Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
English: http://www.kunitakahashi.com/blog

月刊フォトジャーナルThePageの第11号アップ

2014-04-17 21:23:35 | Weblog
月刊フォトジャーナルThePageの第11号アップされました。今回はリビア、コンゴ、インドなどから。

http://thepage.jp/detail/20140410-00000002-wordleaf

フェイスブックで印パの友好

2014-04-17 21:05:13 | アジア
2年ぶりに訪れたパキスタンでの短い滞在から戻ってきた。

田舎部での撮影の2日目、おかしな天気に見舞われた。首都イスラマバードからの道中は青空だったのに、目的地に着いた途端黒雲が空を覆いはじめ、大粒の雨が降り出してきた。すぐに止むだろうと高を括っていると、なんと小粒の雹が混ざりだしたではないか!こんな天気などまったく予期していなかったので、雨具を車中においてきた僕はずぶ濡れに。不幸中の幸いだったのは、雨雲のおかげで写真が撮りやすくなったことだ。快晴の強い光ではコントラストが強すぎてなかなかいい写真をとるのは難しい。

今回の仕事の内容はクライアントの記事の発表前なのでまだ書けないが、数日前にパキスタン絡みでひとつ興味深いことに遭遇したので、紹介したい。

パキスタンの友人から、フェイスブックをとおしてあるウェブサイトのリンクが送られてきた。「メディアの伝えないパキスタン」と題されたそのページには8分程の写真スライドショーが載せられており、風景や町の景色、民族文化にスポーツイベントや政治的なものまで様々なパキスタンの写真が紹介されている。こんなところがあったのか、と息をのむほど美しい雪山や海岸のイメージもでてくるのだが、僕の目を引いたのはこのページに書き込まれたひとつのコメントだった。

「敬意を表して。インドより」北米に住むインド人の残したこの短い書き込みに対して、120以上もの反応が寄せられていたのだ。多くはパキスタン人からのもので、コメントに対する感謝を表したものだった。「大いなる敬意を君に。脱帽」、「君のようなインドの人々に、パキスタンから敬意と平和を」、「パキスタンを代表して、感謝します」などなど。

もしコメントがインド人によって書かれたものでなかったら、ここまで多くの反応はなかったと思う。これは、いかにパキスタン人が、特にインド人による、ステレオタイプの悪いイメージに辟易しているかのひとつのいい例だろう。僕自身もインドで生活するなか、これまで数えきれない程パキスタンに対する罵詈雑言を耳にしてきた。雑貨屋の店主から大学生まで、教育レベルに関係なく、多くのインド人達はパキスタンに対して悪いイメージ、ときには敵意さえも持っている。インド国内で、パキスタンからのイスラム過激派によるテロは頻繁におこるが、その逆はほとんどないので、インド人たちの気持ちもわからなくはない。ただ、そういったインド人たちのほとんどはパキスタンに行ったこともなく、現地人とつき合ったこともない人ばかりなので、自己の経験をもとにした悪意を持っているとは思えない。結局は他者に植え付けられた悪いイメージを鵜呑みにしているに過ぎないのだ。

いずれにしてもこういう現実なので、このフェイスブックのコメントのように、ときどき心あるインド人がパキスタンに対して好意的な意見を述べたりすると、それはパキスタン人たちにとっては相当喜ばしいことなのだろうと察するのは難しくない。

と、ここまで書いて、規模はまだ小さいものの、日本にも似たようなことが起こりつつあるなあと気づかされた。露骨に反中国や反韓国を唱える集会やネットへの書き込みだ。こうして中・韓人に敵意をむき出しにする彼らも、一体どれだけの当国のことを理解したうえで反発しているのか怪しいものだと思う。結局は政治的思惑により、他者によってつくられたイメージに踊らされているだけなんじゃないだろうか。

いろいろと物議の多いフェイスブックだが、今回はうまくインド・パキスタン両国の架け橋となったと思う 。コメント欄のやりとりは読んでいて心温まるものだったし、国境をもたないソーシャルメディアが、わずかながらも両国の友好に一役買った、といったところか。

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The Page 第10号アップ

2014-03-16 06:28:37 | Weblog
月刊フォトジャーナルThePageの第10号アップされました。今回はアフガン、イラク、ナイジェリアなどから。

http://thepage.jp/detail/20140311-00000012-wordleaf

富豪たちの社会貢献

2014-03-10 09:02:37 | アジア
初めて訪れるバングラデッシュで数日を過ごした。ニューヨークシティの前市長であるマイケル・ブルームバーグの関わる公衆衛生関連事業の撮影のためだ。ビジネスニュース系のメディア会社を経営する彼は、多くの私財を慈善事業に費やしているが、そのチャリティーを組織化したものがブルームバーグ・フィラントロフィー。この組織は、ジョンズ・ホプキンス大学や世界保険機関(WHO)などと提携して世界中で活動をしており、環境、教育、公衆衛生やアートに及ぶまで、その内容は幅広い。

この組織が先月末、一千万ドル(約10億円)を寄付してバングラデッシュで子供の溺死防止のための事業を立ち上げた。溺死防止といってもピンと来ないかもしれないが、現在バングラデッシュでは毎年およそ1万2千人の子供達がため池や川などで溺れて命を落としている。これは一日あたり32人の割合だ。事故のほとんどは、ため池の多い農村部で親が目を離した隙におこるので、それを防ぐために保育所の設立、保母の育成、さらにプレイペンとよばれる幼児用の柵の製作を中心としたプログラムがつくられた。

ブルームバーグ・フィラントロフィーが昨年、世界各地のプログラムに寄付した総額は4.52億ドル(約460億円)。ブルームバーグ氏は推定300億ドル(3兆円)あるといわれる自らの財産を生前中にほとんどすべて寄付すると公言している。もう僕ごときの一小市民には感覚の追いつかない数字だ。

このような慈善事業といえば、ビルとメリンダ夫妻のゲイツ・ファンデーションが思い浮かべる人も多いだろう。いろいろと批判材料はあるものの、ほとんどの金持ちが自分自身や家族のことしか頭にないなかで、大富豪がこういうかたちで社会に貢献する行動には敬意を表したいと思う。現場の村人たちや子供達が恩恵を被っていることは動かし難い事実だし、他者からの募金なしでは運営できないNGOなどとは違って、彼らは自分の私財を投じているわけだから、なおさらだろう。

話は変わるが、今回初めて訪れたバングラデッシュの交通渋滞にはさすがにたまげた。密集都市ムンバイに4年住んで渋滞には慣れっこになっていたが、首都ダッカの混雑はもう救いがないほどだ。救急車が渋滞にはまって動けなくなるのも何度か目にしたが、これでは手遅れになって命を落とす患者も少なくないだろうな、などと憂慮してしまった。ブルームバーグ氏、次の慈善事業の案として、渋滞解消策とか、現場で救命できる救急隊員の大量育成などはいかがでしょうか?

(もっと写真をみる http://www.kunitakahashi.com/blog/2014/03/10/rich-folks-giving-back-to-society/ )
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リビア:ドリフティングに興じる若者達

2014-02-26 22:00:43 | アフリカ
数日前、デリーの夜の路上で改造車が猛スピードでスリップしながら走っていくのに出くわしたが、それをみてリビアでのある光景を思いだした。もう2年以上も前のことになるけれど、反カダフィーの革命を取材中に、東部の町ベンガジで「ドリフティング」を撮る機会があったのだ。

タイヤの軋むかん高い音とともに、路面からもうもうと白煙があがる。韓国車のデーウーからカローラ、そしてBMWに至るまで、ベンガジ中心部にあるキッシュ広場では、何台ものチューンアップされた車が次々とスピンや急発進を繰り広げていた。ドリフティングとは、急ブレーキや急ハンドルなどを駆使して、派手に車を滑らせたりスピンさせるテクニック。実際にそれを使って走行するというより、いまや見物人の前でその技術をみせるショーのようになった。その人気は、近年若者達のあいだで世界中に広まっているというが、まさか戦時中のイスラム教の国でこんなエンターテーメントをみるとは思わなかった。

ベンガジは、反カダフィー派の本拠地。この町から起こったリビア革命の波は内戦へと発展したが、当時反カダフィー派が首都トリポリから200キロ程手前のミスラタを落としてから、戦闘は硬直状態に陥っていた。すでに戦闘が終わり比較的治安も安定していたベンガジでは、毎週木曜日の夜(イスラム教の祝日は金曜日)になると、何百人という若者達がドリフティング見物に集まるようになっていた。もともと内戦前から失業率が20パーセント前後と高い国だ。あるものは市民兵となって革命のために銃をとり政府軍と戦ったが、すでにこの町や近郊での戦闘は終わったいま、多くの若者たちは暇とエネルギーを持て余していたのだった。

通りを隔てたところには、すでに焼け跡となったカダフィー軍の駐屯地に残る崩れかけた建物が、闇のなかぼんやりと浮かび上がっていた。寝返った政府軍兵士たちがここを逃げ出し、反カダフィーの市民達によって焼き払われたこの場所が革命のシンボルになったのは、ほんの3ヶ月前ほどのことだ。多くの若者達にとって、心躍るエキサイティングな時だった。

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インドの宗教対立

2014-02-13 14:38:45 | アジア
先月、デリーから130キロほど北にある町、ムザファルナガールを訪れた。昨年9月におこったヒンドゥー教徒とイスラム教徒(ムスリム)の衝突で、家を追われた避難民達に会うためだ。衝突からすでに4ヶ月が経つにもかかわらず、1万5千人をこえるムスリムたちが、この町に点在する避難民キャンプで生活していた。

冬の寒さが厳しくなり、12月半ばまでに35人の子供達がキャンプで死亡したと報告されると、事態の悪化を恐れた州政府はキャンプを閉鎖することを決定。テントの住人達を半強制的に立ち退かせた。僕がキャンプのひとつを訪れたのは、閉鎖の数日後だったが、そこで冗談のような光景に出くわした。わずかばかりの家財道具をまとめてキャンプ地をでた家族達は、なんと道をへだてただけの隣の空き地にまたテントをたてて住み始めていたのだ。50メートルと離れていない場所に、以前と変わらないキャンプができていた。

「まだ怖くて家に戻れないのさ」毛布で身体を覆った老女が、水タバコを吹かしながらこう言った。警察がいくら説得しても、村に戻ることは安全ではないと感じており、住民達のほとんどはそれを拒否していたのだった。

昨年の衝突の原因は定かではないが、ヒンドゥーの女性がムスリムの男性数人によって嫌がらせをうけた事件がきっかけらしい。その報復として、村々でムスリムの家族が集団で襲われ始めたのだ。インドにおけるヒンドゥーとムスリムの対立は根が深い。普段はあからさまに表面にはださないが、多くの一般市民達はお互いに対する不信感を心の内に秘めている。ささいな事件が、歯止めのきかない殺し合いに発展することは十分にあるだろう。

「村の彼ら(ヒンドゥー)のいうことなどなにも信用できないさ」老女が寒さで唇を震わせながら、こうつぶやいた。

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路地裏の中毒者たち

2014-01-28 15:13:19 | アジア
「インド警察が北部カシミール地方で、パキスタン側からやってきたトラックから100キログラム以上のヘロインを押収」
数日前、ネットでこんなニュースを目にした。インド側の情報によれば、アーモンドを運ぶトラックに隠された114袋のヘロインがみつかり、6年前にカシミールで両国を結ぶ商業交通網がひらかれてから最大の摘発事件になったという。

この記事を読んで、2年ほど前にパキスタンの港町カラチで撮影したヘロイン中毒者たちのことを思い出した。路地裏や橋の下で、垢と埃で汚れきった男たちが、ヘロインの粉末をライターの火であぶりながら吸引したり、液体化したものを腕や足の静脈に注射していた。カメラを持った僕が近づいても目に入らないほどにハイになって白目をむいている者も少なくなかった。

パキスタンやアフガニスタンの裏通りでは、ヘロイン中毒者たちをみかけることはそれほど珍しいことではない。世界最大のケシ(ヘロインのもとになる阿片を含む植物)の栽培地であるアフガニスタンは、世界中で消費されるヘロインの80パーセント以上を供給するが、そのうち4割はパキスタン経由でアジアやヨーロッパへと流れていく。当然それはパキスタン国内の市場でもさばかれ、一回分100円にも満たない、ヨーロッパよりも遥かに安い値段で手に入るので、中毒者は増える一方だ。現在パキスタンには、およそ100万人のヘロイン中毒者たちがいるといわれる。

パキスタンに限らずどこの国でも麻薬取引は莫大な利益をもたらすビジネスだ。どんなに警察が取り締まりを強化しても、マフィアやカルテルによる麻薬ビジネスが撲滅されることはない。この地域では、ヘロインがタリバンや他のイスラム武装グループの貴重な資金源となっていることは言うまでもない。

今年はアフガニスタンからNATO軍が撤退を始める予定だが、撤退後はこの地域の麻薬ビジネスはさらに活性化してしまうだろう。
「堤防の水門をあけるようなものだ」
そんな懸念の声も聞こえてくる。

次にパキスタンを訪れるときは、吸引したり注射針を腕に差し込んでいる中毒者たちが路地裏にあふれているんじゃないだろうか….そんな気がしなくもない。

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渋滞をひきおこす警官

2014-01-14 14:14:12 | アフリカ
少しばかり前、交通安全に関する撮影で、ケニアの首都ナイロビで数日間を過ごした。はじめのうちは、無法地帯ともいえるムンバイやデリーなどのインドの都市に比べれば、ナイロビの交通事情などたいしたものではないなと感じていたのだけれど、ある晩の経験から考えががらりと変わってしまった。

ナイロビから100キロほど北上したナイバシャという町から戻ってきた夜のことだ。仕事が長引き少し出発が遅れたにもかかわらず、交通量は少なく、思っていたより早くナイロビに到着。ところが、市内にはいりホテルまであと少しというところで、とんだ渋滞に巻き込まれた。のろのろと50メートル程走っては、10分間まったく動かなくなるといった繰り返し。どうやら1キロほどさきにあるロータリーが原因らしかった。

「警察のせいさ…」ドライバーがため息まじりにこう漏らした。彼が言うにはこういうことらしい。ロータリーで交通整理にあたっている警察官が、わざとひとつの道路だけを長く停止させて、しびれをきらせたドライバーから賄賂をとるのだという。賄賂せびりのそんな警察官の手口など、これまで訪れたどんな国でもきいたことはなかったが、同乗していたナイロビ在住のアメリカ人も、こんなことは日常茶飯事だと同意している。結局ロータリーまでの1キロを走るのに1時間半ほどかかり、そこでまさに僕が目撃したのは、僕らの道路に立ちふさがって異常に長い時間ストップさせている一人の警官の姿だった。

今回の仕事を始める前、撮影リストに「ロータリーで交通整理をする警察官」がはいっていた。なぜ特別にロータリーの警官を?と疑問に思った僕に、クライアントの言ったこんな言葉が、この晩まざまざと実感できたのだ。

「ロータリーの警官は交通整理どころか、逆に渋滞の原因になることもあるんだ」

(ちなみにここに掲載されている警官の写真は、記事中にあるロータリーの渋滞とは関係ありません)

(もっと写真を見る http://www.kunitakahashi.com/blog/2014/01/14/nairobis-traffic-mess/ )
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スポーツ王国?ブータン

2013-10-27 19:45:53 | アジア
これまでずっと行ってみたい国のひとつだったブータンを訪れることができた。いくつかのテーマで撮影してきたが、予想外だったのがスポーツの取材。アーチェリーとバスケットボールの試合を撮る機会があった。

アーチェリーのトーナメント決勝戦で、選手として参加していたブータンの王子ひとり、ジグイェル・グエン・ワンチュクと出会った。まだ29歳のこの若く聡明な王子と、昼食休憩のときに少し話すことができたが、ブータンの国技であるアーチェリーについて、彼の語ったことがなかなか興味深かった。

「心を無にすることが仏教の真理なら、アーチェリーも同じこと。いったん弓をひけば、すべてのことは頭から消えうせて、無の境地に達するんです」

強者の揃った彼のチームが優勝を飾ったが、王子が嗜むのはアーチェリーだけではない。バスケットボール、マウンテンバイキング、射撃など、実に多岐にわたる。彼は、2010年に始まった1日で268キロの山道を走破するマウンテンバイクのレース「ツアー・オブ・ドラゴン」の創始者のひとりでもある。端正な容姿で日本にもブームを巻き起こした国王と王妃をはじめ、この国の王族はみなスポーツには熱心で、ほぼ毎日のようにバスケットボールやサッカーなどに精をだしているという。

どうしてこれほどスポーツ熱が高いのだろうか?

「スポーツは、人間が作り出した最高のものでしょう」

王子は言った。スポーツの興進をとおして、

「ブータンの国民達に、『やってやれないことはない』ということを知ってもらいたいんです」

彼の言葉には感心するし、スポーツを健全な社会形成に役立てたいという気持ちもよくわかる。しかし現実は言葉でいうほど単純ではない。まだこの国は、選手がプロとして生活できるほどの環境が整ってはいないのだ。政府がもっと補助金などを使ってスポーツ社会のシステムをつくっていかない限り、王子の理想も実現は難しいだろう。

「やる気があって、才能のある選手も少なくないのに、彼らの親達はあまり子供達がスポーツに熱心になりすぎることをよく思わないんです」

バスケットボールのコーチがこんなことを言っていた。親達は子供がスポーツに熱をあげるよりも、進学することを望んでいるのだ。

「どんなにいい選手だって、バスケットだけではとても生活なんかできないんですよ」

ブータン滞在中、この国の魅力である美しい山々や、親切な人びととの交流を堪能することができたが、同時に「スポーツ王国」であるというあらたな一面も発見することができた。1984年に初めてオリンピックに参加したブータンだが、メダルを獲得する日がくるのも、そう遠い未来ではないかもしれない。

(もっと写真をみる:http://www.kunitakahashi.com/blog/2013/10/27/sports-nation-bhutan/ )
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アジア最大の太陽熱発電所

2013-10-09 20:02:21 | アジア
今年5月に完成したばかりの、アジア最大の太陽熱発電所を撮影しにインド西部ラジャスタン州を訪れた。

太陽熱発電とは、集めた太陽光を熱源としてタービンをまわし発電するシステム。太陽電池で発電する太陽光発電より、費用面でも効率がよく、蓄熱により24時間の電力供給も可能なシステムだ。

インドのゴダワリ社が建設したこの発電所では、使用されているミラーパネルは5000枚以上。このミラーで集約された太陽熱をもとに、最大50メガワット発電することができる。日本の一般住宅向けのソーラーパネルの平均出力は4キロワットほどなので、これをもとに換算すると1万2千戸以上の供給量だ。

人口12億以上をかかえ電気需要の貪欲なインドで、こういった自然エネルギーの技術の結集をみることは嬉しいことだが、残念ながらこの発電所の経営が順調に進んでいるというわけではない。

この地域では砂嵐がひどくなることがあり、舞い上がった砂粒が太陽の光を遮断してしまうと何日間もどんよりと曇った状態になり、発電所が稼働できなくなってしまうのだ。発電所計画時に、太陽発電に関する信頼できる気象データがなかったことが原因だった。また、費用の面でも予期していなかった問題が発生した。痛手のひとつは、米国ダウ・ケミカルによる熱トランスファー液の値上げだった。熱トランスファー液は太陽熱発電に欠かせない材料だが、発電所の施工が決定したあとに、その価格が2倍近くに引き上げられてしまったのだ。ちなみにダウ・ケミカルといえば、ベトナム戦争時代にナパーム弾や枯葉剤をつくりつづけ、さらに米国本土でも工場のあるミシガン州でダイオキシン汚染をひきおこした企業だ。
さらに、インド通貨のルピーの、今年の大暴落によって、輸入に頼る主要部品の相対価格が高騰。メインテナンスにかかる支出も予定を大幅に上回ることになってしまった。

新事業にはこういったリスクはつきもの、ともいえるが、すぐに利益のでにくい対費用の問題もあって、なかなか多くの企業が代替エネルギー部門に参入できないでいるのが現状でもある。しかし、再生可能エネルギーが今後ますます重要になっていくことは間違いないはずだ。望むのは、これまでエネルギー分野で巨額の利益をあげてきた企業が、いまこそ将来のエネルギー技術発展のために長い目で投資をしてほしい、ということだ。そして、僕らひとりひとりの、資源や電力に対する意識を変え、浪費をとめること。それがこれまで利益と利便性のために環境を犠牲に電力を無駄に消費してきたこと対する、地球への罪滅ぼしにもなると思うのだが、いかがなものか。

(もっと写真をみる:http://www.kunitakahashi.com/blog/2013/10/09/dilemma-of-asias-biggest-solar-thermal-energy-plant/ )
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2013-09-23 06:18:29 | Weblog
2日まえにおこなわれた州議会選挙の取材のためにスリランカで数日を過ごした。今回は全国9州のうち北部、中部および北西部の3州で選挙がおこなわれたが、なかでも注目されたのが、内戦終結までタミル人反政府武装組織タミル・タイガーの支配地域だった北部だ。この州での選挙はおよそ25年ぶりになる。

タミル人はスリランカ全体では少数だが、北部では人口の9割以上を占める。仏教徒が多くを占めるこの国のなかで、タミル人の多くはヒンドゥー教。民族も宗教も違う彼らは独立した州を要求し、タミル・タイガーと政府軍の間での内戦は25年以上も続けられた。2009年、政府軍による徹底的な攻撃でタミル・タイガーは壊滅。この時の死者は3万とも4万ともいわれているが、その多くは一般市民だった。

投票日に先だって、タミルの候補者や支持者に対する威圧や嫌がらせが相次いだ。多くが与党と密接な関係にある政府軍の兵士によるもので、候補者のアナンティ・サシタランさんも犠牲となった一人だ。ちょうど僕が北部州の州都ジャフナに到着した前夜、彼女の家が数十人の男達に奇襲をうけた。アナンティさんは幸運にも家を抜けだし逃げることができたが、彼女の支持者たち10人程が木や金属の棒で殴られ暴行を受けたのだ。軍は事件への関与を否定しているが、被害者の話では襲撃した男達の何人かは軍服を着ていたという。

こういった嫌がらせにも関わらず、予想通りタミルの政党は80パーセント近い得票率で圧倒的な勝利を収めた。彼らにとっては、これが自治領の獲得にむけての大きな第一歩、といいたいところだが、現実は厳しい。マヒンダ・ラジャパクサ大統領と中央政府に絶大な権限のあるこの国では、州政府の影響力は微々たるものにすぎないからだ。多くのタミル市民達はこのことを理解しているので、過度の期待は抱いていないようだが、それでもこの先の数年間、どんな政治的な変化がおこるか興味深いところではある。
いずれにしても今回の選挙は、タミルの人々の声が初めて政治に反映された、という意味で、スリランカにとって歴史に残るものだといえるだろう。

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リベリア内戦から10年(その2)

2013-09-11 20:09:39 | アフリカ
悪名高いチャールズ・テーラー大統領の国外亡命によって、西アフリカのリベリア共和国で14年にわたり断続的に続いていた内戦が終焉を迎えたのが今から10年前の8月11日。

首都モンロビアが激しい戦闘のまっただ中にあった2003年7月以来、僕は内戦後もこの国の復興をずっと追い続けてきたが、今年3月、6度目となるリベリアを訪れた。

新しいホテルやレストラン、きれいに舗装された道路やそれを照らす街灯など、多くの変化に気づかされる。内戦時には戦いの最前線になって、ビルボードや店の壁が銃弾で蜂の巣のごとく穴だらけになっていたウォーターサイド市場にも、いまや戦闘の名残など何ひとつ残っていはいない。

アフリカ初の女性大統領として、2006年からリベリアを主導してきたエレン・ジョンソン・サーリーフのもと、表向きこの国は順調な発展を遂げつつあるようにみえる。しかしそのペースは、人々の期待にはまだまだ追いついていないようだ。一旦表通りをはずれ路地にはいってみれば、住人たちの暮らしは内戦直後とほとんど変わってはいないのは一目瞭然。ほとんどの家にはまだ電気もとおっていないし、水道も昔からの共同の井戸があるだけ。おまけに主食である米の値段はこの数年で3倍にも跳ね上がり、生活はすこしも楽にならない。最も深刻なのは、いまだに多くの人々が仕事につけずにいるということだ。

「わたしは仕事があるからラッキーだけど、兄弟姉妹だれひとり職にありつけない。家族8人を私の給料で養うのはむずかしいわ」

国際NGOで働く女性がこう愚痴をこぼした。

国の偏った復興は、裕福層やビジネスマンたちにさらなる金儲けのチャンスを生み出だしたが、国民の大部分を占める貧困層は置き去りにされたままだ。内戦中に銃を手に戦っていた少年兵たちは、いまや20代半ば。本来なら働き盛りの年頃なのに、教育も技術も持たない彼らの多くは、不定期の日雇い労働や、サンダルやマッチなど小物売りの行商でなんとか生きのびている。

国を建て直す、ということが一筋縄でいかないことは理解できるが、それでも10年という年月を考えれば、正直なところ僕はもっと復興が進んでいると予想していた。このままの状態が今後も続けば、不満をためこんだ若者たちがまた内戦をおこすのではないか、という懸念を持たずにはいられない。今後さらに富む者と貧困層の差は広がっていくだろうし、職の無い若者達が将来への希望を失ったとき、政府や上流階級に対して、彼らが再び銃を手に反乱をおこすことがないとは言い切れないだろう。

願わくは、僕のそんな心配は杞憂であってほしいものだ。次にリベリアを訪れるのがいつになるかはわからないが、そのときにはもっと多くの笑顔がみられるように祈りたい。

(関連記事 リベリア内戦から10年・ムスとの再会
(もっと写真を見る http://www.kunitakahashi.com/blog/2013/09/11/liberias-civil-war-ten-years-later-vol-2/ )

カシミール:抗争から利益を得る輩

2013-08-29 09:55:02 | アジア
少し前になるが、警察官によるでっちあげ殺人の遺族を撮るために、カシミール地方の奥深くにあるドダという村を訪れた。この地域は数年前まで武装勢力の抗争が激しく、カシミールのなかでももっとも危険な村のひとつともいわれていたところだ。

今年はじめ、警察官のシュリ・クマー・シャーマが逮捕された。武装兵に仕立て上げた若者をうまくまるめこんで、警察署への手榴弾投げ込みを画策した容疑だ。

シャーマはこれまでも多くのでっちあげをおこなってきたようだが、手口はだいたいこんな具合。携帯電話と現金(時にはなんと8万円も)を与えて若者をうまくまるめこみ、なにがしらの理由をつけて山中に行かせる。その後若者を追いかけいって殺害し、遺体のそばに武器を置いて、若者を武装勢力の一員にみせかけるのだ。武装兵を殺したという手柄で、シャーマは階級昇進と特別ボーナスをものにすることができる。

シャーマのでっちあげの犠牲者の一人とされる、フセイン・マリックが殺されたのは2009年。仕事から家に戻る途中で襲われ、撃たれた。

フセインの弟バシアーが、未亡人のシャナザの5人の子どもと共に住む山奥の小さな家を訪れた。殺されたあとフセインの遺体の横に、まるで彼が持っていたかのように銃が置かれてあったという。兄は銃など持っていなかったし、ただの貧しい労働者で、家族の誰もが武装勢力とはなんの関わりもなかったとバシアーは言った。シャーマが逮捕されたことで、ようやく彼は兄の死について語れるようになったのだ。

「それまでみなずっとシャーマを恐れながら暮らしてたんだ」

警察官によるこんなでっちあげはこれまでも多く噂にはなっていたが、シャーマの件のように逮捕まで至ることはごく少ない。カシミールに限らず、武装抗争がなくならない理由のひとつに、シャーマのように暴力から利益を得る人間が後を絶たないから、というのは悲しい現実でもある。

話は変わるが、カシミールの首都スリナガールからドダに行くのに車で6時間。ここからフセインの家に辿り着くのに、細い山道と岩路を2時間かけて登らなくてはならなかった。この徒歩での行程はまったく予期していなかったので、村まで降りてきたときにはもう膝ががくがく。胸が悪くなるような事件の撮影だったが、少なくとも普段みる機会のない美しいカシミールの山々や川に接することができたのは、幸運だったか。

(もっと写真をみる:http://www.kunitakahashi.com/blog/2013/08/29/kashmir-benefiting-from-militancy-battles/ )
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子供たちを殺す謎の病気

2013-08-16 13:31:34 | アジア
原因不明の病気の記事のための撮影で、先月北部のビハール州を訪れた。

死亡率の高いこの病気がビハール州で集中的に報告されたのは1995年。以来、年間数千人が死に至っているというが、その多くは子供たちだ。症状としては高熱や頭痛、発作など日本脳炎にそっくりなのだが、同一ではない。蚊が媒体になり、主に雨期に多い日本脳炎と違って、この謎の病気は4月あたりから猛威を発揮し、雨期の始まる7月には収まっていくのだ。研究者達の懸命な調査にも関わらず、原因となるものはまだ何一つわかっていない。

病室に足を踏み入れると、目に入ってきたのはベッドに横たわる4人の子供達だった。みな白目を開けているような状態で、意識もほとんどない。何もできずに憔悴しきった親たちの前で、点滴や酸素のチューブに繋がれていた。
「もうすぐ雨期が始まるので患者の数は減ったけれど、一月ほど前は2つの病室が子供達で一杯でした」
案内してくれた医者が言った。

病気の追跡調査をおこなうチームに同行して、農村を訪れた。医者と看護師が数週間前に退院した患者の家を訪れ、2度目の採血をおこない、さらに住居環境などを細かく調べる。病気の原因を究明するために必要なフィールドワークだ。

村の奥にある一件の家の裏に辿り着くと、幼い子供二人と赤ん坊がテントの下で座っていた。泥でつくられた彼らの家が、数日前に崩れてしまったという。典型的な極貧農家の家族だった。
「サンジュウはどこですか?」医者が尋ねた。サンジュウは4歳の患者で、病状が良くなって数週間前に病院を退院していたはずだった。
「亡くなりました…」父親が答えた。退院した直後にまた症状があらわれ、発作が起こってあっという間に死んでしまったという。

人の死や不幸などこれまでいくらも撮ってきたが、今回の仕事はなかなか胸の痛くなる仕事だった。幼い娘をもつ僕にとっては、ファインダーをのぞきながら、いやでも子供たちと自分の子が重なり合ってしまったのだ。

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(同記事は、Yahoo Japan News にも掲載しています)

少女サハー・グルの覆された正義

2013-07-11 17:07:39 | アジア
数日前、ニューヨーク・タイムスのある記事をみつけて、愕然とさせられた。

「アフガニスタンの法廷、少女虐待の有罪判決を覆す」そう題されたこの記事の内容はただでさえ腹立たしくなるのに、僕の胸くそは一層悪くなった。僕はこの少女を知っていたのだ。

北部のバグラン州の田舎の村で、サハー・グルが無理矢理嫁にだされたのは13歳か14歳のとき。5000ドル(50万円ほど)で家族に売られたのだ。嫁ぎ先で、夫となった男との性交渉や、収入を得るため売春することを拒んだために、彼女を買った家族からの虐待がはじまった。地下室で縛られたサハー・グルは、棒で殴られ、身体を噛まれ、熱した鉄棒を耳や性器に突っ込まれて、指の爪まで引き抜かれた。

ようやく彼女が発見され警察と彼女の実の家族に助けられたのは、6ヶ月後。彼女の叔父が嫁ぎ先を訪ねたときに、会わせてもらえず不審に思ったのがきっかけだった。虐待者たちは逮捕され、サハー・グルは病院で治療を受けたあと、シェルターに移された。

首都カブルにある、虐待された女性たちを保護するシェルターで去年の5月、僕はサハー・グルを撮った。まだ顔や手の傷跡は消えていなかったが、随分落ち着いたようで、彼女はときおり笑顔をみせられるまでになっていた。その数ヶ月後、逮捕された虐待者たちは、それぞれ10年の服役の判決を言い渡された。

「サハー・グルの場合はまだいいほうです。多くの女性達が虐待され、殺されてしまうことも珍しくはないのですから。そんな彼女達が正義の日の目をみることはありません」

僕は女性の権利を守るために活動している弁護士が言ったことをいまでも憶えている。

それから1年。先週掲載されたこの記事には、裁判所が判決を覆し、虐待者たちの刑が、殺人未遂から暴行に軽減されたとあった。そしてサハー・グルの虐待者3人はすでに釈放された、と。

アフガニスタン、特にその農村部には、極端に保守的な古い慣習が根付いており、いまでもサハー・グルのような例は後を絶たない。そんな状況を変えようと、多くの女性達が、自らが襲われたり殺されたりする危険を顧みず、闘い続けている。今回の判決は、そんな彼女達はもちろん、多くの人々を怒らせ、そして落胆させた。

アフガニスタンの司法制度は、これで大きく後退したようなものだ、そう思った。

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(同記事は、Yahoo Japan News にも掲載しています)