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日本企業に元気がない原因は? 山崎 元氏の分析が面白い。

2016年04月06日 13時36分42秒 | 日記
 最近の日本株価の低迷は、円高や再び下がりだした原油に原因をこじつけているようだが、金融関係だけではなく、大手の一般企業の事業不振にも大きな原因があるように思える。

 この半年の間でも、経済面のニュースになった企業は、電機のシャープや東芝、国産旅客機の開発進度が遅れている三菱重工のMRJ、同じく三菱重工の大型客船二隻の完成の大幅遅れによる違約金支払い問題、三井物産、三菱商事などの資源開発投資案件の失敗による大赤字発生、少し規模は小さい企業とはいえタカタのエアバッグ問題もある。

 電機業界では三洋電機もパナソニックに吸収されたが、そのパナソニックもかっての勢いがない。ソニーも同じ傾向だ。

 小売り大手の高島屋も株価はさえない。外国人の爆買いを見込んでいる都心の大手百貨店も、いつ爆買いの影響がしぼむのか気が気でないようだ。

 消費者の購買行動の変化による面もあろうが、スーパーのヨーカ堂もイオンも本業は冴えない。

 一方、世界の一般企業を見ても、不祥事は結構発生している。例えば最近ではフォルクスワーゲン社の排ガス不正などその典型だ。

 コーポレートガバナンスが厳しいといわれる米国でも、結構不正事件が発生している。

 経済評論家の山崎 元氏が、日本企業の実態を独自に分析してコラムを書かれている。

 その主なる原因は日本企業のインセンティブのあり方の不完全さにあるという面白い見方をされてている。

 確かに台湾の鴻海精密工郭台銘会長の買収交渉のド迫力などをニュースで見ると、日本企業の最近の行動には、筆者は迫力を感じないのだ。、

 10数年前頃までは、大手企業の経営者でも最近の経営者ほど高額の所得は得ていなかった。役職者の給与のせいぜい数倍か5~6倍程度が普通であったと思う。

 最近の経営者の収入の大幅増加の割には、役職者を含む一般社員の給与の増加は非常に少ないのが現実だ。

 山崎氏の見方には、日本企業がもう一つ元気がない一因と言えるのかもしれない。


(ダイヤモンド・オンライン より貼り付け)

日本企業は劣化したのではなく、もともといい加減だった
山崎 元
2016.4.6

●立派だったはずの日本の事業会社が 急激に「劣化」している

 筆者は、過去も現在も大まかには金融業界の人間なので、1990年代から2000年代前半にかけて、山一證券や日本長期信用銀行が破綻したり、全国の大きな駅前ごとに支店があるような大銀行が、いわゆる不良債権を抱えるだけでなく、それを隠し、しかも、十分に隠し切れもせず、ついには公的資金の注入を受けるに至った「情けなさ」を身近に見てきた。

 しかし、「お金」ばかりを追っている金融業は浮わついた「虚業」だとしても、「ものづくり」を中核とする日本の事業会社は、それなりに「しっかりしている」とされていた。例えば、経済団体(もはやなくてもいい存在だと思うが)のトップは、金融業種から選ばれることはほとんどなく、事業会社のトップが就任して、格の高い勲章をもらうのが常だった。

 しかし、原発に関する安全管理が結局のところできていなかった東京電力も、かつて経団連のトップを出していた企業だ。また、大規模な決算の誤魔化しに「チャレンジ」してそれが露見し評判が地に落ち、生き残りのためにのたうち回っているように見える東芝も、かつては経団連会長を出した「名門」だった(いまだに強制捜査の対象にならないのは「名門」だからなのだろう)。なお、東芝に関しては、先般の東芝メディカルの独禁法逃れとしか言いようのない売却過程も仕事の進め方が「粗末」だった。売るなら、必要な手続きに間に合うタイミングで物事を進める必要があったし、そもそも、東芝メディカルは売るべき対象だったのだろうか。

 電機大手では、三洋電機はその名が消えた。シャープは時間切れギリギリに偶発債務の問題を突かれて鴻海精密工業に買い叩かれた。かつて「技術のソニー」と呼ばれたソニーにも旧日の輝きはない。

 他方、名門メーカーよりも財界的な序列は一枚落ちるが商社もひどい。

 財閥系の大手商社、三菱商事と三井物産は、それぞれ今期決算に対して大幅な黒字予想だったものを、3月に入ってから一転して赤字に(三菱商事は連結純利益3000億円の黒字予想を、1500億円の赤字に一回で修正した)。資源関連の投資の減損処理が主な原因だが、投資のリスク管理が十分できていたのか、また、上場企業として情報の出し方が適切だったのか(資源価格の下落は去年の段階で十分わかっている)、その「仕事ぶり」に疑問なしとしない。

 小うるさい繰り言のようで恐縮だが、どうも「立派だ」とされていた日本企業のあちこちで、急激な「劣化」が起こっているように思えてならない。

 最近、筆者が個人的に接する範囲でも、満足に挨拶ができない大手広告代理店マンや、上場銘柄のコード番号も知らない大手証券マンなどと会って、彼ら一人ひとりがというよりも、企業全体の劣化が心配になることがある。職場に緊張感が欠けているのではないか。

●MRJも大型客船も遅延三菱重工よ、お前もか

 さて、日本企業の劣化をいよいよ心配させる話が、最近、また起こった。

 今度は、三菱グループの真の中核企業ともいうべき三菱重工だ。同社をグループの中核と呼ぶことには、銀行も商事も反対はするまい。

 同社では、国産初のジェット旅客機であるMRJが試験飛行に成功した明るいニュースがあったが、このMRJも初号機の納入が当初予定よりも1年程度遅れそうな見込みだ。

 そして、同社の祖業である造船事業で、同社が受注・製造した大型客船2隻の製造が順調に進まず、1800億円の特別損失を計上した。受け渡しが遅延した上に、結局受注額の2倍近いコストが掛かったようだ。

 同社については、大型客船事業の存廃に関して特別委員会を設けて検討するのと共に、株式や不動産を2000億円程度売却して、損失の財務的な穴埋めをする意向が報じられている。

 もちろん、製造業においては、大型の機器の製造や新製品開発のプロジェクトが予定よりも遅延することがあってもおかしくはないが、兵器も作っているあの三菱重工が、製造現場を十分コントロールできていない様子を見ると、防衛マニアでなくても心配になる。

 企業以外の分野を見るとしても、エンブレムに加えて、競技場の設計で揉めて、果たして工期が間に合うかどうかが心配される新国立競技場の問題を抱える2020年の東京オリンピックを巡るあれこれも、著作権、納期、コスト等、各種のリスク管理に異常を来している感じがする。重要な場面で、「仕事」が、普通に期待される水準を満たしていないという意味で、東京オリンピック関連のドタバタも同類の問題だと思える。

 企業に話を限るとしても、広範な日本企業の「劣化」は、なぜこんなに目に付くようになったのだろうか。

 筆者が思いつく原因が2つある。

●仮説1.もともと「企業は、いい加減」

 一つ目は、我ながら冷静だと思う想像なのだが、「日本企業はもともとひどかったのだが、それが近年、見つかりやすくなっただけではないか」という可能性だ。

 ついでに言うと、「日本企業」が特に悪かったり、劣化したりしたわけではないのではないか。そもそも、「企業」というものは、世界的にいい加減なものなのなのだと考えることが妥当なのではないか。

 不良債権問題があり、「飛ばし」などの不正もあったバブル崩壊後の日本企業は、株式持ち合いなどもあり、株主の権利がないがしろにされ、コーポレート・ガバナンス(企業統治)が十分機能していないのだと批判された。

 しかし、ガバナンスが進んでいたはずのアメリカの企業にあっても、共に意図的な巨大粉飾事件と言うべき、エンロン事件もあればワールドコムの問題があった。また、ネットバブルの時代も、サブプライム問題から金融危機に至る時期も多くの大手金融機関でガバナンスがまともに機能していたとは言い難い。金融業界の「プレーヤー」にとって、顧客もカモだったし、自分が勤める会社の株主(資本家!)もカモだった。合法的だが半分詐欺のようなビジネスが、彼らの高額報酬の裏に存在した。

 その後、日本にもコーポレート・ガバナンスのアメリカ的強化を良しとする「風」が吹いた(企業統治で商売したい人々や、社外取締役の天下り先を作りたい官僚などが自分に都合良く感化されたのが実態だろうが)。委員会設置会社などという大袈裟な仕組みを持つ企業が登場したが、ガバナンス優等生とされた、東芝やソニーがどうなったかは、読者がご存じの通りだ。

 例えば、社外取締役とは、そもそも人事権者(通常は経営者)に都合良く選ばれ、おだてられた素人であり、企業経営のプラスになるような存在ではない場合が多い。しばしば、経営者の報酬アップに賛成するための、応援団員に過ぎない。

 つい張り切って、社外取締役の批判に話が逸れてしまったが、話を元に戻そう。

 要は、ビジネスがたまたま順調であるか、実態以上に評判がいい幸運な企業のどちらかでない限り、どんな業種・業態であっても、企業というものは、第三者たる個人が感心するような立派なものではないのが普通だと仮定しよう。

 今まで幸運で立派に見えていた企業の幸運が続かなくなると、企業はあっという間に劣化して見えるようになる。そういうことなのではないだろうか。

●仮説2.インセンティブの劣化

 しかし、たとえば、あの三菱重工の造船所(長崎)の現場に、仮に労働者の中に不慣れな者や外国人が多いとしても、サボったり、タバコの吸い殻を捨てたりする者がいるような状況を、かつてなら許しただろうか。それらは、「悪い」上に「恥ずかしいことだ」として、職場の地位に関係なく非難する者が現れて、駆逐されていたのではなかろうか。

 また、大手商社にあって、例えば経営企画職の社員や、IR(インベスターズ・リレーションズ)の担当者であっても、資源価格の明白な下落に対して、減損処理発生の可能性を市場(株主と投資家)に伝えるべきだと、自分の職の問題だとしてアクションを起こす者がいなかったのだろうか。経営トップに漫然と判断を任せるだけなら、彼らにさしたる存在価値はない。

 それぞれ直接顔を見たわけではないのだ。仕事に対する「やる気」自体があちこちの現場で低下しているように思える。そのために、仕事として任されたことが、かつてなら「常識だろう」と思うレベルで実行されなくなってしまう事例が頻発しているのではないか。

 こうした「現場のやる気」の低下の原因として、筆者のアタマに思い浮かんだのは、行動経済学では有名な、イスラエルの保育園の「お迎え」を巡る話だ。確か、前に読んだことがあると思い、探したら、iPadの中から見つかった。『その問題、経済学で解決できます。』(ウリ・ニーズィー、ジョン・A・リスト著、東洋経済新報社)の中にその話はあった。

 著者のニーズィー教授らが行った実験によると、保育園の「お迎え」に遅刻する親に対して罰金(米ドルで3ドルほど)を課することにしたところ、罰金のない状態よりも遅刻する親が顕著に増えたというのである。

 この場合、親たちは遅刻の意味を、「約束を破ることの罪悪感」から「3ドルのコストで償える迷惑の価値」に読み替えた(注:筆者の解釈である)。従って、「私は3ドル払う用意があるのだから、遅刻することは許される選択肢の一つだ」と考えるようになったので、罪悪感なしに遅刻できるようになったのだ。

 著者たちは、罰金の反対側のインセンティブについても実験している。イスラエルの募金の日に慈善目的の募金を集めるに当たり、募金集めに向かう高校生180人を60人ずつ以下の3グループに分けた。

【グループ1】慈善事業の意義を十分に説いて募金集めに向かわせる。

【グループ2】グループ1に聞かせた話に加えて、集めた募金額の1%相当の報奨金を個人に払うと約束して募金集めに向かわせる(1%は集めた募金の中からではなく別途払われることが事前にはっきり告げられている)。

【グループ3】集めた募金額の10%が払われると告げて募金集めに向かわせる。

 グループ1に金銭的なインセンティブはなく、グループ2は募金の意義に加えて募金集めの成果を損なわない金銭インセンティブが1%あり、グループ3は10%とグループ2よりも大きなインセンティブがある。

 結果を見ると、一番お金を集めたのは金銭的なインセンティブがないグループ1で、最もダメだったのは、グループ2だったという。実験結果について、著者は「この話のキモは、お金はたっぷり支払うか、あるいはまったく支払わないかのどちらかでないといけない、ということだ」と書いている。

 仕事の意義を押し付けつつ、仕事の成果によって金銭的な報酬の差を少々つけると焚きつける、日本企業の多くが導入している「成果主義」は、「所詮仕事はカネのためなので、カネ相応に働けばいい」という気分につながって、現場に関わる社員たちのインセンティブを、かえって劣化させているのではないだろうか。

●一般社員も経営者層も報酬がインセンティブとして機能していない

 ちなみに、日本企業の成果主義は、経営者周辺の社内エリート層と(筆者は「経営茶坊主」と呼んでいる。典型的な部署名は「経営企画部」だ。経営者が本来の機能を果たしていないから、こういう名前の部署が存在するのだろう)、マーケティング上彼らに巧みに取り入った人事コンサルタント会社の作品だが、社員の仕事自体に対するやる気や責任感を、かえって後退させている。

 加えて、近年、経営者層の報酬額が上昇したことで、中間管理職を含む一般社員(正社員の大半)は、会社の責任になるようなことは経営者たちに任せておけばいい、と考えるようになった。「社員の一人一人が、あたかも社長であるかのように会社のことを考える」という熱気は、大半の社員から失せた。むしろ、経営者の報酬に比べて大いに少ない報酬で「我慢」して働いていることを、会社に対する貸しのように思うようになった。

 しかも、名門メーカーや大手商社で2億円台、三菱重工でも1億円台後半といった経営トップの報酬は、本人たちが感じる責任(株主代表訴訟のリスクもある)や、成果の意識(円安が原因であっても取りあえず最高益ではないか、等)や、他社の経営者の報酬との比較の中で、こちらもあくまで「本人たちにとっては」だが、そこそこに頑張ればいい程度の、中途半端な報酬額になっているように見える。

 すなわち、一般社員と経営者層と、両方でインセンティブの劣化が起こっている。

 いずれにしても、共にプロフェッショナルの意識を持つ、同僚どうしが、相互いに仕事の質を評価する中で、「恥ずかしいことはできない」と思うような緊張感が、日本企業の仕事の「現場」から、後退しているのではないか。

 前掲書の結論を踏まえると、「お金をたっぷり支払う」ことを現場単位まで導入する資力は日本企業にはなさそうだ。さりとて、報酬が仕事のインセンティブとして大きな意味を持たないような世界で、「仕事」に対するプロフェッショナリズムに基づく緊張感を鍛え直すのも、難しそうだ。

 次善の策としては、せめて経営トップ層が、報酬水準も含めて現場の社員ともっと近づくことだが、彼らは、当面、「ROE(自己資本利益率)」や「ガバナンス(企業統治)改革」を旗印に、お友達の社外取締役を味方につけて、自分たちの報酬水準を上げつつ企業を経営することに忙しい。

「インセンティブ」は、プラスにもマイナスにも働く「くせ玉」だが、日本企業は、このコントロールに成功していないように思える。最近の「劣化」事例のなにがしかは、この要因で説明できるの
ではなかろうか。

(貼り付け終わり)