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晩期資本論(連載第47回)

2015-06-02 | 〆晩期資本論

十 剰余価値から利潤へ(6)

・・・・中位またはほぼ中位の構成をもつ資本にとっては、生産価格は価値と、また利潤はその資本が生産した剰余価値と、まったく一致するかまたはほぼ一致する。そのほかのすべての資本は、構成がどうであろうと、競争圧力のもので、これらの資本と平均化されようとする傾向がある。ところが、中位の構成をもつ資本は社会的平均資本と同じかまたはほぼ同じなのだから、すべての資本は、それら自身が生産する剰余価値がどれだけであろうと、この剰余価値のかわりに平均利潤をそれらの商品の価格によって実現しようとする。すなわち、生産価格を実現しようとする。

 このように、「中位状態を中心として規制される傾向」―中位収斂化傾向―を、マルクスの言葉でより簡潔に言い換えれば「生産価格を価値の単なる転化形態にする傾向、または利潤を剰余価値の単なる部分に転化させる傾向」ということになる。これは、とりもなおさず、資本家が生産物を価値どおりには交換し合わないことを意味するが、となると、第一巻に立ち戻って「諸商品がそれらの現実の価値どおりに交換されるということは、いったいどのようにして成り立っていたのであろうか?」という自問が生じる。

困難のすべては、商品が単純に商品として交換されないで、資本の生産物として交換され、資本は剰余価値総量のうちからそれぞれの大きさに比例してその分けまえを、またはそれぞれの大きさが同じならば同じ分けまえを要求するということによって、はいってくるのである。

 単純な商品交換社会とは、「労働者たち自身がめいめい生産手段をもっていて、自分たちの商品を互いに交換し合う」ような社会であり、このような社会で利潤率は度外視され、等労働量交換が成り立ち得るという。「それだから、価値どおりの、またはほぼ価値どおりの諸商品の交換は、資本主義的発展の一定の高さを必要とする生産価格での交換に比べれば、それよりもずっと低い段階を必要とするのである」。
 しかし、このように資本主義的発展段階論で説明するとなると、まさに「資本論」における基礎理論であったはずの等労働量交換理論が宙に浮くことになりかねない。ここは、『資本論』全巻を通じて、マルクス理論が最も破綻に接近する箇所である。

いろいろな生産部面の商品は互いに価値どおりに売られるという仮定が意味していることは、もちろん、ただ、商品の価値が重心となって商品の価格はこの重心をめぐって運動し、価格の不断の騰落はこの重心に平均化されるということだけである。さらにまた、いつでも市場価値―これについてはもっとあとで述べる―は、いろいろな生産者によって生産される個々の商品の個別的価値とは区別されなければならないであろう。

 ここで、マルクスは一転して、商品の価値を商品価格形成の重心という意義に薄めた上で、突如「市場価値」の概念を持ち出し、これを個々の商品の価値とは区別することによって、新たな説明を与えようとする。このように、追加概念を持ち出して基礎理論の等労働量交換論の位相をずらすのは立論として正当とは言えないように思われるが、この先、マルクスの議論は市場価値論へと遷移していく。

市場価値は、一面では一つの部面で生産される諸商品の平均価値と見られるべきであろうし、他面ではその部面の平均的諸条件のもとで生産されてその部面の生産物の大量をなしている諸商品の個別的価値とも見られるべきであろう。最悪の条件や最良の条件のもとで生産される商品が市場価値を規制するということは、ただ異常な組み合わせのもとでのみ見られることであって、市場価値はそれ自身市場価格の中心なのである―といっても、市場価格は同じ種類の商品では同じなのであるが―。

 ここで、マルクスは、市場価値の意義について、主に二つの方向から定義らしきものを示している。一つは「一つの(生産)部面で生産される諸商品の平均価値」である。しかし、このような現実の生産諸条件を捨象した純粋平均値は理論値にすぎないので、結局、現実の市場価値は第二の「その部面の平均的諸条件のもとで生産されてその部面の生産物の大量をなしている諸商品の個別的価値」ということになるだろう。ただし、需給状況の異変次第では、最悪または最良生産条件下での生産物が市場価値を規制する可能性も排除されていない。

同じ生産部門の、同じ種類の、そしてほぼ同じ品質の諸商品がその価値どおりに売られるためには、二つのことが必要である。
第一に、いろいろな個別的価値が一つの社会的価値に、前述の市場価値に、平均化されていなければならない。そして、そのためには、同じ種類の商品の生産者たちのあいだの競争が必要であり、また彼らが共通に彼らの商品を売りに出す一つの市場の存在が必要である。

 ここで、マルクスは等労働量交換の理論と市場価値論とを接合するべく、競争と市場の媒介的な働きを重視している。特に競争に関しては、「いろいろな部面での諸資本の競争が、はじめて、いろいろな部面のいろいろな利潤率を平均化するような生産価格を生みだすのである。」とし、このことのためには「資本主義的生産様式のより高い発展が必要である。」と、改めて先の発展段階論とも結びつけている。

・・・・・・・諸商品の市場価格が市場価値と一致して、それより上がることによっても下がることによっても市場価値からかたよらないためには、いろいろな売り手が互いに加え合う圧力が十分に大きくて、社会的欲望の要求する商品量、すなわち社会が市場価値を支払うことのできる商品を市場に出させることができるということが必要である。

 ここでマルクスは、「「社会的欲望」、すなわち需要の原則を規制するものは、根本的には、いろいろな階級の相互間の関係によって、またそれぞれの階級の経済的状態によって、したがってまた特に第一には労賃にたいする剰余価値全体の割合によって、第二は剰余価値が分かれていくいろいろな部分(利潤、利子、地代、租税など)の割合によって、制約されている。」と社会学的に説かれる「社会的欲望」という主観的概念を持ち出し、市場価値と市場価格の偏差的な関係性を説明しようとしている。これもまた理論的破綻をフォローする追加概念である。

もし市場価値が下がれば、平均的に社会的欲望(ここではつねに支払能力ある欲望のことである)は増大して、ある限界のなかではより大きな商品量を吸収することができる。もし市場価値が上がれば、その商品にたいする社会的欲望は小さくなって、よりわずかな商品量が吸収される。それゆえ、需要供給が市場価格を調整するとすれば、またはむしろ市場価値からの市場価格の偏差を調整するとすれば、他方では市場価値が需要供給関係を、または需要供給の変動が市場価格を振動させる中心を調整するのである。

 この説明になると、労働価値説を放棄して、際どく限界効用説と交錯するかのような様相を呈する。しかしここでマルクスは今一度原点に立ち返り、労働価値説からの独自の需要供給論を展開し直そうとするのだが、これは次回に回される。


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