地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

荘園の下地中分図

2012-01-28 | 日記

下地中分図(したじちゅうぶんず)

荘園が恣意的に広がるに従い、鎌倉後期から室町時代(13c~15c)にかけて、
在地の地頭と荘園領主の間に境界争いが頻発していました。

幕府はその争いを決済するため、単純に半分ずつ分けて落ち着かせたが、そのための図面が「下地中分図」です。

下の図のように、荘園図に赤線を引いて、左を「領家方(荘園領主)」、右を「地頭方(幕府の派遣した武士層)」と示して分けています。



現在の地形図と対照させてみたが、あまりはっきりしません。



多分、土地境界線を引くにはこれでよかったのかもしれないが、こんなに簡単に土地領有権の主張が収まったのでしょうか。
こうあってほしいというあっせん案ではなかったかと思います。

この地図には、「吉利名」の多くが分断されていますが、下地中分の堺を明確にするため、
現在の地形図と比較すればわかるように、中央の地域が大きく誇張して表現されています。

また、この地図には
赤線に沿って、「領家方」と「地頭方」の文字がはっきり読み取れます。
また、「朱點者、両方之堺注也、/但此絵図者、堺一段也、自/余両方不及委細也、」と添え書きがしてあります。
どうも、「・・・堺一段也、・・・」が全く分かりませんが。
下地中分の堺であることが明記してあります。

しかし、やがて、武力をもった「地頭方」が、大勢を占めるようになりました。


東大寺の荘園「板蠅杣」のこと

2012-01-23 | 日記
東大寺の荘園「板蠅杣(いたはえそま)」のこと


中公文庫「日本の歴史(6)」を読みながら、地図を見たりメモを取ったりしながら整理してみました。

「板蠅杣は、東大寺の建物の修理木材を調達するところで朝廷から土地を所有することを許されていた。」

※ 杣(そま)とは、古代から中世にかけて律令国家や貴族・寺社などのいわゆる権門勢家が、大規模な建設用材を必要とするとき、
その用材の伐採地とした山林のことです。
後に一種の荘園として扱われるようになりました。

 奈良に都があったころ、木材を調達するといえば、この板縄杣あたりだったようです。
板蠅杣で伐採された木は、名張川から木津川に流されて東大寺に運ばれていた。

「木津」というのは木の港という意味で名づけられた地名で、名張の板蠅杣とは関係が深い。



 板蠅杣=東大寺の荘園・黒田荘には、木材を調達するための杣地のほかに、農作物を作る田畑が必要でした。

杣工は木材を調達していたが、彼らの食料は自給自足で、近くに田畑を開く必要があった。
12世紀のころのその中心が黒田荘で、安倍田(安部田)・黒田・大屋戸・夏焼(夏秋)・薦生の村へと広がっていったようです。
杣地から田畑の拡大(荘園の拡大)へと広がっていったようです。
(下の地図の緑色着色部分)



それがますます発展して、杣地の外まで自領を広げていった。
いわゆる「出作(でづくり)」です。
その目印として標識(牓示石)を立てた。
その結果伊賀は、東大寺や興福寺など大寺院の私有の荘園が激増していった。

これでは、国司への納税は減る一方となる。

国司側は社寺の立てた荘園の境界を示す標識(牓示石)を抜き捨てた。
それに対して、黒田荘の住人は抜かれた標識をまた立てた。

そんな抗争が百年(十二世紀のころ)も続いたが、結局は黒田の荘園の勝ちとなり、長い戦で、黒田荘は拡大し、
荘民は戦術や武力も貯えることになった。

その荘民の区域は、黄色に着色した
「四至 東限名張川、南限斎王上路(鹿高~笠間山)、西限小倉倉立(奈良県都祁)から小野、北限八多前高峯並鏡地(袖野山~中峰山)」でしょうか。

これらを根拠に、武士団が生まれてきたようです。
これが、この地の黒田悪党(くろだのあくとう)の始まりであり、大江一族で固めていました。

荘園地図  「備中国足守荘図」を見ながら思うこと

2012-01-16 | 日記
荘園地図  「備中国足守荘図」を見ながら思うこと

ジョギングや山登りで足腰使い過ぎたためか、昨年暮れからまともに歩けなくなりました。

「腰部脊柱管狭窄症」だそうです。

今は近くの病院でブロック療法による注射を受けていますが、これでダメなら手術だとか。

近くを‘おいらん道中’のような状態で歩いていて、知り合いの人と体の具合を話していると、意外と同じような症状に苦しんでおられた人が多く、
驚いています。そして、ややちょっと気が楽になりました・・・?

したがって、ウオーキングもならず、この機会に、前から気にしていた古地図を覘いてみることにしました。

まず手始めが、織田武雄先生の書かれた「地図の歴史 日本編」の荘園地図です。

「・・・平安時代の十世紀ころから、鎌倉・室町時代にかけての中世荘園社会では、・・・田図もまた班田制の衰退によってその存在の意義を失い、
中世ではこれに代わって荘園図が多く作られるようになった。」
その例として、「備中国足守荘図」(挿入図はモノクロでしたが、ネットより)があげられていました。



これを、現在の五万分一地形図と照合してみると下のようになります。



「岡山県 足守」をネット検索すると、「岡山県岡山市北区西部に位置する地域」とあり、もと足守藩の一部地でした。

両図を見ると、1000年を経てなお、川の流れや神社の位置が一致して見られます。
鎮守の森は今も昔も同じように大切に維持されていたようです。

水田の区画線は多分、総面積を測るための便法(メシュ方式)として描かれたものでしょう。
一区画は70m四方で、5,000㎡=約5反になります。

当時の収穫は、上田1町(=10反)から稲500束、中田400束(約30俵)、下田300束と言われていましたので、
この一区画からは約15俵の収量があったことになります。

現在の反収は600Kg(10俵)ですが、奈良から江戸時代までは200Kg(3俵)だったそうです。

この収穫の中から租税分が収奪されていました。

「公営田を耕作する農民が国に納めるのは町別稲400束ないし460束の定めであったが、官田では320束ないし300束と定められた。」
すなわち、農民に残るのは収量の2~3割程度。

もともと、班田収授のころは、一般農民の土地は「良民男子 - 2段、良民女子 - 1段120歩(男子の2/3)」であったから、
大体この一区画が一家族の耕作面積とみていいのでは・・・?

となると、農民の取り分は、総収量約15俵=900Kgの2~3割として、180~270Kgとなります。
食べるだけの生活ですね。

当時は、中央から指名された国司(鎌倉時代から逐次、武士である地頭へ)が租税納入を請け負い、
国司はその土地の有力農民である田堵(たと)に請け負わせていました。

この組織が荘園で、この足守荘は国司の管轄するその荘園の一部でしょう。

ここには管理事務所(国衙)や穀物倉庫がありました。
地図中央にある建物は多分それではないでしょうか。

「私営田領主は、あちこちにある所領に田屋を建てる。
これは荘園経営のための荘園領主が設ける荘所(しょうしょ)のようなものである。」

このようなことを想起させるこの地図は「四至牓示図(しいしぼうじず)」と言われ、荘園の範囲を概略示す絵図で、貴重です。

今後はもっと、いろいろな荘園地図を取り上げてみましょう。

明けまし おめでとうございます

2012-01-01 | 日記
明けまし おめでとうございます

今朝は、まだ腰の状態が走れる状態ではないので、皇居・北の丸公園と皇居東御苑へ散歩に行きました。



九段下駅を9:30頃スタート。先ず、田安門から北の丸公園へ。






櫻の美しい公園なのですが、今は寒々とした景観です。

でも、普通は見過ごしてしまう田安門裏に「昭和天皇御野立所」があり、そこの掲示板の一部をメモしました。

「大正十二年九月一日午前十一時五十八分、関東地方一帯に大地震が発生した。
死者、行方不明者十四万人、家屋の全壊、消失五十七万戸、罹災所帯六十九万戸に及ぶという我が国災害史上未曾有の大惨事であり、
東京遷都の噂すら流れたほどであった。・・・」とあります。

ちなみに、今回の東日本大震災では、死者、行方不明者併せて約2万人、家屋の全半壊約35万戸とあります。
単純に比較はできませんが、人口密集地帯での地震の怖さを物語っています。



そこから、千鳥ヶ淵の対岸の土手を逍遥しました。

世が世なら、近衛歩兵の兵舎を一望にできるところだけに、平民の私などは入れるところではないのでしょうが。
今日はたった一人で散歩できました。下界と遊離した、いい気分でした。

写真も撮りたかったのですが、充電したバッテリーと入れ替えなかったので、写せなくなりました。

近代美術工芸館(旧近衛師団司令部=赤レンガの二階家)を経て竹橋から皇居のお堀端へ出ました。

今日は、皇居東御苑へは入れてもらえませんでした。
多分、天皇皇后への一般参賀のためでしょう。

仕方なく、皇居の堀端を逍遥して、日比谷公園に入りました。

腹もすいてきたし、ここらで一杯と思い、松本楼を訪れましたが休み。

仕方なく、地下鉄日比谷駅から千代田線で代々木駅へ帰り、
年賀状を見ながら、わが家で一杯、新年を祝いました。

一人で! また、楽しからずや。 めでたしめでたし!