Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
English: http://www.kunitakahashi.com/blog

コンゴ取材を終えて

2010-05-07 01:16:28 | アフリカ
12日間のコンゴ取材を終え、ナイロビに戻ってきた。

難民、鉱山、国連軍、コンゴ兵、そしてピグミー族と、非常に短い時間であれこれ手を出したので深く踏み込んだ取材はできなかったが、まあそういう仕事だったので仕方がない。

初めて訪れたコンゴ(東部だけだが)は、前のブログにも書いたように美しい山々に囲まれた魅力的な国であった。

常々思うことだが、いくらこういった美しい自然をたたえていても、紛争地と化すことで国民が過酷な生活を強いられるという国々は少なくない。その国の人々が避難民などとなって水や食料にも事欠くという生活をしている傍ら、僕らのような外部の人間がやってきて「美しい自然だ」などと感心していることに一種のアンバランスというか罪悪感のようなものを感じずにはいられなかった。しかし、今回ゴマからさらに6時間ほど山奥にはいった難民キャンプを訪れる途中、コンゴ人のガイドが運転しながらこんなことを呟いた。
「いい景色だなあ。この辺はとても綺麗なんだ」

これを聞いて少しほっとしたものだ。

停戦したとはいえ、まだまだ山奥では散発的な銃撃戦などは続いている。コンゴのカビラ大統領の強硬な要求を受けて、国連軍は6月より撤退を開始するが、その後コンゴ国軍だけで治安を維持し、内戦の再発を防ぐことができるのか?

紛争が完全に終わったとしても、農村部のみならずゴマの市内でさえ道路はぼこぼこだし、電気や水道のインフラなど、まだまだコンゴ東部の復興には年月がかかりそうだ。

(お知らせ:英語中心の新ブログページ開設します http://www.kunitakahashi.com/blog/

コンゴ紛争と鉱山資源 - Congo's war and mineral resources

2010-05-03 05:08:15 | アフリカ
Went back to the mountains for a few days. This time to cover the mines. Again, we had to manage the wet, muddy mountain roads and it became a nightmare.

First we visited a mine in South Kivu Province producing tin. Due to the muddy and a trail narrowed by small landslides, we had to leave our truck in a village about half way and take motorcycles. After a back-killing, two-hour ride on a bumpy mountain trail on the rear saddle of small 150cc motorbike, we finally reached a village. Then from there, we had to walk up a steep hill for an hour to get to the mine field. 

Two days later, we visited tungsten mine which is about 70km west of Goma. The road again was in terrible condition. The rain in the morning made it almost impossible to drive, but we had to try since we didn't have many days left in DRC. Our four wheel drive got stuck in mud countless times and once it almost fell down the edge of the trail. Luckily, an NGO truck passing by helped us to tow us out of the ditch.

Despite all this effort to reach the mines, we had only an hour or two to spend for shooting since we needed to go down the mountains before sunset for security reasons. I managed to produce a few photos I like in both mines we visited - if that hadn't been the case, the disappointment would've been too great. 

It doesn't sound like an efficient way of working but we couldn't ignore the mines which are big part of the story about the war in the DRC.

It is no exaggeration to say that the bloody conflict in DRC, which involved neighboring countries like Rwanda and Uganda as well as the U.S behind the scenes, was rooted to the country's rich and profitable mineral resources. 

In recent years, the demand for those minerals, used as parts for mobile phones, computer chips and VCRs...etc, has been drastically increased and it has fueled the war in DRC. We, as a user of those high-tech electronics products, are not strangers to the conflict which cost the lives of over five million people since 1998. 

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鉱山の取材のためにまた数日間山奥へ行ってきた。

錫とタングステンを採掘する二つの鉱山を訪れたのだが、両日ともまたもや悪路で悪戦苦闘。南キブ州ヌンビにある錫鉱山では、山道の地滑りなどがひどく道が塞がれ、四輪駆動車でも走行が不可能だったために、途中の村からオートバイタクシーを雇うことに。オフロード仕様でもない普通の150ccのバイクの後ろにしがみついて延々2時間山道を行く。なんとか目的地の村に着いたと思ったら、今度は登山が待っていた。急な斜面を這い上がるようにして1時間ほど登り、ようやく採掘場へと辿り着くことができた。

その2日後に訪れたタングステン鉱山はゴマから西へ4時間ほどのングングという村にあるのだが、ここに辿り着くまでがまたもや一苦労。朝からの雨で山道はほとんど泥沼状態。車は何度も泥に埋まり、一度は危うく土手から滑り落ちそうになった。幸い偶然にも後ろを走ってきたNGOのトラックに引っ張りだしてもらい危機を脱することができたが、後になってドライバーが言うには、正直その日はもう町に戻れないかも、と内心思っていたという。

これだけの思いをして現場に辿り着いても、安全のため日没までにはゴマに戻らなくてはならないので、実際に撮影に使えるのは1時間ほどしかない。今回は幸いそれなりに気に入った写真が撮れたものの、そうでなかったらその落胆ぶりは想像に余るところだ。

今回ここまでして鉱山の撮影にこだわったのは、やはりコンゴの紛争を語る上で、この国の資源の存在を無視できないからだ。

ルワンダやウガンダなど隣接国、そして陰で動く米国をも交えたコンゴの武力闘争は、金、錫、コルタン、タングステンなど、この国に豊富に埋蔵され、莫大な利益をもたらす鉱物の利権を巡るものといっても過言ではない。

特に電子機器の半田や、携帯電話やデジタルカメラなどの部品として使われる錫やコルタン、タングステンなどの需要は伸び続け、鉱山の価値をいっそう高めている。そういう意味では、iPhoneやブラックベリーなどの電化製品を使う僕らも、1998年以来500万人以上の命を奪ったコンゴの紛争と関わりがないとはいえないのだ。



山間部での3日間 - 3 days in rural congo

2010-04-26 16:23:00 | アフリカ
Just came back from Goma after spending 3 days in rural area to cover IDP camps in the mountains.

I can say that it was the second most challenging drive after the one during sandstorm in Iraq desert in 2003. On our way, we got stuck for an hour behind a truck stuck in the mud. The "hotel" we stayed was pretty interesting as well. There was only a bed in a small room with cardboard wall. No running water, no electricity. It was supposed to be the best hotel in town. Although it was $5 per night, I thought it was still too expensive.

The mountainous area is stunningly beautiful. People in the villages are sincere and welcoming despite the long-lasting war and collapsed government.

"You make a grave mistake going to Goma: You will never want to leave.....Heart-achingly beautiful--and brutal"

My friend and ex-colleague at the Chicago Tribune, Paul Salopek told me prior to my departure to DRC. Now I know what he meant.

Yesterday on our way back to Goma, we got a flat but we found out the spare tire we carried was not the right size. Luckily, there was a town about 10km away. Our driver took the flat by motorcycle taxi to the town. After hour and a half, he successfully came back with fixed tire.

Last night, we were back to civilization. It was nice taking shower after 3 days.

(photo: villagers try to push the truck our of mud)

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山間部にある避難民キャンプを取材するために3日間を僻地で過ごしてきた。

全く舗装されていないでこぼこの山道を、途中一泊をいれて7時間。僕のこれまでの経験では、砂嵐のイラクの砂漠の次に過酷なドライブだった。(とはいっても僕が運転したわけではないんだけれど)

まだ雨期が終わっていないので、毎日のように激しい雨が路面を濡らし続ける。途中、泥濘にはまり動けなくなったトラックが道を塞ぎ、1時間ほど立ち往生。

宿泊したホテルもただ小さな部屋にベッドがおいてあるという簡素なもので、水も電気も通っていない。これでも町では一番立派な宿泊施設だという。一泊5ドルだが、これでもちょっと高いなあ、という感じ。

しかし緑に覆われた山々が連なるこの地域は本当に美しい。途中通り過ぎる村々では薪や水を頭にのせて運ぶ村人の姿があり、僕を含めた外国人が一般的に連想する「美しいアフリカ」というのがぴったりくるような風景がここにはある。長年続いてきた内戦や政治的腐敗にも関わらず、村の人々は誠実で僕ら外国人に対しても寛大だ。

「コンゴに行くのは間違いだな。あの美しい国に一度行ったら最後、もうそこを離れたくなるなるぞ。。。」
トリビューン時代の同僚であり、友人でもある記者のポールが、コンゴにくる前に僕に投げかけた「忠告」を思い出す。

ゴマに戻る帰路は、僕らの車がパンクし、おまけにスペアに積んでいたタイアのサイズが合わないというお粗末さ。幸いなことに10キロほど先に小さな町があったので、ドライバーがオートバイでそこまでタイヤを運んで修理するあいだ、またもや2時間ほど立ち往生。

昨夜ようやくゴマのホテルに到着し、3日ぶりにシャワーを浴びることができた。

(写真:泥にはまったトラックを押し出そうとする地元民)

前途多難?

2010-04-21 13:32:25 | アフリカ
昨日ルワンダから陸路で国境を超え、DRCのゴマに到着。道中、雨期の水を吸った緑に覆われた美しい山々をこえてきた。これまでのアフリカ取材では、ほとんど都市部にしか縁がなかったので新鮮な眺めだ。

国境を越えてそのまま政府の役所で取材許可証をとったり、国連でのミーティングがたてこんで一日中ほとんど何も口にできず。ようやく夕食にありついたのはいいが、ホテルに戻るころにやたら気分が悪くなり、その後2時間ほど腹に何も残らなくなった後も吐きまくった。

僕は基本的に何処へいっても腹は大丈夫なのだが、果たして過信しすぎか。。。2日前もナイロビで下痢になるし、広河さんも体調があまり思わしくないようだ。

まあ、今のうちに悪運を過ごしてしまえばあとは好調に転じるだろう、と、楽観的に構えてはいるんだけど。

ナイロビ着

2010-04-18 15:05:24 | アフリカ
昨日朝にナイロビに到着。思っていたより涼しいのに驚いた。

この町はソマリア取材のときに数日間滞在した以来、3年ぶりだ。もともと午前3時発という便がさらに遅れて、ムンバイを出発したのが午前5時。機内でもあまり寝られなかったので頭がすっきりしないまま、政府のプレス・オフィスに出向きプレス・カードを申請。今回はケニア国内でもいくつか取材する予定なので、身分証を取得しておかなくてはならない。

ナイロビは好きな町のひとつだ。なんとなく町の空気が肌に合う。滞在日数が少なかった割にはそこそこ友人もいるし、DRCに行くまでの2日間ほど、少し時間もあるので、彼らと会えるのも嬉しい。

今回日本から同行しているDays Japanの広河さんと、取材の手助けをしてくれている国連職員の方から夕食をとりながら状況説明をうけ、そのあとは早々にベッドにはいる。さすがに前日ほとんど寝ていないので、数分も経たないうちに眠りについた。

早朝5時、屋根を打ちつけるような激しい雨音で眼が覚めた。

今は雨期。夜間は毎日のように雨に晒されているようだ。DRCも同じく、毎日雨模様とのこと。涼しいのは助かるが、この先の撮影が思いやられそうだ。

もっとも高くついたビザ

2010-04-14 00:14:29 | アフリカ
ここ1週間以上八方手を尽くしたあげく、ようやくビザがおりたので、昨日日帰りでデリーにいってきた。デリーへの2往復の交通費プラス宿泊費だけでも500ドルの出費。さらにビザ交付費で300ドル。これまででもっとも高くついたビザになった。おまけに前述したようにここのDRC領事は最悪だ。

こういう官僚が跋扈しているから、いつまでたってもDRCは内戦も終わらず国民が悲惨な生活を強いられているのだ、とここまで言及するのは少々突飛すぎるか?

いよいよ金曜に出発なので、先方との取材の段取りをつけるのに忙しい。

ムスとギフト

2009-09-30 09:07:27 | アフリカ
ボストンで旧友たちと共に一夜を過ごしたあと、ペンシルバニアまで車を走らせ、6ヶ月ぶりにギフトとムスに会ってきた。
http://blog.goo.ne.jp/kuniphoto/e/fe340fc09b236d1e88e7b2caf0ce9069

たった半年とはいえ、ムスの成長ぶりにはまたもや驚かされた。ギフトが結ってくれたという長めのドレッドヘアのせいもあるだろうが、顔つきもすらりとし、背も一段と伸びて、会う度に少女の面影がなくなっていくのがわかる。

もともとは日曜日だけを過ごしてシカゴに戻る予定だったのだが、彼女たちの強いリクエストもあって滞在を一日延ばしてきた。インドにいってしまえば、次にいつ会えるかもわからない。

彼女たちの元気な姿を見てとりあえずは一安心。しかし、内戦の後遺症に悩まされていた半年前とはうってかわり、見違えるようにやる気満々で授業を受けているギフトに対して、ムスのほうはどうにも勉強に対して気が乗りきらないようだ。そんなムスのやる気をいかに引き出すことができるか、ジョディが頭を悩ませている。

ムスは留学生としてアメリカに来ているため、成績が悪すぎて奨学金などが受けられなくなると、この先ビザの更新などに影響が出てくる可能性もある。彼女はもともと非常に頭の切れる子なので、何かいいきっかけさえ見つけることができれば、学力もみるみる向上する事は間違いないんだけれど。。。

ふざけあうムスとギフトの姿を眺めながら、僕の頭にはあらためて感慨深い思いがよぎっていた。

思えば内戦中のリベリアで彼女たちと出会ってからもう6年だ。内戦の終わった翌年、首都モンロビアの町で2人と再会したとき、まさか将来彼女たちがアメリカで生活する事になろうなどとは、一体誰が想像し得ただろう。彼女たち自身にとっても、この数年間はまさに夢のような経験だったに違いない。人生なんて、本当にどう転ぶかわからないものだ。

そして、僕自身も今はこうして20年ちかく住み慣れたアメリカを離れ、インドへ居を移す準備に追われている。

ムスたちとはまた違う大陸に住むことになってしまうので、もうこれまでのような頻度では彼女らに会うことはできないだろう。成長していく彼女たちの姿を、半年とか一年ごとに写真に収めていくのが楽しみだった。しかしこれからは数年に一度ほどしか会えなくなってしまうかも知れない。

まあ、僕がいようがいまいが、彼女たちは成長し人生を謳歌していくわけで、彼女らにとって僕の存在などさして重要なものではないだろう。それでもやはり、これから先も、「アンクル・クニ」と慕ってもらうことができれば嬉しいな、とは思う。





モガディシュの精神病院

2007-11-03 20:09:16 | アフリカ
モガディシュに滞在中、街にある唯一の精神病院を訪れた。

2005年に院長のハベブ氏によってつくられたこのハベブ・メンタル・ホスピタルには現在50人弱の患者が入院している。

精神安定剤の多用によるものだろう、ほとんどの患者達はうつろな眼で宙をみつめているか、ベッドに横たわり眠っていた。驚いたことに、なかには足を鎖でつながれた患者たちもいる。病院のスタッフが言うに、乱暴な患者に対するやむを得ない措置だという。

ハベブ氏は、精神病に対する3ヶ月ほどのトレーニングを受けただけで、実は正規の医者ではない。それでもこの病院を頼って開院以来2000人以上の患者がこの病院を訪れている。

いまだに精神障害が悪霊の仕業だと信じる人々が少なくないこのような土地では、悪霊をとり払おうと、患者に肉体的暴力を加えたり、食事を与えず飢えさせたり、また、ハイエナと同じ部屋に精神病者を閉じ込めたりすることさえもあるという。

このような、「理解しがたい」精神病に対処することができず、手に負えなくなった家族たちが、患者をハベブ氏のもとに連れてくるのだ。

まともに会話のできない患者達から、一体彼らがどんな理由で精神に異常をきたすようになったかを聞き出すのは不可能だった。それでも、この国で長年続いている内戦の影響は無視できないだろう。

家を焼かれ、家族を殺されたトラウマから抜け出せずに生きる人々は数知れない。

「症状が良くなって退院しても、戦争でまた病んでしまう。。。この繰り返しです。この国では患者の心が癒されることはありません!」

いつになっても戦いの終わることのないこの国の状況に苛立ちながら、叫ぶようにハベブ氏は声を張り上げた。


危険に晒されるジャーナリスト達

2007-10-28 22:44:33 | アフリカ
先日アブディからまたメールが届いた。前回のブログに書いた、モガディシュのラジオ局ラジオ・シャベレで働き、たびたび街の近況を知らせてくれるのが彼だ。

このラジオ局のマネージャーが殺されたという。外出先から自宅に戻ったところを、複数の男達に撃たれたらしい。

今年に入って、ラジオ・シャベレのスタッフ達をはじめ、ソマリアのジャーナリスト達が極端な命の危険に晒されるようになった。彼らは臆せず政府批判などもおこなってきたため、暫定政権(以下単に「政府」と略)とイスラム抵抗勢力の衝突が顕著になるにつれて、政府軍から露骨に狙われるようになったのだ。

9月には政府軍兵士たちがラジオ・シャベレのスタジオを襲撃し、16人のスタッフが逮捕、拘禁された。銃撃で設備は破壊され、局は2週間以上閉鎖を余儀なくされた。

今回の暗殺を含めて、今年に入って8人のソマリア人ジャーナリストが殺された。外国からのメディアがソマリアに入ってこない今、現地からの報道はソマリア人ジャーナリスト達の肩にかかっている。彼らが報道を続けるために冒すリスクには相当なものがあるはずだ。

ジャーナリスト達の携帯に脅迫電話やメッセージが送らるのは日常茶飯事で、恐れをなしてモガディシュを離れていった者も少なくない。もともと40人ほどいたラジオ・シャベレのスタッフも、いまでは10人足らずになってしまったという。

「何とか助けてもらうことはできないだろうか。。。」

モガディシュで僕らが出会ったとき、アブディもできることなら国外へ逃げたいと切望していた。

外国から来たジャーナリストの同胞である僕らを頼ってのアブディの願いだったが、こればかりは彼の期待する答えを返すことができなかった。リベリアの子供達を学校に行かせるような、単純な援助で解決できる問題ではないのだ。

資金とコネのある人間はナイロビなどに脱出することは可能だが、そうではない一般のソマリア人が他国のビザを取得するのは困難だ。僕にも明確なことはわからないが、国をでるためには、全てを捨てて難民になるしかないのだろうか。

毎日命の危険に晒されながら生きていく。。。それも、単に流れ弾にあたるという類のものではなく、自分自身がターゲットとなり、狙われ続けるという恐怖にははかり知れないものがあるだろう。安全に帰る場所のある外国人の僕らには、とうてい理解することのできない心情だった。

しかしこんな状況下でも、残された彼らは局を運営し、放送をし続けている。

「逃げられるものなら逃げたいけど、せめてここにいるうちはジャーナリストとしての仕事を続けなければと思っているんだ」

アブディは静かな口調で、しかしはっきりとこう語った。

ジャーナリストとしてのこれほどの使命感を果たして僕は持っているだろうか?

彼の言葉は、僕の胸に鋭く突き刺さってきた。











見放された土地

2007-10-25 00:38:03 | アフリカ
ソマリアでの取材を終えて1週間以上が過ぎた。予定では続いてコンゴに行くことになっていたのだが、取材先が中東に変更になってしまい、いったんシカゴへ戻ることになった。

現在ソマリアでの日本語での記事をまとめているところだが、残念ながら首都のモガディシュに関して、イラクのバグダッド同様近い将来への希望がなにも見出せないでいる。

モガディシュで知り合った現地のラジオ局のレポーターが、数日ごとに街の近況をメールで知らせてくれるのだが、毎日のごとく市内で爆弾テロや銃撃戦がおこり、犠牲者が絶えることがない。ほとんどが暫定政府軍とそれを後押しして侵攻してきたエチオピア軍に対する攻撃だが、多くの市民達もその巻き添えをくっているようだ。

とりあえず今回は簡単にソマリアの現状を紹介しておきたいと思う。

イギリス、フランスそしてイタリアの保護領となった歴史をもつこの国は、1991年の内戦以来、暫定政権はあるものの事実上の無政府状態となっている。1993年には、内戦収拾のために国連軍として介入してきた米軍がこっぴどくやられて18人の米兵が犠牲になった。米兵の死体が市内を引きずり回され、映画「ブラックホーク・ダウン」でも有名になったこのときの様子を憶えている人は多いだろう。

伝統的にソマリア人は氏族(クラン)を中心とした社会を形成していたので、内戦が下火になってからもこの氏族が地域を分割統治するかたちで、時折勢力争いを繰り広げながらも、昨年までなんとかそれなりの秩序を保ってきた。いわば日本の戦国時代のようなものだ。

しかし、昨年6月にイスラム法廷会議(ICU)が、暫定政府軍を破り、モガディシュを含むソマリア南部を武力制圧した。16年ぶりに中央政権らしきものができあがったのだが、イスラム原理主義的な統治をおこなうこの政府はアメリカにとって脅威になった。タリバン政権のように、アルカイダと密接に結びつく可能性があったからだ。

そこでアメリカは、ソマリアの隣国で犬猿の中でもあるエチオピアをけしかけ、モガディシュに軍を侵攻させ暫定政府軍の後押しをさせて、イスラム法廷会議を追い払った。

敗走したあといったんは成りを潜めていたイスラム武装勢力だったが、ここ半年ほど攻勢に転じ、現在またモガディシュは泥沼の内戦状態になっているというわけだ。

イスラム武装勢力は、路上爆弾や自爆テロで暫定政府軍とエチオピア軍兵士を狙い、また政治家、市民を問わず親政府の人間の誘拐、暗殺をおこなっている。

これはイラクでの手口とまったく同じで、外国人なども誘拐、殺害の対象になるので、そのため現在外国からのジャーナリストがほとんどモガディシュにはいることもない。外国人のカメラマンとして取材したのも、恐らくここ半年ほどでは僕一人だけではないだろうか。

モガディシュは、いわば国際報道から見放された土地、とでもいえるのだ。











ソマリア取材を終えて

2007-10-17 22:48:34 | アフリカ
先日ソマリア取材を終えて、ナイロビに戻ってきた。

ソマリアでは首都のモガディシュと北部の港町ボサソを訪れたが、滞在中はやたら忙しく、かろうじてメールをチェックできるくらい。とてもブログの更新まで手がまわらなかった。

モガディシュでは予想していたとおり治安の問題で随分と行動が制限されたが、それでもバグダッドよりは撮れたと思う。

長年続く内戦でことごとく破壊された凄惨な街の景色は、僕にとっては初めて眼にするものだった。それはまるで遺跡群のようでもあり、不謹慎ながら美しいとさえ感じるほどであった。

ソマリアの政情は複雑で、これからしばらくも落ち着くことはなさそうだが、記憶と感覚が薄れないうちに記事を綴らなくてはと思っている。

とりあえずは報告まで。



ソマリアへ

2007-09-26 09:04:14 | アフリカ
まだシカゴにもどって1週間ほどなのだが、ソマリアに行くことになった。出発が木曜日なので、また慌しく過ごしている。

ソマリアは以前から行きたかったのだが、ここしばらく情勢が悪すぎてあまり動けないことと、取材費がかかりすぎるということでなかなかその願いが叶わなかった。

2年前に石油プロジェクトで一緒に組んだレポーターのポールがなんとか上司と編集者たちを説得して今回の取材が実現したのだ。ピューリッツアーを2回受賞しているポールはいわばトリビューンの看板記者。だいたい彼の提案するプロジェクトはすんなり認められるのだが、そんな大物記者の彼でも今回のソマリア行きにオッケーをだしてもらうのにはかなり手こずったらしい。

首都のモガディシュはほとんどバグダッドのようになっており、自由に動き回って撮るのはなかなか難しいようだ。

隣国のエチオピアにも寄って取材をしてくる予定だが、どちらも僕にとっては初めての国。納得できるものが撮れるといいのだが。。。

「撮れるか、撮れないか。。。」この仕事を始めてもう15年経つが、いまだに初めての場所を訪れるときは、プレッシャーを感じるものだ。