8月6日(火)、8月度「信長公記」を読む会がありました。出席者は12人でした。
テキストは巻十二(13)伊丹城謀叛人の事 の10月15日の段の途中「荒木妹の丹後後家・・・」から。
荒木村重の妹で、後家となった野村丹後の妻は有岡城中でこのこと(野村丹後が殺害され、首が安土に運ばれたこと)を聞き、憂きも辛きもわが一身に集まると嘆き悲しんだ。生きて甲斐なき身ながら、この上一体いかなる憂き目を見ることになるのかと思い嘆く姿は、目も当てられぬ哀れさだった。・・・・さらに容赦なく城を攻め続けた。
*有岡城については詳細に書いている太田牛一、三木城についてはそこまで書いていない。むごたらしい出来事を全て書きながら、自分の気持ちも書いている。
10月24日、明智光秀が安土へ参り、信長公へ丹後・丹波両国一円の平定し両国の守護となったお礼に参上した。このとき光秀は志々羅百反を献上した。
*砂川先生はレジュメの「多門院日記」天正7年11月5日の条(信長は近日中に坂本を訪れ光秀を賞する・・・)、信長公記巻十三 (9)19条の佐久間信盛弾劾等から信長は光秀を激賞、家来のなかでいかに強大な勢力を持ったかについて語られた。話は大きく広がり・・・本能寺の変に至る諸説についていろいろ考察をされた。
(14)氏政甲州表へ働の事
10月25日、相模国の北条氏政が信長公に好を通じ、約六万(実際は3万6千ほどか)の軍勢を率いて出陣、甲斐(竹田軍)に向かって黄瀬川を隔てた三島(泉頭城)に陣を取ったとの報が届いた。武田勝頼も甲州の兵を出勢させ、富士山麓の端三枚橋城を築いて在陣した。また徳川家康も北条勢に呼応して駿河へ攻め入り、諸所に火煙を揚げれれた。
*砂川先生は 配布された地図、当代記により解説された。
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