まずはJR板橋駅前から昔の中山道を逆戻りしまひょ。
実はこの道が昔の中山道だと知ったのは大阪へ戻ったのち。
当時は中山道の知識も薄く、興味がなかったのかもしれまへん。
(東京都の マンホールの蓋)
(旧の中山道とJR埼京線の踏切)
来年は明治維新から150周年になるそうでんな。
JR板橋駅の東口を出た処に名所がおますんや。
幕末の歴史を一瞬だったが輝かせた「新選組」の隊長
近藤勇のお墓が、ここにおますんや。
(新選組隊長 近藤勇の墓所)
(近藤勇・土方歳三の 供養塔)
1868年(明治元年)4月25日に近藤勇が処刑され
ここは、その刑場の跡だと書物に記されてますかな。
頭部は京都に送られ「さらし首」に処されたが、胴体は
処刑後ここに埋められたと言われてるようでんな。
刑場の後に、新選組の生き残り永倉新八が明治9年頃に
当時の東京府知事の許可をもらって墓所にしたとの説。
彼は松前藩に復帰したので罪人にならなかったのかも?
(新選組顛末記 永倉新八 著作)(当時の定価1200円)
この方は新選組創立の13人の中で明治時代を生き残り
大正4年亡くなるまで生存した唯一の幹部の一人だそうな。
彼の記録を長男が世に伝え新選組の活躍が知られることに
なったのが「新選組顛末記」だと言われてますんや。
鉄ちゃん爺やが昭和52年に購入した単行本でおます。
新選組の史実を探るには貴重な手記だと考えられてまぁ。
(近藤勇の 銅像)
(近藤勇と新選組隊士の供養塔 説明書き)
確か処刑された時には39歳だったとのこと。
鉄ちゃん爺や、もっと歳とった初老の人だと考えてましたわ。
同じく最後まで徳川幕府の為に会津・函館まで戦い続けた
副隊長の土方歳三も亡くなったのが39歳だったとか。
(新選組隊士 戦死者・死没者の碑)
永倉新八が記録を残した戦死者60名が右側に、左側には
病死または刑死した64名の氏名が刻まれているんだって。
後に永倉新八の墓に戦没者の氏名を刻んで追善したようでんな。
若い歴女たちの新選組ブームを苦笑いされてるかもしれまへんで。
晩年は北海道の小樽でひっそりと暮らされたとか。
それでは旧の中山道に戻りしばらく歩くことにしまひょ。
(旧の中山道 現在の風景)
ここから先は単身赴任中に何度も歩いた道になりますんや。
記憶に残るお店や喫茶店など眺めながら西へ向かってまっせ。
(現在は 蕎麦屋さん)
ここ当時は「蛇の紋寿司」というお寿司屋さんが在った?
仕事が終わった後、接待したり逆に奢られたりだったかな。
江戸前の、にぎり寿司が美味しかった記憶が今も残ってまぁ。
(板橋の 金勝ビル)
(板橋の 金勝ビルを背景に 自撮り)
ここには日立さんの孫会社になる販売会社がおました。
首都圏の4県を統括する販売会社の本社でしたかな。
現在は日立のグループから外れてしまったようですけど。
(板橋 浄土宗・東光寺)
ここには関ヶ原の戦いで奮戦するも、敗れた後に薩摩に逃れ
最後は八丈島に流された、宇喜多秀家の供養塔がおますんや。
明治になってから東京に戻った子孫の方が建立したとのこと。
実は鉄ちゃん爺やの実家は、この方の分家筋に当たるとの説。
本家は「宇喜多家」を名乗り、分家は「浮田」を名乗ってます。
徳川家に憚って、「浮田」と名字を変えたとの説もおますけど。
末裔の一人として久しぶりに手を合わせて、南無阿弥陀仏!
(宇喜多秀家の供養塔)
宇喜多秀家は1万8千人の軍勢で西軍の中では石田三成と共に
半日間は東軍を撃退するぐらいの奮戦をしたと言われてますんや。
島流しになるも関ヶ原に出陣した誰よりも長く生きながらえて
明暦元年に亡くなった時には、徳川家は4代将軍の家綱公の時代。
当時としては珍しく84歳までの長命であったそうですわ。
奥方の実家である加賀の前田家から密かな仕送りが有ったとのこと。
蛇足になりますが大坂夏の陣で千姫を救い出したと言われる
坂崎出羽守も袂を分けるまでは宇喜多左京亮と名乗る方ですね。
宇喜多秀家の叔父さんに当たる一族だったそうですわ。
(板橋 日本橋から10kmの 距離標識)
(板橋 仲宿の通り)
ここで中山道は国道17号線をクロスして北側に抜けてますんや。
この先に同じく日立さんの住宅関連の事業本部がおました。
ここと、先ほどの孫会社の2軒を、鉄ちゃん爺が受け持って
茨城県の工場とトライアングル方式で動いてましたんや。
(板橋センタービル)
(板橋センタービル エレベーター前)
テナントは変わってしまいましたがエレベーターのフロア付近は
15年前と少しも変わってないので、懐かしくて眺めてましたで。
日立グルーから外れた際に、茨城の工場へ撤収したと聞いてまぁ。
それでは中山道の仲宿を歩いてみまひょかな。
(中山道 板橋宿 本陣跡の碑)
本陣跡は不動産会社を経営する昔からの飯田家。
当時の本陣と名主を司った、ご子孫だとのこと。
(旧中山道・仲宿)
板橋宿は江戸の日本橋からスタートして初めての宿場町。
逆にお江戸に入る際には最後の宿場となりまんねん。
江戸から平尾・仲宿・上宿と三つに分かれていたとか。
地元ブログ友の先輩から、そのようなご教授でした。
(板橋に 日本橋からの距離標)
(板橋の欄干から 石神井川を撮影)
(赤い欄干の 板橋)
(板橋の欄干を背に 自撮り)
ブログ友の先輩の話では、昔は板の橋だったそうで
現在の板橋区の名前の由来にもなった有名な橋だとか。
仲宿はここでお仕舞で板橋を渡ると上宿になるそうです。
石神井川の右岸は遊歩道の公園になってますわ。
(石神井川緑道の碑)
(石神井川緑道で 自撮り)
板橋宿は残念ながら江戸時代の面影は殆どおまへん。
やはり戦争中の空襲の影響なのかしら?
ここから引き返して地下鉄の三田線の駅へ戻りまひょ。
(国道17号線 道路標識)
(板橋区役所前の 銅像)
長崎の原爆の像を作成した方と同じ作者だそうです。
長崎のは座像で、こちらは立像ですがよく似てまんな。
ここから地下鉄に潜り込みましたんや。
夕方から強い雨との予報なので次へ急いだんですわ。
都営地下鉄の御成門で下車し地上に上がると怪しいお天気。
(東京タワーを 遠くに望む)
地図を見ないで何となくこの辺りと下車したんですわ。
浜離宮庭園を是非とも見たいと考えてのことでした。
途中で昔の得意先だった片岡物産のビルを発見。
(片岡物産ビルを背景に 自撮り)
鉄ちゃん爺やが、まだ30歳代の頃の大得意先の会社。
当時は虎ノ門の森ビルに賃貸で入居してたんですわ。
トワイニング紅茶で有名になり自社ビルを持つような
一流企業に出世したようでんな、ご立派です!
もう私の知っている人は誰も居ないと考えますけど。
(浜離宮恩賜庭園の 案内標識)
(浜離宮庭園 入園料の立て札)
(浜離宮恩賜庭園 入園券) (65歳以上 150円)
東京都立の庭園はどこも65歳以上は割り引いてもらえまぁ。
大阪府は残念ながらこんな優遇策がおまへんのですわ。
入園したとたんに雨が降り出してきましたがな。
(浜離宮公園にて)
(浜離宮庭園 潮入の池 説明版)
(浜離宮庭園 潮入の池)
(浜離宮庭園 お手伝い橋 説明版)
(浜離宮庭園 お手伝い橋)
(浜離宮公園 中島の御茶屋 説明版)
(浜離宮庭園 中島の御茶屋)
ここでデジカメの電池が切れてしまいました。
しかも雨が強く降り出してきて踏んだり蹴ったりでんがな。
スマートフォンを取り出して撮影を続行ですわ。
(浜離宮庭園を スマートフォンで撮影)
スマートフォンの画像を取り込んだのは今回が初めて~
少しだけ画像が小さくなりましたが、画質は問題ないのかも。
逆にデジカメよりもはっきりと写っているのかも?
(旧 浜離宮庭園 三百年の松)
(旧 浜離宮庭園 三百年の松 説明書き)
(旧 浜離宮公園 三百年の松)
(旧 浜離宮庭園 説明書き)
(旧 浜離宮庭園 正門)
(銀座8丁目付近)
銀座9丁目は水の上~🎵
誰かがこんな歌詞で歌ってたはず。
銀座は1丁目から~8丁目までしか今もおまへんな。
でも銀座9丁目になる辺りは海じゃおまへんけど。
(JR新橋駅前の SL展示場)
(JR新橋駅舎)
夕立がなければ銀座8丁目から銀座1丁目までを
歩いて見たかったんですが、今回は諦めました。
とにかくJR新橋駅へ走りこみ8日目は終了でおます。
次回は上野公園から浅草辺りを紹介しまひょ。
ほんなら~ これで今日はさいなら~🎵
実はこの道が昔の中山道だと知ったのは大阪へ戻ったのち。
当時は中山道の知識も薄く、興味がなかったのかもしれまへん。
(東京都の マンホールの蓋)
(旧の中山道とJR埼京線の踏切)
来年は明治維新から150周年になるそうでんな。
JR板橋駅の東口を出た処に名所がおますんや。
幕末の歴史を一瞬だったが輝かせた「新選組」の隊長
近藤勇のお墓が、ここにおますんや。
(新選組隊長 近藤勇の墓所)
(近藤勇・土方歳三の 供養塔)
1868年(明治元年)4月25日に近藤勇が処刑され
ここは、その刑場の跡だと書物に記されてますかな。
頭部は京都に送られ「さらし首」に処されたが、胴体は
処刑後ここに埋められたと言われてるようでんな。
刑場の後に、新選組の生き残り永倉新八が明治9年頃に
当時の東京府知事の許可をもらって墓所にしたとの説。
彼は松前藩に復帰したので罪人にならなかったのかも?
(新選組顛末記 永倉新八 著作)(当時の定価1200円)
この方は新選組創立の13人の中で明治時代を生き残り
大正4年亡くなるまで生存した唯一の幹部の一人だそうな。
彼の記録を長男が世に伝え新選組の活躍が知られることに
なったのが「新選組顛末記」だと言われてますんや。
鉄ちゃん爺やが昭和52年に購入した単行本でおます。
新選組の史実を探るには貴重な手記だと考えられてまぁ。
(近藤勇の 銅像)
(近藤勇と新選組隊士の供養塔 説明書き)
確か処刑された時には39歳だったとのこと。
鉄ちゃん爺や、もっと歳とった初老の人だと考えてましたわ。
同じく最後まで徳川幕府の為に会津・函館まで戦い続けた
副隊長の土方歳三も亡くなったのが39歳だったとか。
(新選組隊士 戦死者・死没者の碑)
永倉新八が記録を残した戦死者60名が右側に、左側には
病死または刑死した64名の氏名が刻まれているんだって。
後に永倉新八の墓に戦没者の氏名を刻んで追善したようでんな。
若い歴女たちの新選組ブームを苦笑いされてるかもしれまへんで。
晩年は北海道の小樽でひっそりと暮らされたとか。
それでは旧の中山道に戻りしばらく歩くことにしまひょ。
(旧の中山道 現在の風景)
ここから先は単身赴任中に何度も歩いた道になりますんや。
記憶に残るお店や喫茶店など眺めながら西へ向かってまっせ。
(現在は 蕎麦屋さん)
ここ当時は「蛇の紋寿司」というお寿司屋さんが在った?
仕事が終わった後、接待したり逆に奢られたりだったかな。
江戸前の、にぎり寿司が美味しかった記憶が今も残ってまぁ。
(板橋の 金勝ビル)
(板橋の 金勝ビルを背景に 自撮り)
ここには日立さんの孫会社になる販売会社がおました。
首都圏の4県を統括する販売会社の本社でしたかな。
現在は日立のグループから外れてしまったようですけど。
(板橋 浄土宗・東光寺)
ここには関ヶ原の戦いで奮戦するも、敗れた後に薩摩に逃れ
最後は八丈島に流された、宇喜多秀家の供養塔がおますんや。
明治になってから東京に戻った子孫の方が建立したとのこと。
実は鉄ちゃん爺やの実家は、この方の分家筋に当たるとの説。
本家は「宇喜多家」を名乗り、分家は「浮田」を名乗ってます。
徳川家に憚って、「浮田」と名字を変えたとの説もおますけど。
末裔の一人として久しぶりに手を合わせて、南無阿弥陀仏!
(宇喜多秀家の供養塔)
宇喜多秀家は1万8千人の軍勢で西軍の中では石田三成と共に
半日間は東軍を撃退するぐらいの奮戦をしたと言われてますんや。
島流しになるも関ヶ原に出陣した誰よりも長く生きながらえて
明暦元年に亡くなった時には、徳川家は4代将軍の家綱公の時代。
当時としては珍しく84歳までの長命であったそうですわ。
奥方の実家である加賀の前田家から密かな仕送りが有ったとのこと。
蛇足になりますが大坂夏の陣で千姫を救い出したと言われる
坂崎出羽守も袂を分けるまでは宇喜多左京亮と名乗る方ですね。
宇喜多秀家の叔父さんに当たる一族だったそうですわ。
(板橋 日本橋から10kmの 距離標識)
(板橋 仲宿の通り)
ここで中山道は国道17号線をクロスして北側に抜けてますんや。
この先に同じく日立さんの住宅関連の事業本部がおました。
ここと、先ほどの孫会社の2軒を、鉄ちゃん爺が受け持って
茨城県の工場とトライアングル方式で動いてましたんや。
(板橋センタービル)
(板橋センタービル エレベーター前)
テナントは変わってしまいましたがエレベーターのフロア付近は
15年前と少しも変わってないので、懐かしくて眺めてましたで。
日立グルーから外れた際に、茨城の工場へ撤収したと聞いてまぁ。
それでは中山道の仲宿を歩いてみまひょかな。
(中山道 板橋宿 本陣跡の碑)
本陣跡は不動産会社を経営する昔からの飯田家。
当時の本陣と名主を司った、ご子孫だとのこと。
(旧中山道・仲宿)
板橋宿は江戸の日本橋からスタートして初めての宿場町。
逆にお江戸に入る際には最後の宿場となりまんねん。
江戸から平尾・仲宿・上宿と三つに分かれていたとか。
地元ブログ友の先輩から、そのようなご教授でした。
(板橋に 日本橋からの距離標)
(板橋の欄干から 石神井川を撮影)
(赤い欄干の 板橋)
(板橋の欄干を背に 自撮り)
ブログ友の先輩の話では、昔は板の橋だったそうで
現在の板橋区の名前の由来にもなった有名な橋だとか。
仲宿はここでお仕舞で板橋を渡ると上宿になるそうです。
石神井川の右岸は遊歩道の公園になってますわ。
(石神井川緑道の碑)
(石神井川緑道で 自撮り)
板橋宿は残念ながら江戸時代の面影は殆どおまへん。
やはり戦争中の空襲の影響なのかしら?
ここから引き返して地下鉄の三田線の駅へ戻りまひょ。
(国道17号線 道路標識)
(板橋区役所前の 銅像)
長崎の原爆の像を作成した方と同じ作者だそうです。
長崎のは座像で、こちらは立像ですがよく似てまんな。
ここから地下鉄に潜り込みましたんや。
夕方から強い雨との予報なので次へ急いだんですわ。
都営地下鉄の御成門で下車し地上に上がると怪しいお天気。
(東京タワーを 遠くに望む)
地図を見ないで何となくこの辺りと下車したんですわ。
浜離宮庭園を是非とも見たいと考えてのことでした。
途中で昔の得意先だった片岡物産のビルを発見。
(片岡物産ビルを背景に 自撮り)
鉄ちゃん爺やが、まだ30歳代の頃の大得意先の会社。
当時は虎ノ門の森ビルに賃貸で入居してたんですわ。
トワイニング紅茶で有名になり自社ビルを持つような
一流企業に出世したようでんな、ご立派です!
もう私の知っている人は誰も居ないと考えますけど。
(浜離宮恩賜庭園の 案内標識)
(浜離宮庭園 入園料の立て札)
(浜離宮恩賜庭園 入園券) (65歳以上 150円)
東京都立の庭園はどこも65歳以上は割り引いてもらえまぁ。
大阪府は残念ながらこんな優遇策がおまへんのですわ。
入園したとたんに雨が降り出してきましたがな。
(浜離宮公園にて)
(浜離宮庭園 潮入の池 説明版)
(浜離宮庭園 潮入の池)
(浜離宮庭園 お手伝い橋 説明版)
(浜離宮庭園 お手伝い橋)
(浜離宮公園 中島の御茶屋 説明版)
(浜離宮庭園 中島の御茶屋)
ここでデジカメの電池が切れてしまいました。
しかも雨が強く降り出してきて踏んだり蹴ったりでんがな。
スマートフォンを取り出して撮影を続行ですわ。
(浜離宮庭園を スマートフォンで撮影)
スマートフォンの画像を取り込んだのは今回が初めて~
少しだけ画像が小さくなりましたが、画質は問題ないのかも。
逆にデジカメよりもはっきりと写っているのかも?
(旧 浜離宮庭園 三百年の松)
(旧 浜離宮庭園 三百年の松 説明書き)
(旧 浜離宮公園 三百年の松)
(旧 浜離宮庭園 説明書き)
(旧 浜離宮庭園 正門)
(銀座8丁目付近)
銀座9丁目は水の上~🎵
誰かがこんな歌詞で歌ってたはず。
銀座は1丁目から~8丁目までしか今もおまへんな。
でも銀座9丁目になる辺りは海じゃおまへんけど。
(JR新橋駅前の SL展示場)
(JR新橋駅舎)
夕立がなければ銀座8丁目から銀座1丁目までを
歩いて見たかったんですが、今回は諦めました。
とにかくJR新橋駅へ走りこみ8日目は終了でおます。
次回は上野公園から浅草辺りを紹介しまひょ。
ほんなら~ これで今日はさいなら~🎵