地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

代々木公園をジョギングして

2010-11-29 | 日記
代々木公園のジョギングを楽しむ

週に一度は代々木公園をジョギングします。

思うに、国内で一、二を競う、ジョギングに適した公園ではないかと思います。

外回り一周で多分2km以上あるのでは。それを我々は3周します。
行き帰りの前後の距離をあわせ、多分10km以上にはなるでしょう。
いい朝の体操です。
         


今日は、一緒に掲載できませんが、近い内に区立歴史資料館にあった、ワシントンハイツの地図と並べて掲載します。
戦後、日本人の立ち入れなかった治外法権の地域です。

住まいから公園までの途中に代々木八幡があります。


けや木や樫の巨木に覆われた森の姿で残っています。
域内には縄文時代の住居跡も復元されており、しばしタイムスリップして眺めます。

なんと、ここは、「かわせみ」で有名な女流作家・平岩弓枝さんの生地だそうです。
未だお会いしたことはありませんが・・・

さて、紅葉の秋。実に素晴らしい紅葉・黄葉の中を、落ち葉を踏みしめながら、ゆっくりジョギングを楽しみます。







噴水も、そしてカラスも彩を添えてくれます。


公園の片隅には「十四烈士之碑」が建っています。


米軍によりなかなか許可が下りなかったそうですが、いろいろな制約の上で漸くできたものだそうです。


一途な気持ちのなせるわざでしょう。

今日のような情報過多の世では、なかなかこうは腹が決まらないでしょうが・・・?


春江一也著の「カリナン」を読んで

2010-11-23 | 日記
春江一也著の「カリナン」を読んで

「プラハの春」「ベルリンの秋」に加えて、氏の代表作の一つです。

外交官の経験に基づく作品で、登城人物は架空名でしょうが、その内容は事実に即したもののようで、迫力があります。

「プラハの春」「ベルリンの秋」共に、近い内に再読してみるつもりです。

さて、「戦争の世紀といわれた20世紀」とありましたが、20世紀前半には
日清戦争:1893(明治26年)
日露戦争:1904(明治37年)
第一次世界大戦:1914~1918(大正3年~7年)
日中戦争:1937~(昭和12年~)
第二次世界大戦:1941~1945(昭和16年~昭和20年)
と、戦争を続けてきました。

世界に伍して行こうとする日本に対し、先進国といわれていた世界列強は日本の台頭を押さえようとしました。そして、紛争がおきます。

それら国際紛争を武力で解決しようとしたのが、軍部であり、この半世紀の日本の姿でしょう。

そうして見ますと、今の国際紛争も、台頭しようともがく後進国と、今の優位性を維持しようとする自分勝手な先進国との間の争い、そこに軍部がどうかかわるかが、今後の世界情勢ではないでしょうか。
戦争の火種は一杯あるといっていいでしょう。

さて、この「カリナン」では、次のような情報が行き来していたようです。
何処から誰が打電していたのか、甲とは・・・? 読みもらしたようですが、・・・

事実とすれば、アメリカは故意に、政治的に、日本を戦争に誘導したと言われてもおかしくないように感じますが・・・

また、このような重大な交渉の拠点が、このヒリッピンのミンダナオ島にあったとは・・・?

昭和16年5月9日 身辺ニ憲兵ノ監視ヲ感ズ
     5月10日 ・・・邦人ノ間ニ、日米開戦近シノ噂流布
     6月23日 緊急情報アリ。独、ソ連ヲ攻撃ス。
          日独伊三国軍事同盟ノ破綻ナリ。
     7月8日 甲ヨリ秘密情報アリ。
         去ル、七月二日、御前会議ニテ米英トノ決戦辞サズト裁可。
         山本ハ何ヲシテイル。
      (中 略)
     9月8日 秘密通信アリ。
         御前会議ニテ再度,米英蘭トノ開戦ヲ確認。
         鹿児島錦江湾ニテ、ゼロ戦猛訓練トノ情報アリ。
         余、米ニ奇襲攻撃ヲ警告。
         目標ハ、ハワイト確信ス。
     (後 略)
    10月18日 東条英機、内閣総理大臣トシテ組閣。
         最悪ナリ。
         東条,憂国ノ人ニアラズ。官僚ナリ。小役人ナリ。
    11月7日 秘密通信アリ。
         ハル国務長官ト野村大使ノ会談不調。東条ハ開戦ヲ決意カ。
     (中 略)
    11月20日 最後ノ日米交渉不調、開戦ハ時間ノ問題ナリ。
    11月24日 緊急秘密通信アリ。
         日本海軍機動部隊エトロフ島ヲ既ニ発進。
         余ノ情報ヲ評価スト。
    
    12月2日 重ねネテ緊急秘密通信。
         御前会議ニテ米英蘭トノ開戦決定ト。最悪ノ事態ナリ。
    12月8日 緊急無電アリ。
         日本海軍機動部隊、パールハーバーヲ奇襲攻撃ト。
     (中 略)
    12月14日 奇ナル情報アリ。
        パールハーバー奇襲ハ宣戦布告ナシニ敢行サレタリト。
        余,信ジガタシ。武士道ニアラザルコトナリ。
        山本血迷ウカ。
    12月15日 特殊情報アリ。
        ハル激怒セリ、日本人ハ卑劣ナリト。
        華府ノ大日本帝国大使館怠慢ニヨリ、パールハーバー攻撃以前ニ
        宣戦布告ヲ伝達セズ。騙シウチナリト。
        外務官僚、日本国ニ歴史的汚名ヲ被セタリ。
     (後 略)


    
(ミンダナオ島東南部 ダバオ市からミンタルまで約10km? 上記引用文およびこの背景地図は集英社インターナショナル発行の本書より転載しました。)

そして、戦後のフィリッピンには、ストリート・チルドレンたちが、うようよしていたとか。

私も、友人に薦められて、こうした記録映画を見たことがあります。
日本の終戦直後の上野や新宿界隈の姿の継続です。

渋谷区主催の歴史文学めぐりに参加して

2010-11-20 | 日記
渋谷区主催の「歴史文学めぐり」に参加する

今回は「塙保己一(はなわほきいち)史料館とその周辺の史跡をたずねる」
というテーマで、約3時間の散歩講座でした。

ルートは次の図の通りです。


史料館だけの案内では退屈すると思われたのか、
①~⑨までの史跡めぐりをしながらの案内で、眠くならずに話しが聞け、疑問を感じたら直ぐ聞けて、大変良かったです。

順を追って、記憶に残っている要点を書き記すと、

②澁谷橋:
恵比寿駅前にあるのに、何故「澁谷橋」? 
 
もともと渋谷の中心街は恵比寿だったそうで、その名残とか。

明治時代は、黒塗りの鋳鉄棒の欄干を持った「澁谷川随一の橋」といわれていたそうですが、多分木造の簡単な橋はほかにも多くあったのでしょう・・・

③庚申橋供養塔:
澁谷橋から昔からのやや曲がった路地を歩いて庚申橋へ

澁谷川の流れを利用した水車が、この辺にはたくさんあり、大正6年(1917)まで続いていたそうです。(♪ 春の小川は さらさら 行くよ~♪)

④澁谷山福昌寺:
「シブヤヤマ・・・」と読むのかと思ったら「ジュウタニサン・・・」と音読みにするんだそうです。


ここには、わが国でも珍しい石棺仏がありました。


古墳時代(6世紀頃)に造られた石棺を転用し、蓋の内側へ仏像が彫られたものです。

鎌倉時代から室町時代のものだとか・・・

和歌山県にあったものを当寺に寄進されたとか

  
⑤室泉寺:シッセンジと読むそうです。

⑥南郭坂:ナンカクザカ
江戸時代の儒者 服部南郭先生が住んでおられた屋敷そばの坂道だそうです。

⑦塙 保己一史料館(温故学会):
        

温故学会には 「群書類従」などの版木17,244枚が保管されています。




関東大震災にも、空襲にも耐え、温度や湿度に注意を払って保管を続けられています。
火災を恐れ、電気も引かれておらず、窓からの光も最小限に抑えられているそうです。

入口には塙保己一さんの鉄の像が安置されていました。
      

塙 保己一(はなわ ほきいち・1746~1821)
幼くして失明しましたが、学問に励み、江戸時代の盲目の国学者であり、また検校でもありました。

彼は、古書の散逸を心配し、41年もの年月を掛け、江戸時代までに記録されていた史書や文学作品などを集輯し、それを版木にとどめました。

その主たるものが「群書類従」(1000巻670冊)です。

しかし、それにしても目の見えない人が、高名な先生について学んだとはいえ、わが国の貴重な資料を記憶し、まとめ、書き記した事業たるや、驚嘆です。
勿論、手助け人たちは沢山おられたでしょうが、問題は目の見えなかったかれの記憶力です。
私にそんな記憶力が備わっていたら・・・

さてさて、彼のような事業をやる人が居なかったら、今日の史書や、昔物語はどうなっていたでしょうか・・・?

私達の親しんできた竹取物語もその一つです。
              

書き直すと
「今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに 使ひけり。名をば、さぬきの造となむいひける。その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。怪しがりて、寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。翁、言ふやう・・・」

それから、
⑦氷川神社、⑧吸江寺とめぐり、

最後に⑨渋谷区立歴史資料館にたどり着きました。

各々、ゆっくり見学させていただきました。

区立歴史史料館へは、一日がかりで、ゆっくり観たいですね。



我が妻の墓へジョギング参り

2010-11-17 | 日記
我が妻の墓へジョギング参り

命日前に、ジョギングで墓掃除に行ってきました。

昭和58年(1983)11月15日、45歳の若さで、3人の子供を残し永眠しました。
想い返すたび、可愛そうで、可愛そうで・・・

いつもジョギングで墓参りしています。
二宮駅から約4Kmの道のりです。
墓は山の上にありますので、行きは上り坂、帰りは急な下り坂。
経路断面図を作ってみました。



以前は東海道を隣の大磯駅まで走っていました。
また、時には小田急の秦野駅から二宮駅まで走って墓参りしていました。
これも、ささやかな罪滅ぼしのつもりです。

この度は、うす曇であまり周囲の景色は望めませんでしたが、
よく晴れた日は、雄大な富士と、青々とした相模湾が望めます。
今日はみかん畑のみを パチリ!


私も76歳。


もうボツボツお迎えが来るでしょう。

それまでに、ファミリー皆で入れるよう、墓碑銘を「極楽」とか「浄土」とかに変えようと思っています。
我が家は、女ばかりですから。子供3人女、孫3人女。男ナシ・・・

さ~! あと、25年ぐらい、げんきに東京中を走るぞ~!!




鹿留山~杓子山への登山

2010-11-15 | 日記
鹿留山(シシドメヤマ)~杓子山への登山

うす曇でしたが、風も無く、15,6度でうららかな、いい天気でした。
今日登る杓子山(1598m)は山梨百名山の一つで、
特に雪を頂いた富士山の眺めのいい山として有名です。

下に、経路断面図を示します。
      

紅葉が始まっていて、立ノ塚(タチンヅカ)峠まではなだらかなハイキングコース、おしゃべりしながら楽な山登りを楽しみました。

しかし、そこからしばらくして、急な勾配の岩場に差し掛かり、それが延々と続いて、一寸参りました。
       



ある人は、「これで、技術度・健脚度共に①とは? リーダーに騙されたな~」と、ぼやいていました。
私も同感でした。
多分、女性メンバーの多数参加を試みたのでしょうか?
今日は11人の内、女性は2人でした。

さて、急坂をクリアーして、やっと今日の最高地点子ノ神(1640m)にたどり着きました。
そして、そこから鹿留山(シシドメ山・1632m)に立寄りました。
下の写真はその頂上の姿です。


時間も丁度12:00でしたので20分間の休憩・昼食。

そこから、アップダウン連続で杓子山(1598m)に登りました。
展望のいい山で、特に富士山の眺めは絶品でした。

今回は、カシミールで観る展望図と実写を較べてみました。
まず、カシミールの方角図


南西の方角にカシミールで観る冬の富士山の姿です。


そして、下は富士山の実物写真です。



次は、東に望める秋の御正体山のカシミール像です。
全山、紅葉に彩られています。


実際の写真は、木に邪魔されてはっきりはしませんでしたが、



最後に、冬の三ツ峠山のカシミール像



実態写真は木々に隠されて良く見えませんでした。


まだまだ、カシミールの操作は未熟ですが、設定をいろいろ変えて楽しむことが出来ます。
ま~、ボツボツに! 急いてはことを仕損じる! か~

杓子山からは不動の湯へ向けて急ぎ足でくだり、
そして、湯船に体を休め、その後は一杯を楽しみました。

ところで、お世話になっている富士急の「富士吉田」駅は、来年7月に駅名を「富士山」駅に変えるそうです。
一寸淋しい感じです。

今日が「富士吉田駅」名の見納めではと思いパチリ!

鎌倉・源氏山ハイク

2010-11-08 | 日記
鎌倉の源氏山ハイキングに行ってきました。

総勢9人(内、女性3人)
8:44 新宿発、9:38北鎌倉着。
まず、下の地図に従って、直ぐ横の円覚寺から。


②、円覚寺:


臨済宗の寺で「瑞鹿山大円覚興聖禅寺」(ずいろくさんだいえんかくこうしょうぜんじ)です。

蒙古襲来の文永・弘安の役で両軍の死者・菩提を弔う目的で、時の執権・北条時宗が創建しました。
中にある座禅道場「居士林」では夏目漱石や西田幾多郎も座禅した由。

少しおくに、次のような額がありました。

“すべてとどまるとき くさる
このおそろしきことを 知ろう
つねに前進 つねに一歩”

今は花の少ない季節ですが、それでも奥の院の庭の眺めは魅力的でした。
下の写真がその一部です。


出口横の小高い岡の上には鐘楼「洪鐘」(おおがね)があり、ここへ通じる石段は140段の急坂でした。
展望もよく、ここで甘酒を一杯。

③東慶寺 : かけこみ寺、縁切り寺ともいいます。
明冶35年に至るまで男子禁制の尼寺で、不憫な女性が救済されていたそうです。
江戸時代、夫と別れたい女性が、この寺で3年間修行し、幕府公認の離婚が成立したとか・・・。
下の写真は、その本道ですが、左右均整の取れた素晴らしく綺麗なお寺です。


またここの裏山には、著名人が多く眠っています。
主な墓石の名前を挙げると、
鈴木大拙、西田幾多郎、岩波茂雄、安倍能成、田村俊子、和辻哲郎、佐々木茂索、太田水穂、高見順、小林秀雄、野上弥生子、・・・


④浄智寺 : 
裏庭のトンネルを抜けると、洞窟に七福神の一である“布袋さま”が祀られていました。
一回りして、横口から葛原が岡ハイキングコースへ出ました。


一応、整備されハイキングコースですが、800m程度の短い山道で、山登りの“モサ”たちには、なんとも物足りないコースだったでしょう。


⑤葛原岡神社:
後醍醐天皇の側近・日野俊基を祀る神社です。
割合に簡素なつくりでした。

日野俊基は鎌倉幕府倒幕の謀議に加わり、正中の変(1324)で捕らえられ許されたが、元弘の変(1331)で再度捕らえられ、翌年ここで処刑されました。

そのときの辞世の句が残っていました。
「秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらむ」

近くに、正月の羽根突きの玉に成る「むくろじ」(無患子)の大木がありました。
鎌倉では宝戒寺とここの2本だけだそうです。

⑥銭洗弁天 : 
頼朝が飢饉に苦しむ世の救済を祈願したいわれから、その霊水でお金を笊にいれて洗うと2倍になると言う信仰が生まれたとか・・・
ただし、その笊も200円払わないと使用できないので、どちらが儲かるのかな~?

⑦源氏山公園:


八幡太郎義家(頼朝の祖先、平安時代の武将)が山上に白旗を立て戦勝祈願をしたと いう伝説から、源氏山(白旗 山)と呼ばれたそうです。
ここは桜の名所でもあります。
のんびりおやつを食べてるとトンビが舞い降りて、食べ物をさらっていくようです。
“トンビに油揚げ?” ご用心を!


⑧化粧坂(けはいざか):
「化粧」とは 「身だしなみを整える」意味ですが、鎌倉へ入る境にこの坂道(切り通し)があり、ここで身だしなみを整え、鎌倉に入ったそうです。
また、お化粧姿の女性がたむろしていたと言う説もあります。
私はこの後者の説に賛同したいのですが・・・?

元弘3年(1333)、新田義貞の鎌倉攻めの時、激戦地となったつづら折の坂道です。
わずか80m程の坂道ですが幕府軍の抵抗は激しく新田軍は、4日後になっても突破できなかったそうです。(しかし、5日目に稲村ガ崎が攻め崩され、鎌倉幕府は崩壊します。)

⑨、英勝寺 :改修工事中。

⑩、寿福寺:
参道が素晴らしく、こころ洗われる心地がします。


ここは源氏家父祖伝来の地であり、また源頼朝の父・義朝の居館があった所でもあります。

裏手の墓地には陸奥宗光、高浜虚子、大佛次郎などの墓があり、
さらにその奥の“やぐら”(鎌倉特有の横穴式墓所)には北条政子と源実朝の墓があるそうですが、今日は中には入れず、参道だけを廻りました。


⑪、日本料理・かまくら山路:
ここで、総勢8人で、一杯呑みながらそばを楽しみました。

一寸値段が張りましたが、いい気分で休めました。

ここで、一応解散。

食事の後、一応解散したものの、また皆で鎌倉八幡宮の大イチョウ跡を見に行きました。


今年3/13強風のため倒れました。
でも、直ぐ横では、植え替えられた切り株から新しい芽が勢いよく生育していました。


三代将軍実朝 を暗殺した公暁が隠れていたといわれるイチョウの木で、そうなると樹齢1000年ぐらいにはなるのでしょうか・・・。

承久元(1219)年1月27日の夜、右大臣拝賀の式を終えた実朝が、雪の積もる階段を降りはじめた時、二代将軍頼家の次男、公暁が斬りつけたそうです。その時、身を隠していたのが、このイチョウの木といわれています。

昔、習った小学校の歴史読本にはその様子の絵がカラフルに載っていました。
鮮明に覚えています。

それから、三々五々、小町通を散策しながら帰途につきました。
少し、酒が効いてきていましたが・・・。








鹿留山~杓子山への登山計画

2010-11-04 | 日記
鹿留山(ししどめ山)~杓子山への登山計画

登山の経路断面図は次の通りです。


行きの,, 子ノ神手前はガレ場もあって一寸きついようですが、後は比較的楽な山登りのようです。地形図で見たかぎりでは・・・

この山は、冬の季節、富士山をはじめ,周囲360度が見晴らせて素晴らしい眺めようですが、私など初心者が混じるクラスでは雪山は避けて、このシーズンの山登りにしてくれたようです。

下はカシミールでその容姿を想像して描いてみました。

杓子山から見た秋の御正体山です。



カシミールではいろいろな設定で、予想される景色を表現して見せてくれます。
さて、実際とはいかがでしょうか?


杓子山から見た冬の富士山です。


杓子山から見た雪のの三ツ峠山周辺です。


そして、帰りは不動の湯とか。