地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

三浦半島・荒磯シーサイドコースを歩いて

2015-10-28 | ハイキング 里山歩き

三浦半島・荒磯シーサイドコースを歩いて


この荒磯シーサイドコースは、関東ふれあいの道の一部です。


以前、私も この先の久里浜のコースを企画しましたが、
下見だけで取りやめました。
 
潮の干満や、足元が磯浜のため、山道とはあまりにも違うためです。

でも、この度の幹事は、未だ若々しい女性ですが、十分に下見を重ね、われわれを楽しませてくれました。

歩いたコースは下図の赤破線です。

 (横須賀市観光企画課パンフより。以下の引用同じ)

「潮が満ちている時は、通れない場合があります。迂回路を通りましょう。」
と、ありましたが、

潮の具合も良く、それに雲ひとつない晴天のため、 全部浜伝いに歩きました。

お蔭で、途中2,3か所、怖ろしい目に遭いましたが、・・・

 

先ず、熊野神社前のバス停で降り、富士の見える素晴らしい景色に出会いました。

 

天気も良く、眼の前に広がる太平洋と、霞んで見える雄大な富士山を楽しみました。

そして、ニギニギ、ガヤガヤと荒磯公園に向かいました。

 (どんどんびき)

「荒崎は切り立った荒々しいリアス式海岸が続く景勝地で、
三浦半島屈指の景観を楽しむことができます。・・・
波の浸食作用によって作られた『十文字洞 』、
狭い入江に打ち寄せた波がどんどん引いて行く様から名付けられたという『どんどんびき』など、
波が作り出した素晴らしい造形を見ることができます。・・・」

どんどんびきの対岸の景観はすごい。
ところが、我々のメンバーが一部そこに立っていました。
どこから降りたのやら?

長浜海岸へ出るまでは、こうした岩場の連続でした。

下は荒磯コースの入口です。

途中で、幹事さん推薦の生しらすの『沖漬け』を買いました。
これを肴に、今夜から暫らく酒が楽しめそう。

後は、恒例の飲み会!

楽しい一日でした。幹事さんありがとう。 

 

 


六本木界隈を歩く

2015-10-21 | 散策

六本木界隈を歩く

いい天気なので、割合解ってない六本木界隈を歩いてみました。

ルートは地図の赤線です。

氷川神社から赤坂中、小学校の方、赤坂道へ出る積りでしたが、氷川神社のところで間違えたらしく、赤坂二丁目のもと来た道・六本木通りの方へ出てしまいました。
また来て確かめてみましょう。

カメラを持参しなかったので、撮影できませんでしたが、
高速の谷町JCT近くには、ばかでかいビルの建設ラッシュでした。
40階建位のビルが2,3棟、年内完成を目指して工事中でした。

これじゃ、田舎の若いもんは都会を目指して出てくるわけですよね。
わが町(広島の片田舎)など、過疎化するわけですよ。

しかも、近くに静かな、そして広い氷川神社が聳えていました。


今日は、青山一丁目まで地下鉄で、そして帰りは赤坂見附から地下鉄で行き来しました。

それでも、歩いた距離は10Kmくらいでしょうか。結構迷いながら歩きました。

途中の乃木邸は工事中でした。

何時か、あまりにも手入れされてないのを嘆い
たブログが効いたのかな~と、

自画自賛しましたが・・・

二百三高地の戦いで、賛否はいろいろありますが、息子さんまで亡くして戦った人です。 
そして、夫婦ともに、明治天皇の後を追った人です。
粗末に扱ってはいけませんね。


今日は、この辺で・・・

次には必ずカメラを持参します。




 

 


「終わらざる夏」より (つづき)

2015-10-16 | 読書

「終わらざる夏」より (つづき)

 

北千島の占守島は千島列島の最北東端で、面積は230㎢(小豆島の1.5倍)、

海抜200mくらいの緩やかな、丘陵や沼や草原のひろがる島です。

 

オホーツク海と太平洋に囲まれ、気温は夏でも15°Cくらい。
濃霧が濃く、視界が開けない日が多いそうです。
また、冬はマイナス15°Cの極寒で、かつ吹雪の日が多い。

カムチャッカ半島の南端、ロパトカ岬とは12kmしか離れていない島です。

この島での玉音放送の様子は、

「正午ちょうどに、『君が代』が流れ始めた。
音曲はきれぎれで、どうかすると何秒も雑音に紛れた。
人々は直立不動のまま、だれも生まれて初めて聴く玉音を待った。

  『朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑みーー』

 そこまでははっきり聞こえた。・・・
全身を耳に変えた。
玉音は雑音に冒され、まるで荒波に見え隠れする小舟のように、消えたり現われたりした。

 『帝国の自存と東亜の安定・・・戦局は必ずしも好天せず・・・

残虐なる爆弾を使用してしきりに無辜を殺傷し・・・
皇祖皇宗の心霊に謝せんや・・・始終東亜の開放に協力せる諸盟邦に対し・・・

堪えがたきをーー堪え、忍びがたきを忍び・・』」

 

 『堪えがたきを』の後の「ーー」は、1,2秒の空白を示します。こみ上げるものがあったのでしょうか。

 

 続いて鈴木貫太郎首相による説明があり、
「これもまた雑音に紛れてよく聞こえなかったが、
まるで企まかれたように、『無条件降伏』という言葉だけは人々の耳にはっきりと届いた。
それですべては明らかになった。」

とありました。

そして、ここ北千島では、

「その日、占守島に正しく玉音放送が流れることは無かった。
ラジオ受信機は長崎港(占守島の)海軍根拠地隊と、日ロ漁業の工場と、
四嶺山山頂の電探を使った独立歩兵大隊の装備品があるきりで、
それらにしてもほとんど聞き取れぬ感度だった。

・・・高貴な抑揚がときおり雑音のすきまに確かめられるだけで十分だった。
本土決戦に向けて、陛下が全国民を激励なさっているのだと、将兵は皆信じ切っていた。・・・」

 

しかし、遅くとも八月十五日のうちには、全将兵が終戦を知った
「多年にわたる常時即応の気構えが直ちに挫けるはずもなく、
翌十六日にはいつに変わらぬ訓練や作業が行われた。
そしてその惰性の一日で将兵らは、
それぞれの常の日課がすでに無意味であると知り、終戦を受容した。」

 

 「傍受することのできた電文の中に・・・

 『十八日一六〇〇ヲ以テ師団ハ一切ノ戦闘行動ヲ停止ス可シ。

但シ、止ムヲ得ザル自衛行動ノ為ノ戦闘ハ之ヲ妨ゲズ』、 

 一見したところ正当な判断だが、・・・」

 この『但シ、止ムヲ得ザル自衛行動ノ為ノ戦闘ハ之ヲ妨ゲズ』、が多大な災いを生じた。

 その一つが、占守島の戦いです。
ネットによると、

「太平洋戦争終戦後の1945年(昭和20年)8月18日 ~21日に、

千島列島東端の占守島で行われたソ連労農赤軍と大日本帝国陸軍との間の戦闘である。

ポツダム宣言受諾により太平洋戦争が停戦した後の8月18日未明、
日ソ中立条約を一方的に破棄(8月9日)したソ連軍が占守島に奇襲攻撃、
ポツダム宣言受諾に従い武装解除中であった日本軍守備隊と戦闘となった。

戦闘は日本軍優勢に推移するものの
軍命により21日に日本軍が降伏し停戦が成立、23日に日本軍は武装解除された。

捕虜となった日本兵はその後大勢が法的根拠無く拉致され、シベリアへ抑留された。」

 

この戦いのなかで、400人の女子挺身隊員の本土への送還問題がありました。
ソ連軍が上陸してからでは、無残の状態は見えていた。

しかし、まともな船は無く、かつオホーツク海側は霧が晴れていて危ない。

止むを得ず、霧で視界の見えない太平洋側を、小さな漁船に分乗して漕ぎだし、

無事、根室に上陸しえたことです。 

「飢えと寒さの中で、その捕虜がばたばたと死んでゆくこの有様が、
国際法で禁じられている虐待でなかろうはずがない。
ましてや終戦まぎわの八月八日に、不可侵条約を一方的に破棄して宣戦布告をした国の、
正当な権利であるとは思えない。
それでも、理不尽な終戦後の戦争を勇敢に戦った兵士たちは、
この仕打ちさえ無条件降伏の内だと信じて、
飢えも寒さも、その結果としての知れ切った死すらも潔く受容していた。」

そして、
「四百人の女子工員を乗せた船団が、一隻も欠けることなく根室に到着したという無線を傍受したとき、・・・
時ならぬ万歳の大歓声が上ったそうだ。」

 


「終わらざる夏」より

2015-10-13 | 読書

「終わらざる夏」より


浅田次郎さんの本です。
まだ、半分程度しか読んでいません。私には難解な本です。

太平洋戦争の終戦前後を題材にしています。
主として、千島列島最北端の物語です。

所々、抜書きしました。

例えば、
「千島列島は北海道の東端から、ソ連領カムチャッカ半島に向かってほぼ真直ぐに伸びる火山列島の総称である。

しかしこの直線状から南に外れる色丹島と歯舞諸島は、地質上も地形上も正しくは千島列島に含まれず、
北海道花咲半島の延長なのだが、主として国防上の便宜からこれらも『南千島』と呼ばれる場合が多い。

正確に言うのなら、
千島列島南部の択捉島と国後島に色丹島と歯舞諸島を加えた部分を便宜的に『南千島』と称し、
得撫(ウルップ)島から雷公計(ライコケ)島までを『中千島』、
捨子古丹((ステコタン)島以北の最東端占守(シュムシュ)島と最北端阿頼度(アライト)島までを『北千島』に区分する。」

 この記述によって、地図を区分してみました。

つぎに、

「戦車第十一連隊が満州から北千島に移駐したのは、昨十九年の二月であった。

つまりその時点では、
アリュウシャン列島を基地とする米軍が日本本土に指向するにあたって、
まず、北千島を攻略するのではないかと考えていた・・・

通称『先』(せん)兵団。
二個旅団の指揮下に十二個の独立歩兵大隊を擁し、
無傷の戦車連隊まで含むその総兵力は二万を超える。
その多くはかって満州にあって世界最強を自負した、関東軍の精兵であった。」

満州から日本の精兵・関東軍を
米軍からの攻撃に備えて、千島列島北端に供えたようです。

事実は、日ソ中立条約は破棄され、且つ、米軍は南から沖縄、九州を襲い、
北千島の精兵は、 輸送手段もなく、孤立無援の状態になってしまったようです。

「ソ連は中立条約を一方的に破棄して、わが国に対し宣戦を布告しました。
満ソ国境を突破した敵は、少なくとも歩兵八十個師団、
すこぶる優勢な航空兵力と多数の機甲部隊を伴います。」

これから、下巻に移ります。
多分、終戦からしばらく、ソ連からの進入に悩まされることでしょう。 

早く読み終えて、もっと明るい本に移りたいです。・


葛飾 柴又の帝釈天にお参りする

2015-10-07 | 散策

葛飾 柴又の帝釈天にお参りする

以前、中川放水路散策のとき、京成線の青砥駅近くでバテてしまい、帝釈天へはお参り出来なかったので、
今日こそはと、急に思い立って出かけました。

歩いたコースは下の赤線です。

次は、帝釈天付近のイラストマップ図です。

よくできたイラストマップです。八幡神社あたりに掲示してありました。


また、街角で配布されている地図も、よくできていました。
下がその一部です。

『寅さん』ブームでPRが効いているためか、
参拝者も多いし、案内図も良くできていました。


さて、金町駅から電車沿いに歩いて、まずは、柴又八幡社にお詣りしました。

  

厄病除けの神様で、大事にしないと祟りがあるとか、
今も、よく整備されています。

それから、柴又j帝釈天の方に行きました。
しょっちゅうテレビで見ている街並です。

    

サクラちゃんによく似たお姉さんはいないかなと、きょろきょろして見ましたが
、無駄でした?

腹も減ってきたし、一番小さい団子を 一つ買いました。
これで、ビールなしで、次の寺の境内のどこかで食べましょう。

何時も観る社殿が近づいてきました。

しかし、中は想像以上に広く、立派でした。
簡単に、どこかに腰かけて団子を頬張るわけにはいかないようです。

    

境内の全容はつぎの案内図のようです。

でも、比較的人の少ない処で、団子を4つだけ頬張りました。
腹が減ってたし、結構おいしく頂きました。

近くから、竹箒をもった“笠 智衆” さんが現われそうでしたが・・・

境内を奥に入ると、有料の 庭園がありました。私は外から、よーく眺めさせていただきました。

  


一回り済ませて、わき道から“矢切りの渡し”跡の見える、江戸川の土手に出ました。

  

以前、サイクリング大会でこの辺りを走ったことがあります。
広々とした河川敷です。 

 演歌にもなっている“矢切の渡し”は、現在も人を載せてるようですね。
知らないものですから、駐車場の方を一回りして帰りました。

ネットによると 

「江戸時代初期から続く、柴又と対岸の千葉県を結ぶ渡し船。
都内に唯一残る貴重な渡し場。
小説や歌謡曲にも登場し、現在は片道200円で乗船することができる。」

とありました。
残念! また来るね。


 


 


景信山ハイキングへ参加

2015-10-04 | 読書

景信山ハイキングへ参加

今回の景信山行きで私の山行きは終わりにします。

と申しますのは、
体力の限界というか、体のバランスが大変悪いように感じたからです。

今回はたいした迷惑(?)はかけなかったようですが、続ければ、必ずご迷惑をかけるでしょう。 
それに、大変 “ し~んどい” です。

今回のコースは下の図の赤線です。

女性3人、男性3人の6人です。
私以外は皆、元気です。

以前は、このコース、“お茶の子さいさい” でしたが、歳ですかね~。

台風まじりの予報をおして、時間をずらして行きました。
おかげ様で、いいお天気でした。

高尾駅から小仏行きバスで、途中、大下バス停下車、小下沢沿いの林道を歩きました。

大下バス停は“オオシモ” といい、小下沢は“コゲサワ”と発音するのだそうです。
いわれは解りませんが、どちらかに揃えたらよさそうに。

それから、バスの中で、小仏峠で茶店を営んでいるという“おばあさん”と 、隣り合わせました。
一見、年寄りに見えましたが、小仏バス停近くの自分のお家から小仏峠まで
毎日往復しているそうです。
確か片道4Km余はあると思いますが、元気なもんですね。恐れ入りました。

さて、下小沢沿いの林道を早足で歩き、登山道分岐の木橋の所で昼食休み。
キャンプ場らしいところです。

一休みした後、登山道に入りました。


ここから、“歳” を感じ始めました。何回か休憩しながら歩きましたが、
私には限界でした。
腰に力が入らないし、眼はぼんやりしか見えないし・・・

漸くの事で頂上(727m)に着きましたが、
下りは小仏峠に寄らず、わき道を小仏バス停まで降りました。

お世話様になりました。
これで、私の山らしい登りは止めです。あとは里山歩きが限度です。
THE  END 

しかし、これからもウオーキングは頑張りますよ!

 

 

 

 


NTT Docomo 周辺の散歩

2015-10-01 | 散策

NTT Docomo 周辺の散歩


新宿駅周辺を歩いていて、いつも気になっていた建物がありました。

この建物です。
 

今日はその探検をします。

地図やネットで調べたら、なんとNTT Docomo ビルでした。

出来てから15年もたつそうです。(完成は2000年9月)
その間、疑問のまま過ごしたことになります。

歩いたコースは赤線です。

ネットで調べると

「ニューヨークの摩天楼を思わせるデザインが特徴である。
このデザインにより
周辺のビルより目立ち、高速道路を走る車の中からや曇っているときでも見える。

東京都のビルの中では
ミッドタウンタワー、虎の門ヒルズ、東京都庁第一庁舎に次いで4番目の高さ(150m)を誇る。

一般の商業ビルと異なりNTTドコモの自社業務用のビルであり、
関係者以外の立ち入りはできない。(私も守衛さんに入室を止められました)

建物内部は携帯電話用の通信機器が設置された機械室(16階~最上階27階まで)と
代理店向けのコールセンターが入居する事務室(15階まで)が存在する。

NTTドコモの本社は千代田区の山王パークタワーにあり、
(この)代々木ビルは本社ビルではない。」そうです。

 

緑道から西参道口で、十二社通りを右折し、途中から代々木駅の方へ左折しました。

次が、代々木駅前から撮影したDocomo ビルです。

そして、JRのガードをくぐると、すぐ目の前に、ばかでかいビルが建っていました。

地上27階のビルです。
そして、そのすぐ先に、紀伊国屋書店、そして高島屋がならんでいます。

“なーんだ、紀伊国屋書店を過ぎた所にあったのか。”


私はもっと先にあるのかと思っていました。

それにしては、新宿駅と代々木駅はこんなに近かったのかと、驚きました
東京は、乗り物に乗らず、歩いてみるものですね。

最後に、高島屋前の陸橋から、NTT Docomo を撮影しておきました。