goo blog サービス終了のお知らせ 

鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺や  住吉大社を詣でる。

2015-10-04 11:16:22 | デジカメ散歩
住吉大社のことを大阪人は「すみよっさん」と
親しみをこめて呼びまんねんで~

昔から由緒の深い摂津国一の宮として崇められ
戦前は官幣大社の格式を持ってましたんや。

現在も初詣の三ケ日で約25万人を超える賑わい
関西では京都の伏見稲荷に次ぐ参拝者なんだとか。

何せ大阪では一番古い神社になりまっしゃろな。

全国に二千余に及ぶ住吉神社の総本宮になりまっせ。

(住吉大社の 表参道)





昔々のそのまた昔、住吉の大神が此の地を好まれて
鎮座されたのが現在の住吉大社の地だった。

昔は住江または墨江とも呼ばれる海岸でしたんや。

現在のJR大阪駅や観光客で賑わう道頓堀などは
まだ海の中で、上町台地だけしかなかった時代。

当時の大坂は寂しい漁村だけで東大阪市などの
平野も河内湖かもしくは沼地だったとの説。

住吉の大神は北九州の方から瀬戸内海を通り
海の終着点に辿りつかれたようでんな。

ここ摂津の国・墨江の津(すみのえのつ)で
当時の港と考えたらいいでっしゃろか。

この地に鎮座したいと申されて誕生したのが
そもそもの住吉大社の始まりだったようでんな。

遣隋使や遣唐使は、ここ住吉大社で航海の安全を祈願し
難波津から瀬戸内海を通り中国へ向かったんでっせ。

(住吉大社 御由緒)



底筒男命(そこつつのおのみこと)中筒男命(なかつつのおのみこと)
表筒男命(うわつつのおのみこと)の男三神を合わせて
住吉の大神とお呼びする、海の神様のようでんな。

神話によれば、この住吉の大神に祈願して朝鮮へ外征した
神功皇后は亡くなる直前に、われを~ 住吉の大神の側に
祀るようにと、おっしゃられたそうですわ。

それで神功皇后さまも合わせて四神が祀られて現在の
住吉大社になったとの言い伝えのようでっせ。

まだ大和の国(現在の奈良県)がこの世に現れる以前のお話で
古代から朝廷の篤い信仰に支えられた由緒ある神社でおます。

明治時代までこの神社の神官には津守氏が70数代にわたり
宮司を勤める世襲の神社でもおましたんでっせ。

中世には津守氏は武力を持つ集団でもあり南北朝時代には
後村上天皇が9年間も住吉大社に行在所を置かれましたんや。

南北朝時代には南朝方の重要拠点でもあったようでんな。

(平成21年 反り橋 架け替えの碑)



平成23年に、ご鎮座1800年記念大祭として
第49回の式年遷宮が執り行われましたんですわ。

昔は伊勢神宮と同様に20年に一度の式年遷宮をしたとの
記録がおますんやけど応仁の乱で中断となり、近世以降は
破損に従って修理するとの例になったようでんな。

先ずは大阪人が太鼓橋と呼ぶ反り橋を渡りまっせ。

長さは約20m・幅が5.5m・高さ3.6m

(住吉大社の 反リ橋)









(国宝 本殿四棟)



この階段を登ると住吉大社の本殿になりまんねんで。

住吉造りと呼ばれる有名な神社建築なんだそうでっせ。





(第三本宮から 奥に向けて撮影)





一番手前の第三本宮から奥へ第二本宮そして一番奥に
第一本宮と住吉大社の男三神が直列に並んだ配置でんな。

日本の神社建築にしては珍しい並び方をしてるそうでっせ。

(第三本宮 & 第四本宮)





左側が第三本宮で表筒男命(うわつつのおのみこと)の本殿で
右手が第四本宮の神功皇后(じんぐうこうごう)さまが
遺命の通り横に並列した形で祀られてまねん。

住吉大社のHPによれば海原を行く船団のように立ち並び

「三社の並ぶは魚鱗(ぎょりん)の備え 一社のひらくは
   鶴翼(かくよく)の構えあり よって八陣の法をあらわす」

やはり海の神様だけに兵法も心得て居られる訳でんな。

先ずは第一本宮の底筒男命(そこつつのおのみこと)の
本殿から、お詣りして行きまひょかな。


(第一本宮の 拝殿)







正面から見える部分の拝殿を外陣(がいじん)と呼ぶそうですわ。

桧皮葺の屋根に直線型の妻入り式の出入り口になってまんな。

奥が一段高くなっていて、そこを内陣(ないじん)と呼ぶ
二室からできている特徴的な拝殿でおます。

(第二本宮の 内陣部分を裏側から撮影)



こちらは柱と垂木や破風板は丹塗で、羽目板壁は白胡粉塗り
桧皮葺の屋根に切妻で力強い直線を描いてまっしゃろ。

周囲に回廊はなくて、本殿の周囲には朱色の板玉垣に囲まれ
その外側は荒忌垣が立ち並んでいる構造になってまんな。

(第四本宮の 置千木=おきちぎ)



屋根の両端に聳えてるのを置千木(おきちぎ)と呼びまんねん。

第四本宮の神功皇后さまのお社は、内側に切り込んで地面と
水平になるように飾られているのが、女神さまの特徴なんだって。

先の画像の第二本宮は中筒男命(なかつつのおのみこと)さまで
男神さまは、外側に切り落とし地面と垂直になってまっしゃろ。

日本全国の男神さまと女神さまは、この置千木(おきちぎ)で
区別するんやと、鉄ちゃん爺やの小学校の先生のお話でっけど。

確か伊勢神宮へ修学時代に、お詣りした時の話だったような記憶。

(第三本宮 外陣部分を側面から撮影)





(第四本宮 神功皇后さまの拝殿)





鉄ちゃん爺やの「二礼・二拍・一礼」でお詣りする姿を
中国人も真剣に眺めて、見よう見まねでお詣りしてはりまぁ。

中国人観光客も神前ではマナーを守ってはりましたで。

(住吉大社の ご朱印)



住吉大社では他の神社のように巫女(みこ)さまと呼びまへん。

これは伊勢神宮や春日大社と同様に古いお神楽を伝承するので
お神楽を舞う女性なので住吉大社では神楽女(かぐらめ)と呼びます。

(住吉大社の 神楽女=かぐらめ)



頭に独特な飾りを乗せて居られるの、分かりまっか?

ご神体の鏡に神木の松、それに神の使いである白鷺を
合わせた髪飾りとして作られているのが特徴でんな。

伝説では神功皇后が社地を定める為の、ご鎮祭に訪れた際
白い鷺が三羽やってきて杉の木にとまったとのこと。

それで当地が住吉の大神の思し召しの場所だと分かり
お祀りするようになったとHPには書かれてますんや。

(本殿の石段から 反り橋方向を撮影)



(反り橋の頂上から 本殿方向を撮影)



それでは境内へ戻って石灯篭でも紹介しまひょ。

近世の住吉信仰が篤かったのが分かりまっせ。

(住吉大社の 石燈籠)







住吉大社には江戸時代から明治まで約600余基の石燈籠がおまっせ。

それぞれが形も異なり、すこぶる壮大な物や、優雅なものまで。

頼山陽や池大雅など有名な方の題字を刻んだものもありまんねん。

取りあえず3点でっけど貼り付けて置きまっさ。

(御田植 刈り取り直前の御田)



(御田植の説明板  国指定の重要無形民俗文化財)





毎年6月14日に御田植えの神事がここで催されまぁ。

まもなく10月17日には御田からお米を収穫し
初穂を住吉大社の神前に捧げられる神事なんでっせ。

昔は神嘗祭(かんなめさい)と云う祭日でしたが
現在は宮中や神社での神事としてのみ残ってますんかな。

それでは最後に絵馬を3枚だけ貼り付けて置きまひょ







こんな明治43年の奉納額も掲げられてまっせ。

剣道の道場仲間が奉納したものかしら?



(表参道にて 一礼して退散)



今回はこれにてお仕舞にしまひょ。

次回は住吉公園や復元された高燈籠などを紹介しまっさ。

ほな~ さいなら~♪












京都 車折神社から 名勝嵐山へ 

2015-09-26 17:00:39 | デジカメ散歩
御室の仁和寺とお別れして嵯峨野の方へ向かいまひょ。

帷子ノ辻駅まで戻って嵐山本線に乗り換えでっせ。

(嵐電 モボ600形)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

映画村が近いので水戸黄門のヘッドマークを付けてまんな。

慌ててデジカメを構えたもんで少しボケてまっけど。

(嵐電 1日フリーきっぷ 500円)



鉄ちゃん爺やはこの日も有効にフリーきっぷを使いましたで。

途中下車しながら210円X5回 十分に元は取れましたな。

(帷子ノ辻駅 構内)





(嵐電 車折神社=くるまざきじんじゃ)





この駅名も普通には読めない難解な名前でっしゃろ。

鎌倉時代の14世紀に嵐山へ御幸された後嵯峨天皇の
牛車の車軸が折れて前へ進めなくなったんだって。

この社殿は何であるか!  後嵯峨天皇は尋ねたとか。

清原頼業(きよはらのなりより)をお祀りした社ですと。

後嵯峨天皇じゃなくて亀山法皇だとの説もあるんだって。

朝廷は「車折大明神」の神号と「正一位」の神階を与え
その後はそんな災いも起こらなくなったんだとか。

現在は小さな神社でっけど由来は凄いでっしゃろ。

嵐電の駅前が「車折神社=くるまざきじんじゃ」でおます。

(車折神社 正面入り口)



鉄ちゃん爺やも、ここは初めて訪れる神社ですわ。

とある~ 週刊誌に隠れたパワースポットと芸能神社だと
書かれた記事を読んでから、興味を覚えての参拝でんな。

この辺りから嵐山までを京都では嵯峨野と呼ぶんでっせ。

(車折神社 拝殿)(京都市右京区嵯峨朝日町)







お祀りされている清原頼業(きよはらのなりひら)は
平安時代の末期に学者として朝廷に仕えた方なんだって。

清原氏だから枕草紙を書いた清小納言と同じ一族でんな。

清小納言さんの方が180年ぐらい先輩になりまっけど。

(車折神社 清めの社)





ここの社務所で500円を納めて小さな石を一つ頂戴し
お守り袋に納めて、目線より高い処にお供えをして
毎日、お願い事が叶いますようにとお祈りをするんだって。

(祈念神石=きねんしんせき)



この祈念神石は、決してお守り袋から出したり触ったらダメ。

お願い事が叶ったら、自宅の近くから自然石を一つだけ拾って来て
感謝の言葉を書き込んで、車折神社へお礼参りに行くようでんな。

500円で頂戴した祈念神石は社務所に返納するそうでっせ。

自宅から拾ってきた石は感謝を込めて別の場所へ納めますんや。

願い事が叶った石が沢山に積み上げられてまっせ。



沢山の石に感謝の言葉が書き込まれているので、ご利益も多いんだ~

鉄ちゃん爺やも宝くじ3億円が当たりますようにと、お願いを考えたけど
神様は呆れてお願いを聞いてくれないだろうなと、諦めましたんや。

昔から京都商人の世界でこんな風習が伝わっていたそうでせ。

現在では若い方のパワースポットとやらで賑わってまんな。



ここ車折神社の境内に「芸能神社」と言う末社がおますんや。

芸能人は有名になりますようにと、足しげく通うんだそうでっせ。



(車折神社の境内 芸能神社)



ここには有名な芸能人が朱塗りの玉垣を奉納されてまっせ。

2~3枚だけ貼り付けて置きまっさ。







競馬騎手の武豊さんが「とんねるず」の仲間と並んで玉垣を?

他にも水戸黄門で活躍された里見浩太朗さんや歌手の五木ひろしさん。

茶道の家元である千宗室さんや藤原紀香さんまでおまっせ。

2年分で最低1万円を奉納したら誰でも奉納はできるようでっけど。

2000枚が並んでいるそうで、本家の車折神社よりもご繁盛でんな。

それじゃ~ 最後の訪問地である嵐山へ向かうことにしまひょ。

(嵐電 嵐山駅舎)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(京都 嵐山公園)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット



やはり嵐山とくれば大堰川の渡月橋を紹介せんとあきまへんな。

3年前の桂川の水害では大きな被害が出ましたが現在は痕跡も
見えずやはり嵐山は観光客であふれるような人出でおます。

(嵐山の 渡月橋)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

嵐山の渡月橋なら詳しくは貼り付けた説明書きを読んでね。

ここまで来たら京都五山の筆頭である天龍寺へ行きまひょ。

足利尊氏公が後醍醐天皇の菩提を弔うために創建したお寺。

(京都五山 第一位の天竜寺)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(天龍寺 法堂の天井絵 雲龍の図)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

八相睨みの龍で法堂内の何処から見てもこの龍は
こちらを睨んでいるように描かれているんでっせ。

あちこちの禅寺にもあるのでご承知の方も多いかな?


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

平成22年11月に天龍寺で撮影した紅葉の庭園を貼り付けておきまひょ。

鉄ちゃん爺やと一緒に写っているのは2期後輩のOBなんです。

5年前の写真でっけど紅葉の気分でも味わって頂戴ね。

まだ紅葉には2か月ぐらい早い関西ですので今回は入場はパス。

(平成22年11月 嵯峨野 天龍寺の庭園)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

それでは夕方も近いので嵐電の駅の方へ戻りまひょ。

嵐山は紅葉の季節でもないのに観光客が多いでんな。

(嵐山 メイン道路の土産物店)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(京扇)




photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

最後は嵐電のレトロ電車を待って四条大宮へ戻りまぁ。

この電車は平安京遷都1200年を記念して造られたそうな。

(嵐電 モボ21型(26号車) レトロな路面電車)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(嵐電 嵐山駅構内の 足湯)



(嵐電の始発駅 四条大宮駅舎)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

これで4回に分けてデジカメ散歩した京都編はお仕舞い。

次は大阪へ戻して摂津の一宮である住吉大社を紹介しまっさ。

ほんなら~ 今日はこれで、さいなら~♪




鉄ちゃん爺や  仁和寺の御室御所を訪ねて~♪

2015-09-19 14:34:14 | デジカメ散歩
前回のブログで紹介しましたんやけど~

御室(おむろ)とは高貴な貴人がお住みになる
お寺の本坊を差しますが今では京都の地名になってまぁ。

だから歴代の門主さまがお住みになった僧坊でんな。

明治維新までは天皇の皇子さまや皇孫が門主に成られる
京都に数多くある門跡寺院でも最高位が仁和寺でおます。

(重要文化財 旧御室御所 仁和寺・本坊表門)



江戸時代に京都御所から移設された常御殿がおましたが
1887年(明治20年)に焼失してしまいましたんや。

この表門は幸いにも焼失を免れた江戸時代の建物でおます。

だから現在の御室御所(おむろごしょ)は明治時代から
大正時代にかけて再建された宮殿建築なんですわ。

(旧御室御所  前庭を撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

平唐門の奥が御室御所の北庭になるようでんな。

御室の桜と同じように松の木も低く育ってる感じ。

(旧御室御所の 大玄関と皇族門)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

明治時代に再建された門でっけど、昔なら一般人は
この門をくぐることは出来なかったという訳でっしやろな。

現在は入口で拝観券を確認されるだけの場所でっけど。

(大玄関 金屏風を背に 御室流家元の生け花)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

御室流の家元は代々が仁和寺の門主さまがなられるとか。

京都御所・秋の一般公開などにも奉納されてましたかな。

二年前に京都御所に奉納されてた生け花を貼り付けまひょ。

(2013年度 京都御所 秋の一般公開)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

それじゃ内部を拝観させてもらいまっさ。

有り難いことに写真は自由にお撮りくださいだって。

拝観料もこの時期はお寺の伽藍も含んで500円
良心的な扱いには感謝をしておきまひょ。

(世界文化遺産の 登録書)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

内部は回廊で繋がっているような構造でんな。

明治時代の再建でも平安時代の趣は十分に感じられまぁ。

(旧御室御所の 回廊)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

回廊を進んでいくと左手が白書院で右手に
白砂を敷いた庭が広がってまっせ。

この場所を御室御所の南庭と呼ぶそうでんな。

(旧御室御所 南庭)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

奥に見えるのが勅使門を内側から見た画像でっせ。

お寺と言うよりは、やはり御所のイメージでっかな。

左手に目を向ければ宸殿(しんでん)と呼ばれる
京都御所の常御殿を模したような建物が観えてまぁ。

(旧御室御所の宸殿を 白書院から撮影)



(白書院の襖絵)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(白書院の 説明書き)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(白書院の仏画)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

仏画は真言宗のお寺だから大日如来さまでっしゃろか。

ここからは、又もや回廊を通って宸殿(しんでん)の方へ。

右手に白砂の南庭をみながら進むことになりますんや。

(宸殿へ向かう回廊)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

宸殿(しんでん)の手前から先程の白書院が見えてまっせ。

縁先に座って南庭を眺める観光客が居てはりまんな。

(回廊から白書院の 屋根を撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(宸殿前の廊下から 白書院を撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(宸殿前の廊下から 南庭を撮影)



御所の紫宸殿を模しているので右前には右近の橘が。

奥の右手には二王門が、その左手は勅使門でんな。

(宸殿前の廊下から 左近の桜)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

京都御所や平安神宮など左近の桜や右近の橘は外側から
撮影は出来まっけど、内側から写せるのはここだけかな?

(宸殿の廊下に 開閉式のしとみ)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

平安時代の寺社や住宅には開閉式の蔀(しとみ)と
呼ばれる建具が設置されているのが特徴でっしゃろ。

水平に開いた感じの処を撮影してみましたんや。

(宸殿の 説明書き)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(宸殿内部 部屋の襖絵)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(宸殿 上段の間 天井)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(宸殿 上段の間)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

帰ってからネットで検索したらこの掛け軸のお方は
仁和寺・初代門主の宇多法皇さまでしたよ。

ここは歴代の門主さまが来客と面談される部屋でしょうな。

(旧御室御所 庭園の説明書き)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(旧御室御所 北庭)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

宸殿の裏側に回り込むと南庭に出ますんや。

南庭は一転して日本式の庭園になってまんねんで。

遠くの五重塔を背景にして見事に造られてまっせ。


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(霊明殿への回廊)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

御室御所の一段高く造られた処に霊明殿がおます。

霊明殿とは歴代の門主さまの位牌が奉安されてまんねん。

屋根に宝珠を飾った立派な建物でっしゃろ。

(回廊から 霊明殿を撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(霊明殿の 説明書き)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(霊明殿の内部 須弥壇を撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

初代の門主さまは第59代宇多天皇が出家されて就任。

歴史上では宇多法皇さまとか寛平法皇さまと申します。

寛平とは宇多天皇が皇位に居られたころの元号でんな。

(霊明殿の廊下から 宸殿&北庭を撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

ここで第二十一世の覚深入道親王さまのお話をしまひょ。

応仁の乱で全焼した仁和寺を徳川三代将軍の家光公に
直訴して京都御所の建物を移設させた門主さまでっせ。

だから仁和寺の中興の門主さまと呼ぶべきでっかな。

この方は第107代・後陽成天皇の第一皇子さんです。

太閤秀吉さんが亡くなる迄は良仁親王(よしひとしんのう)
と申し上げて第108代天皇にと当時の朝廷や太閤秀吉が
考えて居られたと歴史書では記されてますかな。

処が太閤秀吉が亡くなり徳川家康公が天下を取ると
親豊臣の後陽成天皇や良仁親王は遠ざけられますんや。

後陽成天皇の第三皇子である政仁親王が皇太子になり
後に第108代・後水尾天皇に即位される方ですわ。

そこで良仁親王は強制的に出家を命じられて仁和寺へ
第二十一世の覚深入道親王と成られたそうでんな。

蛇足ながら親王宣下を受けられた後に出家をされた方が
入道親王と申し上げ、出家の際に親王宣下がされた方を
法親王(ほつしんのう)と申し上げるようでっせ。

後陽成天皇の名前を付けたのは後水尾天皇だとか。

宮中で乳母の息子を撲殺し退位させられた陽成天皇の
名前を父親に授けるとは親子の仲が悪かったのかも。

普通は悪い記録の残る天皇の名前を付けないのが常識。

まあ~ この宮中殺人事件が無けれが仁和寺を創建した
宇多天皇さんや父親の光孝天皇は即位できなかったはず。

その為か長生きをされた陽成上皇さんの子供の処遇には
宇多法皇や醍醐天皇や孫の村上天皇まで苦労をしたとか。

自分の子孫に皇位を継続するために早めに譲位をし
皇位継承の安定を図るために宇多法皇さんは出家し
仁和寺で後の院政のような事を考えたのかも?

でも歴史は藤原氏の巻き返しで長男の醍醐天皇や孫の
村上天皇を経て摂関政治へ向かったとは皮肉な事実でんな。

(重要文化財 遼廓亭)

 
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

江戸時代の画家・尾形光琳の屋敷を移設した建物で
明治20年の火災にも焼けずに残っているようでんな。

非公開に成ってますんで林の向こう側に見えるだけですわ。

(黒書院の 説明書き)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(黒書院の 襖絵)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(回廊から 黒書院を撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(旧御室御所 前庭にて自撮り)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

オムロンちゅう会社をご存じでっしゃろ。

昔は立石電機と言いましたがこの会社が終戦直後に
仁和寺の南東500mぐらいの処に工場がおました。

会社創業の地と言うことで、御室を片仮名にして
「オムロン」という企業名に採用したんだって。

今回は立ち寄れまへんでしたが記念碑があるんだとか。

長くなりまんので、今日はこれでお仕舞にしまひょ。

次回は車折神社(くるまざきじんじゃ)と嵐山界隈を
昔の画像も加えながら紹介させてもらいまっさ。

ほんなら、これで、さいなら~♪


御室の仁和寺へ行ってきましたで~♪

2015-09-12 20:20:16 | デジカメ散歩
皆さんが太秦映画村はご存知でしたが廣隆寺は
知らないと言う方が多かったんで画像を1枚だけ。

(太秦・廣隆寺の門前から撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

画像の右手の道を奥の方へ行き初めての信号を
左折すると東映・太秦映画村になりまんねんで。

廣隆寺の霊宝殿の外側が映画村の南の端かな?

お寺の五筋塀が続いているので直接は行けないけど。

それじゃ御室(おむろ)の方へ向かいまっせ。

(嵐電 帷子ノ辻 駅名標)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

駅名を読めまっか? 檀林皇后の棺を運んでいる際に
風に煽られて帷子が飛んでしまったんだって。

この帷子の辻にご遺体を置いて風葬にしたとの説も。

埋葬はしないようにと遺言をされたそうです。

流石は古都の京都でんな1165年も昔の平安時代の
出来事が地名になって残っているのには驚き!

嵐電は一駅だけ乗ったら、ここで北野線に乗り換えでっせ。

(嵐電 御室仁和寺駅舎)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

駅舎には昔のままの駅名が残っているようでんな。

御室(おむろ)と言えば仁和寺(にんなじ)でっかな。

これから紹介する仁和寺(にんなじ)は明治維新までは
天皇の皇子か皇孫が法親王となり門主を務める故に
門跡寺院でも最高の格式を誇ったお寺なんだって。

まずは門前で腹ごしらえをすることにしまひょ。

(湯葉入り 茶蕎麦)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

そんなに美味しいとは言いまへんが京都では名物でっかな。

この日は、まだ暑つかんたので冷やし茶蕎麦にしましたで。

店を出たらそこは仁和寺(にんなじ)の二王門でおます。

(御室・仁和寺の 二王門)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

なんでも~ 京都の知恩院と南禅寺の山門を合わせて
京都の三大山門と書かれた本がおましたけど。

前回紹介した廣隆寺の楼門と比べたら倍ぐらいはおまっせ。

(二王門から 中門を望む)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

まだ先に中門が控えているようで伽藍は見えまへんわ。

仁和寺(にんなじ)は第58代・光孝天皇が
西山御願寺として着工されましたが崩御されてしまわれました。

第59代・宇多天皇が先帝の遺志を継ぎ仁和4年(西暦888年)
完成されましたので元号を取って仁和寺と名付けられたとか。


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

宇多天皇は退位し法皇として初代の仁和寺の門主になられました。

天皇に即位した方が寺院の門主になるのは宇多法皇が初めて。

初代・宇多法皇さまから30代を数える歴代の門主さまは
五摂家の藤原道家公、及び足利義満公のご子息の例外を除き
全てが天皇陛下の皇子か皇孫が就任されていますね。

明治以降は民間の方が門主さまになられていますけど。

(仁和寺 中門)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(仁和寺 由来を記した説明板)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(仁和寺 全景の絵図)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

絵図の左側下半分は御室御所(おむろごしょ)と呼びます。

仁和寺御所とも呼ぶことがありますけど。

中央に中門があってその先が仁和寺の伽藍となりまんねん。

応仁の乱で堂塔が全て焼かれてしまい現在の建物は
江戸時代の寛永年間に再建されたものが殆どですわ。

第21世・覚深法親王という方が徳川3代将軍の家光公に
直訴して今に残る堂塔が完成したと書かれてますな。

(国宝 仁和寺 金堂)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

元は京都御所に在った紫宸殿を移設して檜皮葺から
仏堂なので瓦葺きに改修した立派な建物でっせ。

現存する日本最古の紫宸殿だと考えられるそうで
平安時代の宮殿建築の姿を今に残しているとか。

おそらくは慶長年間に造られた建物だとのこと。

本尊が阿弥陀三尊とは意外な感じを受けましたんや。

真言宗の御室派の大本山なので大日如来さんが本尊だと
想像しましたが宇多法皇の信仰が篤い阿弥陀如来さんですわ。

(仁和寺の ご朱印)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

境内をしばらく散策してデジカメの撮影をしましたんや。

美しい五重塔が見えるので近づいてみまひょ。

(仁和寺 五重塔)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

なるほど~ 京都・東寺さんの五重塔もこんな感じ。

真言宗だから、こちらに大日如来さんが祀られてるんだ。

(仁和寺の 境内で自撮り)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(重要文化財 経蔵)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

京都の方は御室と言えば「御室桜」を想いうかべるとか。

遅咲きの桜で江戸時代から有名な桜の名所でっしゃろな。

当時は吉野の山桜より勝るとも書かれた書がおまっせ。

(仁和寺 御室桜)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

御室は土壌の浅いところに岩盤が有り、桜も根を深く張れずに
横に広がって伸びるんで背が低い、花も根元に近い枝から
湧き上がるように咲くそうでっせ。

「私やお多福 御室の桜 花(鼻)が低ても 人が好く」

お多福は(鼻)が低いけど 花の低い御室の桜も
どちらも好かれる人気者と、京都に伝わる俗曲でっせ。

「御室の桜」を始めて植えたのも宇多法皇だとの説。

それまでは御所にも梅が植えられていたそうでっけど
宇多法皇が右近の桜として初めて桜を植えさせたとのこと。

宇多法皇は桜の花を、すごく好まれたそうでっせ。

(史蹟 仁和寺御所跡の 石碑)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(世界遺産 仁和寺 説明書)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

仁和寺境内の西南側に御室御所(おむろごしょ)とも
呼ばれる宇多法皇が住まれた場所がおますんや。

御室(おむろ)とは貴人が居られる僧坊のことで
この名前が後に地名となったようでっせ。

代々の門主さまがここに住まれることに成った訳でんな。

(仁和寺御所への 勅使門)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(勅使門の 透かし彫り)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(仁和寺御所 拝観 受付所)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

「御室桜」の咲いていない時期には仁和寺の伽藍への拝観は
無料で、ここ仁和寺御所の拝観は大人500円となりますんや。

時間がまだ早いので拝観して行きまひょかな。

(仁和寺御所の 中庭)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(仁和寺御所 大玄関&皇族門)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

御室御所(仁和寺御所)の内部は次回のブログに
回しますので悪しからず。

ほんなら~ 今日はこれで、さいなら~♪





















太秦の広隆寺へ行ってきましたで~♪

2015-09-06 16:36:02 | デジカメ散歩
久しぶりの京都・太秦(うずまさ)でっから
「嵐電」と呼ばれる電車で行きまひょ。

国宝指定第1号の弥勒菩薩半跏思惟像で有名な

広隆寺(廣隆寺)を今回は紹介しまひょ。

(通称=嵐電 モボ100形 電車)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

この電車はパトカーのデザインなのでパト電と呼ばれ
子供さんには人気なんだとか。

正式には京福電鉄と呼ぶんでっけど「嵐電」の名前が
公式にも使われているようでんな。

昔は京都と福井県の両方で走ってましたんでっけど
現在は京都市内の嵐山本線と北野線のみですわ。

四条大宮~嵐山間を本線にしているので嵐山の名前を
PR用に採用したような感じ。

(廣隆寺 楼門)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

太秦の廣隆寺は、まだ都になる前から京都に建てられた
古いお寺で渡来人の秦氏の氏寺だったとの説がおますんや。

秦氏は日本に養蚕や機織りを伝えた技術者集団だったようで
大陸や朝鮮半島から他にもいろんな先進文化を伝えたとか。

(廣隆寺の 講堂) (重要文化財に指定)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

廣隆寺は平安時代に二度ばかり大火に遭ったようでんな。

だから飛鳥時代の建物は皆無でっけど、仏像だけは
数多く残っていることで有名なお寺なんですわ。

この講堂は1165年(永万元年)の再建と記録され
京洛では最古の建造物だと説明書には書かれてましたで。

(廣隆寺の 上宮王院太子殿)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

このお寺は聖徳太子さんの像を本尊にしているらしく
この建物が本堂にあたるようようでんな。

1730年(享保15年)の再建なので
国の重要文化財には指定されてないそうですわ。

横から見たら入母屋造りの見事な建物でっけど。


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

それじゃ~ お目当ての弥勒菩薩さんを拝観させてもらいまひょ。

このお寺は国宝や重要文化財の仏像を50点以上も
現在は一同に並べて霊宝殿にお祀りしてるようでんな。

(廣隆寺 霊宝殿)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

このお寺はカメラ撮影が厳しく禁止されてますんや。

内部は2~3人の方が目を光らしているのでダメですわ。

ご朱印を貰う詰め所で写真を買いましたので
その画像を貼り付けさせてもらいまつさ。

(国宝第1号の 弥勒菩薩半跏思惟像)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

この弥勒菩薩さまは日本で一番美しい仏さまだと思いますんや。

笑みを含んだ優しいお姿は、引き込まれそうな雰囲気ですわ。

国宝の彫刻の部で指定第1号と成ったのも納得でっかな。

この弥勒菩薩さまを拝観するために訪れるわけでっけど。

他の50体以上も安置されている国宝や重要文化財を

皆さんがたは、素通りして弥勒菩薩さまの前だけは
しばらく佇んで眺めておられまっせ。

やはり~ この優しいお顔は誰の想いも同じでっかな。

(廣隆寺の ご朱印)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(廣隆寺の 境内)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(廣隆寺の 五筋塀を背景に自撮り)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

聖徳太子さまをお祀りしてあるから五筋塀が許可でんな。

門跡寺ではないんだけど格式が高い訳なんでおます。

(廣隆寺の 太秦殿)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

太秦明神・漢織女・呉秦女 の三神がお祀りされてま。

本来は秦氏の氏寺だから、こちらが本尊になるのに。

聖徳太子さまには勝てまへんから、小さいお堂のみでんな。

(モボ600形 嵐電)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

廣隆寺の裏手に東映の映画村がおますんや。

その映画のモデルをラッピングした電車でんな。

それじゃ~ またもや嵐電に乗って次へ向かいまひょ。

次回は御室の仁和寺を紹介させてもらいまっさ。

ほんなら~ これで、さいなら~♪









鉄ちゃん爺やの選んだ  日本のお祭り

2015-08-30 14:12:23 | デジカメ散歩
今週も保存中のアルバムからで宜しくね~♪

暫く中断していたフォトフレンドの画像を
新しいPCに貼り付け復活出来ましたんや~

今回は鉄やん爺やが訪れた「日本のお祭り」で
特に印象の深いものをリニューアルしてみまっさ。

まずは3年前の越中八尾(えっちゅうやつお)
「風の盆」からいきまひょ。

わてが、もう一度観たいお祭りはこれでんな。

今年も2後からこんな賑わいを見せるはず。

(越中八尾 風の盆) (毎年9月1日~9月3日)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

女性の踊り手は独身の20歳代の方に限定されるとか。

この街に若い女性がこんなに、大勢住んでる居るのかしら?

この時期に富山市内や他府県から戻って来るんでしょうな。


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

今年のGW明けにホテルを探したんですがこの9月1日から
9月3日は、どこも満員で予約できまへんでしたわ。

特に今年は北陸新幹線が開通して、関東からの観光客が
大勢と押し掛けているんでしょうな。

この3日間は八尾町(やつおまち)のお祭りの催される
町内には観光バスや乗用車の乗り入れが禁止でおます。

町営駐車場で観光バスを降りて高台の旧町へ歩くんでっせ。

その風景はこんな感じですわ。

(越中八尾 風の盆へ向かう見物客)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

哀愁を帯びた胡弓の音色と素朴で気品がある踊り
江戸時代から続く見事な庶民の夜祭りでっしゃろな。

来年は9月3日の最終日に早朝まで踊り続ける「風の盆」
これを是非、観てみたいと考えてますんや。

騙されたと思って、一度は八尾へ観にお越しやす~♪






次は地元、大阪は岸和田の「だんじり祭り」

2015年は9月19日~20日開催予定。

(岸和田市 だんじり祭り) (平成22年9月撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

だんじりの屋根に乗っている方を「大工方」と呼びます。

この方の合図で、だんじりは早く走ったり徐行したり
やりまわしと呼ばれる見せ場も演じますんや。

岸和田の男なら一度はやりたいと言う晴れ姿でっせ。


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

岸和田「だんじり祭り」は勇ましくて、荒っぽい男の祭り。

商店街を抜けて岸和田駅前で「やりまわし」と呼ばれる
速度を落とさずに山車を90度回転させて通過する。

ここは見物客が多く集まり気合が入る見せ場でんな。

(岸和田駅前 商店街)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(南海 岸和田駅前)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(やりまわしを終えて 通り過ぎる山車)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

一昔前には死者が必ず出るという危険なお祭りでしたんや。

流石に最近は昔よりは山車のスピードが落ちてきた感じ。

にわかに寄せ集めての男衆とかで練習が不足なのかも。

変な意味では、大阪で一番有名になったお祭り?






次は昨年に訪れた飛騨の高山での秋祭りでっせ。

こちらは優雅で純日本的な美しいお祭りでっかな。

(JR高山駅前 高山祭の幟)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(桜山八幡宮の参道に 整列した山車)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

流石は日本三大美祭りと称されるのには納得しまぁ。

春の高山祭りがおますんやけど、こちらは桜の咲く4月。

機会が有れば今度は春の高山祭を拝見したいでんな。

昨年は御嶽さんの噴火でホテルが予約できましたんや。

常識的には春の高山はホテルの予約はやはり難しいかな?








次は7年に一度しか見れない「諏訪の御柱祭り」

2010年(平成22年)に見せてもらった
こちらは迫力のある勇壮なお祭りでっせ。

早いもんで来年の4月が次の諏訪大社の御柱祭り。

(一之御柱 木落しの見せ場)(平成22年4月撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(諏訪大社 一之御柱 川渡し)(平成22年4月撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

画像をたくさん写したんだけど消去してしまったかも。

この川渡しの画像だけでは意味が分からないかも。

アルバム帳からコピーして4~5枚貼り付けておきまひょ。

画像がボケてしまいまっけど悪しからず。















今回は鉄ちゃん爺やの選んだお祭りは三つだけにしまひょ。

ほんなら~ 今日はこれで、さいなら~♪








奈良市・元興寺の  かえる石

2015-08-23 14:52:51 | デジカメ散歩
奈良の元興寺に伝わる有名なお話でっせ。

3年前に訪れた際のブログではスルーしたんでっけど
最近の画像が種切れでおます、そんな訳で悪しからず。

(真言律宗 元興寺の東門)(国の重要文化財)





ここ10年ぐらい前から有名になった奈良町におますんや。

有名な割には観光客があまり訪れない隠れた名刹でっしゃろな。

昔は南都七大寺とも称された大きな寺院だったんでっせ。

現在は極楽堂と呼ばれる一僧坊だけしか残ってまへんけど。

(世界文化遺産 元興寺の石碑)



訪れる観光客は極楽堂と呼ばれる本堂を一周して
デジカメで記念撮影したら、お仕舞でっかな。

(国宝 極楽堂の本堂)











それじゃ~ 今回の「かえる石」のお話に入りまひょ。

この極楽堂の裏手に目立たない感じでヒガンバナに囲まれ
本堂に向かって静かに安置されてますんや。

(かえる石 説明板)



この「かえる石」は戦後の1958年(昭和33年)に大阪市内から
移設されたんでっけど、実に色んな噂や迷信に包まれた不思議な石で
現在は、有縁無縁一切の霊を供養して極楽カエルに成就されたんだって。

(元興寺境内の かえる石)



元は大坂城に置かれていた石だそうで、太閤秀吉がこの石を
特に愛したとかで、この石に座って瞑想に耽ったとの伝説も。

大坂城が落城した際にはこの石の下に淀君や女房衆が
埋められたとも伝えられてますんや。

淀君の遺体が発見されなかったのでこんな伝説が
生まれたようで彼女の怨念が込められているとか。

徳川幕府が大坂城を再建した際には邪魔なので乾櫓の
対岸のお堀端に打ち捨ててしまったんだって。

(大阪城の天守閣と 内堀)



それからと言うものは、この石からお濠に身投げする人や
変死した方の遺体がこの石の真下の濠で発見されるそうな。

江戸時代の「雲根志」という奇岩や標本を分類・考察した
書物にも大坂城堀島町にこの石が在ると記されてまっせ。

現在の大阪府庁舎から追手門学園が在る辺りに成りまっかな。

(大阪城 西側のお濠)



1940年(昭和15年)にある男性がこの真下のお濠で
浮いているのが発見され、一命を取り止めたそうでんがな。

警察の調べで石の上からお濠に飛び込んだんだろうと言われ。

私は石に座って写生をしていたら甘い香りが漂ってきて
十二単の女性が数人の腰元を伴って現れたと証言。

手招きをされたとこまでしか記憶がないと証言。

気が付いたらお濠に落ちていたと言う話でっしゃろ。

江戸時代のお話だと言われていた流言が昭和の時代に。

大阪城を管理していた大阪の第四師団が慌ててこの石を
現在の大阪府警本部のある辺りに動かしたそうでっせ。

戦争中は一時この石が行方不明になっていたようでんな。

戦後になって法円坂の雑木林でこの石が発見されて
しかるべき~ 大きな寺院に納めて供養すべきとの声。

そんな経緯から奈良の元興寺にお願いすることに成ったとか。

(元興寺 裏手の石仏群)



元興寺では毎年7月7日には、この「かえる石」の前で
供養の法会が行われ、参拝者が「かえる石」に水をかけ
無病息災と「かえる石」の供養を大大的にやるんだって。

最近は「無事かえる」とか「福かえる」とか読み替えて
置物とし玄関先や庭先に置かれてるのが良く見られまんな。

最後は興福寺の五重塔と猿沢の池を張り付けておきまひょ。

(興福寺五重塔と 猿沢の池)



猿沢の池から南へ歩いて10分ぐらいの処におまっせ。

奈良町は若い男女で賑わいますが元興寺はお年寄りが
立ち寄るぐらいのひなびたお寺でっけど。

今日はこれぐらいでお仕舞にしまっさ。

来週も保存中の画像からになりまんねん。

ほな~ これで、さいなら~♪
















鉄ちゃん爺や  阿倍野を歩く  後編 ~♪

2015-08-08 19:14:51 | デジカメ散歩
(あべの筋の 道路標識)



この辺りは江戸時代には摂津の国・東成郡阿倍野村と呼ばれ
上町台地に広がる雑木林と畑しかない土地だったそうですわ。

明治の初め阿倍野村には63戸と隣の猿山新田に28戸の家のみ
現在では考えられないような寂しい処だったと言われてますんや。

台地の為に深い井戸が掘れないので人間が住めなかったのかな。

まずは~ 松虫塚と呼ばれる場所から続けまひょ。

(松虫塚の 旧跡)





(松虫塚の 由緒書きの石碑)



阿倍野区のHPを覗いたらこんな記事がおましたで。

後鳥羽上皇の女官であった「松虫」が法然上人を土佐の国へ
配流したのを悲しんでこの地に隠棲したとの伝説が残るとか。

(松虫塚の 伝説)



後鳥羽上皇が熊野詣に出かけている時期に、院の女房が
法然門下の住蓮らが開いた念仏法会に参加したんだって。

出家した女房もおり、密通したとの噂まであったとか。

後鳥羽上皇が立腹して師匠である法然や弟子の親鸞などを
土佐の国と越後の国に配流すると同時に
専修念仏の禁止を告げた事件をご存じかしら。

1207年(承元元年)の「承元の法難」と呼びま~

此処には松虫の音色を聴くような風雅な伝説もおますんや。

いろんな伝説が残ってるそうで画像から読んでもらいまひょ。

(松虫塚)





その松虫の名前が付く駅で阪堺電気軌道の新型車が来たので
二駅だけでっけど乗ってみましたで。

歩いても1km弱だけど210円の出費でしたがな。

やはり新型車だけに振動もなく乗り心地は良かったですわ。

(阪堺電気軌道 1000形 路面電車)





(北畠の 停留所)



路面電車を乗り降りするだけの設備しかないので
阪堺電気軌道では「停留所」と呼ぶそうでっせ。

ここは阿倍野区でもお隣の帝塚山と並んで高級な
住宅街として戦前には大阪一だった処でっせ。

大正時代には阿倍野村は人口が5万を超えて当時
村単位では日本で一番人口が多かったんだって。

大阪の空襲にもほとんど被害が出なかった関係で
帝塚山を含めて古い大きな屋敷が今も多いでっせ。

戦後は兵庫県芦屋市にトップを譲った感じでんな。

(大阪府立 住吉高校)(大阪市阿倍野区北畠)



大阪市内の南部地区では昔から一番レベルの高い公立高校。

当時、鉄ちゃん爺やも憧れの高校だったんでっせ。

阿倍野区に在るのに「住吉高校」とはこれは如何に?

大正14年から戦争中まで、この辺りは住吉区阿倍野村でしたんや。

当時の旧制住吉中学校が戦後に「住吉高校」になったんですわ。

1943年(昭和18年)に住吉区が三つに分かれましたんや。

住吉区の名前はやはり古代から有名な住吉大社の辺りの住民が
反対して、この辺りは阿倍野区を名乗るようになった訳。

当時の住吉区役所は、ここの晴明通りに在ったんですけどね。

だけど住吉区の名前は住吉大社の辺りに持っていかれた感じ。

だから戦前の住吉区の名残りが高校名で残っている訳でんな。

(北畠の 住居表示)





この辺りは車で進入したら土地勘がないと大変でっせ。

大阪の空襲にも会わず、お屋敷が自分の家に都合よく道路を
造った感じで下手をすると、前にも後ろにも進めなくなりま。

行き止まりで住宅の割に道は昔のままで細いんですわ。

上町台地が落ち込んでその先が石段や崖になる個所も。

標高差はこの辺りで15m~17mぐらいかな。

(上町台地の 西側の崖)



鉄ちゃん爺やは準の地元だから土地勘は大丈夫でっけど。

これから目指すのは阿部野神社という場所でっせ。

阿倍野区と違いこちらは「にんべん」が無い阿部野でっせ。

一筋だけ間違って裏側の土塀にぶっかりましたけど。

西側から回り込んで阿部野神社をお参りしまひょ。

(阿部野神社 奥宮の五筋塀)



ここは北畠親房公と北畠顕家公をお祀りする神社のはず。

五筋塀は皇室や皇室出の門跡寺社にのみ許可が得られる。

この神社に白い五筋塀があるなんて予想しなかったですわ。

実は奥宮に皇室関係のご祭神があると初めて知りました。

それなら白い五筋塀が在るのは納得しましたで。

(奥宮の ご祭神)



(元別格官幣社 阿部野神社)







今のお若い方には別格官幣社ってご存知ないでしような。

少しだけ脱線して別格官幣社を説明させてもらいまひょ。

「国の為に その命を捧げ 功績のあった方を祀る神社」

どこかで~ 聞いたような言葉でっしゃろ。

そう~ 「靖国神社」も戦前はここと同じ別格官幣社でおます。

明治時代に皇国史観で多くの別格官幣社が造られましたんや。

ようするに官費で特別にお祀りをする、ご祭神が民間人の神社。

それも官幣社と名が付くと皇室の費用から支出されたんだって。

国弊社というのもあってこちらは国の費用で賄われたそうな。

神戸の湊川神社がその第一号なんでっけど同じ後醍醐天皇に
命を捧げた北畠親房・北畠顕家もお祀りすべきと陳情したのが
ここ東成郡・阿倍野村付近の有志だったそうですわ。

有志が民間の寄付金で神社の敷地まで購入したそうでっせ。

太政官符で1882年(明治15年)に創建が認められ
北畠の丘に完成したのが1887年(明治20年)でした。

日光の東照宮や京都の豊国神社すらが別格官幣社と
言われると当時は違和感が無かったのかしら?

まあ~ 戦後に別格官幣社は廃止されたから良いんだけど。

(阿倍野神社 拝殿)



流石に元別格官幣社だけに前回に紹介した阿倍王子神社や
安倍晴明神社より立派な拝殿が目立ちますな。

拝殿は焼失して昭和43年に再建されたようでっけど。



(笹竜胆=ささりんどう 家紋)



(皇室から許された 16弁菊の御紋)



北畠氏は村上天皇の皇子が臣籍降下したので村上源氏でんな。

だから~ 笹竜胆(ささりんどう)の紋が神前におますんや。

北畠家は内大臣にまで昇進できる清華家と呼ばれる名家で。

後世には伊勢の国で北畠氏は織田信長の時代まで続く家系で
南伊勢の北畠氏の家紋は、割菱や桐の紋に変わりますけど。

(阿部野神社 由緒書き)



北畠顕家(かねいえ)は13歳で参議に列する当時でも
こんな幼い人が従三位の高級貴族に成ることはないそうです。

16歳で陸奥守となり奥州の多賀城で後醍醐天皇の為に
東北地方一円を平定した立派な武将でもあります。

足利尊氏が反乱を起こし京都に攻め上ると、北畠顕家は東北の
兵約5万人を結集して一旦は足利尊氏を九州へ追い落とします。

その後は東北へ戻り霊山城(福島県伊達市)で足利方と戦い
翌年には再び約10万の兵を引き連れて再度の上洛を図ります。

だけど今回は足利方が優勢で京都には入れなかったとか。

奈良から天王寺村へ出て阿倍野で足利方と勝ったり負けたりで
さすがの北畠顕家も東北からの兵力を消耗してしまいます。

やはり東北から鎌倉や関西へと長期の戦いは不利だったのかな。

太平記によると 巻19 五月二十二日

「和泉の境 阿部野にて討ち死に 北畠顕家 20歳」

この阿部野のが神社の名前に成っているんですが明治に成り
北畠顕家の戦死したのは堺市の石津との説が有力になり
歴史学者は太平記の記事を批判するようになったとか。

現在の歴史上では堺市の石津の方が正しいのかも。

でも伝説では北畠顕家のお墓は阿倍王子神社の近くに在り
現在は北畠公園の一角にお祀りされてますんや。

(阿部野神社 本殿の祭神)



北畠親房(ちかふさ)は北畠顕家の実父で後醍醐天皇の死後
後村上天皇を助けて「神皇正統記」を書いた人として有名。

後醍醐天皇の生存中はあまり表には立たず逆に衰えていく
南朝を支えた公家として歴史に名を残しておられますかな。

伊勢の北畠家はこの北畠親房の三男からスタートしてまっせ。

でも戦後は後醍醐天皇を中心とする南朝の歴史が忘れられ
ここ阿部野神社も、ほとんどお参りする方は見られまへん。

(廃止された 阿部野神社下 停留所)



戦前までは阪堺電車に参拝用の停留所があったそうですわ。

現在も当時の停留所の跡だけが残ってまっせ。

奥に見える高架は南海電鉄の高野線のようでんな。

ここは、もう阿倍野区から外れて大阪市西成区になりま。

(天神ノ森 住居表示)



踏切を渡ると昔の紀州街道に出てきます、大阪市内の部分を
市民は住吉街道とも呼んでますんや。

南北朝の時代から台地の上を通る熊野街道が衰え
平坦な海沿いの紀州街道が賑わうようになったようでんな。

(阪堺電車 東玉出 停留所)







この辺りから住吉大社の先まで阪堺電車は紀州街道を走る
路面電車の撮影にはお気に入りの場所になりますんや。

(住吉 停留所)



塗装だけは新しく成ってますが鉄ちゃん爺やが中学生の頃に
阪堺電車の中から眺めていた停留所のまま残っている感じ。

(阪堺線と上町線の分岐点)



ここで乗り換えても210円のままで天王寺まで帰れますんや。

この画像の右手が有名な住吉大社になりまんねんで。

住吉大社は機会を見つけて、いずれ画像で紹介させてもらいまひょ。

(阿倍野歩道橋)





この歩道橋が阿倍野区の一番北の端になりますんや。

歩道橋を左手へ進むとJR天王寺駅になりますから
そこは、大阪市天王寺区となりまんねんで。

反対側が鉄ちゃん爺やの帰り道で近鉄南大阪線だっせ。

(近鉄 阿部野橋駅 改札口)



女性の背景で駅名が読みにくいかも知れまへんが近鉄の駅は
「阿部野橋駅」で「阿倍野区」とは漢字が異なりますんや。

この阿部野橋駅から急行で一駅目の18分で鉄ちゃん爺やの
自宅の最寄りの駅に帰れるんですわ。

でも~ ここから片道400円と凄く高いですわ。

ほんなら~ 今日はこれで さいなら~♪

























鉄ちゃんや爺や  阿倍野を歩く~♪

2015-08-01 20:26:32 | デジカメ散歩
大阪市阿倍野区と言うのが正式な地名だっせ~

昔から「阿部野」とか「あべの」とも書かれますんや。

最近は「あべのハルカス」が有名になりましたけどな。

今回は隠れた阿倍野・阿部野・安倍さん を紹介しまひょ。

(熊野街道から あべのハルカスを望む)



道幅が4mぐらいの細い通りでっけど中世には熊野街道の
大坂では熊野三山や住吉大社への参詣で賑わった街道でっせ。

あやふやで、はっきりしない地域もおますけど。

(熊野街道の道標)







江戸時代には八軒家浜(現在の天満橋)が起点でしたんや。

中世には「渡辺の津」とか呼ばれてたそうでんな。

京都から船で淀川を下り、渡辺の津からは標高20mぐらいの
上町台地を徒歩か輿で上皇さまや平安貴族が約200km先の
熊野権現を目指したのがこの熊野街道だったんでっせ。

スタートから約7kmでっさかいに、まだ始まったばっかり。

(熊野街道を 南方向に撮影)



まずは阿倍野区の地名に成ったとの説もある神社へ行きまひょ。

前々回に少しお話ししました熊野九十九王子の大阪府で唯一
同じ場所に現存すると考えられる「阿倍王子神社」でっせ。

大阪府である摂津の国と和泉の国には九十九王子神社が
二十二社も在ったそうですが現在ではここのみでんな。

当然ながら現在も熊野街道に面して鳥居が建ってますんや。

(阿倍王子神社の 鳥居)



(阿倍王子神社の ご神木)





参道の両側に、ご神木が四本植えられてますんやけど
何故か三本だけに、保存樹との表示板が添えられてま。

ご神木の参道を通り抜けると拝殿で、熊野大社の本宮と
同じ建て方になっているんだって。

拝殿は太平洋戦争の空襲で焼失し戦後に再建された物。

ここは熊野九十九王子の第五番目の摂社になるんだとか。

中世の上皇さまや平安貴族は九十九王子神社を順番に
お参りし合わせて旅の安全を祈願したんでしょうな。

(阿倍王子神社の拝殿)





(阿倍王子神社 由緒書き)



現在はこの神社の裏手が「あべの筋」と呼ばれる大通りで
熊野街道はこの「あべの筋」を左にしたり右にしたりして
おおむね、平行しながら泉州から紀州へと続いてますんや。

当時の大阪ではここ上町台地の西側は直ぐに海岸だったとか。

船場や大阪の繁華街であるキタやミナミはまだ海の中だった。

だから江戸時代の紀州街道はまだ存在しなかったのかも?

在ったとしても漁民が往来する小道に過ぎなかったのかな。

(阿倍王子神社 太鼓の稽古中)



氏子の子供さんたちが夏祭りの太鼓の練習をされてまっせ。

画像の左手が「あべの筋」の大通りに抜ける参道ですわ。

地元の方はここからも出入りされるんでしょうが
正式な参拝は鳥居のある熊野街道やと思いまんねんけど。

蛇足ながら明治維新までは、この上町台地から東側を東成郡
上町台地の下から海側を西成郡と呼んでましたんや。

それに南側が住吉大社の社領で住吉郡と呼ぶ荘園でんな。

現在は西成区と言えば「釜ヶ崎」をイメージする怖い街。

だけど江戸時代には西成郡は現在の新大阪駅を含む大阪の
繁華街やベイエリアを全て含んでいたんでっせ。

(阿倍野区 阿倍野元町 住居表示)



対する摂津の国・東成郡は四天王寺や大坂城など中世までは
中心街として栄えたものの江戸時代には衰退に向かう訳でんな。

この辺りは江戸時代には摂津の国・天王寺村大字阿倍野
明治時代には住吉郡に編入されたこともおましたんや。

住居表示を見てもらったら阿倍野区の阿倍野元町
この辺りが「あべの」の地名を生む元祖なんでしょうな。

その一つが先程の、阿倍王子神社から来ているとの説が。

次はもう一つ、混乱させるような名前が出てきまっせ。

(安倍晴明神社の 鳥居)





(安倍晴明神社 由緒書き)





安倍晴明(あべのせいめい)ちゅうお方ご存じかしら?

そうそう~ 陰陽師(おんみょうじ)の安倍晴明さん。

十数年前にベストセラーにもなりテレビにも登場し
特に若いご婦人方には、大人気を呼んだものですわ。

(安倍晴明神社 拝殿)





おそらく~ 大阪の方でも訪れた事がない神社でっしゃろな。

町の鎮守様ぐらいにしか見えない、こじんまりとしたお社。

その安倍晴明さんが此の地でお生まれに成ったようでっせ。

(安倍晴明さんの像と 白狐)





平安時代の10世紀に生まれ藤原道長公の活躍した
11世紀初めまで陰陽師寮の筆頭と播磨守も兼務。

中級官僚を勤め従四位上の位を持つ実在の人物ですわ。

しかも~ 伝説によれば、母親は信太の白狐だったとか。

(葛之葉姫の 石碑)





安倍晴明さんの父親は安倍保名というお方だったそうですわ。

有るとき和泉の国・信太郷で村人に追われた白狐を助けたそうな。

その恩義に白狐が若い娘に化けて安倍保名にアプローチ。

白狐が葛之葉姫と称され安倍保名の妻に成ったようでっせ。

そして生まれたのが安倍晴明で、ある時に葛之葉姫が誤って
正体を見せてしまった(しっぽかな?)んだって。

安倍晴明がまだ幼いころのお話だったとの事。

「恋しくば 尋ね来てみよ 和泉なる
  信太の森の うらみ葛の葉」

こんな和歌を残して身を隠してしまったそうですわ。

安倍晴明は成人して京都へ上ったそうでんな。

安倍晴明は賀茂忠行を師に天文学や陰陽道を学び
京都で最高の陰陽師(おんみょうじ)に成ったとか。

彼に勝てる陰陽師はとうとう現れなかったんだって。

その子孫は土御門家となり暦などを司る家系になり
朝廷が暦を改定する際には常に重んじられたとか。

京都市の一条戻り橋には「清明神社」がおまっせ

ここは訪れてまへんけど一番大きくて立派だとか。

関東には少ないでっけど西日本には安倍晴明を祀る
神社があちこちに在るようでんな。

信太の森にも安倍清明神社が残っているようでっせ。

(龍神様と 晴明水)





(安倍晴明神社 社務所)



現在でも占いでこの神社は副業で儲けているのかしら?

この辺りは奈良時代の豪族・阿倍氏の本貫の地だったとか。

「天の原 ふりさけ見れば 春日なる
     三笠の山に いでし月かも」

阿倍仲麻呂が故国への望郷の和歌として有名でっしゃろ。

遣唐使で唐の国に渡り唐の皇帝に認められ唐の高官にまで
上り詰めるも日本への帰国を許されず最後は長安でしたかな
彼の地で亡くなったんでしたよね。

そんな訳で阿倍氏や安倍氏が住んだ地名が阿倍野区の
名称に成ったとの説が有るんですが、定かじゃおまへん。

(阿倍野区 晴明通りの 住居表示)



(清明通りの 旧家)



清明の名前が付いたマンションやビルまでおまっせ。

この辺りは太平洋戦争の空襲を免れて大正や昭和初期の
建物が残っている、閑静な住宅街でしたんやけど。

少しづつ変わって行くようにも見えまんな。

(歴史の散歩道 道標)



阿倍王子神社を安倍王子神社と間違えてるけど。

安倍王子神社と書かれてる文献があるのかしら

(あべの筋 松虫の交差点)



交差点を向こうの方へ行けば平野区から八尾市へ。

次の画像は反対側を撮影したものでんな。

松虫の交差点を越えて右側の細い道が熊野街道でっせ。

自転車が2台こちらへ向かってくる後ろ側でんな。

左側の広い通りが「あべの筋」で正式には大阪府道
大阪・堺・泉南線と呼ばれてますんや。

(あべの筋と 熊野街道の分岐点)



この近くには阿部野神社と言う元別格官幣社もおますんや。

長くなりますんで松虫塚と阿部野神社は次回にしまひょ。

ほんなら~ これでさいなら~♪






























南宗寺 & 千利休の屋敷跡 堺の旧市内巡り~♪

2015-07-18 19:50:18 | デジカメ散歩
今回は堺市の旧町をご紹介しまひょ。

堺市と言えば何をイメージされまっしゃろか?

中世に「東洋のベニス」と呼ばれた自治都市
又は、千利休の生まれ育った街でっかな。

それとも堺が生んだ明治・大正の歌人与謝野晶子さんかしら。

(阪堺電気鉄道 大阪唯一の路面電車)





この路面電車は昭和32年製造(1957年)のロートル。

58歳とは路面電車だからこそ、今でも走れる骨董品に近いでんな。

もっと古いのも走ってまっけど、冷房装置が付けられないので
夏場には車庫で眠っている、日本一古い現役電車もおますんや。

当時はグリーン色で地味な塗装でしたが今ではキン肉マンの
子供が喜ぶようなラッピング塗装で走ってまんねんで。

現在は一駅だけでも、終点の浜寺公園まで乗っても210円均一。

赤字の為に「あびこ道駅」までで堺の路線を廃線にしようとそんな
計画もおましたんや、そこで助け舟を出したのが堺市でおます。

堺市が存続のために支援して全線どこまで乗っても210円
これは鉄ちゃん爺やだけでなく、乗客には嬉しいことですわ。

支援の金額は知りませんが、存続が決まったのは明るいお話。

話が脱線しましたが「ごりょうまえ駅」で下車しまっさ。

ここから歩いて約1.5kmぐらいの処に、前回紹介した
仁徳天皇陵の拝所に通じる道から駅名が付けられてますんや。

(堺市内 観光名所 案内図)



それじゃや~ 堺市内でも三本の指ぐらいに入る「南宗寺」へ向かいまひょ。

この付近は江戸時代からの寺町でお寺ばかりが並んでまっせ。

(臨済宗 大徳寺派 南宗寺)







無銘ながら徳川家康公の塔が在ると刻まれてまっしゃろ。

詳しくは境内の、徳川家康公のお墓でお話をしまひょ。

まずはこのお寺を創建した室町時代の方の銅像から。

(南宗寺境内 三好長慶公の銅像)



戦国時代に織田信長が上洛する一世代前に近畿地方や
京都市内を勢力下に収めていた有力な武将でんな。

戦国時代に堺の街をめぐる争奪戦で戦死した三好元長と言う
父親の霊を弔うために創建されたのが南宗寺だったんですわ。

(国の重要文化財  甘露門)





現在は横目で見ながら通り過ぎる感じに成ってるのは
昭和20年の空襲で主な堂塔が焼けてしまったからかも?

昔は南宗寺の山門にあたる重要な門だったんでしょうな。



(南宗寺 通用門)



土塀は確かに江戸時代ごろの古さを感じまっしゃろ。

先ずは、仏殿と有名な天井壁画からお見せしまひょ。

このお堂は釈迦如来さんを安置している本堂になるようでんな。

大阪では現在でも禅宗系のお寺は非常に珍しいんでっせ。

やはり~ 浄土真宗や浄土宗のお寺が多いんですわ。

(国の重要文化財 南宗寺 仏殿)







江戸時代の承応元年(1652年)創建された純粋な禅宗の様式で
造られた仏殿だそうで、天井壁画は狩野信政の筆だそうでっせ。

このお寺を再建したのは有名な沢庵和尚だと言われてまんな。

そう言えば京都の大徳寺も合わせて住職をされてたかな?

(八相睨みの龍 天井壁画)



禅宗のお寺へ行くと、この八相睨みの龍がよく描かれてまっしゃろ。

どの方向から眺めても、こちらを睨んでいるように見えますんや。

京都の天龍寺など特別拝観の時しか見れないお寺もおますかな。

堺市が支援するボランティアの方が説明して引率してくれまっせ。

当然ながら無料で、そこそこの歴史や知識を持ってはりました。

(南宗寺 禅堂)



ここは座禅の修行をする道場でっけど、建物は明治4年建立で
南宗寺では比較的新しい建物になりますかな。

鉄ちゃん爺やは無理でっけど朝の7時にここへお参りをしたら
座禅を体験できる文殊菩薩がお祀りされているお堂なんだって。

(坐雲亭の 説明板)





本当は南宗寺に残る江戸時代から一番古い建物だとの説明でした。

でも一度、倒壊して再建されたので重要文化財になれなかったとか。

この坐雲亭の二階に元和9年(1623年)7月に徳川秀忠公が
続いて8月に三代将軍になったばかりの徳川家光公が御成りとの記録が。

内部は拝観できないけど、一階は茶室に成っている感じだね。

大坂夏の陣で豊臣方が徳川方に利用させぬ為に堺の街を全て焼き払い
中世に栄えた堺の街も、この時点で一度は消滅した訳でんな。

その後、徳川幕府により再建された街並みを二階から眺めたのかも?

現在ではビルが建ってしまい、見晴らしは全くダメでっせ。

当時はここから街並みやその向こうに大阪湾まで一望だったとか。

(南宗寺 石庭)









こじんまりとした庭の枯山水で禅宗のお寺によく有る石庭でんな。

古田織部好みの庭だと書かれてますが、蓬莱山から流れ下って
滝を下り川から海を経て実相庵の前庭にたどり着くという工夫が
水は一滴も使わず砂と石で山河を表しているんだそうな。

最後の画像の奥に利休好みの実相庵がおますんやけど
現在は修復作業中で近寄れまへんでしたわ。

それじゃ~ 境内の奥の方へ行きまひょ。 

(千利休の供養塔と 千家一門のお墓)



中央が千利休の供養塔で並んでいる右側が不審庵=表千家のお墓。

左手が今日庵=裏千家のお墓、見づらいですが手前の右側に
官休庵=武者小路千家のお墓が一同に集められてますんや。

毎年2月27日の利休忌には全国各地から一門の人々で賑わうとか。

この利休一門のお墓の隣には千利休の師匠にあたる
武野紹鷗のお墓もおますんや。

(武野紹鷗の お墓)



その奥には当時、千利休と切磋琢磨し茶道の発展に努めた
津田家と半井家一門のお墓がおましたで。

津田家は歴史上にも登場する堺の豪商だったそうな。

(津田家・半井家 一門のお墓)



正面左から津田宗及その右が千利休と並び称される津田宗達
中央が翠嚴和尚の卵塔で右へ半井一門が並んでいるとの説明。

実は撮影はお断りされたんですが、正面の翠嚴和尚の卵塔の前の
花立を取り除くと「十字架」が刻まれてますんや。

そして左側の灯篭に刻まれているのはお地蔵さんのようで実は
マリア様に抱かれた赤ん坊なんだそうですわ。

当然ながらイエスキリストさんに成りますよね。

言われて見ればこの灯篭も十字架に見える感じがしまっかな。

南宗寺境内の一番奥になるんだけど、大胆にも隠れキリシタン。

ここは江戸時代には南宗寺と同じ境内に堺東照宮がおましたんや。

堺の商人が鎖国とキリスト教禁止への反骨の表現かしら?

ボランティアさんの説明が無ければ何の変哲もない江戸時代の
堺の商人のお墓だと通り過ぎる処でしょうな。

(南宗寺境内 三好長慶一族のお墓)





一番背の高いのが三好元長のお墓で、その右側が三好長慶。

江戸時代になってから再建された南宗寺へ移されたのかな?

三好一族は阿波の細川家の執事をしていた家だから、当然ながら
徳川家とは何の関係もないので、考えられるのは大坂夏の陣の後
この南宗寺を再建した沢庵和尚が昔の檀家さんとして移設したのかも。

次は関西系のテレビでも放映された珍説で「徳川家康公のお墓」

(徳川家康公の墓)(昭和42年建立)



これは大阪人の作り上げた伝説でっけど、徳川家康公は大坂夏の陣で
後藤又兵衛の槍で突かれて負傷し、堺市まで逃げてきたが既に死亡。

そこで開山堂の床下に埋葬したと伝えられてますんや。

大坂夏の陣に勝利すると影武者を徳川家康公に仕立て凱旋したとか。

翌年に駿府城内で「鯛の天ぷら」を食べて死亡したと正式に発表。

影武者は同じく大坂夏の陣で戦死したと書かれている小笠原秀政
この方は徳川家康公によく似たお顔だったとの記録がおます。

もしくは摂津の国で吉田村の百姓だったとも噂されてますな。

小説の世界のお話として軽く聞き流して頂戴ね。

(開山堂跡に 徳川家康公の 仮の墓)



このお墓はどう見ても僧侶の墓に思えるし、家康公の本当の墓なら
もっと立派なものが後に造られるはずだとの説が濃厚でっけど。

でも影武者を本当の家康公にして置く為なら、それも一理ありかな。

徳川秀忠公や家光公が、こんなお寺に立て続けで訪れたのはその際に
徳川家康公の遺骨を掘り起こして日光の東照宮に運ばせたとの説が。

宗旨でもない南宗寺にわざわざ京都から出向いてるのは何故かしら?

でも後藤又兵衛は大坂夏の陣の前日に河内の道明寺河原で戦死。

真田幸村に追い迫られた日には既にこの世には居なかったはず。

徳川家康公の新しいお墓は昭和になってから再建されました。

発起人の一人に故松下幸之助さんまでが名を連ねている不思議。

こんな伝説を信じて献金された訳でもないでしょうな。

発起人の総代は元水戸藩で家老職を務めた家柄の方なんだって。

江戸時代から徳川家康公の何らかの伝説があったんでしょうか?

今となっては記録書にも全く痕跡すら残ってまへん。

(南宗寺内 堺東照宮 拝殿の写真)



戦前まではここに堺東照宮が在り昭和20年の空襲で焼失。

鉄ちゃん爺やが前回に訪れた際は石の基礎だけが残ってましたな。

南宗寺と徳川家康公との歴史的な繋がりは皆無でおます。

現在は戦前の写真から東照宮の拝殿と開山堂が並んでいたとの
記録しか残ってませんが、まことに不思議なお話でっしゃろ。

堺東照宮が造られたのは江戸時代も後期で文政年間とのこと。

でも東照宮が造られるには、何かが有るんでしょうな。

(堺東照宮 唐門)



現在では堺東照宮の建物ではこの唐門だけが残っています。

厳めしく唐門には三つ葉葵の紋が正面に見えてまっしゃろ。

唐門の奥に見えるのが昭和になってから出来た徳川家康公のお墓。

ますます~ 徳川家康公との関連が謎のままでお寺を後にしましたんや。

(南宗禅寺 門前にて自撮り)



ここから歩いて10分ぐらいの処に千利休の屋敷跡がおます。

千利休の生家も当時の堺では中程度の大きい商人だったそうでんな。

次はその千利休の屋敷跡を紹介しまひょ。



(千利休の 屋敷跡)











この千利休屋敷跡と道路を挟んでお向かいに堺市がPRも兼ねて
こんな施設を造りましたんや、最近できた建物のようでんな。

(さかい利晶の杜 入口)



千利休の「利」と与謝野晶子の「晶」を合わせて出来た施設。

ここで抹茶と堺の和菓子が1200円ぐらいで味わえるとか。

でも鉄ちゃん爺やには、お似合いじゃないのでパスしまひょ。

千利休と与謝野晶子の資料などが展示されているそうですわ。

無料の模型だけデジカメで撮影して外へ出まひょ。

(明治から戦前までの 堺市の風景)





この辺りは大坂夏の陣の後に徳川幕府により再建された堺の中心街。

紀州街道が南北に通っていて紀州55万石の徳川家は和歌山城から
ここを通過し大坂の八軒家浜(現在の天満橋付近)から船に乗り
京都の伏見から山科を通って東海道を江戸に向かったそうでっせ。

(紀州街道の 石碑)





現在は中央にチンチン電車と呼ばれる阪堺電気軌道の路面電車が
通る堺市内でも有数の広い道路でっけどそれは大正時代以降のこと。

江戸時代には三分の一ぐらいの道幅しかなかったと言われてますな。

その証拠を伝える案内図が次の与謝野晶子の生家碑に見られまっせ。

(与謝野晶子 生家碑)











最後の画像の奥に見える保険会社のビルが写ってまっしゃろ。

あの辺りまで与謝野晶子の生家で和菓子屋さんだったんだって。

(大道筋 道路標)



昔の紀州街道を現在は堺市内では「大道筋」と呼ぶそうでんな。

ここから約2kmぐらい先で大和川を渡ると大阪市内になり
そこからは「住吉街道」と呼ばれて住吉大社の前を通ってますんや。

それでは堺の旧町へ少しだけ足を延ばしてみまひょ。

(堺市 山之口商店街)











与謝野晶子さんの地元だから商店街には与謝野晶子の短歌が
両側のアーケードの下に吊り下げられてまっせ。

堺と言えば最近は料理人用の包丁では8割以上を製造することで有名。

(堺市内 老舗の包丁の製造元)







家庭用ではステンレスの包丁が大半でっけど、料理人が使用する包丁は
現在でも堺の包丁が最高級品だと言われてまんな。

堺と言えば「刃物の街」と関西では昔から有名ではおまっせ。

戦国時代の鉄砲を製造していた職人が平和な時代になった江戸時代に
堺の包丁として全国的に知られるような集団になったんだそうな。

江戸時代の鉄砲鍛冶屋の建物はもう少し大阪寄りに1軒だけ残ってますが
こちらは屋敷の内部が公開されてませんので今回はパスしました。

(堺市 大少路筋=おうしょうじすじ)





鎌倉時代以降はこの東西に走る大小路(おうしょうじ)を
挟んで北側が摂津の国で南側が和泉の国だったんでっせ。

だから堺市の地名もここから考え出された物なんでしょうな。

江戸時代には竹内街道(たけのうちかいどう)の起点も
ここ大小路(おうしようじ)と紀州街道が交差する場所が
起点とされたので最近になって石碑が置かれてますわ。

(竹内街道=たけのうちかいどう 起点の石碑)





平安時代にはこの辺りは小さい漁村でこの交差点から西側は
大阪湾が広がっている寂しい処に過ぎなかったんだって。

処がこの辺りは大阪湾を経由して瀬戸内海から朝鮮半島へ
もしくは沖縄や中国大陸などへの港として注目されましたんや。

この大小路(おうしょうじ)の北側一帯を堺北の荘と呼び
朝廷から鎌倉時代には住吉大社に寄贈されて荘園となったとか。

だからここは住吉大社を通じて南朝方の拠点だったんでっせ。

南側は堺南の荘と呼ばれこちらは北朝の荘園から後に室町幕府の
所領となり中国との遣明船貿易の拠点となりましたんや。

堺の荘園は奈良や京都の寺社の供御人としての資格を所有して
全国で関所の税金なども免除される現在の流通業者だったようでんな。

幕府にも朝廷にも支持者がいて強力な組織が豪商に発展したようでっせ。

そんな遣明船貿易から堺市は発展し太閤秀吉が大坂城と市街地を
造るまでは、こちら堺の街が大坂で一番賑わったんだって。

南北朝の戦乱もそれから足利義満の大内氏との争いや三好一族の
京都や堺市をめぐる戦乱はこの堺の経済力の獲得にあったんでしょうな。

堺の街を把握した支配者が天下人と呼ばれる地位に座ったんだって。

中世先進の街とか、東洋のベニスと呼ばれる繁栄だったようでっせ。

そんな噂が宣教師を通じてヨーロッパにも伝わったんだって。

最後は織田信長や豊臣秀吉により堺の自治は崩壊しますがね。

大坂夏の陣で大半が焼けてしまった堺の街を復興させる必要を
徳川秀忠公や徳川家光公も大事な事業だと考えていたようでんな。

当時はまだ西洋との貿易は徳川幕府にも必要だったはず。

でも結局は鎖国により堺の復興は成ったが昔の栄光を取り戻せずに
昭和20年の4度に渡る空襲で壊滅的な被害で終了と成りましたんや。

(大少路=おうしょうじ & 大道筋の交差点)





堺市の援助で一昨年に購入された阪堺電気軌道の新型路面電車。

鉄ちゃん爺やが昨年に広島市内で見かけた路面電車と同じ型で
おそらく日本の同じメーカーで製造された車両だ思いまんな。

鉄ちゃん爺やが幼少の頃は辺り一面が焼野原でしたんで
それを考えれば近代的な街に変わりつつあるのかもしれまへん。

でも~ 世界的なトップ企業は堺旧市内には存在しませんので
なんとなく地方都市的な印象が強いのが残念でっかな。。

参考ながら中世の堺というイメージは全く感じられませんので
観光で訪れる際には期待外れに終わる可能性も強く念のため。



それじゃ~ 今日はこれでお仕舞にしまひょ。

ほんなら~ さいなら~♪