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Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
English: http://www.kunitakahashi.com/blog

バイク免許

2008-07-03 22:47:11 | シカゴ
ブログの更新をしばらくしていないので、友人の何人かから「生きてる?」とか「取材で海外いってるの?」みたいなメールがきているのだけれど、単に忙しいのに加えてまた筆無精の癖がでてしまっただけです。

海外取材にでれていればいいんだけれど、いまのトリビューンの経営状況では、そういう仕事は望むべくもない。リベリアから戻ってきてから、ジムの出所後の生活を追うプロジェクト以外はただ日常のニュースを撮っているだけの、ダウンな日々が続いている。

全然写真とは関係ないのだが、昨日バイクの免許を取得してきた。以前から免許は欲しいと思っていたし、この時期はシカゴもようやく気候がよくなったので車に乗るより気持ちがいい。しばらく出張取材もないことだし、いまがチャンスと教習所に登録して先週2日間のクラスを受講してきた。そんなわけで、ここ数日はネットでの中古のバイク探しに夢中になっている。

最近はガソリン代もうなぎ上りだし、燃費のいいバイクで取材にでられるといいんだけど、やはり機材のことや、写真の電送や気候のことも考えると仕事には使えないかな。。。

ジムの出所

2008-06-14 11:25:12 | シカゴ
先日ジムが刑務所から出所した。(彼については以前のブログ参照)
http://blog.goo.ne.jp/kuniphoto/e/5f2b9da2e542d895c77ea6ff70f6e549

ホームレス生活をおくっていたロックフォードには戻りたくないという彼の希望がかない、ジムはシカゴのトランジショナル施設であらたな人生のスタートをきることになった。

トランジショナル施設とは、出所して、所持金も戻る家もない人間が、自立した生活が送れるようになるまで各種のサポートをうけながら過ごす寮のような場所だ。ここでジムはしばらくの間コンピュータークラスを受講したり、ケース・ワーカーのカウンセリングを受けながら仕事探しをすることになる。寮費は払わなくていいが、初めの30日間は門限が夜9時(その後は11時)で、飲酒なども不可だし、抜き打ちの薬物検査もあるので規則は厳しい。薬物使用などでここを追い出されると、仮釈放規則違反でまた刑務所へ逆戻りということになる。

まだ出所1週間なので、健康診断やその他サポートグループとの面接などが終わるまでは就職活動も出来ない状態だが、ジムはとにかく仕事をしたがっている。なんせ収入がないことには何も出来ないのだからこのジムの欲求も尤もなことだ。車はもちろんのこと、ホームレス時代に足として使っていた自転車も買えないので、暇な時間は施設のまわりを散歩するくらいしかできないようだ。初めて生活するシカゴで、随分歩き回ったのでだいぶ地理がわかってきた、とは言っていたが。。。

今日の午後彼から連絡があって、なんと自分のメールアドレスと作成したという。昨年、コンテナに住む彼と初めて出会ったとき、まさか将来ジムとメールのやりとりをすることになろうなどとは夢にも思わなかった。

長年の間、コカイン中毒のホームレスだったジム。この先数ヶ月が、あらたに生まれ変わろうとしている彼にとっての正念場になるだろう。

そんなわけで今年の夏はジムと過ごすことが多くなりそうだ。

(写真:10ヶ月の刑期を終え、刑務所から釈放されるジム)

ジムの眠れぬ夜

2008-04-12 02:21:41 | シカゴ
ひと月ほど前に申請した撮影許可がようやく下りたので、昨年の貧困プロジェクトで取材したジムを訪れてきた。彼は昨年空きビルに侵入し器物を盗み、7月から刑務所に入っている。
http://blog.goo.ne.jp/kuniphoto/d/20071128

彼と会うのは11月以来だから、ほぼ5ヶ月ぶりだ。

久しぶりに会ったジムは、相変わらずどことなく落ち着きのない様子だったが、それでも顔色もよく元気そうだった。

シェリダンにあるこの刑務所は、中レベルのセキュリティー刑務所で、どちらかというと更正施設といった趣が強い。

釈放までの間に受刑者が手に職をつけられるように、電気や配管、旋盤などの建築関係やコンピューターのクラス、また、高校を卒業していない者のためには、同等の資格であるGEDの取得をめざすクラスも設置されている。

僕が訪れたとき、ジムもちょうど6ヶ月の大工仕事のコースを終了するところだった。金銭管理などのクラスも受講したということで、以前よりも幾分自信が出てきたようにも感じられたのだが、いざ腰を落ち着けて話してみるとどうも最近眠れない日々が続いているらしい。釈放後の身の振り方が心配だ、というのだ。

彼の予定釈放日は6月4日、残り二ヶ月もない。

「もうロックフォードには戻りたくない。あそこに戻ったら、また同じ仲間とコカイン漬けになって、以前と同じことになっちまう。。。」

シカゴから北西に車で1時間半ほどのロックフォードは、彼がホームレスとして何年も過ごした場所だ。服役中のリハビリで、ジムはコカイン中毒から立ち直った。刑務所ではタバコも禁止されているので、もう9ヶ月間、彼はコカインはおろか、酒もタバコも口にしていない。

ジムには3人の娘がいるが、もう7,8年も前、ホームレスとして堕ちぶれた生活をするようになってから家族関係を絶ってしまった彼は、長いこと娘たちと会うこともなかった。

ところが今年にはいって、20歳になる末娘のロビンから突然手紙が届いた。昨年12月にトリビューンに掲載された貧困プロジェクトの記事を、たまたま娘の一人がみつけたのだという。

家庭内暴力など、いろいろな問題を抱えるロビンは、ジムが刑務所をでたら彼女のもとに来て欲しいといっている。しかし、ジムの気持ちは複雑だ。彼女の暮らすロシェッテという街は、ジムの古巣でもあり、コカインがらみの悪い付き合いのある人間がまだ多く残っている。ロックフォードと同様、ロシェッテに戻ってしまえば、また以前のような荒れた生活に逆戻りしてしまうことを、彼は恐れているのだ。

「できればシカゴのような、新しい土地で出直したいんだ」

しかし、コネのない土地にいって果たして仕事に就くことができるだろうか。。。不安はつきない。毎晩そんなことを考えていると眠れなくなるという。

ジムの新たなチャレンジが始まるまで、あと55日。


写真部送別パーティー

2008-04-07 04:36:21 | シカゴ
一昨日、写真部から早期退職した5人のための送別パーティーが開かれた。

家族を同伴してきた5人はみな晴れやかな表情で楽しいひとときを過ごしていたが、短くても28年、長くて40年近くをトリビューンの写真部で過ごしてきた彼らだ。胸中を巡る思いもいろいろあったことと思う。

食事が始まる前に、彼らの足跡を辿る写真のスライドショーが流されたが、改めて彼らの業績に脱帽。

特に長いこと事件報道に身を置いてきたフランクの写真には目を見張るものがあった。60人の死者をだした1967年のシカゴの大雪をはじめ、映画にもなった1968年の民主党大会での大反戦デモ、300人近くが犠牲になった1979年の飛行機事故など、彼の白黒写真にはシカゴの歴史が詰まっていた。まさに彼は歴史の証人だったといえるだろう。

僕がトリビューンに移籍する随分前から彼はすでにデスク職についていたので、彼の撮った写真などほとんど見る機会がなかった。今回初めてそのドラマチックなニュース写真を目のあたりにして、僕はある少なからぬショックを受けてしまった。

長年の事件報道で培われたフランクの知識はデスクでも存分に生かされていた。

彼はシカゴにあるアラームボックス(火事や事件用に町の至る所に備え付けてある非常アラーム)や、今は少なくなってしまった公衆電話の位置などみな把握していたし、小さな路地を含めた通りはほとんどすべて彼の頭に入っていた。撮影現場の場所がわからないときなど、地図をみるよりフランクに電話をして尋ねる方が早かったのだ。A地点からB地点まで行くには、どこをどう通っていけば早いということも彼に聞くのが一番だったし、カーナビに頼ることの多い今の時代でも、自らの経験に裏打ちされた彼の判断は、コンピュータをも凌ぐものだった。

フランクが去った今、トリビューンの写真部にはシカゴの路上について彼ほどの知識を持った古い「職人気質」のカメラマンはもういない。

この夜は、前回のブログに書いたホゼへの質問も尋ねることができた。

「その朝というより、変わったのは前の晩かな。。。もうカメラのバッテリーをチェックしたり、一週間が始まる準備をしなくてよくなったからな。気楽になったよ」

そして、ちょっと意外だったことに彼はこう続けた。

「だけど写真のことよりも、写真部の友人たちとお喋りができなくなったのが一番寂しいよ。。。昼のコーヒーも、一人で飲まなくてはならなくなった」





現場から去った親爺

2008-04-02 12:37:01 | シカゴ
トリビューンのリストラの一環で、先週をもって我が写真部からも5人が早期退職となった。

カメラマン2人、デスク2人に機材担当1人がその内訳だが、機材担当はもともと一人しかいなかったので、これから一体どうなることやら。。。

退職したカメラマンの一人はホゼで、64歳の彼は、30年近くをトリビューンのカメラマンとして生きてきた。僕にとってはいい親爺さんといった存在で、仕事帰りによく食事にいったり飲みにいったりしたものだ。スタジオやファッションなどは撮らず、バリバリのニュース・カメラマンだった彼は、アフリカや中東の各地を取材してきたし、バチカンでローマ法王も何度も撮影し、ヨハネ・パウロ2世が亡くなったときは法王の写真集も出版した。

思えば、彼は80年代、90年代という新聞社の黄金時代を生きてきたのだなあと思う。

インターネットの台頭で購読部数も極端に下がり、その存在価値さえも危ぶまれている現在の新聞業界と違い、あの頃の新聞は報道の花形だった。取材予算も豊富にあって、社のカメラマンたちもニュース取材のために世界各地を飛び回っていたのだ。

そんないい時期を存分に謳歌し、やりたいことを十分やってから、退職金と共にさっぱりと現場から足を洗ったホゼ。将来が暗澹としているうえに、ビデオ撮りを含めたマルチメディア云々という現在の状況にとまどっている僕にとっては、正直言って彼の生きたタイミングが羨ましい。

それにしても、トリビューンに移籍する前から数えて30年以上も報道カメラマンとして写真を撮り続けてきたホゼにとって、今週から初めて仕事としてカメラを持たない日々がはじまったわけだ。

月曜の朝、眼を覚ました彼は一体どんなことを考えたのだろうか。

次に会うときに聞いてみようと思う。












チベット・デモ

2008-03-19 11:33:30 | シカゴ
先週から続いている騒乱によるチベットでの死者が80人とも100人とも伝えられているが、今日はそれに関連してシカゴでおこなわれた中国に対する抗議デモを撮影。

普段シカゴにいるときは、記者会見とかビジネス・ポートレートなどのつまらぬ撮影が多いので、久しぶりに撮りがいのある仕事がまわってきた。

インディアナやウィスコンシンなどの近郊から駆けつけたチベット人たちも合わせた500人ほどがシカゴのダウンタウンを行進し、中国領事館前でチベットに対する弾圧を抗議、熱気のあるデモになった。

シカゴ在住のチベット人をすべて集めても300人ほどしかいないし、正直言ってこれほど人が集まるとは思っていなかったので、僕としては嬉しくなる。やはりデモは人数が多ければ多いほどいい。

チベットといえば、ダライ・ラマ。もう10年以上前になると思うが、ボストンにいたときに僕は彼を撮影したことがある。あれだけ高名で、チベット人たちにとっては崇高なリーダーである彼も、実際目の前にしてみると、ジョークは飛ばすわ、なんだかひょうきんなおっちゃんだなあ、と思ったのを覚えている。

まあそれはいいとして、今回のラサでの暴動は1989年以来ということなので、20年ぶりの大暴動ということになる。しかし今回の死傷者数のほうがはるかに多いし、また暴動は他の地区にも飛び火しているようで、これからも犠牲者は増えるかもしれない。

中国は今年はオリンピックも控えているし、あまり過激な弾圧には出られないは思うが、それでも鉄拳をふるうことには慣れている政府だし、平和的対話を求めているダライ・ラマを「嘘つき」よばわりしているくらいだから、ちょっと心配ではある。

この先の展開の如何に関わらず、僧侶の理不尽な拘禁を始めとする、チベットでの中国政府による武力弾圧は許されるべきではないだろう。アメリカやドイツもすでに中国に対してダライ・ラマとの対話を促す声明をだしていることだし、日本もあやふやな態度を続けていないで、たまには人権尊重の確固とした態度を示してほしいものだ。

(お知らせ:写真展19日からですhttp://www.apple-tree.biz/

中学校での講演

2008-02-28 12:23:06 | シカゴ
先週、シカゴ郊外にある日本人学校で、中学生を相手に話をする機会をいただいた。

「平和学習」という授業に参加し、僕のこれまでのイラクでの経験を写真をみせながら講演してきたのだが、そのときの生徒たちの感想文が今日郵送されてきた。

講演前は、生徒達の日常とあまりにかけ離れたイラクや戦争のことなど、興味を持って聞いて貰えるだろうかと疑念をもっていたのだが、それなりに真剣に受け止めていてくれたようで、感想文にはみな切実な思いが綴られていた。

彼らのほとんどが、「戦争のことなどこれまで考えたこともなかった」、「初めて戦争の怖さを知ることができた」と述べている。アメリカに住んでいるのに、と少し不思議に思うが、よく考えてみれば無理もない、米軍のイラク侵攻が始まったとき彼らはまだ7,8歳に過ぎなかったし、その多くは日本にいたはずだ。

そんななか、一風変わった興味深い文章があった。本人の了解がないのでこの生徒の名前は伏せておくが、彼の言葉をいくつか引用してみたい。

「。。。僕みたいな人はゲームくらいでしか戦争を知れないからです。ゲームでは目の前の敵を倒していけばクリアとなりますが、現実は敵でもない民間人の命さえも奪うことになります。無論ゲームの中では民間人なんて登場しませんので、戦争に対する見方は、実際の体験者と比べれば全く違うものになると思います」

「戦争とは仕方のないことだと思います。仕方ないの一言で流せることではないということはわかっています。しかし、実際あちこちに戦争の花を咲かせる種は落ちていると思います。その種たちだって既に実をつけて、あと一歩の所まで来てるかもしれません」

「日本は過去に太平洋戦争で負けて、誰もが平和を望んだはずなのに60年ちょっと時が流れただけで、再び戦争をしようとしています。つまり、平和がわからなくなってきているのではないかと思います。平和とはどういうことなのか?と聞かれたら、おそらく日本人は8割くらいの人が答えられないと思います。それが10割に達してしまったときに戦争が始まってしまうのではないかと思います」

細かいことは抜きにして、現在僕らをとりまく現代の状況をうまく言い表しているなあ、と感心させられた。

写真展や本の感想を送ってもらう度に、子供たちの感受性、というか、彼らなりのものの見方にははっとさせられるものがある。そんな彼らからの反応に接するたびに、こちらももっと頑張って伝えなくては。。。などと勇気づけられるから、まあ僕も単純なものだ。

記憶というものは風化してしまうもの。今回の僕の講演で、死体や傷ついた人の写真をみてショックを受けたことや、戦争について考えてみたことも、生徒たちはすぐに忘れてしまうだろう。

しかし、何年か先の将来、彼らが戦争や平和について自己の意思表示をすべく時がきたとき、僕の見せた写真や話をふと思い出して堂々と戦争反対の意見を述べてくれるとしたら、講演の甲斐もあるものだ。。。と思っている。






事件報道の罪(その2)

2008-02-21 21:38:59 | シカゴ
前回のブログの続きになるが、「糞バエ」(コメント欄参照)のひとりである僕も、結局今回の乱射事件から離れているわけにもいかず、日曜に大学の近くにある教会のミサ、そして月曜には犠牲者のひとりである女学生の葬儀の様子を撮影してきた。

「こんな理不尽な事件のためにこれだけ人々が心を痛めている。。。」
実際に現場に出て、教会で悲しむ人々の表情にレンズを向けていると、やはりこういう現実は世間に知ってもらうべきだ、そういう気持ちが湧き出てきた。しかし、それは単にカメラマンとしての自己の仕事を正当化する解釈だった、と思えなくもない。

なぜなら、前のブログに書いた問題点、すなわちこういう事件報道を大々的におこなうことによって、今後の事件再発にある種加担してしまっているのではないか、という疑問はいまだに僕の中に残ったままだからだ。

この写真は結局トリビューンの第一面に掲載されたが、今回はなにかしっくりといかないものがあるのが正直なところだ。


事件報道の罪?

2008-02-16 12:41:38 | シカゴ
2週間前のシカゴ郊外でのショッピングモールでの事件に続き、無差別銃撃殺人がまたおこった。

今度はシカゴから車で1時間ほど西にあるノーザン・イリノイ大学の構内だ。5人の学生と犯人合わせて6人が命を失った。

1999年のコロンバイン高校での乱射にはじまり、昨年のバージニア工科大での事件を含め、学校内やショッピングセンターなど公の場での銃の乱射殺人が続発している。僕はシフトの関係で昨日の事件の取材にはいかなかったのだが、テレビで延々と流される生中継の映像をみながら、ふとこんなことを考えていた。

こんなに事件が起こるのは、メディア、すなわち報道機関にも責任があるのではないか。。。

たしかに5人も10人も犠牲者がでればそれなりの大事件ではある。しかしメディアが大々的に、そしてセンセーショナルにこういう事件を報道すればするほど、コピーキャット(模倣)事件がどんどん増えていくのではないかと感じるのだ。

事件がテレビや新聞で大きな脚光を浴びて、世間に与える影響が大きいほど犯人にしては願ったりの結果だろう。そしてそういうセンセーショナリズムは、それを見ている将来の犯人候補(?)をかえって勇気づけることになっていやしないだろうか?逆に考えて、仮にメディアがこういう事件をほとんど報道しないか、大袈裟に扱うことをしていなかったとしたら、果たして似たような事件がこれほどまでに続発していただろうか、と思うのだ。

こんなことを考えていたら、事件報道の目的とは一体なんなのかよくわからなくなってきた。

僕が考えるところのジャーナリズムの使命とは、現実を報道することによって、その状況改善を目的とすること、である。例えば戦争や貧困など、世間に知られざる現実を一般社会に伝えることにより、世論を動かし、そこから争いを食い止めたり、社会的弱者の生活状況の改善につなげていくことだ。

しかし、あらためて考えてみて、学校での乱射殺人のような事件の報道が一体何の役にたっているのか、はっきりとした答えが見出せない。逆に、前述したように、事件をセンセーショナルに報道することによって、将来起こりうる事件をかえって増やしているのではないか、とさえ思うのだ。まあそうは言ってもこんな仮定を証明することはできないし、これはあくまで僕の私見に過ぎないのだけれど。。。

仮に僕の考えが正しいとしても、現実的にメディアがこういう事件を無視したり黙殺したりすることは考えられないし、要はその報道の仕方に問題があるのだろうと思う。

まあいまの社会ではこんな提案は実現不可能であろうが、これから報道機関、特にテレビは、こういう事件がおこってもセンセーショナルに扱うことはせず、あくまで冷静に事実を最小限に述べるだけにとどめてみたらどうだろう。

もしメディアが、「自分たちが事件再発の一因を担っているのでは。。。」という認識と疑問をもち、報道姿勢をあらためるとしたら、将来の犯罪事情は変わっていくと思うのだけれど。。。






ウェブの弊害

2008-01-31 13:35:28 | シカゴ
このところシカゴの冬らしくマイナス10度とか15度の極寒続きだったのだが、昨日は珍しく10度近くまで気温のあがる「暖かい」日になった。

しかし天気予報によればそれも夕方までで、午後3時過ぎから気温は下がりはじめ、夜には強風を伴う吹雪になるということ。昼夜のその気温差はなんと20度以上にもなるという。(珍しく予報はあたって、実際にそうなった)

午前中はフィリピンでの取材のビデオ編集などおこなわなくてはならなかったので、僕は撮影のシフトからはずしてもらっていたのだが、昼過ぎにデスクからこんな撮影を頼まれた。

「クニ、ちょっと風が強いところでも探して天気関係の写真撮ってきてくれないか?」

「それは構わないけど、まだ天候は悪化してないからほとんど風は吹いてないし、気温もさがってないよ。。。」

正直そんな撮影に出るのもちょっと面倒だったので、いぶかしげに僕がこう言うと、なんとこんな答えが返ってきたではないか。

「いや、ウェブサイトのチームが、早判のページにとりあえず吹雪の前兆のような写真を載せておきたいらしいんだ」

「???」

僕は唖然とした。

カメラマンは、現在目の前に起こっていることを記録するわけで、占い師でもあるまいし、これから起こる未来のことなど撮れるものではない。いや、占い師だって、将来のことは言い当てても、それを写真に撮る事なんてできないだろう。

大型台風でも予報されていれば、被害を防ぐために窓に板を張るなど「予防措置」をする人の様子を撮ることも可能だろうが、昨日程度の吹雪などシカゴでは特別なことでもない。いくら数時間後に吹雪になるといっても、実際に気温が下がって風が強くなってこなければ、こちらが頑張ったって求めている光景になど出くわすことなどあり得ないのだ。

そんなことはデスクも重々承知のはずなのに、とりあえずウェブページにアップデートする写真が必要なので、こんな難題をカメラマンに押し付けてきたのだ。

いくら理不尽な仕事とはいえ、手ぶらで帰るわけにも行かない僕は、結局ダウンタウンを2時間半歩き回った末に、風で旗がばたばたひらめいているようなどうしようもない写真を3枚撮ってオフィスに戻ってきた。

一応ウェブサイトには数時間その写真が載せられたけれど、僕としてはまったく腑に落ちない。

以前のように、翌日の紙面のためだけに撮っているのなら、写真入稿の締め切りは夜だし、実際に吹雪になってからその様子を写真を撮って新聞に載せれば済むことだ。それが刻々ページを更新していかなくてはならないウェブサイトでは、その都度写真のアップも求められることになる。締め切りが一日に何度もあるようなものだ。

そんなわけで、こんなカメラマンとしては理屈に合わない仕事も発生するようになってきた。

これも考えようによっては、僕らにとってのウェブ時代の弊害のひとつだ。

だけどいくらなんでも昨日のケースは、デスクが毅然とした態度でウェブ・チームの理不尽なリクエストを拒絶するべきだったよなあ、とは思うけど。


















旧友との再会

2008-01-27 13:07:36 | シカゴ
仕事が忙しいのに加え、ニューヨークを訪れたりとプライベートでもなんだかいろいろあって、すっかりブログ更新なまけてしまった。文章など全然書く気がおこらなかったのだ。これじゃあジャーナリスト失格か。。。でももともとカメラマンだし、筆不精なのはいつになっても同じだから仕方ないな。

2日前、極寒のシカゴで旧友に会う機会があった。

ハリーという名の彼は、僕がボストンにいた頃、いつも懇意にしてもらっていたカメラ店のオーナーだ。僕がボストン・ヘラルドで仕事をしはじめてすぐに知り合ったので、もう12年以上の付き合いになる。

その頃はまだ個人営業のカメラ屋だったのが、6,7年ほど前に大手のチェーン店カルメット・フォトに買収されて、ハリーはそのボストン支店のマネージャーになった。それから彼も随分出世し、今ではオペレーション部門のナンバー2。ここ最近は毎週シカゴに3日滞在し、残りをボストンで過ごすというタフな生活を続けているという。シカゴに来ていてもいつも打ち合わせ続きで忙しいらしいが、今週ちょうど都合のあった僕らは再会を果たすことができた。

彼と会うのももう4年ぶりになる。

ボストン時代に、機材を買うとき僕はいつも彼の世話になっていた。無理な価格で値切るので、僕に売っても彼はいつも儲けなし。まあ、他できっちり儲けてたんだろうが、それでも気に入ってくれていたようで、いつも無理をきいてもらっていた。

僕はハリーの家族にも何度か会って面識があるのだが、ひとしきり昔話に花を咲かせたあと、話題が彼の2人の息子のことになった。

時の経つのも早いもので、上の息子はもう29歳になったという。最後に会ったのは確か彼が大学卒業するあたりだったはずだ。3年前に結婚したといって、ハリーは式での写真をみせてくれた。都市名は忘れたが、カリフォルニア州の海辺に大邸宅を建てて住んでいるという。

「奴はいい仕事がみつかって、ずいぶん稼いでいるんだ。俺よりもずっとね。。。はははっ」

ハリーは苦笑いしながら半ば息子を自慢するようにそんなことを言った。

「カルメットでナンバー2の君より稼いでるって?息子は一体どれだけ給料もらってんだ?」

ハリーははっきりとは言わなかったけれど、会社の売買に関する仕事をしている息子は、年収3千万以上は楽に稼いでいるらしい。これを聞いて僕は半ば唖然としてしまった。

世の中に稼ぎのいい奴などごまんといるのはわかっているが、さすがに自分の知り合いでこういう人間がいるとちょっと複雑な気持ちになる。それも若干29歳だ。まあ朝日新聞あたりのスタッフは別にして、だいたいカメラマンやジャーナリストなどそれほど金には縁のない連中が多い。だから、年収3千万どころか、1千万といわれてもどうもピンとこない。

別に僕は、贅沢はできないにせよ生活に困っているというほどではないし、特に金銭的に大きな不満があるわけでもない。ただ、仕事に関してはまだまだ納得がいかない部分もあるし、新聞社のスタッフとしての限界もわかっている。

「それだけ金があれば、採算のことなど考えずに、1年でも2年でも世界中をまわって、納得するだけ写真撮っていられるなあ。。。」

だから、もしもそんなに収入があったら。。。なんて少し甘い夢をみてしまったのだ。

ちなみにハリーの下の息子だが、そちらもニューヨークのワールドバンクでバリバリやっているという。さすがユダヤ人一家。やはりビジネスに関しては才覚があるようだ。

久々の再会を機会に、僕は以前から欲しかった機材用のバッグを翌日カルメットに買いにいくことにした。普段は店頭になどでてこないハリーを呼び出して、ボストンにいた頃を思い出しながら、強引に値切る。

さすがのユダヤ人商人ハリーも、相変わらず僕相手には儲けなし。。。だ。











アメリカ人の愛国心

2007-12-22 13:39:04 | シカゴ
前回掲載した、星条旗のスカーフをした老女ロザリーの写真に対するコメントのなかに、生活苦にありながらもアメリカ政府を支持しているのか?というものがあったのだが、これは日本人にはちょっとピンと来ない感覚かもな、と気づかされたので、少し言及したいと思う。

アメリカ人の多くは、「愛国心」というものを日常生活のなかですり込まれて育つ。小学生でさえ学校で「忠誠の誓い」を毎日唱えさせられるし、高校からプロに至るまで、どんなスポーツ競技でも試合前には必ず国旗に向かっての国歌斉唱がある。

僕は17年前にこの国に移り住んでからしばらく、こんなアメリカ人達の「愛国心」や「アメリカはナンバーワンの国だ」と信じきっている彼らのある種高慢な態度に強い嫌悪感を抱いていた。今でもそういう露骨な愛国心の表現には抵抗を覚えるけれど、こちらでの生活が長くなるにつれ、ひと口に愛国心といっても、そう疎んずるものばかりではないことがだんだんとわかるようになってきた。

ロザリーの星条旗スカーフはそのいい例だ。

ベビーシッター、看護婦手伝い、銀行受付、ホテル予約係、事務員。。。これまでいろいろな職についてきたが、人生一度も経済的に恵まれることのなかった彼女は、今年で66歳。最低の生活保護と、ボランティアで手伝っている食糧配給所から分けてもらう食べ物でぎりぎりの暮らしをしている。

イラク戦争に反対し、米国内での経済格差に大きな不満をもつロザリーは、アメリカ政府に対して大きな憤りを感じている。
「イラク戦争はおかしい、そんな金があるなら国内の貧困層を救済しろ、政府が歯止めをかけないから、家賃があがって貧民が生活できない。。。」
彼女に会うたびに、僕はそんな怒りに満ちた不満を延々と聞かされていた。

そんな彼女が、どうしてトレードマークのようにアメリカ国旗である星条旗のスカーフを身につけるのだろうか?

それは彼女がアメリカ政府ではなく、アメリカという国を愛しているからだ。彼女にとっては、国としてのアメリカと、アメリカ政府は別物なのである。

反戦デモや人権擁護の集会などを取材すると、必ずそこには星条旗を掲げた人々の姿があるが、それも同じこと。ロザリーをはじめとする多くのこんなアメリカ国民達にとって、「愛国心」とは「祖国」に対して持つものであり、それは「政府」に対するものではない。だから、時には政府が、彼らの愛国心に敵対する存在になることさえもあるわけだ。

貧しいロザリーが米政府の貧困対策に不満や憤りを持ちながらも、それでも星条旗のスカーフを被って愛国心を示しているのには、そんな背景がある。彼女は政府の政策は支持しないが、アメリカという国は心から愛しているのだ。いや、アメリカを愛しているからこそ、政府を批判せざるを得ない、といったほうがいいかもしれない。

こういう事情は、「愛国心」というものをあまり感じたり考えたりする機会の少ない日本人にとっては馴染みの薄いものかもしれない。それでも近年は石原都知事の君が代・日の丸強制や、安倍前総理の「美しい国、日本」などといった、政府主導の「愛国心」の押し付けというおかしな風潮はでてきているようだけれど。

本当に日本を大切に思っているのであれば、国際社会のなかでの役割を正しく認識して、偏狭な保守主義や国粋主義に惑わされることなく、日本への「愛国心」を持てるようになりたい。そのためには、うわべだけの偽りの愛国心を振りかざして、真の国益を損ねるような政府にははっきりと反対の意思表示をすることが大切だろう。

そういう意味では、ロザリーのようなアメリカ人達の「愛国心」には学ぶべき点が多いのではないだろうか。


(お知らせ)
12月20日発売の月刊 DaysJapanマガジンにソマリアの写真と記事が掲載されました。以下の書店で取り扱っています。
http://www.daysjapan.net/koudoku/index04.html

貧困プロジェクト掲載

2007-12-16 14:02:58 | シカゴ
貧困プロジェクトがトリビューンに掲載された。

http://www.chicagotribune.com/poverty

「イリノイ州の貧困率が増加している。。。」今年3月、運転中に聞いていたラジオの短いニュースがこのプロジェクトを始めるきっかけだった。

アフリカや中東など紛争地の国際ニュースばかりに写欲のある僕は、自身が生活の基盤としているアメリカや地元のシカゴでこれまでまとまった写真ストーリーを撮っていなかった。国際ニュースに比べて興味が薄かったことは確かだが、単に仕事としてではなく、自分が心を寄せて撮れるような題材を見つけることができなかったからだ。

「これなら撮り続けてみたい。。。」ニュースを聞いたときそう思った僕は、その日から資料集めにかかり、貧困問題に関わる組織、団体にコンタクトをとってこのプロジェクトにとりかかった。

その後5月からハイチ、イラクに3回、ソマリア、と出ずっぱりの状態が続き、思うようにこのプロジェクトに時間を割くことができなかったが、なんとか海外取材の合間を縫って撮影を続け、ようやく掲載までにこぎつけた。

一番大変だったのはやはり取材対象探しだった。

貧困がテーマだから、取材されるほうも誇れるものではない。貧しい自らの生活をカメラの前にさらけ出すのには恥じや抵抗がある。取材を拒否されることなど何度もあったし、逆に途中から金を要求されてこちらから引かなくてはならなくなったこともあった。プロジェクトの意図を理解して取材に協力してくれる人々を見つけるのは楽なことではなかったのだ。

シングルマザー、一人暮らしの老女、ホームレス、メキシコからの移民、障害者。。。それでもなんとか取材対象を探し出し、いろいろなかたちで貧困層として社会に存在する人々と写真を通して関わりあうことができた。

取材対象者のなかには、僕が何度も足を運び、話を聞き、撮影しながら多くの時間をともにしてきた人々も少なくない。友人とまではいかなくても、ある程度気心のわかる関係を築けたと思っているし、僕自身、前回ブログにとりあげたジムを含めた彼らの将来には興味がある。

プロジェクトは新聞に掲載されたことによって一段落したわけだが、貧困増加は依然として大きな社会問題だ。これからも息の長いスパンでこの問題を撮り続けていければと思う。

(写真:一人暮らしの老女ロザリー。生活保護と食料配給に頼るぎりぎりの生活だ)


ジムとの再会

2007-11-28 23:57:04 | シカゴ
来月掲載予定の貧困プロジェクトのまとめで多忙なのと、また筆不精の気がでてしばらくブログ更新さぼってしまった。

昨日はホームレスのジムに会いにシカゴから2時間ほど離れた刑務所を訪れた。

ジムと出会ったのは今年の3月、貧困プロジェクトを始めてすぐのことだ。彼はシカゴの北西にあるロックフォードという街で川沿いに放置されたトレーラー(コンテナ)にガールフレンドのジョディと一緒に住んでいた。

酒か薬で身を落とす多くのホームレスの例に漏れず、ジムとジョディもコカイン中毒者だった。くず鉄集めをして幾ばくかの金を稼いでいたが、そのほとんどはコカインのために浪費され、食べものよりドラッグが先、という典型的な毎日をおくっていた。

若かった頃はカントリー歌手のバンドでドラムをたたき、各地にツアーにでてそれなりに景気はよかったのだが、そのうちドラッグに溺れるようになりジムは身を持ち崩した。彼には2人の娘がいるといっていたが、もう何年も家族とも音信不通になっている。

7月のある日、高く売れる銅の部品を集めるために、市によって立ち入り禁止となっていた空きビルに侵入し逮捕された。

僕も彼が刑務所に入ったのは知っていたが、イラクやアフリカ取材で国外に出っ放しだったので、これまで訪れる機会がなかったのだ。

半年ぶりにあったジムは、長かった髪も切り、すっかり小奇麗になっていた。以前と違って刑務所でしっかり食事をしているせいで体重も増えたようだ。

「ここでいろんなことに気づかされた。。。これまで俺はドラッグに中毒になっていると思ってたんだけど、本当はドラッグだけでなく、ホームレスのライフスタイル自体に中毒になっていたようだ」

この刑務所は、犯罪者を檻に閉じ込めておくだけではなく、リハビリのためのカウンセリングや比較的高いレベルの職業訓練などにも力を入れている。ジムも毎日、ドラッグ中毒のリハビリを受け、ビルディング・メインテナンスの講義を受講している。

彼はカウンセリングを受けているうちに、コカインだけでなく、トレーラーのなかで寝起きし、盗みを働き、ぎりぎりのところで生活するといった、スリルがあって自由なホームレスの生活自体に病みつきになっていたのだった。

そして気づいたとき、金も、家族も、友人も、愛していたガールフレンドのジョディも失った。

ドラッグを断って4ヶ月、彼のふっきれたような様子からして、今は本気で人生をやり直そうと考えているようだ。

彼の出所予定は来年の7月、そう遠くはない。頼れる人間のいないジムにとって、新たなスタートをきることは決してやさしい事ではない。身に馴染んだロックフォードに戻り、元の生活を繰り返すほうがずっと楽だからだ。

僕も、ジムの行く末については決して楽観はしていないが、いずれにしてもこれからも彼を見続けていければと思っている。

(写真:トレーラーで生活していた頃のジムとジョディ)

シカゴに戻って

2007-07-11 11:07:24 | シカゴ
ここ数日、シカゴもなかなか暑くなっている。

まあ、それでも32,3度なので、50度を越える暑さのイラクに比べればなんのことはないのだが、一応米軍キャンプの宿舎にはエアコンがついていたので室内にいるときは苦痛ではなかった。小さな扇風機しかない僕のアパートでは(昨年までついていたエアコンは、冬に窓枠を新しく変える工事の際に規格が合わず取り外されてしまったのだ!)、寝苦しくて、すこし眠ってはまた暑さで眼を覚ますという繰り返し。。。ついに観念して昨日エアコンを購入してきた。

こんなことを書いていると、冬は寒いと文句をいい、夏は暑いと愚痴る我慢のない奴だと思われそうだが、シカゴというのはこういう街なのだ。それでも夏型の自分としてはやはり暑いほうがまだましだけれど。イラクにいるとき「暑いイラクにいると、シカゴの冬がすこし懐かしくなるのでは。。。?」というメールが知り合いから届いたが、車内に残したりんごが凍ってしまうようなあのシカゴの極寒を懐かしく思うことなど、決してありえないだろう。

今回のイラク取材では、インターネットのマルチ・メディアのために、写真以外にかなりの量のビデオも撮ってきた。

ビデオは写真よりも編集に時間がかかるので、これからこの作業におわれることになりそうなのだが、今春に始めた貧困問題のプロジェクトにも戻らなくてはならない。このプロジェクトのために、明日から数日間、シカゴから南に車で6時間ほどのところにあるイリノイ州の最貧困地、カイロという街を訪ねる。変な言い方だが、どんな人間たちに出会えるか、楽しみだ。