがにょきにょき立ち並んで様変わりしています。


そこから、晴海大橋は途中まで行って、晴海ふ頭の方へUターンしました。
この辺はジョギングすればよさそうな道のりです。いつか是非走ってみたいですね~。

12時少し過ぎになり、少々腹も空いたので、晴海ふ頭の「晴海旅客ターミナルビル」で、腹ごしらえをしてと、大きな客船のような白いターミナルビルに入りました。
ここには南極観測船「しらせ」も寄港するそうです。もしかしたらお目にかかれるかな~などと思いながら来てみると、中は薄暗く殆ど人影はありませんでした。
節電のためか?祭日のためか? と思いましたが、どうも開店休業のようでした。
もったいない話です。
見送り用の展望台から写真のみパチリ!


腹をすかしたまま、もと来た道に引き返し、晴海通りへ出ました。

マリオン(元の日劇)で13:00友人と会うことにしてましたが、このままゆっくり行っても間に合いそうです。

そこから有名な勝鬨橋を渡りました。
以前は都電も通っていた開閉橋です。
開閉部分を歩いていると、車による振動のためかガタガタ音を発てて揺れるのです。余り気持ちのいいものではありませんでした。


築地際に「かちどきのわたし」の記念碑があり、中央区教育委員会の解説板がありましたのでその一部を載せておきます。


「・・・明治38年(1905)、日露戦争の旅順要塞陥落を契機に、京橋区民の有志が「勝鬨の渡し」と名付けて渡船場を設置し、東京市に寄付しました。・・・」
「・・・大正12年(1923)の関東大震災後、架橋運動が起こり、船が通過する際に跳ね上がる可動橋が架けられることになりました。・・・昭和15年(1940)6月、勝鬨橋の開通・・・」

設置当初は1日に5回、1回につき20分程度開いていたそうです。
車社会になり、遂に昭和45年(1970)開閉は停止され現在に至っています。
渡って、暫く行くと築地市場の横に出ます。築地本願寺です。


正式名称は「浄土真宗本願寺派本願寺築地別院」だそうです。
関東最大の念仏道場です。
私は、仏教のことは良く解りませんが、親鸞聖人のいわれた「ただひたすらに念仏を唱えるだけ」というのが解りやすくて好きです。
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや・・・」何となく解ったような気がします。
元は、京都から浅草に移されたそうですが、明暦の大火で消失し、幕府の命令で八丁堀の海上を移転先に指定されたそうです。良く解りませんが、ひどい話です。
そして、佃島あたりの門徒が寄進して、海を埋め立て再建したそうです。
その後も、火災、台風、関東大震災等で何回も立て直されたそうですが、現在は、何故かインド様式のコンクリート造りのお寺になっています。
狛犬さんも和風ではありません。


そこから、歌舞伎座の前を通り、銀座四丁目交差点に着きました。
ところで、新しい歌舞伎座は高層ビル(地下4階、地上29階建て)になり、入り口付近は広場になるそうです。
ただし、建物の概観は今まで通りの桃山様式をとどめるそうです。期待しています。

銀座四丁目(尾張町)は、今日は祭日なので歩行者天国になっていました。


そして、約束の時間より15分前にマリオンに着きました。
友人は既に来ていましたが・・・
見た絵は 桧垣 壇 展「オルニス」~鳥に願いを込めて~です。

後で、銀座四丁目地下のライオンで一杯!



一人侘しくジョギングを!

2011-04-26 | 日記
たった一人の侘しいジョギング

今日は仲間が来なかったので、たった一人でジョギング&ウオーキングをしました。
6:30~9:00頃まで、正味二時間半の朝の爽やかジョギングでした。

コースは下の地図の赤線です。緑線はウオーキング区間です。


明治神宮内苑は走れませんのでウオーキング。
この内苑の森が実にいい。コローの森の絵を思わせます。
今日は西側だけを歩きましたが、一周すると心が洗われます。
そのヒトコマを・・・


そして出口の西参道口からジョギングをと思いきや、山の仲間にばったり遭って、おしゃべりしながらまたウオーキング。
しかし、この人・人・人の東京で知人にばったり会うのはいいものですな~。
別れ際に、お互い帽子をとってお辞儀したが、注目したのは、相手の頭の毛・毛・毛・・?(禿げて、かつ残りは白・・・お互いを指差して大笑い!)

さ~て、今日のコースで特筆したいのは、

先ずは、代々木八幡にある石器時代の住居跡。


竪穴家屋です。

渋谷区教育委員会の説明板によると、4500年前、石器時代中期のものだそうです。

「・・・直径約6mの円形にローム層を約20cm堀くぼめ、その内側の周りに高さ1.6mの柱を10本程立て、その柱の頭に桁を横に結びつけ、その桁にたるきを20数本周りから吹き寄せて屋上で円形に結び合わせ、その上に萱を葺いて作ってある。・・・」「・・・この家の内は冬は屋外より10度温かく、夏は10度程涼しい・・・住み心地は悪くない。・・・」そうです。

次が、代々木公園の銀杏並木です。


今は新緑が美しく、季節ごとに変化するさまはパソコンの壁紙にしたいと思っています。特に黄葉は絶品です。
あと何年楽しめますでしょうか? 

一人でマイペースのジョギングでしたので、公園内を三周半走りました。いつもは二周で息があがるのですが、・・・

仲間と走ると、どうしても、遅れてはという意識が働き、ペースが乱れてしまいます。仕様のない人間性、本能ですね~?

知人と別れた後は、旧玉川上水路を走り、“3月11日2:46”の東日本大震災に遭遇した箇所を、今日は無事通過しました。

当日は、新宿まで歩いて買い物に出かけましたが、
そのときグラと来て、一瞬、
「あ~!とうとう脳溢血になったか~!? いい人生だったな~。」
と思いました。

しかし、やや冷静になって見回すと、廻りの電線はユラユラ、すぐ前の高速道路の街灯は大揺れ!
しばらくはすぐ横の木(写真のクスの木)に確りつかまっていました。


我々はこれで一応済みましたが、震源地に近い人たちは、長い長い期間の闘いですね。



日の出山(902m)ハイク

2011-04-18 | 日記
奥多摩の展望の山 日の出山(902m)へハイク

JR青梅線 御岳駅からバスとケーブルのお世話になりながら、御岳山から日の出山に登りました。
下はそのルート図です。
ダブルクリックして拡大してみてください。(元に戻るには左上矢印クリックから)


今日は、そのほかに、御嶽駅から真直ぐ日の出山に登るグループと、五日市駅から上養沢までバスで入り登ってくるグループと、その3つのグループに分かれて登りました。
ほぼ同じ時間に頂上で合流できました。

簡単に書きましたが、3グループがほぼ同じ時間に頂上で集合するのは結構難しいようです。3つのリーダーたちの経験の賜物でしょう。

さて、私は老人らしく、ハイキングのグループで登りました。

先ず、以前来たことのある御岳山駅に着き、展望をパチリ!


そこからビジターセンターへ向かう途中、沢山のカタクリの花に遭遇しました。
こんなに群生しているカタクリの花を見たのは初めてです。
そこで、写真をパチ、パチリ・・・




そして、間もなく御岳山神社に着きました。
境内の途中に、「神代ケヤキ」が崖にしがみつくように聳え立っていました。
がんばっとるなーという感じ。


そして、無闇に沢山建っている「○○講」の石碑を見ながら男坂の石段を登って、本殿にたどり着きました。正式には「武蔵御岳神社」と呼ぶようです。


その入り口に、大きな狛犬さんが左右からにらんでいました。
余りにもその形相が凄まじいので、これも記録しておきました。


何でも、日本武尊東征のさい道に迷ったのを救ったお犬様だそうで、「お犬様」「老いぬ様」として大事にされているようです。

そこから、本格的(?)に登山をして、日の出山につきました。
我々は3グループの中の2番目でした。
今日の奥多摩展望の写真を一つ。


ここで、昼食。
本日は総勢19人と、大盛況でした。
そして、下の断面図のように、ひたすら下りました。


我々のルートは、水平距離6Km,登り標高さ100m、下り標高差550m、
従って、6+1+5.5=12.5ポイント・・・20ポイント以上が登山だそうですから、やはりハイキングというのが妥当なようです。

さて、下山の途中には、多くの「玄海つつじ」が、清々しい紫の花を咲かせていました。


そして、今日の終点、「つるつる温泉」に着き、一風呂浴びて、一杯呑んで、後はバスと、電車に揺られてウトウトと新宿に帰りました。



天竺山ハイキング

2011-04-11 | 日記
天竺山ハイキングを愉しみました

奥多摩の五日市駅と武蔵増戸駅間の北側に広がる里山ハイクです。
仲間数人と、ゆっくりした“のんびりハイク”を愉しみました。

コースは下の図です。


水平距離 約6Km 標高差130m 
神崎忠男先生(日本山岳会副会長)流にポイント計算すると、6+2.6=8.6
という事で、通常の登山が20ポイントだそうですから、正にウオーキングまがいのハイキングといったところです。

今日はうす曇ですが、雨もなく過ごしやすい気温で、あちこちの桜を愛でながら五日市駅から武蔵増戸駅へ向け散策しました。

先ずは、天竺山。
結構急な尾根道ですが、いくらも歩かないうちに山頂に着きました。
標高310mくらいか。
眼下に五日市の街並みが広がっていました。ハチリ!


そこから下って行くと、小さな小さな池がありました。
「石山の池」だそうです。
この一帯は、以前石切り場で、伊奈石といわれ、石臼や墓石に使われていたそうです。


更にそこを下ると、急に視界が開け、素晴らしい湿地帯、元・水田地帯に到着しました。
このあたりが、「横沢入里山保全地域」(東京都指定)です。面積約48ヘクタール。


そこの案内板を抜粋しますと

「横沢入は、丘陵に囲まれた都内でも有数の谷戸(ヤト)です。七つの谷戸と中央の湿地では、かっては稲作が行われ、里山の環境が保たれていました。しかし、近年は、耕作されず荒廃が進んでいます。・・・・・
自然と人間が共生する身近な自然「里山」を復元し、貴重な動植物の生息生育環境を回復し、保全していくことにしました。・・・」

田舎出身の私には懐かしい風景でした。

さて、綺麗な休憩舎で一休みして、大悲願寺に進みました。

ところが、その手前に、まだ出来て間もないであろう四国八十八箇所巡りのミニ版が設けられていました。

勿論ですが、88体あり、その各々が石造りの地蔵菩薩で、寄進された人の名前も彫られていました。
下がその顔の一部です。


大悲願寺の裏通りはこの菩薩と竹林の続く静かな通りでした。


少し、腹が減ってきました。
大悲願寺におまいりして、その庭でおにぎりをパクつきました。
色々な花も咲いていて、大変うららかな昼食をとりました。

そのときの花を一つ・・・○○つつじとか・・・ある学者が説明してくれましたが、忘れました。


本堂の脇の設営板には「伊達政宗 白萩文書」が掲示されていました。
その一文を紹介しますと、

「追って是式に候へ共、折節に任せ、小袖壱重(ひとがさね)進め候。以上

態(わざわざ) 飛脚を以って申し入れ候、先度は参り、会面を遂げ 本望に候。
仍(よって) 無心の申す事候へども、御庭の白萩一段見事に候き、所望致し候。
先日は申し兼ね候て罷過ぎ候。
預(あずけ)候はば 忝(かたずけな)かるべく候。        恐惶謹言

                        松平陸奥守 花押
    八月二十一日 
彼岸寺御同宿中     」


機会を見て、秋にまた来てみたいものです。

それから、桜を愛でながら、途中、フリー野菜店で野菜を買い(各100円)ながら、武蔵増戸駅につきました。

一寸、仕入れた学を披露しますと、この「増戸」という地名は、本来民家が少なく、なんとかもう少し戸数が増えないかな~との願望から名づけられたようです。
今はもう、ほぼ一杯の家が立ち並んでいますが。

谷中・根津界隈散歩

2011-04-08 | 日記
谷中・根津界隈ウオーキング

仲間数人と上野公園界隈を歩き回ってきました。約18Km?

ルートは下の図です。


なお、上の地図はサムネイル方式で掲載しましたので、詳細は地図ををダブルクリックして、大きくして見みてください。元に戻すには、左上の矢印をクリックしてください。

集合予定より少し早く着いたので、先に寛永寺輪王殿にお参りしました。

9時前で人気もなく、ひっそりと静かな園内を味わうことが出来ました。
丁度、桜も綺麗に咲いていました。


その途中の国立科学博物館横に、ペンシル様の「ラムダ4S型ロケット5号機」と同形のものが展示されていました。高さ16.5m、世界最小のロケットです。



1970年に打ち上げられ、33年間飛び続けて、2003年地球にたどり着いたそうです。
勿論、人工衛星は消滅して、現存しませんが・・・。
それにしても、敗戦国日本が、戦後25年で、ソ連、アメリカ、フランスに続いて4番目に人工衛星打ち上げに成功したとは・・・

さて、その後、仲間たちと一緒に、ウオーキングしました。

先ず、正岡子規記念の野球場を覗いて、東照宮へ。

ところで、文学青年の子規が野球をやってたとは・・・。病に倒れていなければ、活動的な彼は素晴らしい業績を残したことでしょうに。

桜満開の東照宮にお参りしました。ぼたん苑開園はもう少し後のようでした。
家康侯は自分の魂が静かに眠れるようにと祈願して作らせたそうですが、今は
石灯篭、青銅製の灯篭ばかりが沢山並んでいました。

本来、上野公園は元・寛永寺の境内で、最盛期には更に今の公園の2倍の寺領を持っていたそうです。広大な寺領ですね。
それが、維新時の上野戦争で殆どの堂宇は消滅し、更に第二次大戦時の空襲で消失、今は殆どそれら建物は残っていないそうです。

そこから、不忍池のほとりを巡り、弁天堂にお参りしました。
桜の季節だけに、平日ですが結構な人出で、屋台店もズラリ沿道をにぎやかしていました。

そして、東大構内に入りました。
廃屋のようなレンガ造りの建物が沢山あります。もっと上手く活用できないものかな~。

そこから、竹下夢二美術館に寄りました。
入館料900円で、中に入らず、入り口のコーヒー店で一休みしました。
夢二の絵のモデルにふさわしい柳腰(?)の女性に、サービスしていただき、いい気分で休みました。

次は、根津神社(権現)です。
ここに来ると、どうしても文京学園の島田理事長が想い出されます。
毎年続けておられた記念品「首都圏地図」の表紙に、この社の版画絵を使っておられました。
その版画そっくりな門を潜ってお参りしました。
随分と豪壮な構えのお寺です。

その裏門を出て、くねくね露地を歩いて、大名時計記念館に行きました。
こんな記念館があるのかと驚きました。案内してくれて感謝!


特に注目させられたのが、重箱様の線香立てのようなものの灰の上に、太い線香を寝かせて這わせ、それに火をつけて、その消失する進行で時間を計る時計です。
丁度、線香の燃え尽きるまで座禅をするシステムと同じ理屈です。

色々な時計を見て、そこから「へび道」を通って谷中商店街へ向かいました。

この「へび道」は、延々と蛇行した珍しい通りでした。
もと藍染川の流れを暗渠にして出来た道だそうです。
それにしても、区画整理もしないで、よくぞ川の蛇行に沿って家を建てたものと、感心しました。
下の写真はそのごく一部です。


それを過ぎて、谷中商店街へ入りました。
だいぶ、腹がすいてきました。12時半過ぎです。もう、3時間半以上歩いています。
その商店街はずれの寿司屋さんで、ビールを飲みながらお刺身丼をいただきました。大変美味しい店でした。そのためかよくはやっていました。

そして、ゆるゆると本行寺、一名「月見寺」にお参り、一茶が月を愛でて一句造られた寺だとか。


 “青い田の露をさかなやひとり酒”  納得!


日暮里駅を左に見ながら、狭い路地を谷中霊園に登りました。
結構広い霊園です。

徳川慶喜侯の墓がありました。
よくぞ、天命を全うされたなあと、感心します。



ここに眠る徳川将軍は4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家冶、11代家斉、13代家定、15代慶喜だそうですが、ニ度の戦災で殆どが消滅しているそうです。

墓石も弾痕の跡や、戦火で黒くこげたところも見受けられるそうですが、なにも維新の際、故人の墓まで撃つこた~なかろうに!


仲間は慶喜の墓より、“明治の毒婦” といわれる高橋お伝(1850~1879)のほうに注目が集っていたようでした。

その説明板には
「最初の夫、浪之助が悪病にかかり身体の自由を失ったのでこれを毒殺し、他の男のもとに走り、その後、各地を放浪しながら悪事を重ねた。明治九年、浅草蔵前の旅館丸竹で、古着屋後藤吉蔵をだまして殺害、所持金二百両を持って逃走、京橋新富町で捕らえられ、同十二年、三十歳で死刑に処せられる」

疲れて、だらだら歩いていたら、私お目当ての「旧吉田屋酒店」に出ました。現在は区立の「下町風俗資料館」の一つになっています。


1986年(昭和61年)まで営業していたそうですが、現在は江戸商家の建築物として台東区が保存しています。

商いに使われた秤や徳利などが展示されていました。
私には珍しくはないですが、今の若い人には興味があるでしょうね。

そして、最後に上野寛永寺にお参りしました。


特に、篤姫の墓に参りたかったのですが、直接拝めるところまでは入れてくれなかったそうです。

そして、4時に鶯谷駅にたどり着きました。

9時から4時まで歩いたのですから7時間か~。
休憩時間を除いて5~6時間ぶらついたようです。18Km歩いたというのは真実のようです。

そして、例のごとく飲み屋に入りましたが、オープンは5時からとか、飲みながら正式にオープンするのを待ちました。

久し振りの散歩、これにて終了!
















谷中・根津界隈の散歩計画

2011-04-03 | 日記
谷中・根津界隈の散歩計画

近い内、運動を兼ねて、上野駅を中心に散歩してみようと計画しています。

しばらく、東日本大震災で、のんびり散歩などしておれる情況ではありませんでしたが、対策も長期戦の様子ですし、このままでは体もなまってきますので、ボツボツお金のかからないウオーキングを始めてみようと計画しました。

ルートは下の図の予定ですが、その場その場で変更します。


なお、上の地図はサムネイル方式で掲載しましたので、詳細は地図ををダブルクリックして、大きくして見てください。元に戻すには、左上の矢印をクリックしてください。

さて、①上野駅公園口から出発します。

先ず、②東照宮にお参りしましょう。
多分、上野公園には桜が咲き始めたばかりでしょうが・・・
今年は例年より一週間ばかり遅いようです。

上野東照宮は、家康侯が自分の魂が静かに眠れるようにと祈願して作らせたそうです。
なお、ここは桜より“ぼたん”が見もののようです。これも一寸早いかな?

次は、パンダで騒がれている上野動物園を横目に、③寛永寺へお参りしてみましょう。

徳川将軍家の祈祷所・菩提寺で、古くから皇族が住職を務めていました。
篤姫もここに眠っているそうです。

上野戦争で主な建物は消失し、現存するものは建て替えられたものだとか。

そこから言問通りへ出て、④旧吉田屋酒店をのぞいて見ましょう。

1986年(昭和61年)まで営業していたそうですが、現在は江戸商家の建築物として台東区が記念物として保存しています。
商いに使われた秤や徳利などが展示されているそうです。

そこから、谷中霊園に入ります。
徳川家の霊廟でもあり、上野戦争できづついたり、黒焦げあとの残る墓石もあるとか。
徳川慶喜の墓もここにあります。

そして、⑤本行寺へ出ます。
江戸時代から続く日蓮宗の寺で、お月見に良い寺として知られています。
小林一茶ゆかりの寺で、「月見寺」とも呼ばれています。

そこから⑥谷中銀座を覗いて見ましょう。
もし、腹が減ったらこの辺で昼食でも。“うどん”かな~?

そこから“よみせ通り”へ入ると、⑦大澤鼈甲の店があります。
注文によってメガネのふちを造ってくれるとか。高いだろ~なあ?

くねくね曲がりくねった“へび道”を抜けて、⑦根津神社(権現)にお参りしましょう。

文京学園の島田理事長が尊崇しておられ、毎年続けておられた記念品「首都圏地図」の表紙にこの社(やしろ)の版画絵を使っておられました。
後で⑪文京学園にも寄りますが、今では大学院(埼玉県富士見市)も備えた立派な総合大学になっているようです。

そして、白山上へ。

ここには江戸後期の砲術家⑧高島秋帆の墓があります。
そして、紫陽花で名高い⑨白山神社(権現)が鎮座しています。
「白山権現」はこの辺の地名の起源です。

また、近くの円乗寺には⑩八百屋お七の墓があります。
幼いお七(満16歳とか)の恋慕の余りの放火未遂による罪で死刑になったそうです。
“もったいない!”

そこから、東大裏の⑫菊坂を通って東大⑮赤門前の本郷通りへ出ます。

菊坂は、文字通り、むかし菊畑の広がっていた地帯だそうです。
現在でも菊の植木鉢が、あちこちにあるようですが・・・。
樋口一葉、宮沢賢治、石川啄木らも下宿していた通りです。

若し疲れていたら、この辺でお茶でも一杯の予定にしておきましょうかね~。

春日通を通り⑭湯島天満宮(天神)に向かいます。

梅は終わって、静かに庭園を散策し、女坂か男坂を通って不忍池に向かいましよう。

湖畔には、区立の⑮下町風俗史料館があります。
出来れば、ここでゆっくり江戸の情緒を味わいたいと思います。
何回か行っていますが、結構楽しめる史料館です。

この計画で、あちこちで沢山写真を撮り、パンフレットなど資料を集め、この記事を補筆したいと思っています。

また今度!