東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)
10月10日にユネスコから世界記憶遺産に登録されました。
同時に京都府舞鶴市の「シベリア抑留・引き揚げ記録」も
登録されて日本では4件目と5件目になりましたんや。
「Memory of the world」 直訳すると 世界の記憶!
でも何故か、日本では世界記録遺産とか呼んでまんな。
世界文化遺産と比較するのは一寸、無理がおますけど。
同時に中国の南京市での「南京大虐殺」の記憶と称する
中国がねつ造した30万人の犠牲者との件も登録されて
日本では大きな波紋が広がってまんがな。
日本政府のロビー活動で大きな汚点やと、思いまへんか。
当時の南京市の人口を上回る民間人を日本軍が虐殺した?
日本側の見解では軍人か民間人かの区別のつかない敗残兵
約1万人~2万人を銃殺したとは記録されておますけど。
それは~ あくまでも戦争中での軍事行動の範囲でんがな。
それならば、中国人民共和国が内戦後にチベット人を
大量に虐殺した方が犠牲者の点では甚大でんがな!
「チベットの大虐殺」も世界記録遺産に推薦しまひょ~
話が脱線しましたけど、東寺百合文書に戻りまっせ。
東寺は平安時代の796年(延暦15年)に創建され
嵯峨天皇から真言宗の空海に賜ったお寺なんでっせ。
新幹線が京都駅を出て新大阪へ向かう左手の車窓に
五重塔が見える、正式には教王護国寺と言うお寺でんな。
東寺は大きな火災にも会わず宝蔵に保管されていた古文書が
江戸時代には各地の荘園など既に消滅していたのにも関わらず
2万5千点もの古文書が残されていたのには驚きでっしゃろ。
僧侶の落書きや、庶民の切実な声なども聞こえてきまっせ。
普通なら処分されてしまうのが、何故か大量に保管されていた。
特に中世の歴史を証明できる記録の遺産に違いはおまへん。
今回は私の愛読する書籍から「東寺百合文書」を紹介しまひょ。
「東寺ユリもんじょ」 なんて間違えて読まないで頂戴ね。
(東寺百合文書=とうじひゃくごうもんじょ)
江戸時代1685年(貞享2年)加賀藩の5代目藩主・前田綱紀公が
京都の東寺から古文書を借用して部下に命じて書写をしたんだって。
前田綱紀公は歴史に強い興味を持つ、お殿様だったようでんな。。
お礼にと古文書を保管する桐の箱を東寺に100個寄贈したとか。
それで現在は東寺百合文書と呼ばれるように成ったんだって。
現在、残っているのは94箱で最初から無かったのか、それとも
6箱が外部に流失または紛失したのかは不明なようでっせ。
いろはにほへと・・・ 47文字で片仮名と平仮名の両方
これで合わせて箱の番号が94箱ちゅう事になりまっしゃろ。
(モノクロ 東寺百合文書=とうじひゃくごうもんじょ)
この古文書が戦後に一部だけ外部に流失し、貴重な歴史文書を
残すべきと京都府が1億円? で東寺から買い取ったとの事。
当時の京都府議会で1億円も有れば鴨川に橋を一つ架けられる。
そんなに必要が有るのかどうかと、大いにモメたそうでっせ。
1967年(昭和42年)の事だったと聞いてまぁ。
現在は京都市の下賀茂にある「府立総合資料館」の収蔵庫に
保管されているそうで、古文書の数は約2万5千点にもなるんだとか。
この東寺百合文書の特徴は平安時代から江戸時代中期までの
約1000年間もの東寺での歴史的資料が含まれてるようでっせ。
それも当時の支配者だけじゃなく、地方の荘園に従事した百姓の
訴え状や領民への下文など、中世の歴史を解読する手がかりとして
学者や歴史を学ぶ人々には良く知られた古文書なんですわ。
1997年(平成9年)国宝にも指定されてまんねんで。
(織田信長公 捺印の 東寺への禁制)
最後の処に「弾正忠=だんじょうのちゅう」と書かれているのは
京都へ初めて上洛した際の織田信長の官職でんな。
その下に、有名な「天下布武=てんかふぶ」の朱印が押されてまぁ。
東寺の境内で入洛した軍勢が乱暴・狼藉を行ったり
附近を放火したりすることや、東寺境内で
竹や木を伐採することなどを禁止する文面でんな。
見つけ次第、速やかに厳しく処分すると書かれてまっせ。
古文書でも、これぐらいなら現代人でも解読できまっしゃろ。
(足利尊氏公 兇徒退治祈願の御教書)
将軍・足利尊氏が東寺の供僧に兇徒退治の祈願を依頼した文書
観応元年の年号が入って居るので「観応の擾乱」と呼ばれる
足利尊氏の息子である足利直冬が軍勢を率いて九州から京都を目指し。
親子が北朝と南朝に分かれて会い戦う事態に発展したようでんな。
足利尊氏の弟である足利直義までが南朝方に加わり大和で蜂起するやら。
この後、南朝方が一時京都を奪還する事態にまで発展したんだって。
(丹波 大山の荘 絵地図)
現在の兵庫県篠山市に在った東寺・大山の荘で隣村と水利権で
争いが生じて住民と東寺の現地僧官が提出した絵地図。
山手の隣村から水源を絶たれて田植えが出来ないような感じ。
結局は荘園の一部を地侍に譲って解決に至ったようでんな。
室町時代に下ると80か所以上も所有していた東寺の荘園も
地侍や各地の守護・地頭に領土を侵食されて行くようでんな。
応仁の乱の以降は東寺ばかりじゃなく京都の貴族や朝廷も
荘園からの年貢や役銭が滞り困窮することになりますんや。
各地荘園の揉め事に関する古文書が多いのも特徴でっかな。
(京都 久世の荘 起請文)
1459年(長禄3年)に京都郊外で大規模な徳政一揆が発生。
東寺に宛てて、久世の荘では徳政の土一揆に参加する者は一人も
居ませんと、色んな神仏に誓い偽りは申しませんと記されてまんな。
久世の荘の百姓21名が自筆で署名している珍しい起請文でっせ。
応仁の乱が始まる8年前の混乱した京都を窺う資料でっかな。
(くずし字で書かれた 書状)
裕清と言う僧侶? 亡くなって、その後家さんが書いた手紙か?
遺産相続を求めるような文面かもしれまへんな。
この様な「くずし字」が江戸時代に成ると多くなりまんねん。
御家流(おいえりゅう)と呼ぶ「くずし字」を幕府が公文書に
採用するようになり、庶民にも手習い塾などでも教えたとか。
鉄ちゃん爺やはまだ「御家流」をマスターしてないので判読不能。
江戸時代には町人ですら「御家流」を読み書きできたという事は
本来は漢字で書かれた日本流の漢文よりは簡単だったとの説が。
確かに鉄ちゃん爺やの祖母は小学校も出たかどうか怪しいけど
明治10年生まれで「くずし字」の手紙が読めたような記憶。
明治36年生まれの養父ではもう「くずし字」は読めまへんでした。
それなら70歳の手習いで「御家流」を勉強しようと考えた次第。
くずし字は、勉強すれば1年~2年でマスター出来るとの書籍も。
本当かどうかは疑問だけど、江戸時代の庶民に出来た読み書きが
現代のPCやインターネットがある現代人に読めないはずがない。
そんな意気込みでっけど、読めなかったら笑われそうでんな。
本日はこれにて、お仕舞いにしまっさ。
ほんなら~ これで、さいなら~♪
10月10日にユネスコから世界記憶遺産に登録されました。
同時に京都府舞鶴市の「シベリア抑留・引き揚げ記録」も
登録されて日本では4件目と5件目になりましたんや。
「Memory of the world」 直訳すると 世界の記憶!
でも何故か、日本では世界記録遺産とか呼んでまんな。
世界文化遺産と比較するのは一寸、無理がおますけど。
同時に中国の南京市での「南京大虐殺」の記憶と称する
中国がねつ造した30万人の犠牲者との件も登録されて
日本では大きな波紋が広がってまんがな。
日本政府のロビー活動で大きな汚点やと、思いまへんか。
当時の南京市の人口を上回る民間人を日本軍が虐殺した?
日本側の見解では軍人か民間人かの区別のつかない敗残兵
約1万人~2万人を銃殺したとは記録されておますけど。
それは~ あくまでも戦争中での軍事行動の範囲でんがな。
それならば、中国人民共和国が内戦後にチベット人を
大量に虐殺した方が犠牲者の点では甚大でんがな!
「チベットの大虐殺」も世界記録遺産に推薦しまひょ~
話が脱線しましたけど、東寺百合文書に戻りまっせ。
東寺は平安時代の796年(延暦15年)に創建され
嵯峨天皇から真言宗の空海に賜ったお寺なんでっせ。
新幹線が京都駅を出て新大阪へ向かう左手の車窓に
五重塔が見える、正式には教王護国寺と言うお寺でんな。
東寺は大きな火災にも会わず宝蔵に保管されていた古文書が
江戸時代には各地の荘園など既に消滅していたのにも関わらず
2万5千点もの古文書が残されていたのには驚きでっしゃろ。
僧侶の落書きや、庶民の切実な声なども聞こえてきまっせ。
普通なら処分されてしまうのが、何故か大量に保管されていた。
特に中世の歴史を証明できる記録の遺産に違いはおまへん。
今回は私の愛読する書籍から「東寺百合文書」を紹介しまひょ。
「東寺ユリもんじょ」 なんて間違えて読まないで頂戴ね。
(東寺百合文書=とうじひゃくごうもんじょ)
江戸時代1685年(貞享2年)加賀藩の5代目藩主・前田綱紀公が
京都の東寺から古文書を借用して部下に命じて書写をしたんだって。
前田綱紀公は歴史に強い興味を持つ、お殿様だったようでんな。。
お礼にと古文書を保管する桐の箱を東寺に100個寄贈したとか。
それで現在は東寺百合文書と呼ばれるように成ったんだって。
現在、残っているのは94箱で最初から無かったのか、それとも
6箱が外部に流失または紛失したのかは不明なようでっせ。
いろはにほへと・・・ 47文字で片仮名と平仮名の両方
これで合わせて箱の番号が94箱ちゅう事になりまっしゃろ。
(モノクロ 東寺百合文書=とうじひゃくごうもんじょ)
この古文書が戦後に一部だけ外部に流失し、貴重な歴史文書を
残すべきと京都府が1億円? で東寺から買い取ったとの事。
当時の京都府議会で1億円も有れば鴨川に橋を一つ架けられる。
そんなに必要が有るのかどうかと、大いにモメたそうでっせ。
1967年(昭和42年)の事だったと聞いてまぁ。
現在は京都市の下賀茂にある「府立総合資料館」の収蔵庫に
保管されているそうで、古文書の数は約2万5千点にもなるんだとか。
この東寺百合文書の特徴は平安時代から江戸時代中期までの
約1000年間もの東寺での歴史的資料が含まれてるようでっせ。
それも当時の支配者だけじゃなく、地方の荘園に従事した百姓の
訴え状や領民への下文など、中世の歴史を解読する手がかりとして
学者や歴史を学ぶ人々には良く知られた古文書なんですわ。
1997年(平成9年)国宝にも指定されてまんねんで。
(織田信長公 捺印の 東寺への禁制)
最後の処に「弾正忠=だんじょうのちゅう」と書かれているのは
京都へ初めて上洛した際の織田信長の官職でんな。
その下に、有名な「天下布武=てんかふぶ」の朱印が押されてまぁ。
東寺の境内で入洛した軍勢が乱暴・狼藉を行ったり
附近を放火したりすることや、東寺境内で
竹や木を伐採することなどを禁止する文面でんな。
見つけ次第、速やかに厳しく処分すると書かれてまっせ。
古文書でも、これぐらいなら現代人でも解読できまっしゃろ。
(足利尊氏公 兇徒退治祈願の御教書)
将軍・足利尊氏が東寺の供僧に兇徒退治の祈願を依頼した文書
観応元年の年号が入って居るので「観応の擾乱」と呼ばれる
足利尊氏の息子である足利直冬が軍勢を率いて九州から京都を目指し。
親子が北朝と南朝に分かれて会い戦う事態に発展したようでんな。
足利尊氏の弟である足利直義までが南朝方に加わり大和で蜂起するやら。
この後、南朝方が一時京都を奪還する事態にまで発展したんだって。
(丹波 大山の荘 絵地図)
現在の兵庫県篠山市に在った東寺・大山の荘で隣村と水利権で
争いが生じて住民と東寺の現地僧官が提出した絵地図。
山手の隣村から水源を絶たれて田植えが出来ないような感じ。
結局は荘園の一部を地侍に譲って解決に至ったようでんな。
室町時代に下ると80か所以上も所有していた東寺の荘園も
地侍や各地の守護・地頭に領土を侵食されて行くようでんな。
応仁の乱の以降は東寺ばかりじゃなく京都の貴族や朝廷も
荘園からの年貢や役銭が滞り困窮することになりますんや。
各地荘園の揉め事に関する古文書が多いのも特徴でっかな。
(京都 久世の荘 起請文)
1459年(長禄3年)に京都郊外で大規模な徳政一揆が発生。
東寺に宛てて、久世の荘では徳政の土一揆に参加する者は一人も
居ませんと、色んな神仏に誓い偽りは申しませんと記されてまんな。
久世の荘の百姓21名が自筆で署名している珍しい起請文でっせ。
応仁の乱が始まる8年前の混乱した京都を窺う資料でっかな。
(くずし字で書かれた 書状)
裕清と言う僧侶? 亡くなって、その後家さんが書いた手紙か?
遺産相続を求めるような文面かもしれまへんな。
この様な「くずし字」が江戸時代に成ると多くなりまんねん。
御家流(おいえりゅう)と呼ぶ「くずし字」を幕府が公文書に
採用するようになり、庶民にも手習い塾などでも教えたとか。
鉄ちゃん爺やはまだ「御家流」をマスターしてないので判読不能。
江戸時代には町人ですら「御家流」を読み書きできたという事は
本来は漢字で書かれた日本流の漢文よりは簡単だったとの説が。
確かに鉄ちゃん爺やの祖母は小学校も出たかどうか怪しいけど
明治10年生まれで「くずし字」の手紙が読めたような記憶。
明治36年生まれの養父ではもう「くずし字」は読めまへんでした。
それなら70歳の手習いで「御家流」を勉強しようと考えた次第。
くずし字は、勉強すれば1年~2年でマスター出来るとの書籍も。
本当かどうかは疑問だけど、江戸時代の庶民に出来た読み書きが
現代のPCやインターネットがある現代人に読めないはずがない。
そんな意気込みでっけど、読めなかったら笑われそうでんな。
本日はこれにて、お仕舞いにしまっさ。
ほんなら~ これで、さいなら~♪
買ってその場で食べられると言ってます子供たちは魚を見回っている風景も中之島新漁港今度大阪入ったら行きましょ。大阪は見るところ多かばい今日午前中TOTO第二工場へ写真写してきました。外見のみ中は見学できるかどうかわかりません。フォトチャンネルも見れます。往復23,4キロ往復4時間20分でした。
風があって爽やかでした。久々の4時間でした。
時々こうした移動して北九州市の事風景をプログで紹介します。明日から又午前中のみ仕事です。北九州もだんだんと秋の気配で寒くなってきています。九州や大阪も雪は今年は早く降りそうな気配がします。お互いに体調管理十分注意しましょう。
役人が書いたものは解り易いですが、民間の名主(関東以外は庄屋)が書いたものは解り難いですね。
往時を思い描きながら読めば理解しやすいかも。
中山道の板橋宿にもその他の宿場にも、皇女和宮に関わる古文書が残されていて、
触りだけしか読めていませんが、なかなか面白いですよ。
くちこには無い心です!
くちこ的には、先日、ニュースで一度だけ耳にした、韓国兵がベトナムで慰安婦問題?を起こしていること。
それをベトナムから文句言われたけれど、ノーコメントだったこと。
あれが、どうなったのか知りたいって思っているところです。
自分達もやっているじゃん!って。
くずし字、祖父は読めたかなと思います。
本当かどうかですが、北原白秋の弟子だったとかですから。
事と 古の事に 興味を 持たれ事 凄いです。
私わ もう、20,も前に万葉 時代の 文字の
美しさに 見せられて、万葉かなを 10年
書いて 変態文字も 読めます。したがって
古の 事に とても 興味を持ちました。
今でも、時折 読んでいます。文字を読めないと 理解が できません 大変ですが
面白いと 思います。頑張ってください
11月も ( `・∀・´)ノヨロシクおねがい致します。
興味も半端じゃないと感心です{/hakushu/
少し出かけると疲労困憊と・・・kanaさんはとても真似が出来ません
}若さの秘訣を感じました。
又いろいろ教えて下さいね
11月もよろしく kana
まだ紅葉には少しだけ早かったようです。
大阪もそろそろ最低気温が10度を
切りそうですから
暖房器具の準備も必要になりそうですね。
基本的な筆法が有るそうで
役人などはそれに従った書き方なんでしょうな。
やはり庶民では独特の書き方が加わって
現代人には読み切れないのかも。
1年ぐらいで読めるように頑張ってみます~♪
1年間ぐらいは頑張ってみようかな。
韓国軍のベトナムでの件は橋下大阪市長がひんしゅくを買いましたが
アメリカは勿論のこと他の国にも必要悪として昔から存在する事実ですかな。
でもタブーとして公式な話としては出てこないでしょうね。
日本だけが韓国や中国から慰安婦の問題でゴチャゴチャ言われるのは
政治的な反日の為の宣伝と思いますけど。
でも橋下市長のように本当の話であっても公人が話せば問題にされるようですね。
奈良県や滋賀県には
万葉の和歌の碑が良く見かけますよ。
でも現代人が読めるように現代の仮名使いで刻まれているのは残念ですけど。
本当は万葉かなと併記されて居ればいいんですけどね。
70歳を超えているんだから1万歩以上も歩ければ良しと
整骨院の先生には慰められてますけど。