3月5日(火) 10時から信長公記を読む会がありました。出席者は22名でした。
前回は「近江を平定した信長は約束通り義昭を迎え、破竹の勢いで進撃、三好党の領地を平定して行く。9月7日から9月30日までに近江、山城、北河内、摂津のほとんどを平定、10月2日、池田城にとりかかった。」ところまででした。
まず資料により摂津の国衆であった池田氏を勉強。いかに富裕であったかを『蔭涼軒日録』(相国寺の塔頭蔭涼軒の季瓊真蕊の日記)から探ると共に、連歌に熱心で連歌士の宗祇・宗伊などのパトロンだったことから、話は芭蕉、一茶にまで及ぶ。
今回進んだのは、20行ほどでその要旨は「池田攻めは両軍に多くの犠牲者を出したが、結局池田勝正は降伏する。信長には松永弾正、今井宗久などが大名物(有名な茶器)を献上し降伏。畿内全域が信長の支配下に置かれた。また外国やの日本の珍しき品を携えた人々で門前市をなすようであった。10月14日には将軍義昭は帰洛し、六条本国寺に入る。信長は洛外の清水に入り、5万に及ぶ混成部隊が洛中に入っては目が届かないこともあろうと警固を入念に行ったため狼藉は起こらなかった」というものだが、砂川先生には松永弾正、今井宗久についての資料やフロイスの「日本史」などから立体的に検討する様を見せて頂く。
そこから抜け目のない松永弾正、後に信長の政商となる今井宗久、混成軍・将軍・天皇の全てに気を遣い上洛戦争を行った信長の人となりが浮かび上がってくるのだ。また『言継卿記』には正親町天皇は(将軍義昭では無く)信長に禁中警護、乱妨・狼藉禁止の綸旨を下したとあり、朝廷も情勢をよく認識していたことがうかがえる。