地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

中山道・板橋宿を散歩

2013-02-24 | 散策

中山道・板橋宿を散歩

 

江戸四宿の一つ、中山道六十九宿の初めの宿・板橋宿を散歩してみました。


現在の中山道=国道17号線は黄色線ですが、元の街道は赤線のコースです。

明治16年頃の旧図を覘いてみると下の赤線になります。

 

今日は赤線の旧中山道を散歩しました。

入口に近い中山道の案内板によると

「中山道は江戸日本橋を起点として、板橋宿から武蔵・上野(こうずけ)・信濃・美濃を経て近江守山まで続き、近江草津で東海道と合流する街道で五街道の一つでした。江戸幕府は幕藩体制を整えるために道幅を五間(約9m)と決めて整備を行ったり、一里塚を築造したりなど街道の整備に努めたということです。・・・板橋宿の延長は十五町四十九間(約1.7Km)になり、江戸に近いほうから平尾・中宿・上宿と三つの宿に分かれていました。中心地だった中宿には問屋場、本陣・脇本陣、料理屋などが軒を並べていたそうです。」

 

その説明板の地名等を新・旧地形図に記入してみました。

現在の中山道と当時の中山道、石神井川にかかる板橋を中心に上宿、仲宿、平尾宿の存在が明瞭になります。

しかし、当時あった前田家の加賀藩下屋敷はその名の児童公園を残すのみになっていますが、広大な屋敷だったようです。

その様子が、下の現在の板橋宿周辺図(案内板より転載)ではっきりします。

 

さて、前後しますが、今日はJR板橋駅まで埼京線で行き、そこから環七までを往復しました。

全長は往復で約4Km.まあ~適当な散歩コースです。

 

板橋駅に降りましたら、正面に近藤勇の墓がありました。

  

 

その北区教育委員会の説明板を引用させてもらうと、

「慶応四年(1868)・・・新選組局長であった近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。その後、首級は京都に送られ胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。・・・」

さて、いよいよ中山道です。

 

しばらく行くと、遍照寺に出くわしました。まったくの廃寺です。
ただそこに説明板が建っていましたので紹介します。

「江戸時代は大日山と号し、区内唯一の天台宗寺院であったが明治四年廃寺となった。・・・境内は宿場時代の馬つなぎ場で、幕府公用の伝馬に使う囲馬、公文書伝達用の立馬、普請継立馬などがつながれていた。境内にまつられる寛政十年(1798)建立の馬頭観音と宿場馬を精巧に模倣した駅馬模型にそのなごりをとどめるのみである。・・・」(板橋区教育委員会)

 

 

しかし、この通りは、中山道の面影があまり見られない通りでした。
一里塚も見られないし、本陣跡や、遊郭跡も見受けられませんでした。ごく普通の商店街でした。

 

ただ、昔ながらの「板橋」が、コンクリート製ですが昔の面影を残して存在していました。

 

その説明板を引用しますと

 

「この橋は板橋と称し、板橋という地名はこの板橋に由来するといわれています。板橋の名称は、すでに鎌倉から室町時代にかけて書かれた古書の中に見えますが、江戸時代になると宿場の名となり、明治22年に市制町村制が施行されると町名になりました。そして昭和7年に東京市が拡大して板橋区が誕生した時も板橋の名称が採用されました。・・・」

 

数年前に、私は石神井川沿いにサイクリングをした記憶がありますが、この橋は大変印象的でした。是非、この宿場町も散策してみたいと願っていました。

和宮降下の際もこの橋を渡られたのでしょう。

 

さて、和宮降下というと忘れてならないのが、縁切榎です。
今は3代目だとかであまり大きな木ではありませんが、いわれは有名です。

 

板橋区教育委員会の立て看板を引用すると

「・・・板橋宿中宿の名主であった飯田侃家の古文書によると、文久元年(1861)の和宮下向の際には、五十宮などの姫君下向の例に倣い、榎を避けるための迂回路が作られています。・・・男女の悪縁を切りたいときや断酒を願うときに、この榎の樹皮を剥ぎとり煎じ、ひそかに飲ませるとその願いが成就するとされ、霊験あらたかな神木として庶民の信仰を集めました。また、近代以降は罹病との縁切りや良縁を結ぶという信仰も広がり、現在も板橋宿の名所として親しまれています。」とさ、

どうりで、この榎の幹には竹で囲まれていました。

 

同じ道を引き返し、途中の「いたばし観光センター」に寄りました。

そこで頂いた中山道全線略図を掲載します。

当時は甲州街道で諏訪湖に出ず、遠く軽井沢を経由していたのですね。

和宮降嫁も大変な道のりでしたね。約25日間の行程とか。


都電荒川線を行く

2013-02-10 | 散策

都電荒川線を行く

 

友人の叙勲記念会に出席のため早稲田リーガロイヤルホテルまで出かけましたが、少し早めに出て、今唯一残っている都電荒川線に乗ってみました。

その全体図は下の通りです。(メトロホーム頁より転載)

 

三ノ輪橋駅から早稲田までの路線です。全長12Kmあまり。約50分で走るようですが、時刻表はあってなきが如くで、乗客の乗降をゆっくり待ってくれるそうです。

いまどき珍しいレトロな電車で、是非続けて営業してもらいたいものです。

 

さて、まず上野駅までJRで、そこから千代田線で2駅北上し、三ノ輪駅で下車しました。
そこから約5分程度歩きました。下の写真が三ノ輪橋駅の入口です。

 

昔は山谷堀へ向かう川に橋が架かっていたのでしょう。今は橋のおかげは見られませんでした。
駅の入口には昔の儘のような商店が並んでおり、確か三ノ輪橋商店街の看板がかかっていました。

 

下の写真が三ノ輪駅のホームです。複線です。

 

 

乗ってみて気付いたのですが、踏切の多いこと多いこと。当たり前でしょうが、そのためもあって急ぐこともなく、のんびり走ります。

そして、各駅での乗降客が多く、多分20人ぐらいは乗り降りしています。そして、その乗客たちが席を譲り合っていました。

常連たちが多いのか、のり口での乗車券のやりとりもスムーズで、まったく停滞しません。

心温まる、今どきの東京では珍しい、人間味のある乗り物です。
バスよりもよりロマンが感じられます。気に入りました。

 

数ある都電の中で、ここだけが残されたのは、路面上を走る区間が短く、ほとんどが専用軌道を走っているからだそうです。早稲田近くの目白通りも、一般自動車道とは別の路面になっていました。

 

そして、大いに驚いたことには,貸切電車があることです。
グループでの小さな旅や遠足などに重宝されているようです。丁度早稲田駅にその車両が止まっていましたので写真に納めました。面白い旅が企画できそうですね。

 

そして、終点に着き、会合のホテルに向かいました。

有意義な一人旅でした。


湘南平と吾妻山へハイキング

2013-02-04 | ハイキング 里山歩き

湘南平と吾妻山へハイキング

 

山の会の人達20人で賑やかにハイキングを楽しみました。

最初は少し雨が降っていましたが、目的地では両方とも雨は上がり、薄日さえさしていました。

ハイキングの行程は次の赤線です。
ハイキングの途中でJR(黒線)を利用したのは初めて。でも、大磯駅から二宮駅まで(5~6Km)歩くのは今の私には大変です。
いい企画でした。

 

先ず、平塚駅から登山口の高来(たかく)神社まで旧国道沿いに歩きました。

途中の花水橋では見事な虹を見ました。花水川にきれいに、くっきりと架かっていました。

 

大磯は東海道第八番目の宿場町で、広重の絵にもなっています。

 

平塚から急に高麗山へ盛り上がっています。大磯丘陵の東端です。

 

先ず、湘南平(180m)へ。ルートは下の図です。

 

高来神社(高麗権現)にお詣りしました。

ここは、江戸時代までは高麗寺に属していましたが、明治初めの神仏分離令で高麗神社となり、さらに明治30 年に高来神社に改称されたそうです。

ここの山神輿祭は、大磯町の無形民俗文化財になっているそうですが、維持継続が大変でしょう。
何しろ、お神輿を山頂(168m)の上宮(大堂)まで担ぎ上げ、下ろすのですから。

 

そこに『高麗と若光(じゃっこう)』というこの山の由来をわかりやすく示した標識がありましたので引用します。

「昔から日本と朝鮮の文化交流は深く、相模国をはじめ東国七州(すなわち関八州=関東地方)の高麗人を武蔵国に移して高麗郡(日高市)をおいたと「続日本記」には書かれています。
奈良時代のころ高句麗は唐・新羅に滅ぼされ、日本に難を逃れた人も多くその中に高句麗王族のひとり高麗若光もいました。若光は一族をつれて海を渡り大磯に上陸、日本に帰化してこの山のふもとの化粧坂辺りに住み、この地に高度な文化をもたらしました。(なぜかアンダーラインの部分が消されていました。)
高麗若光と高句麗の人たちが住んでいたことから、この地が高麗と呼ばれるようになりました。
環境省・神奈川県」

 

そして、千畳敷に達しました。大変広く、見晴らしのいい所です。
この頃には雨もすっかり上がっていました。ここで、湘南海岸を見ながら昼食をとりました。

 

ここで驚いたことには、ハイキングで登った山頂に、作業用のトラックがたくさん駐車していたことと、平塚市から大磯町に入って登ったのに頂上が平塚市になっていたことです。

あとで地図で確かめたら、大磯丘陵の南斜面だけが大磯町で、北側は平塚市なのですね。

 

そうして、がやがや大磯駅へ下って行きました。途中あちこちににスイセンが咲いていました。

 

駅についてタイミングよく電車が入り、二宮までの一駅を移動しました。

 

そこから、吾妻山ハイクです。

 

駅のすぐ北で、お墓参りの際、駅のホームからいつも眺めてはいましたが、登るのは初めてです。

標高136mあるだけに、登るのは結構大変でした。

先ず、300段の石段。作るのも大変だったでしょうが、登るのも大変です。
多分、幼稚園の子供たちもハイキングによく来るのでしょう。

ここにもスイセンがたくさんに咲いていました。

そして、頂上の展望台からの景色は絶景でした。
南側は江の島から真鶴半島まで、湘南の海が丸見えです。
北側は、我が家の墓地のあたりから富士見カントリーのゴルフ場まで、そして新幹線も走っていました。
実にいい景色で、写真に収めるのを忘れました。

展望台の真下には菜の花が咲きそろっていました。

そこだけ写真に収めていました。

 

右の写真の大きな木はエノキです。いい環境で育っています。

 

その後、藤沢で全員一杯やって、小田急で帰途につきました。

いい一日でした。幹事さんありがとう。ご苦労様でした。


日光街道・千住宿を散歩

2013-02-03 | 散策

日光街道・千住宿を散歩

五街道の一つ、日光街道の初宿・千住宿を覘いてみました。水戸街道はここから分技しています。
 

散歩したコースは次の図の赤線です。往復約4Km。

先ず、北千住駅から北へ荒川土手まで行き、そこから旧日光街道を南へ歩くことにしました。

その街道の途中に、『千住の街並みの景観を考える会』が高札場由来を掲示していましたので引用します。
 「私たちの街 千住が宿場となって栄えたのは慶長二年(1597)人馬引継ぎ駅として以来だといわれています。
江戸時代の足立は千住宿を中心に始まったといっても過言ではありません。特に寛永二年(1625)東照宮建立によって日光道中初駅として、また江戸四宿の一つとして繁栄し約四百年を経て今日に至っております。
このような高札場は明治の初期まで宿場の掟(おきて)などを掲示して、人々に周知してもらうため、千住宿の入口、出口のところに設置していました。・・・」とありました。


北の突き当りに荒川の堤防があります。
ここは、大正から昭和の初めにかけ開削された荒川放水路の堤防ですが、以前とは景観が全く変わってしまっています。

さて、そこから本日の千住宿場町の散策を始めました。

先ず、南へ下ったところに、いかにも時代がかった接骨院(名倉医院)がありました。

そしてそのちょっと南に、日光街道の分岐点、そしてその先に水戸街道の分岐点がありました。
どちらも、今日でいうところの小路です。道幅は5間とか。それが正確に守り継がれているそうです。

街並みは今も繁盛していて人通りは多くにぎやかです。
町は千住大橋の北側を北組(千住一~五丁目)・中組(掃部宿)の二つに分け、橋南に南組(小塚原町・中村町)の三つにわかれていました。その中でも千住三丁目の「千住宿本陣跡」は、大名や幕府役人、日光を往復する門跡などが宿泊した施設跡だそうです。

 

その入口に、当時の面影を残した屋敷がありました。
一軒は、江戸中期から代々、絵馬や行灯、凧を描いてきた際物問屋の絵馬屋・吉田家で、もう一軒は江戸時代から続いた紙問屋「『松屋』の横山家です。

横山家住宅の説明板によると
 「宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝える商家である。伝馬屋敷は、街道に面して間口が広く、奥行きが深い。戸口は、一段下げて作るのが特徴である。それは、お客様をお迎えする心がけの現れという。
敷地は、間口が十三間、奥行きが五十六間で鰻の寝床のように長い。
横山家は屋号を『松屋』といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く地漉紙問屋を営んでいた。・・・」(足立区教育委員会)

また、千住絵馬屋・吉田家の説明板によると
 「吉田家は、江戸中期より代々絵馬をはじめ地口行燈や凧などを描いてきた際物問屋である。手書きで描く絵馬屋は都内にほとんど見掛けなくなって、希少な存在となった。
当代の絵馬師は八代目で、先代からの独特の絵柄とその手法を踏襲し、江戸時代からの伝統、を守り続けている。縁どりした経木に、胡粉と美しい色どりの泥絵の具で描く小絵馬が千住絵馬である。・・・」(足立区教育委員会)

そして、町中央部の勝専寺に寄りました。何故か赤門です。

 
勝専寺 の説明板には、

「『赤門寺』という通称で親しまれている浄土宗寺院で京都知恩院を本山とする。・・・江戸時代に日光道中が整備されると、ここに徳川家の御殿が造営され、徳川秀忠・家光・家綱らの利用があった。また日光門主等の本陣御用を勤めた記録も見られ、千住宿の拠点の一つであったことが知られる。…」(足立区教育委員会)

また、勝專寺の寺伝によると、荒川で千手観音像が拾われたことから、この地を千手→千住(せんじゅ)と名づけたそうです。

 

当時、千住宿は江戸に物資を運び込むための中継地点としてにぎわっており、野菜市場や米穀問屋街が形成され、そのためかいわゆる「岡場所」が船頭たちでにぎわっていたそうです。ある解説によると、明治の初め頃で、千住宿の売娼妓数374人、買客数43,000人との記録があり、いずれも内藤新宿、板橋宿を上回っていたそうです。

さらに宿場の外れには小塚原刑場が設置され、近くには回向院があり刑死した人の埋葬と供養をしていたそうです。
今日は少々疲れていたため、南組の散策はやめにしました。

古い地図には、元・梟示場(きょうじじょう)として、その場所が示されています。小塚原刑場です。
ついでに述べると、荒川の北には東京拘置所があります。この辺はこうした刑場に縁が深いようです。

そして、中組を散策していると、昔の青物市場の名残を残した『やっちゃ場』が続いていました。これは、“せり”のときの掛け声が由来といわれています。そこかしこから元気のいいせり売りの声が聞こえたようです。

そのころの写真が貼られていたので掲載します。

 

そして、今日は少々疲れましたので、千住大橋は渡らず、すなわち南組は次の楽しみにして、帰途につきました。