K.テツのひとりごと

行動記録、趣味の話などを書いてゆきます

1月度「信長公記」を読む会

2023年01月16日 | 講座・会合

1月10日(火)、1月度「信長公記」を読む会がありました。所用のため、12月度の会は欠席したため、2ヵ月ぶりの出席です。新たに2名の方が加わったこともあり、出席者は14名でした。

先生が執筆された書籍『天正十年十月 荒木村重「逆心」ー伊丹・有岡城から尼崎城へー』(岩田書院)は1月21日に刊行される手はずになったようです。次回に贈呈して頂けるとのこと、楽しみです。

前々回は巻十二(天正七年)の2月まで進みましたが、前回は8行ほど進んだだけのようで、今回テキストは

(1)摂津国御陣の事 の3月13日の段から始まりました。

開講してすぐにはテキストに入らず、先生の執筆された書籍の背景、内容から・・・。世阿、観阿から時衆(宗)、足利義昭将軍と毛利の関係、義昭の内書、吉川元春の調略、歴史の背景には人間のつながりがある・・・島津、秀吉、石田三成・・・話はどこに行くのでしょうか・・・。

村重は池田の家老から摂津国の3人の守護(池田勝正、和田惟政、伊丹忠親)を次々に追い出したり破ったりして6年間で摂津国の第一人者になった等々・・・約40分間お話になりました。テキストの内容も含め、最近加入された方々がいらっしゃるため、その方々向けに以前はなされたこともお話になったようです。

テキストは3月13日の段から。

*高槻城番として派遣されていた大津伝十郎が病死するという変報がとどいた。大津伝十郎は信長馬廻りの一人で信長寵愛の家臣。

*天正七年は2月から何回も鷹狩りをしている。3月13日の段の塩河勘十郎はむすめが信忠の妻。三月晦日の段で太田牛一は「連日鷹狩りを行うには相当の体力が必要であったに違いなく、ひとびとは信長公の気力の強さに感服したものであった。」と記している。

*4月朔日 「中将信忠殿の小姓衆である佐治新太郎と金森甚七郎が口論から、佐治が金森を刺し殺したすえに自らも腹を切って果てるという事件が起こった。両人とも年は二十歳ばかりの若者であり、神妙なる身の処し方に上下とも感じ入った。」と本筋からはどうでも良いことが書かれているが、このような「武士魂」が著者の太田牛一の好みだったのだ。

*4月8日の段 天正7年で7回目の鷹狩りに「御狂」という言葉が出てくる。信長は生涯で3回「御狂」を行っている。

「信長公も勢子衆組と一緒になって騎乗組をさえぎり、しばしの間狂い騒いで気を散じた」とある。信長は鬱憤が溜まりやすい性格だったが、この頃の鬱憤の種は「荒木村重の謀叛」、「本願寺」だったのだろうと先生は仰る。鷹狩りが続いたのもその鬱憤のせいだったのか。

 

 

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