鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺や  伊勢の関宿をデジカメ散歩  パートⅢ

2012-11-03 15:22:06 | 日記
今回は関の小万のお話からいきまひょ~


(福蔵寺 三重県亀山市関町)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


このお寺は織田信長の三男で織田信孝の菩提寺になってまんねん。

彼は伊勢の神戸家(かんべけ)に養子に入っていたんですが兄の織田信雄により
自害させられて首だけが伊勢へ戻されたそうな
だけど神戸家から首の受取を拒否され部下がここ福蔵寺に弔ったそうですわ。。

そやけど地元では神戸信孝さんより関の小万のお墓がある方が有名なようでっせ。


(福蔵寺境内 関の小万の墓)


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小万は女性ながら亡き父の仇討ちをしたことで有名になったお方でっせ。

父親は久留米藩有馬家の剣術指南役で牧藤左衛門と呼ばれてましたが
同輩の小路元成の遺恨により殺害されたそうな。

小林軍太夫と名前を変えて亀山藩に居ることを聞き、身重の妻が敵討ちの旅に出て
ここ関町の地蔵院前で疲れから行き倒れの状態で保護されたんだそうですわ。

旅籠の山田屋の夫婦が自宅へ招き入れ看病中に生まれたのが「小万」で
母親は娘の将来と仇討ちの事を遺言して産後のひだちが悪く死んでしまいまんねん。

山田屋の娘として育てられた「小万」が15歳の頃に養父母から母親の
遺言を聞かされ代わりに自分が仇討ちをする覚悟を決めたんだそうですわ。

亀山城下の榊原権八郎の道場へ三年間の剣術を習いに通ったそうです。

女性が男性に勝てるのは「突きの一手」しかないとの教えだったようでっせ。


(福蔵寺門前の石碑)


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1783年(天明3年)亀山城大手門前で小林軍太夫を見つけ見事に
本懐を遂げたと言う仇討ちのお話が「関の小万の物語」ですわ。

やはり「小万」を裏から支えた人が関町や亀山城下に居たんでしょうな。

「小万」が仇討ちをしたのが18歳でその後はお礼奉公として旅籠の山田屋で
38歳まで努めたそうで山田屋は烈女「小万」を一目みようと泊り客で
大いに繁盛し山田屋の養父母に恩返しをしたということで、めでたしめでたし。

38歳で亡くなりここ関宿の福蔵寺に葬られたというお話ですわ。


(山田屋はその後、会津屋と名前を変えて 現在はお蕎麦の店)


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(関町 伊藤本陣跡)


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関宿には本陣が2軒(川北・伊藤)と脇本陣が2軒在ったそうでっけど
本陣はここ伊藤家に店の一部が残っているだけで残念ながら見れませんな。

ところで話、変わって「馬子唄」てご存知でっしゃろ。

ここ関町から鈴鹿峠を越えて滋賀県の方までは「鈴鹿馬子唄」がありまっせ。

「坂は照るてる鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」

坂は関宿のお隣にある坂下宿で鈴鹿峠を超えた処が次の土山宿だっせ。

あいの土山ちゅうのは昔、間の宿と呼んだとか言う処からでっしゃろな。

歌川広重の浮世絵でも土山は雨が降っているように描かれてまんな。

別に雨が多いわけじゃないんでっけど鈴鹿馬子唄から採ったんでっしゃろか。


(関町の マンホールの蓋)  (昔の鈴鹿郡関町時代からのデザイン)


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鈴鹿馬子唄を続けてみまひょ~♪

「坂は照るてる鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」

「馬がものいうた鈴鹿の坂で おさん女郎なら乗しょうというた」

「手綱片手の浮雲くらし 馬の鼻歌通り雨」

「与作想えば照る日も曇る 関の小万の涙雨」

「関の小万が亀山通い 月に雪駄が二十五足」

「馬はいんだにお主は見えぬ 関の小万がとめたやら」

「昔恋しや鈴鹿を越えりゃ 関の小万の声がする」


何となく色っぽい馬子唄でっしゃろ、実は「関の小万」は二人いてはりまっせ。

仇討ちをした「小万」は歌詞の5番目に出てくる亀山通いだけでんねん。

もう一人の「小万」は近松門左衛門の浄瑠璃に出てくる「遊女 小万」で
仇討ちの「小万」より100年ぐらい前の宝永時代のお話でんな。

与作という色男に関宿の遊女・小万をからました人情噺の人物ですわ。

だから鈴鹿馬子唄に後から仇討ちの「小万」を挟んだようでんな。


(現在の 鈴鹿峠) (峠の鏡岩から国道1号線を見下ろす)


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鈴鹿峠は旧東海道五十三次では箱根の峠に次ぐ難所ちゅうことになってまんな。

爺やが昔に通った感じではそんなに大変な峠でもないんでっけど。

確かに三重県側は急な勾配でっけど滋賀県側はだらだらと緩やかない坂道でんな。

画像はその急勾配を峠から三重県側を見下ろしたもんでっけど。

旧の東海道が通る鈴鹿峠で標高378mでっさかいに箱根とはえらい違いでっせ。


(旧の東海道 鈴鹿峠に残る 巨大な石灯篭)


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(旧の東海道 鈴鹿峠)


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私の知ってる馬子唄を 第一小節だけ書き込んで見まっさ。

「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」  箱根馬子唄

「赤城しぐれて沼田は雨よ 明日は水上・湯檜曽まで」 上州馬子唄

「小諸出てみよ浅間の山に けさも三筋の煙たつ」   小諸馬子唄


馬子唄ちゅうのは東日本がほとんどで西日本には、わてが知ってる限りは
高知県になんとかいう馬子唄がおまっけど名前を忘れましたわ。

やはり西日本は瀬戸内海を中心に船が物流の中心で東日本は山国が多く
馬や牛を使うのが江戸時代の物流なので馬子唄も東日本に多いようでんな。

鈴鹿峠は関町から滋賀県へ向かう方が急な坂道でっさかいに
滋賀県から関町へ下りてくるより馬に乗せてもらう料金が3割高かったそうでっせ。


ほな~  今日はこれで終わらしてもらいまっさ  さいなら~





















コメント (24)
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