地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

古河庭園から飛鳥山公園まで

2016-02-25 | 散策

古河庭園から飛鳥山公園まで


JR駒込駅まで電車で行き、そこから古河庭園~飛鳥山公園へ散策、

JR王子駅から電車で帰りました。
歩いた距離は多分2~3kmくらい。

コースは本郷通りで、下の黄色のコースです。

先ず、古河庭園に寄りました。

うら寒い日で、中で見かけた人は3人ぐらい。

ここは、元陸奥宗光邸でしたが、
屋敷を継いだ次男が時の財閥・古河家の養子になり、
名称も変わったようです。

  

邸内はひっそりと静かで、散策にはもってこいの条件でした。

  

梅の花が咲いていました。
すいせんと蝋梅は見れませんでした。

パンフレットを引用すると、

「武蔵野台地の斜面と低地という地形を活かし、
北側の小高い丘には洋館を建て、
斜面には洋風庭園、
そして低地には日本庭園を配したのが特徴です。・・・」

そこから、本郷通りを王子の方に向かうと、途中に「地震の科学館」がありました。

ごく最近のものです。

内容は充実していましたが、ほとんど観客はいませんでした。
小・中学生が学校から来るのが、せいぜいでしょう。勿体ない話です。、

最後に 、飛鳥山公園に向かいました。
きれいに清掃された清々しい公園です。

今日は、雨こそ降らないが、曇りで、うら寒い一日です。
そのためか、人出も少ないようです。

パンフで紹介します。

  

博物館は実によくできていました。

是非、日を改めて、じっくり見学に来るつもりです。

1時間以上みて回りましたが、不十分でした。

いい博物館です。

帰りに、館内で “おはぎ” を頂いて、
ゆっくり電車で帰りました。

 

 


『地図をつくった男たち』 を読んで

2016-02-16 | 読書

『地図をつくった男たち』 を読んで

 山岡光治著 原書房刊行 の本です。
近くの図書館で借りました。

読んでいるうちに、私の不勉強さを痛感しました。

後日、この本を買い求め、再三読んでみたいです。

 

今回は、地図の大まかな変遷のみをを羅列します。

①    先ずは、「国絵図」です。

これは、徳川幕府が諸大名に作らせたものですが、
私の観た対馬藩の地図などは、その精度、美しさ、詳細さにおいて、
現代地図に引けを取らない出来のように見えました。

②    次に、伊能図(1821)。

米屋を終えた隠居身分のおっさん・伊能忠敬さん(1745~1818)の作品です。
彼は 「天に基準を求めて、地をはかる」 から出発した人です。

全国測量と「大日本沿海与地全図」作製は、単なるもの好きではなく、
天文学、数学(和算)、測量器具など本格的に勉強し、直接自分の足で歩いて測量しました。

その様子は、井上ひさしさんの著作 『四千万歩の男』 に垣間見ることができます。

③    お雇い外国人(政府雇用外国人)による地図

そして、新政府になるのですが、
新政府は、経験の浅い薩長等だけで地図をつくったのではない。

静岡移封を命じられた徳川家の沼津兵学校(明治5年廃校)の生徒たちや、
お雇い外国人により、地図は作製されたようです。

④ その一つ、フランス式地図が主流になります。

その成果に、
参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」(明治17年)が、

陸軍参謀本部「二万分一迅速図」(明治13~19年)があります。

フランス式の色鮮やかな原図として残されています。

その美しさは、川上冬崖(1828~81)らの指導によるともされています。

特に欄外に添えられた「視図」(風景のイラスト)は代表的な点景で、軍事作戦用に重要な風景でした。

見たことはありますが、手元にはありません。橋の絵など目標になります。

⑤    ドイツ式の国家機密地図「陸地測量部の五万分の一」へ

明治6年(1873)山縣有朋が陸軍卿に就任すると、
普仏戦争(ドイツ諸邦もプロイセン側で参戦)に勝利したドイツを範とする軍制に変わり、
地図も参謀本部で作成され、
一般人を対象としない軍機密の一色刷り地形図に変わりました。

「明治30年(1897年)鉄道補入」とあります。

 そして、日清、日露戦争などをかいくぐって、
地形図が全国網羅されたのは大正13年(1924)です。

実に50年を要しています。

⑥    太平戦争後の日本地図

アメリカは終戦前後数年のうちに日本全土を写真撮影し、地形模型までも作りました。。

空中写真を利用し、五色刷り「特定五万分の一」を
日米共同利用の地形図として作成し始めました。

その地図には、ローマ字も併記されていました。
嘆かわしい限りです。

しかしその後、ローマ字併記等は止め、日本固有の地図に衣替えされました。
大変なご苦労があったのでしょう。


監督官庁も建設省国土地理院と改編し、
平和目的に利用されるようになりました。

⑦    現在はデジタル化し、広く、無償で利用されるようになりました。

測量の精神は、測量法にも記されているように、

 「測量の正確さを確保し、その精度の向上を図ること。」

 「測量の成果を広く利用させることによって、測量の重複を除くこと。」 ですね。

 



 

  

 

 


「始皇帝と大兵馬俑」を見る

2016-02-05 | 読書

「始皇帝と大兵馬俑」を見る


天気もいいし、暇々だから、

上野の東京国立博物館へ、ぶらり「兵馬俑」を観に行きました。

東京というところは、便利な所で、

こうした展示会がたちどころに見に行けます。

電車で上野御徒町駅へ行き、そこからブラブラ歩きました。

櫻はさすがに、まだ早すぎますが、牡丹園が開いていました。

それを横目で見て、真直ぐ東京国立博物館へ。

    

ざっと一杯程度の入りで、割とゆっくり見れました。

入口には、兵馬俑のポスターが貼られていました。

紀元前221年に中国を統一した 秦の始皇帝 の墓守達です。


そのころのことを想うと、今の中国は遅れてしまいましたね。
多分、習近平さんも、そんなことを胸に秘めておられるのでしょうが。

そのころ、日本は卑弥呼さんも生まれていない、縄文土器の時代で、
小集落が採集を中心に、ほそぼそと暮らしていた時代でしょう。
もちろん、たいしたボスもいなかったでしょう。


中の説明板を見ながら、ネットで見た説明を紹介します。

(撮影禁止で、説明板は紹介できません)

  

兵馬俑は、全体でひとつの軍団を写したものです。

そのため、将軍、歩兵、騎兵など、
軍団を構成するさまざまな役割の将兵が表されています。

8000体の大集団です。

(将軍、歩兵、騎兵たちの等身大の像を、各々紹介できません) 

下は始皇帝の愛用した騎馬車です。

2両の銅車馬は始皇帝が実際に乗った馬車を青銅で細部まで再現した模型です。

始皇帝はなぜ兵馬俑や銅車馬を陵墓の周囲に埋めさせたのでしょうか。
その背景には、
死後も皇帝として永遠に世界の支配を夢見ていた始皇帝の野望が垣間見えます。」

ところで、こうした陵墓は、始皇帝生前に作られたもののようです。

多分、「死後も皇帝として永遠に世界の支配を夢見ていた」のでしょう。」

詳しいことは、講談社文庫『始皇帝』を買いましたので、後日に。

今日はこの辺で・・・

帰りは、新宿から歩きました。

 


映画 『パディントン』 を見る

2016-02-03 | 読書

映画『パディントン』を見る

 

久し振りに、新宿の「バルト9」に映画を観に行きました。
もちろん、幡ヶ谷~新宿は往復歩きです。
運動を兼ねた散歩には打ってつけです。 

映画は、大人1000円です。
ひところのように混雑もなく、
ゆったりした席で、のんびり楽しめる、いい娯楽です。

なのに、お年寄りが全くといっていいほど入っていない。
知らないのかな~ 

さて、見た映画は、
以前友達から借りた絵本『パディントン(パデータン)』の一コマです。

内容は、パソコンの説明を借りると、

「イギリス・ロンドン。

 真っ赤な帽子を被った小さな紳士が、
家をさがしにはるばるペルーからやってきた。
 丁寧な言葉づかいで道行く人に話しかける彼だったが、
なぜか誰からも相手にしてもらえない。
それは・・・彼が"クマ"だから!

やっと出会った親切なブラウンさん一家に"パディントン"と名づけられ、
屋根裏に泊めてもらうことになる。

そうして始まった初めての都会暮らしはドタバタの連続!

それでも、純粋で礼儀正しいパディントンは、
やがて街の人気者になっていく。


そんなある日、彼をつけ狙う謎の美女・ミリセントに誘拐されてしまう!
果たしてパディントンは無事に家を見つけることができるのか―?


 そして、そこには、もっと素敵な何かが待っていた・・・!」

もうすこし付け加えると、

部屋を世話してくれた家の奥さんや、おばあさんが
可愛がってくれて、成れない都会生活が始まります。
そして、慣れないだけに、部屋中を荒らしまわるのだが、 
やがて、子供達やお父さんにも、彼の誠実さが認められ、
一家の一員として、なくてはならないクマさんになり、
パピーエンドに終わります。 

ちなみに、パディントンは、
最後には “パデータン” の愛称を貰うようだが・・・

 

館内で、ポプコンとビールを頂いたので、

帰りは、どこへも寄らず、マースグ帰りました。

 


『ワカタケル大王』を読んで

2016-02-02 | 読書

『ワカタケル大王』を読んで


黒岩重吾 著 『ワカタケル大王』(文芸春秋社 発行) を読んで、
その世界を地図にしてみました。

地名を増やし、河川名を加えれば、もっとその世界がはっきりしてきますが、
今日はこの辺で・・・

B5判 600頁ぐらいの分厚い本で、読み切るのにひと苦労しました。


5世紀半ばの大王で、允恭天皇の末っ子、後に雄略天皇と呼ばれています。

この本は、ワカタケル王子が大王に成るまでの、権謀術数の数々を物語ったものです。

特に感じたことは、


仁徳天皇稜に代表される巨大な前方後円墳の存在です。

以前、私は百舌のこの稜の後円部の前に立ったことがありますが、
その、巨大さに、唖然とした覚えがあります。

 

「倭の王族や有力者達は、百数十年にわたり、大和や河内に、巨大な墳墓を作っている。
百丈級(300m)の墳墓を作るのに、延べ数万の民で数年かかる。  
この労役の民は、半数はこの地域の農民で、ほかは服従した国の奴らしい。」

大変大きな力がないと、これだけの人は動かせません。
 

「大王家や王族の威厳を民に知らせるのは、
墳墓の巨大さが一番。

昔は、大きければ大きい程、神に近づくという信仰もあったそうだ。
大きな墳墓は権威の象徴として考えられている。
それは海に囲まれてる国のせい。
陸続きであったら、いつ敵が攻めてくるかも知れず、
のんきに墳墓など作っておれないはず。

これは権力の誇示。
しかし、時が経つに従い、
権威の象徴は別のものに代わるだろう。」

 

「倭の島々が大和の王の下に纏まったのは、
卑弥呼女王の神託、宗教が最も新しく、優れていると
諸国の王に認められたから。
祭祀的な威光に百余国が纏まったわけ。
朝鮮や中国が、宗教よりも政治的な力によるのと違います。}

 「四世紀の王は祭政一致で神の意が大事であった。

五世紀の『倭の五王』の辺りから、政治の主導権は大王に移った。
神は豊作を念じたり、吉凶を占うくらい。」

 「倭の王権は漸く司祭者よりも武力の大王が必用であると知り、
新しく樹立した河内の王権は、国内の統一の必要を痛感した。」

「五世紀の応神・仁徳王朝といわれる倭国の大王は、国内統一戦を使命とした。
四世紀に比べると武力の大王である。ただ専制大王はいない。
まだまだ力をもっている地方の豪族がいる。
今、王権が二つに割れて戦うと、地方の豪族が動揺する。
毛野国、越国、吉備国、筑紫国など・・・」

 話が、前後してるが、要するに

前方後円墳が造られた意図、その力で田畑を開墾したほうが・・・
倭の国は、まだまだ統一されておらず、
せいぜい大和一円のみが支配下、
葛城、河内、それと、毛野、越、吉備、筑紫など、
面従腹背の国々に取り囲まれていた。

そこに、大化の改新が必用であった。、