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鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺や   茶臼山の界隈を散歩

2016-01-23 14:10:41 | デジカメ散歩
今回は天王寺公園の茶臼山ちゅう所を紹介しまひょ。

茶臼山(ちゃうすやま)と読みまっせ。

橋下さんの改革とやらで昨年から無料開放されれまぁ。

数か月に一度は両親の眠る一心寺にお参りするんで
横目で眺めながら、いつも通過しますんやけど。

不思議と茶臼山には一度も登ったことがおまへんのや。

昔は150円を支払って茶臼山に登っても何もないはず
そんな訳で、本日が茶臼山の初登頂でっせ。

(茶臼山 遊歩道から撮影)



NHKの今年の大河ドラマは「真田丸」だそうな。

普段は見向きもされない茶臼山が一躍にして名所!

鉄ちゃん爺やが訪れた日も4~5人の観光客が。

ここから大坂城が見えたのかしら? そんな声も。

NHKの回し者じゃおまへんけど、少しばかり
茶臼山を画像で紹介しておきまひょ。

(茶臼山の モニュメント)





この茶臼山は昔から古墳であると言われてきましたが
最近の発掘調査などから自然の丘であるとの説もおます。

でも石棺の蓋が天王寺の境内に保存されていることや
石室内部と考えられる「朱」が出てきたそうですわ。

埴輪とか確定的な遺物はまだ見つかってないとのこと。

(茶臼山 登山ルート)



(茶臼山の 頂上で自撮り)



樹木が茂っているので視界も悪く何にもおまへんで。

観光客などは訪れて、がっかりするかもしれまへん。

大阪市もここが名所になるとは考えなかったはず。

(茶臼山 説明書き)







ここは大坂冬の陣では徳川家康公の本陣であったとか。

大坂夏の陣に際しては真田幸村が本陣を置き、ここから
徳川家康公を討ち取ろうと出撃したとされてますんや。

鉄ちゃん爺やの考えは茶臼山がこの辺りの最高地点なので
敵陣を望む見張り台のような感じだったんでしょうな。

こんな処に軍勢を多く配置なんか、できないぐらいの規模。

おそらく本当の本陣はこっちだつたかもしれまへん?

(浄土宗 一心寺 本堂)



茶臼山に隣接した北側にある有名なお寺でおます。

「お骨仏さま」として大阪では良く知られたお寺でっせ。

ここなら境内も広いし、本陣に相応しいかも。

因みに、ここの山号は徳川家康公が命名したんだとか。

(一心寺の お骨仏さま)





鉄ちゃん爺やの両親は「お墓はいらん~」から
一心寺へ納骨して「お骨仏」にして欲しいと遺言。

このお寺は宗旨を問わず納骨された遺骨で10年に一体
「お骨仏さま」を作ることになってますんや。

核家族化する現代では、お墓に変わるこんな「お骨仏」が
人気を呼んでいるようで連日ながら納骨者の行列ですわ。

「お骨仏」さまにしてもらえば、毎日のお参りに見える
老若男女の回向により寂しくならないとの考えでんな。

墓が見守る人もなく、寂れることを将来見据えて
無縁仏化を避ける意味で一案かもしれまへん。

江戸時代の嘉永年間から続く大阪の名所でおまっせ。

(一心寺境内 本多忠朝の墓)





大坂夏の陣で徳川勢で戦死した唯一の大名級の武将。

有名な本多平八郎忠勝の次男坊で大多喜5万石のお殿様。

大坂冬の陣で酒を飲み過ぎて不覚を取り、徳川家康公から
「親に似ぬ子」だと言われ、名誉挽回で突進して戦死。

現在は「酒封じ」のご利益で参詣する方も多いんだって。

NHKの大河ドラマ「真田丸」の終盤には、おそらく
本多忠朝と真田幸村や毛利勝永との大坂夏の陣での
名場面として茶臼山の戦いが見られまっしゃろな。

(大坂の陣 400年の幟)



蛇足ながら真田幸村さんが戦死したのはここ一心寺から
道路を挟んですぐ北側にある安居神社だとされてまっせ。

(真田幸村 陣没の地)









(幸村ロードの幟)






一寸だけ脱線しますがNHK大河ドラマ「真田丸」でっけど
概ね、この辺りだと言うだけで本来の遺跡は不明なんでっせ。

「大坂冬の陣」では大坂城の南側に半月型の出城を築き
真田幸村勢が加賀の前田勢や越前の松平勢を大いに翻弄し
数千人の死傷者を与えたとされる名場面になりまんねんで。

(真田幸村 銅像)



(真田の抜け穴)



(真田幸村 出丸城と推定される坂)



右奥の建物が明星学園でこの辺りが真田幸村の出丸城だと
歴史学者などが推定していますが遺物は未発見でんな。

茶臼山からは北東へ約3kmぐらい大阪城へ寄った地点が
「大坂冬の陣」の激戦地とされる「真田丸」でっせ。

大阪の郷土史などは「真田の出丸城」と呼んでまんねん。

(真田幸村 出丸城跡の石碑)





石碑は真田幸村親子がお祀りされている、お寺の門前に
この辺りが真田幸村の出丸城跡だと推定しての設置か。

それでは、再び茶臼山に話を戻しまひょ。

(茶臼山の和気橋 & 河底池)







この池は和気清麻呂が8世紀に大和川の流れをこの地点で
上町台地を削って大阪湾へ流そうとして失敗したとか。

鉄ちゃん爺やは茶臼山古墳のお濠だと考えてましたんや。

(河底池から 通天閣を望む)



この河底池も茶臼山も全て昔は住友家の敷地だったんでっせ。

住友家のブログを書き込んでいて急に頭に浮かびました。

鰻谷の旧住友家本宅跡と銅吹所跡を訪ねてみましたんや。

次回はそのお話をさせて貰いまっさ。

ほんなら~ 今日はこれで、さいなら~♪



















鉄ちゃん爺やの小話  住友家・大阪への文化貢献

2016-01-09 19:16:43 | デジカメ散歩
旧財閥である住友家は江戸時代から当主は代々
住友吉左衛門(すみともきちざえもん)と名乗り
現在の17代目の当主も住友吉左衛門さんでっせ。

今回は明治から大正に渡り住友財閥を率いた
15代住友吉左衛門友純(ともいと)さんのお話。

1890年(明治23年)に12代友親(ともちか)
13代友忠(ともただ)が相次いで亡くなります。

親子二代が同じ年に亡くなる存亡の危機でっしゃろ。

12代友親の妻である登久(とく)を14代目に据え
合わせて13代友忠の妹である満寿に婿養子を迎え
15代目を継いだのが住友吉左衛門友純さんでっせ。

この方は公家の徳大寺隆麿さんと呼ばれ、有名な
西園寺公望(さいおんじきんもち)の弟さんになる
名門の若君さんですが三男坊さんになりますんや。

長兄は明治天皇の侍従長を勤めた徳大寺実則さん。

今に続く社会・文化貢献を続ける住友グループの
元祖的な事業を始めたお方だと言えるかもしれまへん。

(大阪府立中之島図書館)(国の重要文化財に指定)



江戸時代から住友の事業が大阪を本拠に続けてこれた感謝の
しるしとして図書館と図書購入の資金を寄贈されましたんや。

普通ならお金だけを寄付することが多いんですが彼は
住友本社に臨時建設部を設け建物を建てて寄贈でんがな。

それが1904年(明治37年)3月のことでおます。

耐震工事を経て2015年から再度の使用が始まりました。

1922年(大正11年)には手狭になったとのことで
これも住友本社が左右に増築をして再び寄贈だって。

それにしても太っ腹なお方だなと思いまへんか。

(中之島図書館を 正面左から撮影)



鉄ちゃん爺やも学生時代には何度も訪れたもんですわ。

現在は古文書や大阪の文献やビジネス関連の書籍に特化し
それでも蔵書は約50万冊を誇る立派な図書館でおます。

現在は東大阪市に大阪府立中央図書館が新しくできまして
一般の蔵書約50万冊がそちらへ移されて昔よりは小規模に。

大阪府と大阪市の統合で図書館も集約の話がおましたけど
耐震工事をして従来通りの府立図書館で存続のようでっせ。

まあ~ 図書館は各地に沢山あっても良い話でっしゃろ。

続いては15代住友吉左衛門友純さん晩年のお話へ。

(天王寺公園から 通天閣方向を撮影)



江戸時代から住友家の本宅は大阪市の鰻谷におました。

現在の末吉橋の西南の辺り一帯だったと記録されてまぁ。

そこは長堀川に面しており東横堀川にも近い現在の建物では
三井住友銀行の事務センターが有る辺りになりまんねん。

約2400坪の敷地の東半分が銅の精錬所で西側半分が
代々の住友本家の邸宅だったそうですわ。

明治9年に銅の精錬所は他に移ったそうでっけど住友家は
その後も島之内と呼ばれる鰻谷に残ったように聞いてまぁ。

1914年(大正4年)に住友家は鰻谷を離れて天王寺の
現在は天王寺公園となっている附近に引っ越すんですわ。

処が10年も経たない内に神戸の住吉村へ移るんでっせ。

1925年(大正14年)の引っ越しだったそうでんな。

その頃、大阪市が美術館を造るべく土地を探していたが
難航して、なかなか見つからなかったようですわ。

それを聞いた住友吉左衛門友純は大阪市に美術館を造るの
条件付きなら住友家本宅跡を寄贈すると言われたとか。

同時に現在は慶沢園(けいたくえん)と呼ばれる庭園や
茶臼山を合わせて全敷地を大阪市に寄贈したんだって。

寄贈を受けた大阪市や議会の方がびっくりしたとか。

現在の地価に換算したら約35億円~50億円だっせ。

その坪数が17500坪(57750㎡)とも
12940坪(42702㎡)との二説が残ってまぁ。

その住友家本宅の跡地が現在は大阪市立美術館でおます。

(大阪市立美術館) 



住友吉左衛門友純さんは本宅を含む敷地を寄贈して
その1年後にあたる1926年(大正15年)に死亡。

この美術館は昭和大恐慌や室戸台風など何度も工事が
中断しながら1936年(昭和11年)4月に完成。

設計から完成まで10年を超える難工事だったようでっせ。

(大阪市立美術館 右手から撮影)



完成した時には住友吉左衛門は次男の友成さんの時代に
この方が住友財閥最後の16代住友吉左衛門友成さん。

この方も1928年(昭和3年)に大阪市が募集した
大阪城天守閣再建の寄付金に25万円を寄贈されてまっせ。

募集の総額が150万円で78250人が応募し
数か月で満額が集まったとの記事が残ってますんや。

住友吉左衛門の25万円から10銭を寄付した市民まで
お上が与り知らない大阪人が単独で造ったお城でんな。

(大阪城天守閣 昭和6年完成)







この天守閣の建築費が47万円で公園整備に23万円。

天守閣の半分以上を住友家が負担したようなもんでっしゃろ。

現在のお金で換算したら100億円とも200億円とも
言われる多額のお金を住友家が寄贈した訳でっせ。

戦前は大阪城内の全てを日本陸軍が所有する土地で同時に
大阪第四師団の本庁舎を建設するのに80万円が使われてまぁ。

(大阪城内 旧第4師団庁舎)





そもそも昭和天皇即位を祝して大阪城天守閣を再建する
そういう理由だったので日本陸軍も文句を言えなかったとか。

おまけに師団庁舎まで造ってくれるので仕方がないとね。

この大阪城天守閣と陸軍第4師団庁舎はアメリカ軍の空襲に
1トン爆弾の被害を受けたけど、かすり傷で済んだんだだって。

大阪城の天守閣は現在は各地で増えている天守閣再建の動きと
城内に展示館を設ける先駆けとなったように言われてますんや。

蛇足ながら現在も土地の登記は陸軍省のままで国が無償で
大阪市に提供しているということになりまんねん。

天守閣は不思議なことに建物の登記がされてまへんのや。

まさか大阪城天守閣は「わいの物や~」なんて言い出す
変なやからは居ないのでこれで良いんだそうでっけど。

(天王寺公園内 慶沢園)





次回は住友家本宅の庭園だった慶沢園(けいたくえん)と
茶臼山などを紹介しまひょかな。

それじゃ~ 今日はこれで、さいなら~♪




















残念ながら見納め!  大丸心斎橋店・本館

2015-12-20 14:27:37 | デジカメ散歩
大阪が誇る「大正モダン建築」が又もや解体ですわ。

1922年(大正11年)~1933年(昭和8年)完成

築80年を超え、来るべき南海地震にも対応する為に
老朽化した建物を建て替えるとJフロントが発表。

現在は松坂屋と大丸が同じグループで統合されたんでしたな。

想い出もある大丸心斎橋店・本館を訪れてきましたんや。

(大丸心斎橋店 本館) (御堂筋から撮影)





完成した頃は東京が関東大震災の復興半ばだった関係で
大阪市が、日本一の経済都市として「大大阪」と呼ばれ
一番輝いた時代に完成したのが大丸心斎橋店・本館でおます。

米国生まれのW.M・ヴォーリズという方が設計したそうで
花崗岩・スクラッチタイル・テラコッタを使用した外観は
3層構成の「大正モダン」を代表する建物なんだって。

この外観の画像は御堂筋の拡張工事と大阪市営地下鉄の
完成に合わせて増築された昭和8年完成の第3期工事。

(大丸心斎橋店 本館)(北西側を拡大)



最上部はニューヨークの摩天楼を想像させるとか言われましたんや。

今年の12月30日で営業を終了し、年明けの2月から解体だとか。

大丸百貨店心斎橋店・本館は1945年の大阪空襲で5階以上が焼失
戦後に修復されましたが、外観は当時とほとんど変わってまへんで。

内部は新しい時代にマッチするように改造されてますが低層部には
当時の「アール・デコ調」と呼ばれる幾何学模様や直線を強調した
装飾や金具やステンドグラスなどが現在も残されてまんねんで。

(大丸心斎橋店・本館 正面玄関)





W.M・ヴォーリズは設計では「不死鳥」をイメージしたそうですが
完成したのは孔雀(ピーコック)で現在でもこの装飾は店舗のシンボルで
「愛と幸福」を意味するんだとか聞いたような記憶がおますんや。

大丸心斎橋店・本館は心斎橋筋側が正面玄関になりまんねんで。

完成まで3期に分けて11年間も工事が行われた際にも、第1期目は
ここ心斎橋筋側が1924年(大正14年)に完成したようでんな。

(大丸心斎橋店 エレベーター附近)







(六角の星でデザインした時計)



色んな装飾を画像で貼り付けてみまっさ。

これらは1階フロアに今も使用されてますんや。

(1階の階段附近)





(1階天井 照明器具)



(1階の天井部分)





(1階の梁に 鷹の彫刻)



(出入り口の 装飾金具)



(ステンドグラスの装飾)







Jフロントは建て替えに当たり、これらの装飾や金具を
可能な限り取り外して再利用したいと発表してまんな。

W.M・ヴォォーリズの設計した「アール・デコ」と
御堂筋側の外観も残して、現在の8階建て(40m)を
11階建て(60m)に平成31年の完成を目指すとか。

(大丸心斎橋店の 垂れ幕)



ラストの26日からは「1000万円均一」で5カラットの
ダイヤモンドの福袋も売りだされるとの情報でっせ。

鉄ちゃん爺やには、そんな高価な福袋には縁はおまへんけど。

他に「50万円均一」の福袋などは爆買いの中国人が対象?

(大丸心斎橋店 銘板)



大丸さんは1717年(享保2年)に京都の伏見で創業した
「大文字屋呉服店」がスタートになるんだって。

1726年(享保11年)に現在の場所で「松屋」と名乗り
現金正札販売で呉服店を始めたのがルーツだそうですわ。

江戸時代の後半には「大丸」の名前を使用していたとの説。

「大丸は義商なり 犯すなかれ」

1837年(天保8年)の大塩平八郎の乱では大坂市内の
豪商や大店は焼き討ちに遭ったが、大丸は難を逃れたとも。

(御堂筋側 大丸の銘板)



大丸の図柄は「丸で宇宙を表し 大は一と人を合わせて」

天下一の商人になろうとの意気込みから作られた物なんだって。

確かに1960年代には高度成長時代で小売業の業界で
売り上げ日本一を7年連続で記録したこともおましたんや。

東の三越に対して、西の大丸と言われた華やかな時代。

現在では百貨店は冬の時代を迎え苦戦してまっけど。

(大丸心斎橋店・本館 外装のランタン)



(大丸心斎橋店 本館&北館)



(大丸心斎橋店 北館)



ここは元はそごう百貨店でしたが倒産後に大丸が買収し
現在は近代的な建物に造り替えられてしまってまんな。

新しい大丸心斎橋店・本館とこの北館を2階より上部で
渡り廊下を新設して繋ぐような計画があるようでっせ。

(冬枯れの御堂筋)



(大丸心斎橋店前 名残の銀杏)



蛇足ながら、大丸は現在でも心斎橋店(しんさいばしみせ)
関西の店舗ではそのように呼ぶそうで、他のデパートでは
池袋店(いけぶくろてん)とか呼ぶのが普通でっかな。

次回は大阪御堂筋と中之島のイルミを紹介しまひょ。

ほんなら~ 今日はこれで、さいなら~♪





















鉄ちゃん爺やの小話  興福寺& 廃仏毀釈

2015-11-14 20:08:48 | デジカメ散歩
今回は東大寺の大仏さんと並んで奈良市を代表する
法相宗大本山・興福寺のお話をさせて貰いまひょ。

興福寺は都が平城京に遷都された710年(和同3年)
藤原不比等が飛鳥から移設して創建したお寺だっせ。

元は大津京にあった山階寺が飛鳥に移されたものだとか。

藤原鎌足の妻・鏡女王が夫の病気全快を願って
大津京に造ったお寺だったとされてまんねん。

別名で現在も山階寺と呼ばれることがあるんだって。

(興福寺 東金堂=とうこんどう) (重要文化財)



(興福寺 五重塔 & 東金堂)



現在の興福寺は奈良公園の中にお寺が立っている。

その境界も不明で歩いてたら興福寺に入ってしまった。

そんな印象を受ける観光客が多いかもしれまへん。

(興福寺 本坊)



興福寺は藤原氏の氏寺としてスタートしましたが
平安時代には摂関家の子弟が送り込まれる
平安貴族にとっては重要なお寺でしたんや。

鎌倉・室町時代には守護が大和の国(現在の奈良県)には
設置できず、興福寺が大和一国を支配してたんですわ。

強大な武力を持つ宗教軍団でもあった訳でんな。

藤原一族の寄付と荘園を多く持つ特権階級でもあった。

藤原一族である京都の高級貴族の支援を受けて
6度にわたる被災にも再建を繰り返してきました。

(春日大社 本殿)





そして中世以降は藤原氏の氏神である春日大社も
興福寺と一体となって、時には京都の朝廷や
政府を悩ますような強訴を繰り返したこともおます。

なにせ春日大社のご神木を持ち込まれたら京都の
貴族は恐れおののいて、何もできなかったとか。

そりゃ~ ご先祖様を祀るお寺と氏神様ですわな。

(興福寺付近の 地図)



時代が下がって江戸時代になっても興福寺の寺領は
約1万5千石を保有し、塔頭である一条院が約1500石
同じく大乗院が914石合わせると小大名級の領地を持ち
大和の国では大きな影響力をもつ宗教団体だったようでっせ。

東大寺が江戸時代には寺領2200石で法隆寺が1000石
比べて見ても興福寺の、ずば抜けて大きいことがわかりまっしゃろ。

興福寺は前回にもお話したように1180年(治承4年)の
平氏による「南都焼き討ち」では全ての堂塔が焼けてますんや。

その後も鎌倉時代の1327年(嘉歴2年)及び江戸時代の
1717年(享保2年)に興福寺の大火が記録されてまぁ。

再建は縮小されながらも明治維新を迎えるまでは
それなりに立派な寺院として存在してましたんや。

(春日大社の 二の鳥居)




1868年(慶応4年・明治元年)3月13日に新政府は
「神仏分離令」なるものを布告したんでっせ。

江戸時代までお寺と神社は一体となる「神仏習合」が普通で
この興福寺もその代表的な形態を維持していたんですわ。

神社では僧侶が神前でお経をあげるというのが普通だった。

この布告により神官を兼務する僧侶に対して還俗が命じられ。

興福寺の僧侶は一夜にして春日大社の「新神官」に変身させられ
仏具や仏像は神社から撤去せよとの、お達しがあったんだって。

そして1871年(明治4年)に寺領上知令(じょうちれい)が
太政官布告で発せられ、境内と堂塔の敷地以外は全てお上に
没収されることになり全国のお寺は大きな被害を受けましたんや。

九州地方には現在も大寺院がないとの説も聞こえてきますけど。

(奈良公園 元は興福寺の敷地)



(若草山 ここも元は興福寺の領地)



1870年(明治3年)から翌年1871年(明治4年)にかけ
全国で「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)が起きたんだそうです。

廃仏毀釈とは = 仏教を廃止して、お釈迦さま(仏像)を壊す 

明治政府は仏教を神道と区別して分離することを宣言しただけなのに
一部の国家神道を重んじる宗教家の扇動もあって、全国のお寺で
仏像・仏具・絵巻物などを破壊する動きが盛り上がったんだって。

この廃仏毀釈に、奈良県の初代県令であった四条隆平(たかとし)が
熱烈な廃仏家だった為に、興福寺が目の敵にされたわけでんがな。

元は藤原一族で京都の公家さんなのに頭を傾げたくなりませ。

(猿沢の池 & 興福寺五重塔)



猿沢の池の北側には興福寺の土塀が有ったんですが通行の邪魔で
無用の長物と称して全てを取り壊してしまったそうですわ。

それまでは興福寺の周囲は土塀で囲われていたんでっせ。

これが今日の興福寺が奈良公園との境界が不明な原因でっかな。

(国宝 興福寺五重塔)





四条隆平(たかとし)は興福寺を廃寺にすると共に。

五重塔の上部から綱を掛けて万力で引き倒すように命令したとか。

でも五重塔は人間の力では引き倒せなかったんだそうですわ。

そこで5円とか25円とも言われる値段で払い下げて、入札者が
五重塔を焼いてから金具類を回収しようと考えたそうでんな。

所が奈良の町民が飛び火を恐れて火を付けることを止めるように
県庁に申し込んで一時的に保留と成ったんだそうですわ。

その内に県令の四条隆平が転勤となり自然消滅で五重塔は
取り壊されずに、現在の姿を残すことになったんだって。

すんでの処で、奈良のシンボルである興福寺の五重塔は
この世から消えてなくなる運命にあったんでんな。

(奈良公園の 鹿)





奈良県令の四条隆平は「春日大社の神鹿」と言われてきた鹿を
有害動物として射殺することも許可、全てを奈良公園の一角に集めて
鹿が38頭にまで激減する事態になったと記録があるんだって。

餌を与えないので鹿が大量に餓死したと言われてますんや。

四条隆平の廃仏毀釈は奈良全県に及び中世からの大寺院だった
天理市の内山永久寺は現在では池の一部を残して消滅してますんや。

興福寺も廃寺となって無人の寺となり重要な仏像や文化財が
二束三文で流出したり壊されてしまったようでんな。

現在でも元興福寺にあった仏像が特別展示で奈良へ里帰りした
そんな説明書きを博物館で目にすることが多いんですわ。

(元 大乗院門跡跡)





ここは興福寺の門跡寺院であった大乗院が在った場所でっせ。

ここも四条隆平(たかとし)によって興福寺から取り上げられ
現在は奈良ホテルと一部が公園にされてますんや。

大乗院は摂関家の九条家の子弟が門跡になるお寺でしたんや。

一条院も摂関家の近衛家の子弟が門跡になるお寺でしたが同じく
奈良地方裁判所になり戦後に唐招提寺の御影堂として移設されたとか。

もし四条隆平が明治の初期に県令として赴任してなければ
奈良県のお寺には、もっと多くの国宝級の文化財が有ったでしょうな。

現在でも奈良県は国宝の数では日本一でっけど、日本ばかりか
海外に流失した文化財が多い事を知って欲しいと思いましたんや。




今回、鉄ちゃん爺やが興福寺を訪れたのは普段には拝観できない
「北円堂」というお堂の特別公開がおましたんで出かけたんですわ。

(興福寺の 北円堂)(国宝)









係り員のお話によれば毎年、春と秋にのみ特別公開されるんだつて。

現在の興福寺に残る最古の建造物で「南都焼き討ち」の直後になる
1210年(承元4年)に再建されたそうで、江戸時代の大火にも
奇跡的にも焼けずに残った、八角円堂の華麗な素敵な建物でっしゃろ。

鎌倉時代の建物でっけど奈良時代の姿を良く伝えているんだって。

興福寺の西の隅にあり平城京を一望にできる位置になりますんや。

元々は平城京の推進者で有った藤原不比等の一周忌に当たって
元明太上天皇と元正天皇がお建てになった建造物なんだって。

藤原不比等の霊をなぐさめる絶好の位置だということでっかな。

(国宝 北円堂の仏像)







写真撮影が禁止されてましたが、お堂から出る際に申し訳ないが
内緒で盗撮させていただきました、全てが国宝の仏像だそうです。

別に「南円堂」というお堂も近くにおまっせ。

ここは西国巡礼第9番札所に成っていますんで
興福寺では唯一、老若男女の多い場所になりますんや。

(興福寺の 南円堂) (重要文化財)







江戸時代に再建されたお堂なので国宝には成ってまへんな。

でも本尊の観音菩薩像は国宝に指定されてるそうでっけど。

(再建中の 興福寺の中金堂)





興福寺の中心になる中金堂は江戸時代の享保の大火で焼失し
現在まで再建が出来ない状態が続いてたようでんな。

平城京遷都1300年の事業として興福寺の中金堂を再建する
工事が今も続いているそうで、完成は平成30年だとのこと。

(猿沢の池)





(猿沢の池と五重塔を背景に撮影)



この興福寺の五重塔を背景にした猿沢の池は
奈良を代表する風景だといわれてますんや。

一人だけ邪魔な年寄りが写ってますので艶消しかな?

(猿沢の池と 興福寺の五重塔)



こちらの方がやっぱり絵になる奈良の風景でっしゃろな。

それじゃ~ 今日はこれでお仕舞にしまひょ。

ほな~ さいなら~♪







鉄ちゃん爺や  奈良の大仏さまに再会

2015-11-08 14:36:00 | デジカメ散歩
般若寺を後にして奈良公園へ向かいまひょ。

国道369号線への分岐点からスタートでっせ。

ここからJR奈良駅前行きの路線バスですわ。

(左 柳生へ 直進 奈良公園)



昔の柳生街道に沿って三重県へ抜ける国道でんな。

若草山の裏手を通って伊賀の国(現在の三重県)へ。

鉄ちゃん爺やが若い頃には酷道369と呼んで
車で走るには難しい道でしたんや。

最近はバイパスもできて軽快な国道になったとか?

ネットにはそんな書き込が見られますもんで。

鉄ちゃん爺やは柳生村から先は知りまへんけど。

酷道?を返上し晴れて国道に成ったのなら正解かな。

柳生はあの剣豪・柳生一族を生んだ村でっせ。


県庁前から一つ手前でバスを降りてみました。

この辺りを東へ入れば東大寺かな? そんな想定。

奈良公園から南大門を通るのが観光客のルートでっけど

鉄ちゃん爺やは脇道から歩いてみることにしましたんや。

(依水園=いすいえん)





奈良市内では一見の価値が有る日本庭園だとの噂。

敷地に入ったんでっけど拝観料が900円とは!

確かネットでは650円と書き込まれていたはず。

最近になって値上げしたような感じ。

東大寺へ行きたかったので今回はパス。

(依水園のポスター)



前園と後園の二つに分かれた趣のある日本庭園だとか。

江戸時代に作られた前園は奈良の晒職人さんが作庭した物で
三秀亭から食事をしながら観るのが良いと書き込まれてまんな。

明治時代に作られた後園は実業家が若草山や東大寺の南大門を
借景にして作庭した回遊式の明るい日本庭園なんだって。

神戸の中村家が買い取って「寧楽美術館」と併設して戦後に
一般公開したとか、そんな訳で民間の観光用の施設のようでんな。

寧楽(ねいらく)とは奈良を昔流に呼ぶ表記で、奈良美術館が
別にあるので、こちらは「寧楽美術館」と名前を付けたのかも?

(東大寺への 古い土塀)



やはり奈良ではこんな土塀の方がお似合いだと思いまんねん。

どうやら南大門と中門との間の道を歩いているようですわ。

(東大寺 境内の石碑)



(鹿がお出迎え)







鹿せんべいを持ってなかったら触っても知らん顔でっせ。

女の子が触っても、しゃがみ込んだままで動きまへんわ。

逆に鹿せんべいを持ってたら立ち上がって大人にでも
追いかけてくる、そんな貪欲な習性など見せますんや。

逃げたら余計に追っかけてくるので、ご用心でっせ。

(東大寺の 中門)



(中門の外から 国宝・大仏殿を撮影)



ここまでは昨年も、やってきてデジカメで撮影をしたはず。

でも入堂料を払って拝観したのは、もう30年ぐらい昔かな。

久しぶりに奈良の大仏さんに、お会いしたくなりましたんや。

(東大寺の 回廊)





(大仏殿への 入堂口)



(東大寺 入堂券 大人 500円)



東大寺は奈良を訪れる観光客の過半数が訪れる
そんな奈良市内を代表する名所でしょうな。

この時期は修学旅行の学生さんも多く随分と賑わってまぁ。

(大仏殿を 中門の内部から撮影)



この大仏殿へ向かう石畳はご存じかもしれまへんけど~

中央の黒いのはインド産でその両脇で赤っぽいのが中国産
その外側に朝鮮半島産が敷かれ一番外側が日本産なんだって。

菱型の模様の部分が日本産だとか聞いたように思うけど。

インドから中国や朝鮮半島を経て日本へ仏教が伝わった
そんな意味を、この石畳は示しているんでしょうかな。

(国宝の 八角灯籠)





大仏殿は平安時代と戦国時代に二度も焼け落ちたそうでっけど
この八角灯籠は修理を施されたけれども当時の姿を残しているとか。

それじゃ奈良の大仏さんに、ご対面~

(国宝 東大寺 金銅廬舎那仏坐像)



 

正式には廬舎那仏(るしゃなぶつ)とお呼びしますけど
やはり、奈良の大仏さまの方が親しみがあるのかも?

大仏さまの台座や両腕から垂れ下がった袖の部分だけが
天平時代のままで、お体の部分は鎌倉時代に再建された物だとか。

頭の部分は江戸時代の作で、座高が14.98mと記録され
台座が約3mほどかと、約18mの大仏さまを下から見上げて
優しいお姿を拝むことに成るんですわな。

それにしても推定240トンとも称されるこんな大きな大仏さんを
天平時代に作ったとは、驚きの他がおまへんで。

最初に創建されたのが752年(天平勝宝4年)だったとか。

それから二度も兵火に焼かれたけど、その都度に国家や庶民の
多額の寄付により再建されたいう歴史がおますんや。

(奈良の大仏さんと 自分撮り)



観光客は大仏さまに圧倒されて両脇の仏様をご存じかしら。

鉄ちゃん爺やも両方の脇仏さまの記憶がおまへんでした。

昔から脇仏さまは置かれていたのかしら?

これじゃ、とてもじゃないが、ご利益を受けられまへんな。

(虚空蔵菩薩 右側の脇仏さま)



カメラぶれしてしまいましたが、ご容赦のほどね。

(如意輪観音 左側の脇仏さま)



大仏さまの裏側には金箔が残ってるように見えまっせ。

金銅の痕跡が写真を撮っても分かりまっしゃろ。

(大仏さまの 裏側)



(柱くぐり)





大仏さまの鼻の穴と同じ大きさだとか、誰が言い出したのかな?

昔から東大寺の大仏さまにやって来たら柱をくぐり抜ける。

この日も修学旅行の学生さんが行列してるんで、パスしまひょ。

今の鉄ちゃん爺やではメタポで抜けられなかったらお笑いでんがな。

(大仏さまを護る 広目天)



(大仏さまを護る 多聞天)



最近では各地の寺社仏閣では高い拝観料を取るのに撮影は禁止!

ここ東大寺は入堂料も大人500円で、どこでも撮影がOK。

三脚は禁止でっけど、本来はこうあるべきだと思いまんねん。

(東大寺の ご朱印)



(大仏殿から 境内を撮影)










前回にも紹介しました般若寺を平重衡は焼き払う命令を出し
当日の強い北風で約3kmも離れた東大寺や興福寺までが全焼。

世に有名な、平家の「南都焼き討ち」と呼びますんや。

1180年(治承4年)旧暦12月28日のことでした。

新暦では1181年1月15日になりますんで、書物には
1180年と1181年の両方が併記されてまっかな。

なんと~ 驕る平家はその5年後に滅亡してしまいました。

(東大寺 大仏殿をズームアップ)





この大仏殿は戦国時代の二回目の焼失から約100年間も
雨天に曝されていた大仏さまと共に、再建するには特に
5代将軍徳川綱吉公と生母の桂昌院の強力な支援があったと。

犬公方さんと評判の悪い徳川綱吉さんも、ここ東大寺の
大仏さまと大仏殿の再建には大いに貢献されたんでっせ。

その点では徳川家康公や家光さんは関心が薄かったのかも。

現在の大仏殿は1709年(宝永6年)完成のようですわ。

(東大寺 中門をズームアップ)







(東大寺の回廊から 大仏殿を撮影)







この大仏殿は東西が57.5mで奥行きが50.5m

高さは49.1mもある世界一の木造建築物なんだって。

これも天平時代のに比べれば3分の2の大きさで
当時のは東西が86mもあったと記録されてまんな。

世界一の木造建築では何処かの国で見世物のような
大きな建物を造ったとかで現在は使わなくしたとか?

(東大寺 大仏殿の出口)





(東大寺 境内の鏡池)









東大寺の境内はいつ来ても観光客が多いでんな。

この時期は外国人よりも修学旅行生の方が多いのかも。

鉄ちゃん爺やの孫も愛知県から2泊で来たとか言ってました。





(大仏さまと 同じサイズのレプリカ)



(紅葉の始まった銀杏と 東大寺の南大門)





まだ紅葉には少し早いですが色づき始めた木々もおます。

奈良や京都の紅葉は11月中旬あたりが見頃でっしゃろな。





(東大寺 旧東南院跡)









現在は東大寺の本坊として使われているようでんな。

鎌倉時代の大仏開眼法要には源頼朝や後白河法皇も
ここ東南院に宿泊して再建された大仏に対面したとか。

それ以降も、上皇や天皇さまが東大寺に参詣する際には
ここ東南院が宿舎に使われることが多かったんだって。

東大寺は何せ、日本国を鎮護する為のお寺でっさかいに。

現在は信仰心もない観光客の溢れるお寺に成ってまっけど。

今も日本国を護るお寺であることに変わりはおまへん。

(東大寺 南大門)





(牡鹿同士の 決闘)





やはり立派な角がある方が迫力がおますな。

奈良公園で牡鹿の角切りをされた後の二頭ですわ。

角があるつもりで牡鹿は押し合っているのかしら?

毛並みも気のせいか寂しげな姿に見えまっしゃろ。

この時期の牡鹿は夏に比べると大人しく感じまんな。

観光客に危険が少なくて、その点では宜しおますけど。

(東大寺 参道の土産物店)





(角を切られた 牡鹿)



(まだ若い 牡鹿?)



毎年ながらこの時期には正倉院展が開催されてまっせ。

鉄ちゃん爺やも最近でも2回ばかり見学しましたけど
2回目から展示品の撮影が禁止となりましたんや。

5年ぐらい前までは撮影もOKだったのにな~

やはり、観るだけでは興味も薄れまんがな。

それでも毎年ながら30万人前後の入場者でっから
奈良の秋を象徴する行事に、違いはおまへんけど。

(正倉院展の ポスター)



(正倉院展開催中の 奈良国立博物館)





これは夕方の4時前ぐらいの画像なので行列もわずか。

これが土日の午前中なら1時間待ちの大混雑になりまんねんで。







(奈良公園から 遠くに奈良県庁を望む)







これから歩いて興福寺の方へ向かってまんねん。

長くなりますんで、今日はこれでお仕舞にしまっさ。

国宝の興福寺で普段は拝観できない北円堂ほかを
次回には紹介することにしまひょ。

ほな~ これで、さいなら~♪

鉄ちゃん爺や  奈良 般若寺を訪ねて

2015-11-01 15:04:58 | デジカメ散歩
この時期は正倉院展や京都御所・秋の特別公開など
奈良や京都は何処へ行っても賑わってますんや。

今回はあまり観光客も訪れない有名なお寺を紹介しまひょ。

奈良市の郊外に在る般若寺(はんにゃじ)と言うお寺でっせ。

(般若寺のパンフレット)





このお寺はパンフレットによれば奈良時代に聖武天皇が平城京の
鬼門鎮護の為に阿弥陀如来像と大般若経を奉納されたお寺なんだって。

その大般若経を納められたことから般若寺(はんにゃじ)の寺名が
付けられたようで、創建は飛鳥時代に遡るように記録されてますんや。

(奈良坂  別名を般若坂とも呼ぶ)



(バス停から 遠くに大仏殿を望む)



この道は奈良と京都を結ぶ古くからの街道だったようでんな。

この坂を越えると京都府の木津川市は、もうすぐなんでっせ。

般若寺(はんにゃじ)は最近ではコスモスの寺として有名。

このお寺は「平家物語」「太平記」「宮本武蔵」など
歴史小説にも、しばしば登場する名刹なんですわ。

そんな訳で1181年(治承4年)の南都焼き討ちでは
奈良の大仏さんと同じ日に、このお寺も焼失したようでんな。

なにせ~ 興福寺の寺衆が大和一国を支配する地域だったので
何度も兵火に襲われ、その都度に復興と焼失が繰り返されたとか。

(奈良交通 般若寺バス停)



それじゃ般若寺へ向かいまひょ。

江戸時代までは約2万8千坪もの敷地を保有する大寺院でしんや。

明治新政府の上知令で取り上げられ現在は約2500坪ぐらいかな。

あげくに廃仏毀釈で大きな被害を受けたようでっせ、記録によれば
当時の奈良県令が廃仏毀釈には凄く熱心な方だったとの事。

(国寳  般若寺の楼門)







南都焼き討ちの後、鎌倉時代に再建された楼門なんだって。

南大門や中門と呼ばれる正門が有ったんだけど戦国時代に
松永久秀と大和の寺衆との兵火で再び焼けてしまったとか。

幸いに京街道に面したこの楼門だけが残ったんだって。

鎌倉時代の楼門建築でも最古の形式を今に伝えているとか。

美しく軽快な屋根のそりを見せているので素敵でっしゃろ。

(般若寺の本堂 & コスモス)







本堂は何度も焼失して現在のは1667年(寛文7年)江戸時代で
4代将軍・徳川家綱公の時代に再建されたお堂のようですわ。

(般若寺の ご朱印)



ここ般若寺は十三重の石宝塔で有名なお寺でもおます。

聖武天皇の創建と伝えるも、現在の物は鎌倉時代の
1253年(建長5年)に中国は南宋の石工である
伊行末、行吉の手で再建されたものだそうでっせ。

(般若寺 十三重の石宝塔)(重要文化財)











石宝塔の下部四方に薬師・釈迦・阿弥陀・弥勒の四体が
刻まれて、南都仏教の「顕教四仏=けんぎょうしぶつ」を
表現していると書かれていますね。

十三重の石宝塔を1964年(昭和39年)に大修理をした際に
五重目の処から大日・観音・地蔵の胎内仏三尊像が出現したそうで
現在は秘仏として宝蔵堂に保管されているんだそうですわ。

春と秋に特別の秘仏公開がされますんやけど撮影は禁止。

パンフレットから本尊の阿弥陀如来と胎内仏三尊を貼り付けておきまひょ。

(般若寺 阿弥陀如来 & 胎内仏三尊)





(般若寺 境内のコスモス)











ここのコスモスは前住職が植え始めて現在は約15万本だとか。

このお寺は南都仏教なので檀家が1軒もないそうですわ。

国家鎮護のお寺だから庶民の為のお寺じゃ無かった訳でんな。



現在も真言律宗と呼ぶ宗派で唐招提寺などと同じ宗旨だったかな?

だから、コスモスの育成も大変でボランティア募集中だとか。

他にも色んな重要文化財がこのお寺には残ってますんや。

(笠塔婆=かさとうば)(重要文化財)





十三重の石宝塔を造った宋人石工の行末の一周忌に息子の
行吉が父母の供養に建立したと書かれてますな。

廃仏毀釈で破壊されて放棄されていたのを、お寺の南側の
般若野から明治26年に般若寺の境内へ移設したとのこと。

(一切経蔵=いっさいきょうぞう)(重要文化財)





「太平記」によれば大塔宮護良親王が唐櫃に入り
この経蔵に隠れて危難から逃れたことに成っていますね。

(般若寺境内の コスモス)







(平重衡公 供養塔)





1181年(治承4年)に南都焼き討ちを指揮した
平重衡(たいらのしげひら)は源氏の捕虜になつたが
南都の寺衆に引き渡されて殺されるんでしたよね。

処刑されたのは奈良坂の向こう側の木津川べりだったとか。

彼の首をこの般若寺の門前になる京街道に曝して南都焼き討ちの
鬱憤を晴らしたということが色んな記録にも残ってますんや。

(藤原頼長公 供養塔)





1156年(保元元年)崇徳上皇側に居た藤原頼長は戦いに敗れ
父親である藤原忠実を頼って南都の興福寺へ逃れようとしたが
流れ矢に当たって死亡、般若山に葬られたとされています。

世に有名な「保元の乱」で崇徳上皇側の首謀者とされた、お公家さん。

(大塔宮 護義親王 供養塔)





後醍醐天皇と密接な関係に有った般若寺なので悲運な死を遂げた
大塔宮 護良親王は天皇の長男になるお方でしたよね。

鎌倉で亡くなられましたが、このお寺とも縁が深いようですな。



本堂の前に形の綺麗な石燈籠が置かれてましたんや。

これも有名な燈籠で「般若寺型石燈籠」と呼びまんねんで。

これの最古の物は東京の椿山荘に現存してるそうでっけど。

(般若寺型 石燈籠)





ここでお昼も過ぎましたんで門前のレストランへ。

オムレツとコヒーで1200円でしたね。

(般若寺門前の レストランにて自分撮り)









明治時代から操業の牧場が直営で営業しているレストランでっせ。

二番目の左側はこの牧場の牛乳で作られたスープでした。

(植村牧場)







2014年(平成26年)には安倍首相も訪れたそうです。

ふるさと創生のPRを兼ねた奈良市を訪問の一環かな?



ここで昼食を終えて再びバスで東大寺の方へ向かいまっさ。

次回は久しぶりに奈良の大仏さんにお会いしてきましたんで。

東大寺や興福寺などを紹介させてまらいまっさ。

ほんなら、 今日はこれで、さいなら~♪








世界記憶遺産に登録   東寺百合文書 他

2015-10-25 19:25:53 | デジカメ散歩
東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)

10月10日にユネスコから世界記憶遺産に登録されました。

同時に京都府舞鶴市の「シベリア抑留・引き揚げ記録」も
登録されて日本では4件目と5件目になりましたんや。

「Memory of the world」 直訳すると 世界の記憶!

でも何故か、日本では世界記録遺産とか呼んでまんな。

世界文化遺産と比較するのは一寸、無理がおますけど。




同時に中国の南京市での「南京大虐殺」の記憶と称する
中国がねつ造した30万人の犠牲者との件も登録されて
日本では大きな波紋が広がってまんがな。

日本政府のロビー活動で大きな汚点やと、思いまへんか。

当時の南京市の人口を上回る民間人を日本軍が虐殺した?

日本側の見解では軍人か民間人かの区別のつかない敗残兵
約1万人~2万人を銃殺したとは記録されておますけど。

それは~ あくまでも戦争中での軍事行動の範囲でんがな。

それならば、中国人民共和国が内戦後にチベット人を
大量に虐殺した方が犠牲者の点では甚大でんがな!

「チベットの大虐殺」も世界記録遺産に推薦しまひょ~



話が脱線しましたけど、東寺百合文書に戻りまっせ。

東寺は平安時代の796年(延暦15年)に創建され
嵯峨天皇から真言宗の空海に賜ったお寺なんでっせ。

新幹線が京都駅を出て新大阪へ向かう左手の車窓に
五重塔が見える、正式には教王護国寺と言うお寺でんな。

東寺は大きな火災にも会わず宝蔵に保管されていた古文書が
江戸時代には各地の荘園など既に消滅していたのにも関わらず
2万5千点もの古文書が残されていたのには驚きでっしゃろ。

僧侶の落書きや、庶民の切実な声なども聞こえてきまっせ。

普通なら処分されてしまうのが、何故か大量に保管されていた。

特に中世の歴史を証明できる記録の遺産に違いはおまへん。

今回は私の愛読する書籍から「東寺百合文書」を紹介しまひょ。

「東寺ユリもんじょ」 なんて間違えて読まないで頂戴ね。

(東寺百合文書=とうじひゃくごうもんじょ)



江戸時代1685年(貞享2年)加賀藩の5代目藩主・前田綱紀公が
京都の東寺から古文書を借用して部下に命じて書写をしたんだって。

前田綱紀公は歴史に強い興味を持つ、お殿様だったようでんな。。

お礼にと古文書を保管する桐の箱を東寺に100個寄贈したとか。

それで現在は東寺百合文書と呼ばれるように成ったんだって。

現在、残っているのは94箱で最初から無かったのか、それとも
6箱が外部に流失または紛失したのかは不明なようでっせ。

いろはにほへと・・・  47文字で片仮名と平仮名の両方
 
これで合わせて箱の番号が94箱ちゅう事になりまっしゃろ。

(モノクロ 東寺百合文書=とうじひゃくごうもんじょ)



この古文書が戦後に一部だけ外部に流失し、貴重な歴史文書を
残すべきと京都府が1億円? で東寺から買い取ったとの事。

当時の京都府議会で1億円も有れば鴨川に橋を一つ架けられる。

そんなに必要が有るのかどうかと、大いにモメたそうでっせ。

1967年(昭和42年)の事だったと聞いてまぁ。

現在は京都市の下賀茂にある「府立総合資料館」の収蔵庫に
保管されているそうで、古文書の数は約2万5千点にもなるんだとか。

この東寺百合文書の特徴は平安時代から江戸時代中期までの
約1000年間もの東寺での歴史的資料が含まれてるようでっせ。

それも当時の支配者だけじゃなく、地方の荘園に従事した百姓の
訴え状や領民への下文など、中世の歴史を解読する手がかりとして
学者や歴史を学ぶ人々には良く知られた古文書なんですわ。

1997年(平成9年)国宝にも指定されてまんねんで。

(織田信長公 捺印の 東寺への禁制)



最後の処に「弾正忠=だんじょうのちゅう」と書かれているのは
京都へ初めて上洛した際の織田信長の官職でんな。

その下に、有名な「天下布武=てんかふぶ」の朱印が押されてまぁ。

東寺の境内で入洛した軍勢が乱暴・狼藉を行ったり
附近を放火したりすることや、東寺境内で
竹や木を伐採することなどを禁止する文面でんな。

見つけ次第、速やかに厳しく処分すると書かれてまっせ。

古文書でも、これぐらいなら現代人でも解読できまっしゃろ。

(足利尊氏公  兇徒退治祈願の御教書)



将軍・足利尊氏が東寺の供僧に兇徒退治の祈願を依頼した文書

観応元年の年号が入って居るので「観応の擾乱」と呼ばれる
足利尊氏の息子である足利直冬が軍勢を率いて九州から京都を目指し。

親子が北朝と南朝に分かれて会い戦う事態に発展したようでんな。

足利尊氏の弟である足利直義までが南朝方に加わり大和で蜂起するやら。

この後、南朝方が一時京都を奪還する事態にまで発展したんだって。

(丹波 大山の荘 絵地図)



現在の兵庫県篠山市に在った東寺・大山の荘で隣村と水利権で
争いが生じて住民と東寺の現地僧官が提出した絵地図。

山手の隣村から水源を絶たれて田植えが出来ないような感じ。

結局は荘園の一部を地侍に譲って解決に至ったようでんな。

室町時代に下ると80か所以上も所有していた東寺の荘園も
地侍や各地の守護・地頭に領土を侵食されて行くようでんな。

応仁の乱の以降は東寺ばかりじゃなく京都の貴族や朝廷も
荘園からの年貢や役銭が滞り困窮することになりますんや。

各地荘園の揉め事に関する古文書が多いのも特徴でっかな。

(京都 久世の荘 起請文)





1459年(長禄3年)に京都郊外で大規模な徳政一揆が発生。

東寺に宛てて、久世の荘では徳政の土一揆に参加する者は一人も
居ませんと、色んな神仏に誓い偽りは申しませんと記されてまんな。

久世の荘の百姓21名が自筆で署名している珍しい起請文でっせ。

応仁の乱が始まる8年前の混乱した京都を窺う資料でっかな。

(くずし字で書かれた 書状)



裕清と言う僧侶? 亡くなって、その後家さんが書いた手紙か?

遺産相続を求めるような文面かもしれまへんな。

この様な「くずし字」が江戸時代に成ると多くなりまんねん。

御家流(おいえりゅう)と呼ぶ「くずし字」を幕府が公文書に
採用するようになり、庶民にも手習い塾などでも教えたとか。

鉄ちゃん爺やはまだ「御家流」をマスターしてないので判読不能。

江戸時代には町人ですら「御家流」を読み書きできたという事は
本来は漢字で書かれた日本流の漢文よりは簡単だったとの説が。

確かに鉄ちゃん爺やの祖母は小学校も出たかどうか怪しいけど
明治10年生まれで「くずし字」の手紙が読めたような記憶。

明治36年生まれの養父ではもう「くずし字」は読めまへんでした。

それなら70歳の手習いで「御家流」を勉強しようと考えた次第。

くずし字は、勉強すれば1年~2年でマスター出来るとの書籍も。

本当かどうかは疑問だけど、江戸時代の庶民に出来た読み書きが
現代のPCやインターネットがある現代人に読めないはずがない。

そんな意気込みでっけど、読めなかったら笑われそうでんな。

本日はこれにて、お仕舞いにしまっさ。

ほんなら~ これで、さいなら~♪



















鉄ちゃん爺や  宝之市神事 & 升の市を 訪ねて

2015-10-19 19:01:01 | デジカメ散歩
松尾芭蕉が1694年(元禄7年)旧暦9月13日
生涯で最後になった日帰り旅行を詠んだ俳句でんな。

「升買て 分別かはる 月見かな」

住吉大社と、この句がどんな関係に有るのか
鉄ちゃん爺やとしては大きな疑問でしたんや。

ましてや、どんな意味かも知りまへんでしたわ。

(住吉大社の 汐掛け道に 芭蕉の句碑)





旧暦9月13日を十三夜と言い、平安時代から長く
中秋の名月と並び宮中では重要な行事だったようでんな。

十三夜(じゅうさんや)と読んで頂戴ね。

あの仁和寺を創建された宇多天皇が云われた言葉でっせ。

「この夜の月こそ 名月という名にふさわしい」

十三夜はこの宇多天皇のお言葉から始まったとか。

中秋の名月は旧暦の8月15日でっから十三夜の方は
旧暦の9月13日なので「後の月」と言うんだって。

ここまでは何処かの書物で読んだような気もしまんねん。

(平成27年度 升の市 住吉公園にて)



江戸時代には「升の市」が大坂で庶民に良く知られていたとか。

その「升の市」は毎年・旧暦9月13日に行われたんだって。

だから十三夜・当日昼間の行事と言うことになりまんな。

松尾芭蕉は「升の市」を見学中に気分が悪くなり急きょ
門人の宿舎へ戻り、その夜に催された長谷川畦止亭での
月見の句会を欠席したと記録が残ってますんや。

この「升の市」の句は、翌日には少し体調も回復し
発句として、その日の句会に発表されたそうでんな。

木の升を買って気分が変わってしまい、句会に出られなかった
ご免なさいねと、病気を隠しユーモアで詠んだ感じでっしゃろか?

でも~ その後再び病状が悪化して1か月後の
旧暦10月12日に大坂は南御堂の近くで
芭蕉翁は亡くなりはったそうですわ。

(住吉大社 神事の予定掲示版)



住吉名勝保存会のパンフレットから、この神事と関連があると
そんな考えから、再び10月17日に住吉大社へ向かいましたんや。

この日は境内の「御田」から初穂を刈り取る日だそうですわ。

新暦の9月13日では、まだ稲穂が刈り取れないので
明治以降は新暦の10月17日に決まっているようでっせ。

私が住吉大社に到着したのがAM11時前ぐらいでしたかな。





初穂の束は刈り取られて住吉大社の第一本宮に供えられた後。

デジカメ撮影に一寸だけ出遅れましたけどご容赦の程。

参拝客が見守る中で厳かな神事が始まってましたで。

(住吉大社 第一本宮にて)





(第一本宮内 神楽女=かぐらめ と神官)



(神前に並ぶ 市女=いちめ)



この神事には5人の市女(いちめ)と呼ばれる独身女性が
神前に登場し五穀豊穣を願う五穀に合わせて5人のようでんな。

現在は大阪市内の東洋きもの専門学校の生徒さんが任命され
伝統的な神事の一部分を司るんだそうですわ。

(神官と 神楽女=かぐらめ 退場)









この宝之市神事は現在は忘れられてしまった「神嘗祭=かんなめさい」

戦前には祝日だった10月17日に初穂を神様に捧げる日でおます。

80歳以上のご老人でないと、ご存じが無いかもしれまへんな。

11月23日の新嘗祭は宮中や伊勢神宮で天照大神を始め皇祖神と
天皇陛下が新米を共に初めて食べられる重要な神事ですわな。

神嘗祭の方は現在では神社にしか残っていない神事なのかも?

だから~ 宝之市神事もしくは升の市神事とも呼ばれるこの行事は
住吉大社版の神嘗祭(かんなめさい)だ、ちゅう事でんな。

(市女=いちめ 神前から退場)



(市女さん 整列して写真撮影に応対)





裃姿と白装束の男性2人は御田から初穂を刈り取る役目だった人。

5人の市女(いちめ)さんはそれぞれが升を手にされてまっせ。

それぞれに異なった五穀が下げ降ろされたという意味でつしゃろな。

五穀豊穣を願う古い昔からの神事だとお分かり頂けるかも。

これから住吉大社を出て「升の市」を訪問されるそうですわ。

鉄ちゃん爺やもデジカメ撮影に移動しまっさ。

途中で前回に紹介できなかった名所も貼り付けて置きまひょ。

(島津忠久公の 誕生石)











詳しいお話は説明板を貼り付けましたんで、そちらを読んで頂戴ね。

丸に十の字が提灯に入ってまっしゃろ、薩摩・島津家の紋どころ。

初代の忠久公が後に頼朝に命じられて薩摩と大隅の守護として
現在の鹿児島県に着任したというお話になりまんねんで。

太鼓橋を左手に見ながら境内から出て行きまっさ。

(境内の北側から 反り橋を望む)



(神馬の 厩舎)





昔は前の扉が開いてあって白い馬が見えたんだけどな~

現在は閉じられているので、中に居るのかどうかも不明。

まあ~ 神様の馬だから偽りは書いてないとは思うんだけど。

(頼山陽の筆で 刻まれた燈籠)





(住吉大社 北門の鳥居)



官幣大社の文字が戦後にセメントで埋められてまっせ。

終戦直後には進駐軍の取り締まりが厳しかったんだとか。

ここは住吉大社では北門になりまんねん。

それじゃ「升の市」をやってる住吉公園に向かいまっさ。

(升の市で 自分撮り)



(市女=いちめ さん ご登場)





「升の市」に和服姿で写っている方々も東洋きもの専門学校の
生徒さんと関係者だそうで学校のHPにも載せられてましたで。

これも学校の学習授業の一環として毎年ながら続けているんだって。

今年で17回目の参加だということのようですわ。

ご当地から派遣された売り子さんに混じって、売り子役を補助する
和服姿の女性は「升の市」に花を添える雰囲気でおます。

(芭蕉の句碑に お供えされた五穀)





一足先に市女(いちめ)さんがお供えされたようでんな。

蛇足ながら住吉大社の初穂は後日に伊勢神宮へ奉納され
11月23日の新嘗祭の神事に使われると書かれてまっせ。

(升の市 風景)















色んな「木造りの枡」が現代風に作られてまっしゃろ。

ビールのジョッキみたいなユニークな物も売られてましたで。







「木の枡」は現在は岐阜県の大垣市で大半が製造されているんだって。

昔はどこの家庭にも枡がおましたけど、現在は殆ど見られまへんな。

枡でお隣からお米を借りて、枡に少しだけ多めに盛ってお返し。

こんな庶民の風習も現在は廃れてしまってご存じないかも。

鉄ちゃん爺やも、小学校の修学旅行や臨海学校には枡で量り
お米持参という戦後の配給制度での想い出がおますんや。

お米持参じゃないと旅館は大量のお米が手に入らなかった
そんな戦後の食糧難時代のお話でっけどな。

(大垣名物 柿の羊羹)






鉄ちゃん爺やもお土産に柿の羊羹を一つだけ買って帰りまひょ。

「升の市」のお話、少しは分かってもらえたかしら?

松尾芭蕉も訪れた大坂で江戸時代から続く伝統行事でした。

それじゃ今回はこれでお仕舞にしまひょ。

ほんじゃ~ さいなら~♪


































日本一終電が早い駅   住吉公園駅

2015-10-17 20:14:17 | デジカメ散歩
大阪人のジョークでっけどネットで人気なんでっせ!

日本一終電(最終電車)の早い駅は住吉公園駅なんだって。

(阪堺電気軌道 上町線 住吉公園駅)



右側から駅名が書かれてるんで古い駅舎なのは確実でっしゃろ。

平成28年1月31日で廃止が決まりましたんや。







一昨年までは、一日に80往復ぐらいの路面電車が発着してましたんや。

ポイントを含む線路の修復に1億円ぐらいの費用がかかるんだとか。

現在の利用者は1日=100人前後だとのこと。

歩いて100mぐらいの地点に別の停留所もおますんで、廃止しても
乗客の皆さまには大きな影響もないのでこの際は廃線にするんだって。

(現在の 時刻表)





普通は通勤や通学の方の便を考慮して午前と午後に各々2~3便
こんなダイヤが組まれるのは、ローカル線でも、たまには見られまぁ。

JR兵庫駅とJR和田岬駅などの枝線で関西にもおまっせ。

でも~ 朝の便だけで夕方の便はゼロ! こんな鉄道は珍しいでっしゃろ。

そんな訳で、日本一 終電の早い駅として話題になってますんや。

来年の1月末までの話題でっけど。

(電車内に 廃止のお知らせ)





明治時代に馬車鉄道としてスタートした歴史のある路面電車でっせ。

当時は天王寺西門前~住吉公園駅 天王寺さんと住吉さんの
両方を参詣する為に作られた鉄道でしたんや。

平成2年頃でも1日=12000人ぐらいの乗降客がおました。

ピーク時の昭和24年には1日=200本もの路面電車が
ここから発着していた時代がおましたんや。

昭和の時代には隣の南海本線の住吉公園駅から乗り換えで
天王寺駅前へ向かう際には始発駅なので座れましたんや。

鉄ちゃん爺やも座れるんで天王寺へ向かう際は良く使いましたで。

(廃線になる  住吉公園駅への進入線路)



(天王寺方面から 浜寺方面へ向かう電車)



(恵美須町方面から 平面交差点を通過中)




近年になって浜寺公園やあびこ道方面から天王寺駅前へルートを
変更した影響で、ここ住吉公園駅が中途半端になったのかな。

こちらは平日の昼間でも6分間隔でっさかいに、結構と
利用客は多くて推定でっけど、黒字路線でっしゃろな。

あべのハルカスが完成してから流れが変ったちゅうことですわ。

(路面電車同士の 平面交差点 住吉停留所付近)





路面電車で、この様に平面交差しているのは四国の高知市
はりまや橋と、ここ阪堺電気軌道の住吉交差点だけでっせ。

私鉄との平面交差は松山市内にもおますんやけど。

現在では平面交差する鉄道ちゅうのは珍しいものでっしゃろ。

この交差点も取り外されて消滅するのが時間の問題でんな。



松尾芭蕉さんの句碑と升の市を紹介する予定でしたが
画像の取り込みのトラブルで難航中でおます。

今回は取りあえず住吉公園駅だけにします、ご免でおます。

明日にでも芭蕉さんの句碑と升の市などを掲載させてもらいまひょ。

ほんなら~ 今夜はこれで さいなら~♪

鉄ちゃん爺や  住吉公園と高燈籠を巡る

2015-10-11 09:39:15 | デジカメ散歩
「すみよっさん」から西へ延びる参道がおますんや。

江戸時代から「汐掛け道」と呼ばれてまんねん。

当時は「汐掛け道」の先は大阪湾だったようですわ。

それじゃ「汐掛け道」を散歩してみまひょ。

まずは有名な住友燈籠が目に入ってきまっせ。

住友財閥の礎を築いた住友本家が豫州(現在の愛媛県)の
別子銅山から大坂の北浜へ、銅の鉱石を海上輸送するに際し
海上安全と家業繁栄を祈願して住吉大社に石燈籠を奉納。

5代目当主の住友友昌が1727年(享保12年)に初めて
石燈籠を「汐掛け道」に一対(2基)を奉納したんだって。

(住友燈籠 南海本線の高架下)



(住友燈籠の 説明板)



(豫州別子銅山 住友氏 石燈籠の銘)



(享保12年12月 石燈籠の銘)







以降は住友家の当主が代わるごとに石燈籠を奉納したそうで
住友本家の繁栄にはこの別子銅山が大きく寄与したんだとか。

16代目の当主が1929年(昭和4年)に奉納したのが最後で
現在判明している一対14基(合計28基)が残存してるんだって。

同時に江戸時代の後半になり大坂商人をはじめ全国の商工仲間が
武士に代わって台頭すると住吉大社に石燈籠を奉納するという
ブームが続き、その結果が約600基にも成ったようでっせ。

南海本線の高架下に住友燈籠が纏めて並べられているとは
鉄ちゃん爺やも、訪れて初めて知りましたがな。

元々は「汐掛け道」のあちこちに奉納されていた燈籠を
住吉名勝保存会が、道路整備や南海電車の高架工事に合わせて
年代順に並べ、この地に纏めたとパンフレットに載ってまぁ。

住吉大社へは5年前にも訪れてまっけど、西側の参道になる
「汐掛け道」や住吉公園には久しぶりの訪問なんですわ。

(南海本線 住吉大社駅舎)





鉄ちゃん爺やが独身時代まで南海電車は地上を走ってましたんや。

駅名も住吉公園と言ってましたが住吉大社に変わり高架工事も完了し
高架下はレストランやミニスーパーなどが出来てるようでっせ。

何せ45年ぶりに訪れたので付近一帯は様変わりしてまんがな。

そりゃ~ 浦島太郎のような感覚を覚えるのは当然でっしゃろ。

この高架下までが住吉区で越えると住之江区になりまんねんで。

鉄ちゃん爺やが育った街も、当時は住吉区でしたんやけど
現在では住之江区と言うことに成ってますんや。

でも~ 鉄ちゃん爺やらは住吉区と呼ぶ方が懐かしいでんな。

(住吉区長狭町 町名表示)



この長狭町(ながおちょう)と言う地名は昔々のそのまた昔
住吉大社辺り一帯を意味する由緒ある地名のようでっせ。

(住之江区浜口東1丁目 町名表示)



こちらは住之江区でっけど昔ながらの住吉公園の名前でんな。

住之江公園と言うのは南西約2kmぐらいの処に別におますんや。

住吉公園は1873年(明治6年)に大阪府で初めて造られた
公園で堺市に在る浜寺公園と共に歴史のある公園なんでっせ。

鉄ちゃん爺やが小学校1年生の最初の遠足がここでしたんや。

(住吉公園)







三枚目の画像の場所でブランコと砂場で遊んだような記憶。

でも~ すっかり変わってしまって昔の面影はおまへんわ。

(せんだんの木)





昔は松の木が多かったんでっけど、枯れてしまったようでんな。

江戸時代には「汐掛け道」から出見の浜まで白砂青松の風景が続き
この住吉公園も住吉大社の馬場として境内の一部だったんだって。

(国道26号線)





国道26号線も辿ると江戸時代は住吉大社の敷地だったんでっせ。

明治時代になり出来た、大阪府と和歌山市を結ぶ幹線道路でんな。

この先も今は住宅地や商業地に変わってしまってますわ。

(住吉 高燈籠)





1974年(昭和49年)に復元されたのは知ってましたんやけど
第1と第3の日曜日しか内部に入れないんだそうですわ。

鉄ちゃん爺やが学生時代には、現在地から200mぐらい海側に
残ってたんでっけど、昭和25年のジェーン台風で破損しましたんや。

(台風で破損した 当時の高燈籠)



鎌倉時代の末に出来た日本初の灯台だとの説もおますんや。

元々は住吉大社の常夜燈だったようでっけど、大阪湾に入ってくる
各地の船の目標になったのも、当然のお話やなと思いまぁ。

数年前に訪れた金比羅さんの高燈籠も同じような事が記されてましたわ。

(住吉 高燈籠 絵図)





江戸時代にはこの高燈籠の側が「出見の浜」と呼ぶ海岸だったとか。

当時の大坂名所を描いた絵図にも良く登場したそうでっせ。

この「出見の浜」で住吉大社のお神輿を海水で清めるのが習わしで
「汐掛け道」の名前もそこから始まったんだと思われますんや。

現在は埋め立てられて海岸は約6kmぐらい先になりましたけど。

平成の現在でも大阪湾の海水を汲んで来て住吉公園の中で
住吉大社のお神輿を、夏祭りの前には清めの神事をやるそうでっせ。

住吉大社の夏祭りは7月30日~8月1日で大阪三大祭の一つ
それと共に、大阪の夏祭りの最終を飾る神事なんですわ。

(住吉 高燈籠 復元ミニチュア)



長くなりますんで、今回はこれでお仕舞にしまひょ。

次回は大阪人のジョークで有名になった住吉公園駅や
松尾芭蕉の句碑などを紹介させてもらいまっさ。

ほんなら~ これで、さいなら~♪