Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
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ムンバイ、危ぶまれる塩田の将来

2013-07-01 12:50:39 | アジア
一ヶ月程前になるが、それまでずっと撮りにいきたいと思っていた塩田を訪れることが出来た。

まるで工事現場の砂のように無造作に積み上げられた何十もの白い山をみて、海水からこれほど多くの塩がとれるものかと驚かされる。まさに「自然の恵み」といったところか。素足になって歩き回るが、足底にあたるゴツゴツとした荒い塩粒の感触が痛いけれども心地いい。

ここ数年、ムンバイ近郊ではこのような塩田の将来が危ぶまれている。土地が不足しがちなこの大商業都市で、塩田が土地開発のターゲットになっているのだ。

開発業者たちが商業用や新興住宅地としてこの広大な海沿いの地域に目を光らせている一方、政府は市内のスラム住民をまとめて移動させられるような代替地を求めている。そんな開発の動きに対して環境保護主義者たちは、津波や浸食から町を守る堤防のような役割を果たしている塩田を破壊すべきではないと主張するが、強力な開発の流れにどこまで立ち向かえるかは疑問だ。

状況をさらにこじらせているのは、塩田の所有権問題だ。塩田のある土地の多くはもともと政府の所有地であったが、それを塩の製造業者が借りうけ、さらに耕作者に又貸しして現場を委ねている。そんな歴史的背景から政府は、製造業者や耕作者は土地を売る権利をもたないとして開発業者たちを牽制しているが、もとの契約からすでに200年以上の長い年月が経過しており、現実的には土地の所有権も曖昧になってしまっている。

このような塩田の将来がどうなるのは定かではない。しかし僕個人としては、ムンバイのような極端に密集した都市にとって、数少ない自然の残る場所としても、美しい塩田がなくなってしまうのを見るのは寂しいものだと思う。

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消えゆくムンバイのアイコン・タクシー

2013-05-29 14:37:43 | アジア
「タクシーが現役で走れるのは車両の製造年から20年まで」
ムンバイを州都として擁するマハラシュトラ州政府が、昨日こんな政令を発表した。この結果、長年ムンバイでタクシーとして使われてきたプレミア・パドミニの多くが(すべてではない)、今年7月31日の期限をもって路上から姿を消すことになる。

1964年から2000年にかけて、イタリア・フィアット社の認可のもと、インドのプレミア社によって製造されたパドミニ。14世紀のヒンドゥー・ラジプット族の王妃からその名前をとったこのモデルは、そのレトロなスタイルでこれまでムンバイの象徴のひとつとなってきた。しかし近年、車体が古くなっていくにつれてエアコンのない室内の匂いや、雨期に頻発する故障の問題などで徐々に人気が薄れていった。

すでに多くのタクシードライバーたちは新しいモデルに乗り換えており、現在ムンバイで走っているパドミニはおよそ1万台。8月以降現役で残るのはごく僅かになりそうだ。

確かに雨期の車内のカビ臭い匂いには閉口するが、それでも僕個人的にはパドミニは好きだ。なんといってもあの60年代のレトロなスタイルは格好いいし、車内も広いので乗り心地も悪くない。こんなパドミニがなくなってしまうのは寂しい限りだが、やはり新しいものを求める顧客と、時代の波に逆らうのは難しい。

またひとつ時代のアイコンが消えていく、ということになりそうだ。

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不法居住区の悲劇

2013-05-15 17:09:59 | アジア
「ブルドーザーがきて家をみんな壊していったよ。公衆トイレさえもさ。何も残らなかった」

ここに30年近く住んでいるというラム・ラタンは力なくそう言った。

インドの首都デリーに何百と存在する不法居住地のひとつ、ソニア・ガンジー・ナガール。4月中旬のある朝、ここにあったラタンの家を含めた50軒の家がすべてとり壊された。

デリーやムンバイなどの大都市には、毎年何万という人々が地方から仕事を求めてやってくる。ラジャスタン州からきたラタンもその一人だ。正規の部屋を借りるお金もない彼らはこのような不法居住区に住まざるをえないが、地域のインフラ開発が始まると、法的な住居権を持たない彼らはまっ先にその犠牲となる。ソニア・ガンジー・ナガールも、前を通る道路の拡張工事のために邪魔な存在となったのだった。

不思議なことは、ラムをはじめとしたここの住人達の身分証明書や選挙投票の登録カードには、はっきりとソニア・ガンジー・ナガールの名前が住所として記されていることだ。不法居住区なのに、市の発行する書類には登録されているというこんな事態は、悲しいかな矛盾だらけのインドでは珍しいことでもない。しかし、家を失った住人たちにしてみれば、笑い話ではすまないことだ。

僕がここを訪れたとき、赤ん坊がひとり簡易ベッドの上で眠っていた。まわりにはぶんぶんと羽音をたててハエが飛び回っている。同じくらいの歳ごろの娘をもつ父親として、さすがに辛くなる光景だけれど、僕に出来ることなど無駄にハエを追い払うことくらい。瓦礫のうえでは、女子供たちがレンガを拾い集めていた。次の家を建てる時のために使うためだ。しかしそれがいつのことか、どこになるのかなど誰にもわかりはしない。

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ネルソン・マンデラの思い出

2013-05-03 13:13:30 | アフリカ
来週5月10日は、ネルソン・マンデラが南アフリカ初の黒人大統領に就任してからちょうど19年目の記念日になる。

マンデラの大統領就任は、世界の歴史の中でも最も重要な出来事のひとつであったことは間違いないが、これは僕自身にとっても特別な日でもあった。

僕が報道カメラマンになって、初めての国外取材の仕事が1994年、この南アフリカの初の全人種混合選挙だったのだ。2ヶ月間の滞在中、政党同士の暴力抗争、黒人達にとって初めての投票、そしてマンデラの就任式などを撮り、駆けまわった。まだ写真学校を卒業したばかりの駆け出しだった僕が、APやロイタースなどの通信社やUS News & World Report 誌などに写真を寄稿できたのは幸運だったが、キャンペーンのときに拳をあげるマンデラを撮った写真が、初めてUS News誌に掲載されたときの喜びは、いまだに忘れることはない。

ジェームス・ナックトウェイ、APのデイビッド・ブロッコリーや南アのスターカメラマン、ケン・ウースターブロクなど、第一線で活躍していたベテランたちと行動を共にし、彼らから学んだことも計り知れない。不幸にもケンは、平和維持軍とANCの武力衝突の際、銃弾に倒れ、選挙の前にこの世を去ってしまったが。

南アでの思い出は数えきれないが、もっとも心に残っているのはやはりマンデラの就任式での光景だ。世界中から集まった何百人というカメラマン達と共に、僕は報道陣用のステージに立っていた。マンデラが正式に就任すると会場の興奮は最高潮に達し、その高揚した空気は、これまで経験したことのないほど、僕の体中にびりびりと伝わってくるほどになった。黒い手、白い手、褐色の手… この歴史的瞬間に立ち会うために駆けつけた何万もの人たちが人種に関係なく手を取り合い、それを空に向かって突き出している。思わず溢れ出してくる涙で、のぞいていたファインダーがみるみるくもっていったことを思い出す。

時は流れるのは早いもので、僕もマンデラもあれから20歳ちかくも歳をとったわけだが、偶然にも数日前、こんなニュースをネットで目にした。療養中のマンデラの家を訪れ、その様子をビデオで放映したANC(南アフリカの与党。マンデラの政党でもある)の政治家たちが批判にさらされている、というものだった。94歳のマンデラは、肺を病んで入退院を繰り返している状態で、2010年に南アでひらかれたワールドカップサッカー以来、もう何年も公衆の前には姿を現していない。放映されたビデオに映ったマンデラは衰弱した様子で、笑顔もみせていなかった。これに対して人々から、ANCによる売名行為とか、マンデラのプライバシー侵害といった非難が沸き上がったらしい。

マンデラの心中など僕にわかりようがないし、この批判について判断のしようもないが、ただ言えるのは、大統領の職を退いて何年も経つ現在も、マンデラは多くの人々にとって英雄であり、深く愛されている、ということだ。宗教や人種、階級をこえて、これだけみなに敬愛されたリーダーというのは、恐らく世界でも彼が最後なのではないだろうか。

ありふれた言い方だが、僕にとっても勇気や希望を与えてくれたマンデラの、今後の健康を祈らずにはいられない。駆け出しのころを思い出すとき、いつも頭に浮かんでくるのは、選挙中に拳をあげる彼の笑顔なのだから。

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世界一多雨の地域で水不足?

2013-04-16 07:59:04 | アジア
インド北東部にある「世界でもっとも雨の多い土地」のひとつを訪れる機会があった。

メガラヤ州山々に囲まれた町チェラプンジ。集落が点在するこの土地は、ベンガル湾からの湿風の影響で雨が多く、1861年には22987ミリという世界最高の年間降水量を記録した。普段でも平均10000ミリ以上の降水量なので、東京の7―8倍は降っていることになる。

こんなに湿った場所であるのに関わらず、近年12月から3月にかけての乾季には、水不足に悩まされるようになった。僕がこの地を訪れたのはその乾季のまっただ中。村に点在する共有水道には、朝の9時にはポリタンクやバケツの長い列ができていた。この時期は一日に朝の2時間しか水の供給がないそうだ。

主な原因はやはり地球温暖化による気候の変化だ。ここ10年の降水量は2割程減ったうえ、乾季が長くなった。さらに、気温も平均2―3度上昇したという。人口増加の影響もある。この40年間で町の人口は15倍以上にも膨れ上がった。

それでもこれだけの雨が降る土地だから、貯水施設を整えれば水不足を乗り切れるはずだが、インドでも中央政府から無視され続け、経済発展から取り残された北東部の貧しい土地にそんな予算はない。

もう地球温暖化という言葉が聞かれるようになって久しいが、もうその影響から逃れられる場所など世界にはないのだろう。都市部でつくられる温暖化という「公害」は、辺境な田舎町をも汚染するのだ。

サンスクリット語で「雲の住処」という意味のチェラプンジ。僕は正直なところ、多雨が観光目的になることなどこれまで知らなかったのだが、その名のとおり山を覆う厚い雲、勢い良く流れるいくつもの滝を目当てにこの町を訪れていた多くの外国人観光客の数も減り続けているという。乾いたチェラプンジなど、誰も見に来ない、ということか。

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リベリア内戦から10年 ムスとの再会

2013-04-06 11:10:59 | リベリア
先月、4年ぶりに西アフリカにある小国リベリアを訪れた。

2003年の内戦時から、この国を訪ねるのは6度目になる。当時銃を持って戦っていた少年兵たちや、砲弾で家族をすべて失った少女など、4人の子供達のその後の生活をずっと追い続けてきた。今年でリベリアの内戦終結から10年。一つの節目として、彼らとまた会わなければ、そう思ったのだ。ムスは、僕が撮り続けてきたそんな子供達の一人だ。

2003年7月、当時の大統領チャールズ・テーラーに反旗を翻した反政府勢力は首都モンロビアに目と鼻の先まで迫り、防戦する政府軍との間で戦闘は激化していた。そんなある日、反政府側から撃ち込まれた砲弾によってムスの右腕は引きちぎられた。混乱のなか、僕が彼女に出会ったのはその直後。血まみれの凄惨な姿に動転した僕は、あわてて彼女を自分の車に乗せ、病院へと運び込んだ。写真のことなど二の次になった僕は、車から降ろされる彼女に向かって、かろうじて数枚シャッターをきるのが精一杯だった。彼女が6歳のときのことだ。

内戦後一年程経って、戦争中に写真に収めた子供達のことが無性に気になった僕は、 彼らの「その後」を知るために、再びモンロビアへと飛び立った。少年兵たちや他の子供は比較的簡単に見つかったが、ムスを探し出すのは手間取った。写真を手に市内のコミュニティーや病院をまわったり、挙げ句に新聞広告まで載せてみたが何の反応もない。半ば諦めかけながら、これが最後の手段とラジオを使って訴えた翌日、なんとムスが父親に連れられて局にあらわれたのだ。大きな瞳を一杯にひらいて、少女は僕の腕に飛び込んできた。驚いたことに、彼女は僕のことを憶えていた。そんなムスも今年で16歳になる。年頃になったが、快活で優しく、そして男勝りの気の強さは幼いときのままだ。

内戦から2年後の2005年に、当時僕が勤務していた米新聞社で発表したムスの写真記事がきっかけで、彼女はリベリアのエレン・ジョンソン・サーリーフ大統領に同伴し米国で大人気のオプラ・ウィンフリーのトークショーに出演。さらに身元引き受け人と奨学金を得て、ペンシルバニア州の学校で学ぶ機会も得た。しかしすべてが順調にいったわけではない。10歳という微妙な時期に家族の元を離れ、質素な生活から物の溢れた社会、それも郊外の白人社会に放り込まれた彼女は、その変化にうまく順応することができなかった。学業にも集中できず、やがて素行にも問題が出てきて、奨学金は打ち切られ、2年足らずでリベリアに戻ることになった。

「それでもアメリカは楽しかったわ。片腕がないからといって、それで虐められることもなかったし。いつかまた戻りたい」

アメリカにいた時に花や海の景色などを描いたスケッチブックを開きながら、ムスはそう笑った。

僕の今回のリベリア再訪の目的は、子供達にとって10年前のあの内戦とはなんだったのかを語ってもらいたかったからでもある。学校が休みの土曜日の朝、ムスにも胸の内を尋ねてみた。

「戦争はたくさんの破壊と死をもたらしたわ。人生まだいろんな経験をしていない子供達までもが犠牲になった。私にとっては、右腕をなくしたことは辛かった。ABCを書くことも左手で一からやり直し。腕がないから他の子達にも虐められたし、友達だった子にもからかわれて悲しい思いもしたの」

ムスのような子供達をはじめ、前線で戦った少年兵など、手足を失った者は少なくない。しかし現在、そんな障がい者に対する政府からの援助は全くないと言ってもいい。アフリカ初の女性大統領として2006年から国の再建に尽くしてきたサーリーフ氏だが、経済優先の政策が優先され、社会福祉は後回しになっているのが現状だ。富む者はさらに富み、貧困層や社会的弱者は取り残されるという、経済発展の典型的な歪みがこの国でも顕著になってきた。

それでもムスは自分の可能性を信じている。

「私は強く生きてきたと思うし、いまからも勇気をもって強く生きたい。人生何がおこっても、それが運命で、受け入れるしかないって思えるようになった。神様がすべて決めたことなの。何があっても、それには理由があるんだから、これからいいことは必ず来るって思ってるわ」

次にムスと会えるのは何年後になるだろう?そのときまだリベリアで生活しているか、それとも他国にわたって勉強か仕事に精を出しているだろうか。いずれにしても、彼女は自己の内戦の経験を生かして、逞しく生き続けていることだろう。

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クンブ・メラ 世界最大のヒンドゥー教祭典

2013-03-01 22:24:17 | アジア
2週間ほど前、インド北部のアラハバードで行われている祭典クンブメラを撮る機会があった。

この世界最大のヒンドゥー教の行事には、1ヶ月半の期間中に1億人もの信者たちが訪れるといわれている。祭典中に聖なるガンジス川で沐浴をすることによって、これまでの罪は洗い流され、ご利益を得ることができる、と信じられているのだ。ヒンドゥー教の言い伝えで、神々と悪鬼たちが不老不死の液のはいった壷を奪い合った際に、その液がアラハバードをはじめとしたインドの4カ所にこぼれ落ちたというのがクンブメラの由来。この4カ所で3年ごとに行われるようになったが、ガンジス川とヤムナ川の合流するアラハバードにもっとも多く人が集まる。

主要日である2月10日が近づくにつれて訪れる人々も増え続け、路上や駐車場、川岸から橋の下に至るまで、空いた土地はみな人で埋め尽くされるようになった。これまで様々な行事を撮影してきたが、これほど人にまみれたのは初めてかも知れない。まるで渋谷の交差点が延々と続いたような混雑ぶりは、人口12億を超える人間大国インドの縮図を見た思いだった。

何百万という野宿者たちが、料理のためや暖をとるために毎朝毎晩牛の糞や薪を焼くので、あたり一面は煙につつまれ、夕方などは眼がひりひりとして咳き込むほどになる。おまけに沐浴する人たちを撮るために早朝から太腿まで水につかっていたので、仕事を終えて帰る頃には風邪をひく羽目になった。聖なるガンジスからご利益を得る信仰心が足りなかったか。。。

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ミャンマー 「国なき民」ロヒンジャ問題

2013-02-18 13:54:59 | アジア
前回のブログアップから随分と時間が経ってしまった。12月終わりに娘が生まれたことで、生活パターンががらりと変わってしまい、しばらくプログどころか睡眠時間を確保するほうが重要だった次第。

しばらく前になるが、ミャンマー西部ラカイン州でニュースとなったロヒンジャ問題を撮影する機会があった。

ベンガル系ムスリムであるロヒンジャと、ラカイン仏教徒は不安定ながらも長年この地域で共存してきたが、昨年5月におこった、ロヒンジャ男性3人によるラカイン女性のレイプ殺人をきっかけに両者のあいだで大規模な武力衝突が続き、100万ともいわれる難民が発生した。その多くはロヒンジャの犠牲者だ。

港町シットウェの郊外にあるロヒンジャの避難キャンプを訪れた。衝突で家を失った数百家族が掘建て小屋に住み、最近来たばかりと思われる何家族かがテントをつくっている。一人の若者が不満を漏らした。

「仕事どころか生活に必要なものなど何もない。ここにはNGOも来ないから、テントをつくるプラスチックシートさえないんだ」

一方、町中の寺院には家を焼かれた12組のラカイン仏教徒の家族が身を寄せ合って暮らしていた。

「奴らは火のついた自転車の車輪を窓から投げ込んできたんだ」

ロヒンジャの群衆が彼の家を襲ってきたときのことは忘れない、一人の男性はこう語った。

長年ミャンマー政府から「不法移民」とみなされ、市民権さえ認められていないロヒンジャ。属する国のない民として、外国メディアは彼らに同情的になる傾向があるが、衝突の原因はそう単純ではない。ミャンマーには130以上の民族が存在するが、人口の8割以上を占める多数派のビルマ族が主体で、その他少数民族の権利を踏みにじってきた政府の体質は軍政時代から今も続いている。ラカイン仏教徒たちは、長年のビルマ族からの圧政に加え、近年のロヒンジャの人口増加に伴う地域のイスラム化も脅威となり、ビルマ族、そしてロヒンジャの双方から侵害されているという危機感を募らせていたのだ。昨年の暴動は、そんな長年蓄積された不満が爆発したともいえるだろう。

寺院に避難した前述の男性は、近所に住んでいたロヒンジャについてこう言い放った。

「以前は友達だったけどね。もうそんな関係には戻らないよ。二度と...」

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ゴミの山に埋もれて

2012-10-29 16:38:52 | アジア
2週間程前、ゴミ問題の撮影のため、 南部のバンガロールに行く機会があった。

インド、特にムンバイのような大都市では、路上に放置されたゴミの山などはありきたりの光景で、歩道や川の中、海辺、駐車場に遊び場…どこにいっても散乱したゴミから逃げることはできない。それに納得する訳ではないけれど、ゴミのある景色にはすっかり慣れてしまって、悲しいかな無意識のうちに、今ではほとんど気にかけなくなってしまった。

そんなときに、この仕事はゴミの問題にまた眼を向けるいいきっかけになった。

世界銀行は数ヶ月前、2025年までに世界のゴミ問題が危機的状態になるという報告を発表したが(実際に何をもって「危機的状態」というのかはわからないが)、見渡す限りのゴミの山となった投棄場や、町中至るところに放置された未回収のゴミのなかに身を置いてみて、2025年を待つまでもなく、もうすでに世界は危機的状態にあるんじゃないかと切実に感じることになった。

インドで一日に排出されるゴミの量はおよそ10万トン。これはオリンピック用の競泳プールの40個分だ。ともに12億以上という大量の人口を抱える中国とインドが、ゴミ排出量において世界1、2位を占めているが、勿論両国だけが責められるべき問題ではない。ゴミは人類の問題、いや、地球の問題なのだ。

地球上に生きる動物のうち、人間だけがゴミをだし続ける。ここでどうすべきかなどという説教を垂れるつもりは毛頭ないが、一人一人が責任ある行動というものを理解していることを願うばかりだ。このままの状態を続けていけば、結局ゴミの洪水に溺れ死ぬのは僕ら自身なのだから。

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初めてのミャンマー(ビルマ)へ

2012-10-15 17:09:31 | アジア
先月、2週間ほどミャンマー(ビルマ)を訪れる機会があった。

この仕事がはいったとき、この国を20年近く撮り続けている友人が、 撮影の苦労をいつも語っていたことを思い出した。軍事政権時代には、路上に数知れない程の兵士、私服警官、密告者がひしめいていたのだ。

昨年、50年近く続いた軍事政権が昨年終焉を迎え、総選挙が開かれてミャンマーは民主化の道を歩むことになったが、これと同時に市民の生活は大きく変わりつつある。今回この国を初めて訪れる僕には、以前の状況と比較することはできないのだが、それでも予想していたより遥かに自由に写真が撮れたのは驚きだった。

市場、駅、バス停、映画館…どこへ行っても、文句を言われたり制止されることなく撮ることができた。会釈すれば笑顔が返ってくるという人の好さもタイやカンボジアと似たような感じだが、ミャンマーは国が開かれたばかりで観光客も少ないので、まだ外国人ずれしていない無垢さももっているようだ。

首都ヤンゴンでは、町が速いスピードで変化しているのを体感できる。古い建物はどんどん建て替えられ、インフラ関係の工事もあちこちでおこなわれている。西洋人の観光客グループも結構みかけたが 、外国からのビジネスや観光増加を受け、ホテルの宿泊代は昨年から2―3倍に暴騰したという。

この先数年ミャンマーの経済が伸びていくのは間違いないだろう。ただ、その利益を国民みなが享受できるようになるかどうかは別問題だ。都市部での階級格差に加え、国内には130以上の民族が存在している。国をひとつにまとめるのは新政府にとって大きなチャレンジになるはずだ。

ミャンマーの人々を好きになったので、また近いうち訪れることができればいいなと思う。そのときは、さらに多くのハッピーな面々と出会えることを願いたい。

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チリングの将来 ~ ネパールのストリートチルドレン2

2012-09-07 07:38:36 | アジア
前回のブログで、路上生活から脱却し一年以上シェルターにいながら、そこを逃げ出して挙げ句に強盗で刑務所にはいってしまった男の子のことについて触れたが、これは非常に残念なニュースだった。彼は僕がここ2年以上追いかけているストリート・チルドレンのなかでは、うまく更生できるかも知れない、と期待をよせていた数少ないうちの一人だったのでなおさらだ。

とはいってもこれも彼の人生、僕がどうこうできる筋合いのものでもない。彼が刑務所からでてきたときに、また思い直してくれることを願うのみだ。

これで僕の撮影してきた子供達のなかで、路上生活から完全に抜け出しているのは一人だけになってしまった。彼の名はチリング。自分では14歳といっているが、小柄なこともあって12歳くらいにしか見えない。2009年に初めてカトマンドゥーを訪れた時に出会ったうちの一人だが、このときはまだ他の少年たちと同様、タバコやシンナーを吸い、野良犬のような生活を送っていた。2010年5月、3度目の滞在のあとから街で見かけなくなったが、その頃自ら進んで施設に入り、学校へも行くようになった。

「このままタバコ吸ったり、シンナーを吸ってたら自分の身体を壊すと思った。まともに寝られる場所が欲しかったし、学校にもいきたかった」

施設で再会した数週間前、チリングは僕にこう言った。多くのストリート・チルドレン達が、似たようなことを言って施設にやってくるが、ほとんどが数週間、時には数日で路上に戻ってしまう。そんななか、彼が路上生活から離れてすでに2年近くが経つ。

彼がこの先もストリートに戻ることのないことを願いたい。いうまでもなく、それは彼の意志次第ではあるが、同時に社会からのサポートも重要だ。しかし、世界最貧国のひとつとして、政治的、経済的に劣悪な状況にあるネパールでは、大卒の若者達さえ仕事にありつけない状態。ストリート・チルドレンたちが更生して自立するのには非常に難しいといわざるを得ない。

あまり楽観的にはなれないが、勿論人生どうなるかはわからない。チリング、そして施設の子供達がこの先なんとかうまくやっていくことを祈るしかない。

(もっと写真をみる http://www.kunitakahashi.com/blog/2012/09/07/hope-for-chhring-street-children-in-kathmandu-nepal-2/ )

ネパールのストリートチルドレン

2012-08-30 11:04:56 | アジア
ここ2年以上追いかけているストリート・チルドレンにまた会うために、ネパールの首都カトマンドゥーで1週間を過ごしてきた。

毎回ここを訪れるたび、誰かしら路上生活から抜け出してるんじゃないかと僅かな期待を抱いていくのだが、街にでてまた同じ面々をみつけてはそんな思いがかき消されていく。さらに今回はそれどころか、着いた途端悪いニュースさえ聞かされてしまった。路上生活から抜け出し、1年以上もシェルターで生活しながら学校へ通っていた子が一人、3ヶ月程前にそこを飛び出し、街で強盗を働いて刑務所に入ってしまったというのだ。

彼はもう17歳くらいだから子供とは言えないだろうが、今年1月にシェルターで会った時は笑顔で元気そうにしていたし、彼がうまく更生すれば他の子供たちにもいい見本になると内心期待していたのだ。残念なことになってしまった。

ストリート・チルドレンたちと時間を過ごしていると、彼らがなかなか路上生活から脱却できないのもなんとなくわかるような気がしてくる。幼い子は別にして、何年もこういう生活を続けている若者たちにとってそれはなおさらだ。彼らにはそれなりの自由がある。物乞いしたり、リサイクルのゴミ集めをしたり、また時にはスリや強盗をして、生き延びるための金なら工面できる。時には50ドルもの大金をもっている子を見かけることもあった。市内にいくつもあるNGOで食べ物にはありつけるし、観光客が食べさせてくれることも少なくはない。あとはぶらぶらしながら、グルー(接着剤)やマリワナを吸ってハイになる。贅沢な暮らしではないが、家やシェルターでの生活と違って、義務や仕事もなく、うるさく小言をいったり躾をする大人もいない。

これはある意味で楽な生き方ではあり、なにか強い動機やきっかけがないかぎり、ストリート・チルドレンたちがこの自由で気ままな生活を放棄して、あえて「規則的な社会」へと戻るのは難しいだろうなあと感じるのだ。

カトマンドゥー市内では、国内および外国からの多くのNGOがストリート・チルドレン救済の活動をしているが、所詮国の経済や福祉が改善されない限り、根本的な解決にはならないだろう。腐敗した政府は内戦後5年経つというのにまともに機能せず、福祉どころか雇用さえも生み出せないでいる。ストリート・チルドレンはこの国のそんな状況を反映した負の象徴ともいえるが、彼らのみならず多くの国民たちがぎりぎりの生活を強いられ続けている。

この町ではいつも、にわか通訳として助けてもらうタクシードライバーの友人がいるのだが、彼の4人の子供のうち2人はすでに大学卒業しているにも関わらず、全然仕事が見つからないという。

ストリート・チルドレンを訪ねているとき、半分冗談だろうが彼がふと漏らしたこんなぼやきがしばらく頭から離れなかった。

「こんな調子じゃあ将来俺の子供たちも路上でゴミ集めしてるんじゃないかって、心配になるよ」

(もっと写真をみる http://www.kunitakahashi.com/blog/2012/08/30/street-children-in-kathmandu-nepal/ )

(過去のストリート・チルドレンの記事)

http://www.kunitakahashi.com/blog/2012/01/25/durbar-boys-streetkids-in-kathmandu-2/

http://www.kunitakahashi.com/blog/2012/01/15/durbar-boys-streetkids-in-kathmandu/

http://www.kunitakahashi.com/blog/2010/12/25/christmas-eve-street-kids-in-kathmandu/

http://www.kunitakahashi.com/blog/2010/06/03/darbur-boys/

再稼働反対デモ

2012-08-19 07:52:31 | 日本
3週間の日本滞在中、反原発再稼働のデモに3度足を運んだが、いろいろと思うことがあった。

デモに10万、15万人集まったと、国外からニュースやtwitterを通して聞いている時は、ようやく日本も変わってきたのだ、とかなり希望を抱いていたのだが、実際に日本社会の空気に触れてみて、残念ながらまた悲観的になってしまった。

まずデモの有り様だが、これほど警察にコントロールされたものは他の何処でもみたことがない。地下鉄の駅を出た途端大勢の警官に誘導され、参加者たちは細かく仕切られた歩道に分断されてしまう。時折、安保世代らしき年配の人たちが警官に食って掛かるのを見かけるくらいで、ほとんどの人たちは誘導に従って行列をつくるだけ。ここでも「従順で礼儀ただしい日本人」の姿は健在だ。集まった人たちは結局、ブロックごとに分けられた細長い行列になるだけで、デモの本来の力となるべき「集団のエネルギー」はほとんど削がれてしまっている。もともとデモとは、市民の数をもって政府に圧力をかけるべきものであって、政府が脅威を感じなくては意味がない。現在の官邸前デモはまるで「政府公認の毎週の行事」に成り下がってしまったような、そんな違和感を感じずにいられなかった。

確かにこの国では、市民が暴徒化するはずもないし、血気盛んな一部がそういう行動に出ても、機動隊にあっという間につぶされて終わってしまうだろう。それ以前に、デモが平和的におこなわれなくては、多くの人々が運動から離れてしまうのも眼に見えている。これはもっと効果的なデモをと思っている人々にとってはおおきなジレンマだ。

では政府に脅威を与えるにはどうすればいいか?さらに数を集めるしかないだろう。それも東京だけではなく、全国的に国民が立ち上がらなくてはならない。もしも、各都道府県庁にそれぞれ一万人(これより多いにこしたことはないが)が毎週押しかけたら、かなりの効果があるんじゃないだろうかと思う。

しかしこれも無理だろうな、というのが正直なところだ。

今回は東京、仙台そして神戸でそれぞれ数日間を過ごしたが、やはり国民の大多数はそれほどの危機感を持っていないと痛切したからだ。みな頭のなかでは漠然と考えているのだろうが、黒い雨が降って来るでもなし、突然の頭痛が起きて倒れるわけでもない。とりあえずは不自由もなく生活できている。次の爆発がおこったり、何年後かに放射能の影響がでてからでは手遅れなのだが、実際に自らの生活が脅かされる自体がおこるまで、ほとんどの人々は行動を起こすほどの危機など感じてはいない。結局は想像力の欠如、ということになるんだろうな。

これは僕の友人たちや家族も例外ではなく、一緒にいても原発のことなどほとんど話題にのぼらなかったし、ましてやデモに足をはこんだという知人・友人など皆無だった。こんな日本の空気を肌で感じて、残念ながら冒頭に述べたように僕はかなり悲観的になってしまったのだ。そんな訳で、いつもは楽しめる日本滞在も、今回は少し複雑なものになってしまった。

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エアコンの普及と地球温暖化

2012-07-18 18:57:45 | アジア
少し前に、エアコンの普及と地球温暖化についての興味深い記事のための撮影をする機会があった。

ニューヨーク・タイムスに掲載された詳しい記事はこちらになるが、要約はこんなところだ。

大気中のオゾン層の破壊を食い止めるため、1987年に採択されたモントリオール議定書で、エアコンのガス規制がとり決められた。各国のこの努力は成功したが、皮肉なことに、規制されたガスの代わりに使用されてきた別のガスが、オゾン層には影響を及ぼさないにも関わらず、地球温暖化の要因になっている、というのだ。それも二酸化炭素の2千倍以上の悪影響だという。しかも、オゾン層保護と温暖化防止の両方に有用で、現在使用されているガスの代わりになるものは、いまのところないらしい。

さらに、先進国と途上国の利害対立もこの問題に拍車をかけている。欧米諸国は中国やインドなどの途上国に現存のエアコン生産を停止して、温暖化を防ぐ次のモデルへの移行を促しているが、当然のことながら反発にあっている。なんといっても中国・インドではエアコンの販売率が年間20パーセントの伸びなのだ。経済効果は大きい。

確かにこの記事に述べられているような問題の解決は易しくないと思う。しかし、この超過密都市ムンバイに住むようになってからというもの、環境問題は僕の頭から離れることがなくなってしまった。路上に積まれる大量の生ゴミの山、ポリ袋やプラゴミと人糞にまみれた小川、汚臭に新型のウィルスとか伝染病…。町中にはまともな寝床ももたない人間がいたるところに溢れかえっている。こんな環境で生活していると、環境保護主義者でもない僕でさえ、地球の未来、そして将来の人間生活というのものに不安を憶えずにはいられなくなってくるのだ。

結局のところ、唯一の解決策は、地球上のひとりひとりの人間、そして、各国政府が責任を持って環境改善の政策を推進していくことしかないのだろう。言うのは安し、だが、現実はそんなに単純ではない。だけど、やらなくてはならないでしょう。もう後がないんだから。

(もっと写真をみる http://www.kunitakahashi.com/blog/2012/07/18/ac-sales-and-global-warming/ )


ニュースは「表面」、ドキュメンタリーは「原因」

2012-06-20 11:24:30 | 報道写真考・たわ言
デイズ・ジャパン・フォトジャーナリズム学校の生徒が先週からムンバイに来て、合同プログラムとしてウダーン写真学校で講義を受けている。

僕は時間の許す限り日本の生徒のアシストをしながらアーコの授業をきいているのだが、アーコはムンバイ在住の著名なベテラン報道カメラマンで、この写真学校の創始者でもある。普段お互い忙しくてなかなかゆっくり会えないので、アーコをはじめ、他の講師たち(みな地元のカメラマンでいい連中だ)と時間を過ごせるいい機会にもなった。

アーコはその豊富な経験を生かして、心構えやテクニックなど生徒にいろいろとためになることを教えているが、なかでもひとつ、忘れられない言葉をひとつ僕の頭に刻み込んでくれた。

「ニュースは表面にみえるもの。ドキュメンタリーは、その表面が『なぜ』起こったかを探る仕事だ」

なんと的を得た言葉だろう!アーコの言ったことは、至極当たり前のことで、ジャーナリズムの基礎中の基礎でもある。しかし、ニュースとドキュメンタリーの違いをこれほど的確に言い表した言葉に、これまで僕は出会ったことがなかった。

『なぜ』を追求する – 生徒たちがどう受け止めたかは定かでないが、僕はこのアーコの言葉によって、まるで開眼させられたような思いだったのだ。もう1年以上、ずっとニュース関連の仕事で忙しくて、なにかフォトジャーナリストとしての自分の立ち位置に迷いのようなものを持っていたからだと思う。

また気持ちをリセットして、『なぜ』を追求する仕事をしなくては…。

アーコにひとつ借りができたかな。