苦痛の最小限で快を享受する場合  

2024年05月14日 | 苦痛の価値論
3-8-7-1. 苦痛の最小限で快を享受する場合
 苦痛が快に混じるといっても、快の中に混ざって独特の快にするとか、快を含む苦痛の中で苦痛を消して快を残すというようなものでなく、快がだんだんと大きくもたらされるなかで、限度を超えると苦痛が生じるようなものがあり、その苦痛の出て来はじめ、苦痛の最小限が一番の快をもたらすというようなことがある。寒中に、焚火にあたると、近づくほどに快が増す。だが、近づきすぎると火傷になりそうで、苦痛が生じそうなぎりぎりのところが一番の快となる。最近、「痛(いた)気持ちいい」という言葉を時々耳にする。老人向けにストレッチを教えるTV番組でのことである。筋肉を伸ばして気持ちいい状態にするのだが、その一番よく効く状態は、快であることを若干超えて痛みを生じるようなところをもってすることである。
 苦痛が圧倒していて、だんだんこれが小さくなるとともに快が感じられて、苦痛の最小限が一番の快となるようなものもある。身体の損傷からの回復時、苦痛が残り続けるだろうが、それが回復するほどに苦痛は小さくなる。苦痛をもって損傷や病いを自覚し、苦痛が小さくなることをもって回復・治癒を感じ取る。苦痛が小さくなって最小限になるところは、治癒の快が一番大きく感じられるところであろう。回復しきったら、もう快も消える。小さくて気にならない苦痛が少し残っているぐらいで一番、健康のありがたさを感じることになるのではないか。苦痛の最小限が一番の快をもたらす。その痛みは、健やかな爽やかな痛みと感じられることである。
 食のわさびは、鼻に苦痛となるが、それが微量であれば、他の不快を消して、快を残す。生臭くて不快な刺身は、栄養があることだから、できれば食べたほうがよい。その生臭さの苦痛を、わさびは、消す。結果、その小さな苦痛が魚肉の快を感じさせてくれる。紅蓼は、ピリリと辛いもので、食べたいものではなく、苦痛をもたらすが、やはり刺身に添える。これも、生臭さを抑えるのであろう。辛さの刺激が口内を若干麻痺気味にして生の不快な魚肉を気にせず食べさせてくれる。わさびも紅蓼も、それ自体は苦痛をもたらすものであり、最小限添えるだけである(最近の魚肉の処理技術は進んでいて、生魚臭さを感じさせることは少ないのであろう、味覚等感覚に敏感な子供でも生で食べる。ではあるが、現在でも、刺身には、わさびと紅蓼を添えるから、生魚は根本的には生臭いものなのであろう)。
 生のものは、やがて腐る。これも、ものによっては快にできる。腐敗と発酵は同じ事柄であろうが、要は、それが人類に有害なものを含むかどうかである。ハイエナとかコンドルは、死肉の腐敗したものが平気のようで、かれらには、それは発酵肉である。臭いは、発酵=腐敗では、ほとんどが不快なものであろう。これもできれば少ないものが優先されるが、有害かどうかが一番問題であり、人体に有害度の一番小さいものが食品として残され、それを発酵の美味として楽しむ。アルコール発酵では、どの発酵にも、メチルが含まれるようだが、その分量・有害度ができるだけ少なく、口に美味のものが最近の酒であろう。蒸留酒は、発生したメチルを除去しているが、日本酒とか葡萄酒などの醸造酒は、メチルなど不純成分をそのままにしている。有毒等の不純不快成分を少し含んでいるので、熟成させなくても飲み心地がよく、新酒とか何とかヌーボーなどは、慣れた人には独特の美味になるようである。が、悪酔いする。