地獄が極楽を求め作り出す

2024年05月21日 | 苦痛の価値論
3-8-8. 地獄が極楽を求め作り出す  
 苦痛・苦労は、安らぎを、快を求める。この世は、苦しいもの、苦界だというが、これが苦でなかったら、はたして天国とか極楽を求めたであろうか。苦でないのなら、逃げ出したくはならず、穏やかな日々を安穏に暮らして終わるだろう。現代は、昔と比較すると恵まれていて苦が少ないから、極楽を求めるひとはあまりいない。中世、易行の念仏を説いたら、これが庶民に爆発的に広まった。藁にしがみついてでもこの苦界を逃れたいという一心であったろう。この現世という地獄を厭い極楽をと希求した。苦痛こそが、極楽・天国の生みの親であった。安堵・安楽はそれだけでは成立しない。恐怖とか苦悩などの苦痛があってこそ感じられるものである。江戸期の白隠は、「南無地獄大菩薩」と言った。極楽の阿弥陀仏に対して南無阿弥陀仏ではあるが、地獄もありがたいものなのだと。苦痛、苦界・地獄は、ひとを鍛え、極楽の生みの親ともなるのである。源信の『往生要集』は、極楽への往生を、たくさんの書誌類をふまえて執拗に語ってくれているが、まずは、極楽どころか、往生できない地獄の様々の悲惨をしっかりと説く。地獄の苦を描きつつ、かなたに極楽を強く希求する。地獄が極楽への入り口となる。キリスト教の八福も、不幸に悲しむ人たちは幸いだ、天国はかれらのものだと、苦こそが天国の幸せを可能にすると説く。
 飛行機が無事着陸してありがたいと安堵の快感を抱くのは、途中で乱高下して不安を抱かされたときに限定される。不快が快を作り出す。登山は、頂上に立つことを目的とし快とするが、ヘリコプターで頂上に着いたのでは、物足りないであろう。苦労し汗して登るという苦行のようなものがあっての、頂上に立つ喜びである。健康は、快適であるが、その快感を抱けるのは、ふつう、病気の苦痛があってこれから解放されたときである。ずっと元気な人は、健康の快感などもたない。地獄の病いが、それからの解放時に、快を感じさせ、健康の極楽を作り出すのである。
 ではあるが、個と種のための根本欲求、食欲・性欲は、快を求めるのみで、そこでは不快は無縁である。食の快は、不快なしで、のど越しに快楽を得るのみである(美味しくない不快なものはあるが、美味に必要なものではない)。性の快も、男子なら射精があれば、快なのであって、苦痛の先行はない。苦痛が快をつくることは、ここにはない。だが、苦界においては、ここでも苦を先行させての快になることが根源的事態として存在する。個体維持を不可能にする飢餓を、動物も人も知っている。身近には、空腹の苦痛が存在する。その食欲の不充足の強い苦痛をいだいた者は、これが満たされての快を強く抱くことになる。飢餓状態に置かれた者たちは、その苦痛を回避できるようにと可能な限りの手を尽くしたはずである。その苦痛回避の衝動は強く、恵まれているときには快ではなかったものを食べても、おそらく快を抱いたことであろう。 
 性の快楽の方は、どこにも苦痛を先行させるものはないように見える。射精の快の反対の苦痛は、そういう感覚自体が、ない。感じようがない。しかも、しばしば苦労がいる食の快とちがって、性の快楽を得ることはごく簡単である。ギリシャは犬儒学派のディオゲネスが言っている。性の快楽は、自分の手だけで、ただで間に合う、食の快楽も自分の喉をさすっただけで得られるのなら、どんなにいいことかと。苦痛など、そこにはない。しかしながら、ひとでも動物でも、異性との間でのそれは、大変である。動物ではメスを得るために、オスは死闘を演じなくてはならない。ひとでは、その死闘は、少なくて済むが、異性の獲得は、社会生活の基礎を担う家族の土台となることで、若者は人生をかけることが多くなる。青春の苦悩というと、少なくないものが、異性問題、恋愛、結婚をあげるのではないか。生理的にも、若者は、発情したからといっても、ディオゲネスのように無暗みにとはいかず抑制し我慢することであり、苦痛を踏まえていることもある。とすれば、やはり、ここでもしばしば苦悩・苦痛が先だってあるということになろう。所詮、人間は、苦界の住人なのである。