K.テツのひとりごと

行動記録、趣味の話などを書いてゆきます

講演会「作者近松と尼崎」

2013年03月03日 | 講座・会合

2月26日(火)14時から小田支所3階コミュニティホールで開催された講演会「作者近松と尼崎」に参加いたしました。

パンフレットです。

 講師は園田学園女子大学 近松研究所 所長の井上勝志氏。 主催者の小田会は昭和28年に発足、歴史街道事業の他にもいろいろな事業をやっている会です。 

 

 昭和11年の尼崎市と小田村の解消合併による「大尼崎市の誕生を機として結成した」大近松宣揚会が企画し、成った『近松門左衛門と尼崎廣済寺』には興味深い口伝が書き留められています。

①廣済寺の再興をした開山日昌上人はもと寺島の船問屋、尼崎屋吉右衛門の所生であり、この隠居に大近松が寄寓し、船頭たちから諸国の土産話などを聞き、数多くの名篇佳作ができた。 

②廣済寺には「近松部屋」という座敷があり、大近松の晩年、会心の作の多くはその部屋で想を練り筆を執った。 

③大近松の最期の歳、享保9年はここで病の療養をして亡くなった。

 

これらの口伝は本当だったのか否か、井上先生は配布された資料に基づき、明快に話を進めて行かれます。

浄瑠璃、歌舞伎作者としての近松は芝居町近辺に住まいし、演者、太夫など芝居関係者と相談を繰り返しながら作品作りを進めていたので、地方公演への動向もせず、また紀州や尼崎旅行を断っている。

近松が亡くなった享保9年には、大阪の大火で木か松は焼け出され天満に打つって療養していた。通説では近松の終生の地は天満で尼崎では無い。

このような状況から、口伝の近松作品の多くが廣済寺で書かれたし近松が廣済寺で亡くなったというのは誤り。しかし廣済寺の開山講の列名に近松の名があることや、母の菩提のために近松が奉納・寄付した品が廣済寺に現存するのは事実であり、重要なのは鹿松は廣済寺と深い因縁があるのだという思いで言い伝えられ、廣済寺と近松の関係を考えればそうでもあろうと納得されてきたという事実だ。近松の生涯における廣済寺が占める意味や価値を貶めることにはならない。

近松の作品の中に九州、江戸、中国(国性爺合戦)など近松が行ったことのない話が沢山あるがこの構想をどう得られたのかということから船頭から聞いたという話が出たのだろう。

 

近松が廣済寺を訪れたのははっきりしているが、仮に一定期間滞在したとすれば・・・・。井上先生は年表から推理をされました。

とても面白いお話を聞くことができました。

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